≪注意事項≫
※現代・転生パロディです。
※鶴丸国永短編「神様の涙を君は見たことがあるか」、鶯丸短編「あなたの紡ぐ文字が何よりも刃」と同じ世界設定です。
※上記の短編の鶴丸、鶯丸がいた本丸と今回の宗三左文字がいた本丸は同一本丸ですが、主は別人です。
※上記の短編を未読でも大丈夫ですが、一応シリーズ作品になっています。
※刀剣破壊があります。
転生後の小夜左文字がひどい環境に置かれている描写があります。




 毎朝同じ電車に乗り、同じ景色を眺め、似たような人たちの顔が視界にある。そんな毎日を過ごしていくのはとても退屈で、何よりもなんだか満たされていく気がしない。イヤホンから聴こえる音楽でさえもなんだかつまらなくなってきてただの雑音に思えてくる。がたん、がたん、と電車が揺れる。吊り革をきゅっと握ってはいるけれど、もうその揺れにさえ体が慣れてきている。同じことの繰り返し。どんどん怠けていく体。新しいものを欲しているのにそれをどこかで拒否している自分がいた。
 大学の正門をくぐるとすぐに友人が声をかけてきた。今日は三限が休講なので四限しかないのだけど、友人と待ち合わせしていたので早めに来たのだ。友人は何だか楽しそうに何かのパンフレットを取り出す。近くにある美術大学の生徒が作ったものが集められる展示会のパンフレットのようだ。友人がそんなものに興味があるなんて知らなかった。そう素直に言葉に出すと「恋人がね」と惚気話がはじまる。もう慣れたものなのでからかってやりつつそれをいつもどおり聞く。その展示会に作品を出してもらうにはそれなりの実力が必要らしい。簡単にいえば展示会に作品を出している生徒は将来有望、才能がある、成績が良いといった人ばかりなのだという。美大の中のエリートというものなのだろう。それに自分の恋人が選ばれたのだ。喜ばないはずがない。それを当たり前に祝福すれば彼女は自分のことのようにお礼を言った。いいなあ。頭の中でぼんやり呟く。恋人のことがとても好きだと伝わってくる彼女の表情はとても鮮やかに見える。私もそんなふうになりたい。そんな気持ちを隠し持ったまま、友人の話を聞くことに徹した。
 展示会は意外と人が多くて移動するのが少し大変だ。どこに行っても人がいて熱心に作品を見ていたり写真を撮っていたり。プロではない大学生の作品とはいえ美術品が好きな人には面白くてたまらないのだろう。あまりそういう趣味がないのでよく分からないが。でも素人目でも作品がきれいだったり手が込んでいたりするのは分かる。恋人の作品を探す友人をよそに一つ一つ思わず見入ってしまっていた。またにはこういうのを観に来るというのもいいかもしれない。ぼんやりと考えているうちに友人が恋人の作品を見つめた。友人の恋人は彫刻科だそうで、見事な彫刻が飾られている。空想上の獣だというそれはとても細やかで今にも動き出しそうに思える。友人がすごいすごいとはしゃぐ横で恋人は少し照れくさそうにそれを咎めていた。微笑ましいカップルだ。彼と付き合い始めてから彼女はおしゃれにより気を遣うようになったし、どう見たってきれいになった。きっと彼という存在が彼女の世界を変えたのだろう。そう思うとやっぱり羨ましくなってしまった。
 展示会では作者の生徒が作品の横について説明したり談笑したりしているようだった。もちろん休憩に行っている生徒もいるらしく作品の傍に誰もいないというスペースもある。ちょうど友人の恋人が休憩に入るということだったので、友人はそれについて昼食を食べることになる。私も誘われたけれど、彼とはあまり面識がないし二人の時間を邪魔するのは憚れる。展示を見て回りたいというのを理由にしてそれを断り、二人とはその場で別れた。二人の背中を見送ってからくるりと反転し、先ほど通りすぎた場所を見ることにする。帰ってしまってもよかったのだけど、せっかく来たのだから見ておくのもいいかと思ったのだ。入り口から一番近い展示コーナーは通り過ぎ、その奥に進む。奥の方は普通の美術館のように重厚な額縁に入れられた作品が静かな部屋にゆったりと並べられていた。どうやらこの部屋がこの展示会の中でもトップクラスの作品を集めた場所らしい。あまり経験したことのない雰囲気に少し緊張しつつゆっくり足を進めて一つ一つ作品を眺める。彫刻に人物画、近代的なアート作品まで揃っていて見ていて不思議な気持ちになるものばかりだ。恐らく才能が飛び抜けている人が手掛けたのだろうと分かるものが多い。圧倒されつつ次の作品へ、目を移す。
 言葉を、失った。
 どの作品よりもひと際大きいキャンバスいっぱいに描かれた美しい色。一貫性がないようであって、一見醜いようで美しい。何か叫んでいるようにも見えるし、静かにこちらを見ているだけにも見える。絵にこんな感情を抱くことははじめてだった。恐る恐る作品のタイトルを見ると、たった一文字、『心』と書かれていた。もう、本当に、言葉が出ない。頷くこともできないほどに伝わってくる絵に私は立ちつくしてしまう。瞬きをするのも忘れ、口を閉じることも忘れ、私はその絵を目に焼き付けるように見つめていた。
 しばらくして他の人も見ようと集まってきていることに気が付いてはっとする。急いでその場を離れようと後ろ髪を引かれる思いで歩き始める。ばくばくと心臓がなぜだかうるさい。才能のある人というのはすごい。美術だの芸術だの興味のない私ですら感動させるような絵を描くのだから。何度も何度もあの絵を頭に思い出そうにもうまく思い出せないのも不思議だ。また観たい。まさにそんな絵だった。
 部屋か出てまっすぐ出口に向かう。あんなにすごい絵を観たあとでは心が落ち着かない。また観に来ようと思いつつ鞄を肩にかけ直したときだった。突然、腕を誰かにつかまれた。

「待ってください」

 ぐいっと引っ張られた力にバランスを崩してしまう。けれど、私の腕をつかんだ手が転ぶのを防いでくれた。恐る恐る手の主に顔を向けると、とても派手な色の長髪に色白の肌、今まで見たことがないほどきれいな顔をした人が立っていた。優しい声とは反対に表情は硬く、きれいな顔立ちだけれどどこかキツそうな人に見えた。男性なのか女性なのかはかろうじて声で分かる、というほど中性的に美しい人だ。

「な、なにか……?」
「……あなたの名前をお聞きしてもいいですか」
「…………えっと、どうして、ですか?」

 その人は眉をぴくりと動かす。どうやら機嫌を損ねたらしい。とはいえ初対面の人に聞かれたからといってすぐに名前を教えるのはちょっと遠慮したい。あまりにも迫力のある不機嫌な顔に心が折れそうになりつつ、姿勢は変えない。その人は少し考えるように視線を外してしばらく黙っていると、つかんでいた私の腕をゆっくり放した。そうしてまた私の顔をまっすぐ見ると、ぼそりと呟く。

「僕は三好宗三です」
「……はい?」
「こちらが名乗ったんです。あなたも名乗ってください」
「はい?!」

 暴論だ! そう思いつつも真顔で言うその人に何も言えない。みよしさん、は何も言わない私に苛ついているらしく腕組みをして指をとんとんと動かす。細くて中性的とはいえかなりすらりと背が高いその人はとても迫力があって。言い返そうなんて度胸はまったくなくなった。

です……」
、さんですね。下の名前は? 大学はどちらに?」
です……大学はすぐそこの、」
「ああ、あそこですか」

 三好さんはちらりと腕時計を見るとまた私の腕をつかんだ。細腕からは想像できないほど強い力は若干恐怖すら覚える。一体この人は私に何を求めているのだろうか。名前と大学を馬鹿正直に教えたことを後悔しつつため息をついてしまう。三好さんは私の腕をぐいぐい引っ張って外に出る。出てすぐ端っこに寄るとスマートフォンを片手で操作し、どこかに電話を掛けはじめた。つかまれたままの腕に居心地の悪さを覚えつつ大人しく待つ。三好さんの言葉から察するに何か予約を入れているらしい。「今から十分ほどで伺います」、「二人で」。そこまで聞いて思わず三好さんの顔をバッと見てしまった。二人で?! つまり、私も?! どこに?! 混乱する私のことなど気に掛けない様子で三好さんは電話を切る。スマートフォンをポケットに押し込むと私の顔を見た。

「あなた、どうせ昼食は食べていないんでしょう」
「……え、あ、はい?」
「行きますよ」
「えっ?! ちょ、あの、三好さん!」
「……僕のことは宗三と呼んでください」
「えっ」
「いいですね?」
「は、はい……」

 この人怖い! ギロリと睨まれて思わず返事をしてしまったけど、初対面の男性を下の名前で呼ぶなんてちょっと気まずい。ノリが良くて明るいタイプの人なら話は別なのだけれど。三好さん、じゃなかった、宗三さんは明らかにそういうタイプには見えない。初対面の人に声をかけるタイプにも思えないし、何をとち狂って私に声をかけたのだろうか。まあ、初めて会ったのだからすべて私の予想なのだけど。
 宗三さんはお昼時で人がごった返している道を颯爽と歩く。私の腕をつかんだままだ。歩いている数人の人が宗三さんをぼうっと見ているのを見つけると少し面白い。見たことない美人なのだから仕方ない。男性に美人というのはどうなのだろうとは思うのだけど。思わず見惚れるほどに美しいのだ。そう表現するのが即しているようにも思える。
 ご飯屋さんやおしゃれなカフェをいくつか通り過ぎ、宗三さんがようやく一軒の店の前で方向を変える。カフェ、というより喫茶店という雰囲気だ。少しレトロな雰囲気が外にまで溢れ出ていて、どこか入りづらい空気がある。あまり外が見えないようになっていて中の様子が探れないのだから余計に。ドアを開けて店内に入ると店員さんが穏やかに「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。宗三さんは店員さんに何か言うとすぐに店員さんは裏に引っ込んでいく。店内は少し薄暗いけれどジャズが大人しめに流れた洒落た雰囲気だ。入り口の雰囲気と少し違う。一度入れば二度目は入りやすくなりそうだ。店内をきょろきょろ見ていると奥から別の店員さんが出てくる。宗三さんと同じくらい中性的な店員さんは「やあ、待ってたよ」と親し気に宗三さんに手を振る。

「いつもの席をとっておいたよ。……おや、ようやくだねえ」
「そういうことです。適当にランチメニューをください」
「はいはい。飲み物はいつもどおりでいいかい?」
「僕はコーヒーでいいです。彼女は紅茶で」

 緑がかった長髪の店員さんは私の顔をじいっと見てからにっこり笑って「ゆっくりしていってね」と言い、また奥に引っ込んでいく。宗三さんは店員さんに案内されるでもなく慣れた足取りで店の奥の方へ行き、カーテンで仕切られている席に入る。ようやく私の腕を離すと「そちらへどうぞ」と言って先にソファに座った。私もソファに腰を下ろしてからカーテンで仕切られているだけの個室の中を少し見渡す。机は暗い木目のシンプルなもので、壁際の机の隅には可愛らしい置物が置いてある。出迎えるように壁にかけられた大きな絵。それに、少し見覚えがあった。何色も色を重ねたりしているのにまとまりがあって、大きいようで小さい。極端な感情が一枚にまるで大切にしまわれているような絵は、あの展示会で見たものとよく似ていた。

「……その絵、気に入りましたか」
「えっ! あ、は、はい、なんだかいいなあと思って……」
「差し上げましょうか」
「……いや、お店のですよ」
「いいえ、僕のものですよ。僕が描いたものですから」

 その言葉に思わず「えっ」と返したところでカーテンが開く。先ほどの店員さんがお水を持ってきてくれたようだ。店員さんはまた私の顔をじっと見てからにっこり笑う。宗三さんが「あの絵、別のものに変えませんか」と店員さんに言うと「僕は気に入っているんだけどねえ」と笑う。

「彼女が気に入ってくれたようで」
「ああ、そういうことなら君に譲ろうか?」
「えっ! い、いや、あの、素敵な絵だとは思うんですけど、飾るには大きすぎなので!」
「そういうことならまたこの絵を見にお店に来てくれると嬉しいな。僕はオーナーの青江。電話をくれればここを用意しておくよ」

 胸ポケットから名刺を取り出し私に渡してくれる。先ほど名乗ってくれたのは下の名前だったらしく、名刺には京極青江という氏名と連絡先が書かれていた。お店の雰囲気は気に入ったので有難くいただいて財布にしまう。宗三さんと青江さんは同じ高校の同級生だったという話だった。今でもこうして宗三さんが青江さんのお店に訪れ、気が向けば描いた絵をプレゼントしているのだとか。なんとなく纏っている雰囲気が似ているのでその様子が安易に想像できる。そんな二人の昔話を聞かせてもらっていて気が付く。そもそも私、宗三さんとは今日が初対面だし、なに親し気に話しているんだろう?! 肝心なことを思い出して思わずバッと宗三さんの顔を見る。宗三さんはそれに気が付くと一つため息をついた。

「あの、本当に宗三さんは何者なんですか」
「ただの美大生ですよ」
「どうして私に声をかけたんですか」
「自分の胸に手を当てて考えてください」
「宗三は拗ねているんだよ。まあ優しくしてあげて」
「それより料理はまだですか。これ以上待たせるならもう金輪際来ませんよ」
「はいはい」

 青江さんは慣れた様子で席から離れていく。宗三さんはそれを見送ってからもう一つため息をついて、じっと私の目を見る。それがなんだか魔術でもかけようとしているのかと思うほどの迫力で少したじろいでしまう。けれどここで負けたら宗三さんの思うつぼだ。果敢にまた問いかけるのだけど、宗三さんは先ほどと同じようなことしか言ってくれない。自分の胸に手を当てるも何も、宗三さんとは初対面だから思い当たる節なんてあるはずがないのに。

「あ!」
「……なんです」
「もしかして、私が宗三さんの絵をじっと見てたからですか?」

 ファンかと思ったんでしょう? それしかない。意気揚々とそう宗三さんに言ってやる。宗三さんはしばらく頬杖をついたまま黙っていたけれど、少し視線を外したかと思えば笑い始めた。口元を押さえてはいるけれど声は抑えきれていない。心底おかしそうに笑う宗三さんに少なからずむかっとしてしまう。

「なんなんですか!」
「いえ、本当に何も覚えていないんですね」
「……はい?」
「気にしないでください」

 相変わらずくすくす笑う宗三さんは、無表情のときよりよっぽどきれいで。いつも仏頂面してないでこんな風に笑えばいいのに、なんて思った。思って気が付く。いつも、なんて。私は宗三さんのいつもを知らないのに変なことを思ってしまった。
 またカーテンが開くと、アンティーク調のワゴンに料理を載せて持ってきた青江さんが「お待たせ」と笑っていた。メインは白魚のソテーだ。グラタンソースがたっぷりかかっている上にきれいな色をしたネギが乗っている。サイドメニューはケーキのように切られたオムレツに玉ねぎのマリネ、かぼちゃのポタージュ。どれもこれもきれいな器に入っていてとてもおいしそうだ。「飲み物は食後に持ってくるよ」と言って青江さんは去って行った。
 実家を出て一人暮らしを始めてから、あまり自炊が得意ではないし外食も滅多にしない。久しぶりにこんなにしっかりしたメニューのご飯を食べる気がする。目の前ですでに宗三さんは手を合わせてから食べ始めている。私も続いて手を合わせてから箸を持ち、先ほど青江さんが「今日のブリはおいしいよ」と教えてくれたブリのソテーを口に運ぶ。ふわっと柔らかくほぐれたそれは口に入れても変わらない。ふわふわした魚を食べたのははじめてかもしれない。グラタンソースがよりそのふわふわを演出している。けれど乗っているネギがふわふわしすぎないようにほどよく味を引き締めてくれている。薄味なのにご飯にもよく合って、ついつい箸が進んでしまう。オムレツも中にキノコとほうれん草がたっぷり入っていて食感が楽しい。たまごの味がキノコの少し癖のある風味を和らげているし、ほうれん草の爽やかさがよく合っている。食べていて楽しいというのはこういうことなのだろうか。同じように玉ねぎのマリネもかぼちゃのポタージュも私が好きな味で、どれもこれも無言でゆっくり噛みしめて食べてしまった。
 ゆっくり食事をしたのはなんだか久しぶりにも思えた。空っぽになった器を見てなんだか満足感に満ち溢れる。宗三さんも穏やかな顔をして「ごちそうさまでした」と手を合わせている。私も同じように手を合わせて「ごちそうさまでした」と言えば、なんだか、余計に満ち満ちていた。

「あなたが僕の絵を間抜けな顔で見ていて気になったから」
「……はい?」
「そういうことにしておいてあげましょう」

 穏やかすぎるというほどの表情はどこか哀愁を感じさせた。宗三さんの心など知るよしのない私はただただ黙っているしかできなかった。
 タイミングよく青江さんが食後の飲み物を持ってやってくる。空っぽになったお皿をすべて片付けてから宗三さんにコーヒー、私に紅茶をおいてからまた出て行った。そういえば宗三さんはどうして私には紅茶を出してくれたのだろうか。コーヒーは苦手なのでよかったことに変わりはないのだけど。答えてくれないだろうと思いつつ訊いてみると「コーヒー、苦手でしょう」と当然のように言い当てられた。なんだか不思議な人。不思議な魅力のある、少し怖い人だと思った。


 宗三さんは突然私の前に現れては、まるで連れ去るように青江さんの店に引っ張っていくようになった。最初は強引だしなんだかわがままなその口ぶりにむかついていたのだけど、次第に慣れていって「はいはい」と流せるようになっていった。青江さんのお店で食べるご飯はいつもおいしい。さぞいい野菜やお肉を使っているだろうからお値段が高いのだろうけれど、いつもいつも宗三さんが勝手に支払ってしまうのでいくらなのかは知らない。お金を返すと何度言っても宗三さんは「はいはい、次からでいいです」とかわしてしまうのだ。黙ってお金を置いて行こうとしたときも「落としてますよ、間抜けですね」と言われて結局渡せないままだ。どうして見ず知らずの私をこんなに構うのだろう。やっぱり不思議に思いつつも、なぜだか聞けないまま不思議な関係が続いている。
 宗三さんの行動パターンが大体読めてきた。いつもお昼前にどうやら大学の授業が終わるらしい。それくらいの時間にいつも私の大学の入り口で待ち構えている。そうしていっしょにお昼を食べ、ぐだぐだと話しをして大体午後四時ころになると「そろそろ帰ります」と言いはじめるのだ。どうやら午後四時以降はなにか大切な用事があるようで、それより遅くに解散になったことは一度もない。アルバイトをしているわけでもないらしいので大学関係の用事なのかと思っていたのだけど。

「弟くんがちょうどおうちに帰って来る時間帯だからね」

 青江さんと二人で話すのははじめてだった。宗三さんが帰ると言い始めた時間帯にデザートを頼んで「私は残ります」と姿を見送り、こうして青江さんがわたしの相手をしてくれている。「宗三さんはいつもこのくらいに帰りますね」と何気なく話を振った回答がそれだった。弟くん。宗三さんはわがままなところがあるから一人っ子か末っ子かと勝手に思っていた。意外な一面を知った気がしてちょっと笑ってしまう。

「小夜くんといってね、とてもいい子だよ」
「へえ、宗三さんに似てないんですね」
「……そうだね、似てはいないかな」

 青江さんはにこりと笑った。そうしてポケットからスマートフォンを取り出すと「写真見てみるかい?」と言う。少し興味があったので「はい」と答えるとスマートフォンの画面をこちらに向けた。そこには髪の色から輪郭、表情、体つきまで違う男の子の姿が映っていた。宗三さんの弟、と言われなければ分からない。たしかに似ていない兄弟だ、と笑ってしまった。弟さんはとても真面目そうな雰囲気があるし、宗三さんよりしっかりしていそうだ。

「宗三さんと小夜くん、年が離れているんですね」
「たしか中学二年生だったかな。剣道部に入っていてかなり強いって聞いたよ」

 青江さんは淡々と話をしてくれる。引っ込み思案で人付き合いはあまり得意ではないらしく、そういうところは昔の宗三さんによく似ているとか。宗三さんと小夜くんは二人とも親戚の家に住んでいて、宗三さんはそこで作品を描いているとか。その話を興味津々に聞いていると青江さんが突然立ち上がって「いいものを見せてあげよう」と言って奥へ消えていった。
 宗三さんもそうだけれど、青江さんもだ。二人とも不思議な雰囲気をまとっている。なんだかいるようでいない、いないようでいる、そんな空気感さえ伝わってくるような感じ。二人とも妙にきれいな容姿をしているせいなのかは分からないけれど、とにかく本当に不思議な雰囲気なのだ。幽霊……いや、それよりも、妖怪……そうでもなく……一番当てはまる言葉は妖精とか神様とか、そういう神秘的なものな気がする。

「お待たせ〜」
「わっ」
「驚かせちゃったかな?」

 あはは、と青江さんが笑いながらまた腰を下ろす。そういえばこのお店、こんなにおしゃれな雰囲気でご飯もおいしいのに、さっきから人が来た気配がしない。店員さんは何人かいるようだけど今日はお店に入ったとき以外姿を見ていないし、妙に静かだ。もうご飯時をすぎているとはいえ、お茶を飲みに来る人くらいいそうなのに。
 不思議に思っている私の目の前に、ずいっと突然何かが出される。お店の静かな灯りに照らされる金色のように見える輝き。全体を見るとそれが日本刀であることが分かった。なんでそんなものが突然出てきたのだろうか。青江さんはにこにこと笑ったままだ。そうしてぽつりと「この刀の名前が分かるかい」と私に尋ねた。生憎日本刀には詳しくない。知っているのは新選組の近藤勇が持っていた刀や沖田総司が持っていた刀くらいなものだ。すべてドラマでの知識にすぎないので本当に持っていたものなのかは知らないけれど。

「分かりません。有名な刀なんですか?」
「有名……だとうれしいんだけどねえ」

 青江さんはその刀を自分のベルトに通す。まるで帯刀しているような恰好のまま、何の躊躇もなく刀を抜いた。本物なのだろうか。あまりにも鋭く光る刃に身がすくむ。青江さんはにこにこ笑ったままだ。

「にっかり青江」
「……はい?」
「この刀の名前だよ」
「…………お、おもしろい名前ですね」
「にっかり笑う女の霊を斬り捨てたことからつけられた名前だと聞いても、そう思うかい?」

 ぞっとした。霊を斬った刀。でもそう言われてなんだか納得した。それくらい妖しい光を放つ刀なのだ。ただの刃物が光っている輝きではない。なんだか笑っているような、どこか悲しんでいるような。そんな表情のある輝きだ。

「青江さんと同じ名前なんですね」
「そうだね。だから僕が持っているようなものだよ」
「……?」
「この刀、一度家に持って帰ってみないかい」
「はい?!」
「君に憑いているものも斬ってくれるかもしれないよ?」
「え、ちょっと待ってください、私なにか憑いてるんですか?!」

 結局、青江さんにうまく言い包められて刀を持ち帰ることになってしまった。デザートのお代を払おうとすると「もうもらったよ」と万札をひらひら振られてしまった。宗三さんめ、抜かりがない。今度会ったときは絶対に私が奢ってやるからな。心にそう決めつつ刀を握ったまま店を出た。
 外に出てはじめて気が付いた。ちょっと待って、私、これ捕まるんじゃ? 日本刀ってたしか持ってたら捕まっちゃうんじゃなかった? しかも鞘に入っているとはいえこんな丸出しで渡されちゃったんだけど! そう思ってお店に引き返そうと方向転換をしたのだけど。また不思議な感覚に囚われている。刀はまるで空気と同化しているかのごとく、誰も気に留めていないのだ。ビルの警備員さんの前を通っても目すら向けられなかった。どきどきしたまま地下鉄の駅へ入り、駅員さんの目の前を通っても。電車に乗っても、また駅員さんの前を通って駅から出ても。恐ろしいほどにこの刀は日常に溶け込んでいた。いや、溶け込んでいるというか。まるでここに存在していないように=Aここに在るのだ。それはまさしく、青江さんや宗三さんたちがまとっている雰囲気そのものだった。
 何事もなく家に到着すると、その刀を傷つけないようにベッドの上に置く。重たいのだけど軽い。存在感があるのだけどない。そんな両極端な雰囲気が見ていて飽きないほど美しく思えた。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 ――たくさんの嘘で固めて作ったここには、たくさんの死があった。
 相模国第七番に籍を置くこの本丸は、言うならば軍隊のようなところだった。歴代の審神者たちはそういうふうでもなかったらしいけれど、私は歴代の中でも最も霊力が低いと判定された。そのことから政府本部には良いように使われ、所謂実験台として使われているようなものだ。たくさんの刀剣男士を見殺しにしたし、たくさん辛い目に遭わせた。そうして出された数値による結果が他の本丸に回って新しい刀剣男士たちのマニュアルが出来ていくというわけだ。
 実例があまり多くない刀剣破壊。政府はこれに対してかなり強い興味を示しているらしかった。どれくらいのダメージが与えられると刀剣破壊が起こるのか、刀剣破壊によって刀剣の出現率に変化はあるのか。そんな実験を中心に最近は政府から指示を受けている。
 そうして今日も、刀剣破壊が起こった。

「……主。今日も折れたよ」
「…………そう」

 小夜左文字。折れた刀剣男士の名前を告げて、初期刀としてこの本丸へやってきた蜂須賀虎徹は部屋から出ていった。
 部屋の襖が閉まり、蜂須賀虎徹の足音が聞こえなくなってから、受け取った書類が手からこぼれていった。散らばった書類を何度も何度も踏みつけて、気付けば瞳からは涙が溢れていた。小夜左文字は、小夜くんは、私がはじめて鍛刀した刀だった。蜂須賀虎徹の練度が振り切り、前線を離脱してからはずっと近侍をしてくれていたし、短刀とは思えない強さで一軍を率いてくれていた。大切な、とてもとても大切な、刀剣男士だった。こんなくだらない実験のせいで、私は、大切な刀たちをどんどん失っていく。審神者なんかやめてしまいたい。こんなふうに政府の言いなりになって刀剣男士たちを殺すような真似をしたくない。けれど、政府は腐りきっていた。私の家族をまるで人質のようにとって脅してきたのだ。審神者をやめれば家族がどうなるか分からないぞ、それでもやめるのか。そう言われて、私は、今日もこうして、みんなを殺しているのだ。
 政府から命令されたことは以下の通りだ。
 その一、刀剣男士に心を開いてはいけない。他の本丸は刀剣男士と交流を深めて強い仲間意識のもとで戦っている。けれど、私の本丸はちがう。軍隊のように厳しい統率をとることで刀剣男士たちの戦闘力などに変化があるかどうか。それを見るために一切の慣れ合いは禁止された。刀剣男士同士がいっしょに食事をとることも、同室にすることも、交流という交流を禁止された。もちろん審神者の私が刀剣男士にむやみに接触することもだ。
 その二、刀剣男士の手入れをしてはならない。刀剣破壊のデータをとる、それが私に課せられた一番大きな任務だ。つまりは刀剣破壊を多く起こさせてデータをとらなければならない。怪我をして帰ってきたら手入れをするのではなく、すぐにまた戦場へ送り出すことを強要された。それの繰り返しだ。
 その三、歯向かう刀剣男士は即座に刀解せよ。政府がもっとも重要視してきたのはこれだった。あくまでも冷酷に、卑劣に。刀剣男士を間違っても人間のように扱うな、そう強く命令された。
 その三つが政府との決まりだった。政府から審神者に選ばれた当初は本当に楽しかった。みんなで難しい戦場を突破できたときは当時の近侍で隊長だった蜂須賀虎徹をみんなで胴上げしたり、お祝いをしたり。小夜左文字が近侍に交代になったときもみんなでお祝いをしたり、はじめての誉にご褒美を一緒に買いに行ったり。そんな日々がまるで走馬灯のように頭にめぐる。けれど、死ぬことは許されていない。私が審神者として死ねば家族も、と脅されているのだ。どうすることもできない。私には、どうすることも。

「結局、あなたもただの子どもですね」

 いつの間にか襖が開いていた。驚いて顔を上げると、宗三左文字が私を見下すように高い位置からこちらを見ている。

「……勝手に入ることは認めていな、」
「いつまでそうしているつもりですか」

 宗三左文字と話をしたのははじめてかもしれない。たしか彼がこの本丸にやってきたのは、すでに政府からの指示を受けて調査をはじめたころだったと記憶している。その当初は政府の監視がもっとも厳しい時期だったので当時の近侍の小夜左文字以外とはほぼ口を利いていない。宗三左文字は政府から受け取ったデータからすれば審神者に懐くことは珍しく、基本的に冷ややかな態度をとるとされていた。そのとおり宗三左文字は無理に私に関わろうとしてこなかったし、この本丸の体制に不満を述べることなく戦場へ赴いているらしかった。私の記憶が正しければ彼の背中には大きな刀傷があるはず。手入れをしたくてもできないままだ。

「泣くほど嫌ならうまくかわせばいいものを」
「……何のことですか」
「小夜のことをかわいがっていた、と蜂須賀虎徹から聞きました」

 それは嘘だったのですか。淡々とした声でそう言われ、カッと全身に火が付いたような感覚がした。嘘じゃない。今のすべては嘘で作ったものだ。けれど、でも、それは、嘘じゃない! そう喉の奥で必死に叫んだけれど、宗三左文字に届くわけもなく、ただただ言葉はばらばらと崩れて喉の奥へ消えていった。

「人間というものはいつの時代も面倒な生き物ですね」

 付き合いきれません。宗三左文字はそう言いながらも部屋から出ていくどころか襖をしめて、私の隣に座り込んだ。そうしてまるで自分の部屋のように寛ぎ始めると、「息苦しい場所ですねえ」と呟く。まるで私の心の奥を覗かれているような気がして、なぜだか、どうしても涙が止まらなかった。
 その日を境に、宗三左文字はこんのすけがいないときを見計らって許可なく私の部屋へ来るようになった。部屋に来ても何をするわけでも話すわけでもない。ただそこにいてじっと私を見ているだけ。ただただそれだけだ。そんな感じで何度注意しても出ていなかったので、仕方なく空いていた近侍という席を与えた。そうすれば私の部屋へ訪れてもそう不思議ではないし、何か聞かれても指示を出していたとか刀剣破壊の報告を受けていたとか、誤魔化すことはどうにかできる。……どうして宗三左文字を庇っているのだろうか。政府からの決まりに従えば刀解にするのが妥当だというのに。ほとんど必死に宗三左文字が部屋に来ている理由を作るようになっていた。

「梅が咲いていましたよ」

 ある日、宗三左文字が突然そんなことを言った。今まで黙って座っているだけだったのに。あまりにも唐突なことだったのでうまく反応できずにいると、宗三左文字は「あなた、外にも出るなと言われているんですか」と呆れたように言った。そう、というわけではない。ただできるだけ刀剣男士と関わるなと言われている以上会わないようにしているだけだ。だから庭がどうなっているとか、そういうことは知らない。あまりそういうことを知ってこれ以上本丸に愛着を持たないようにしているというのも理由の一つだけれど。
 黙って俯いていると、宗三左文字が立ち上がって私の机の隣に腰を下ろした。そうして机の上に静かに何かを置いた。

「この本丸の梅の木はにっかり青江が世話をしているんですよ」
「……そう」
「世話といってもただいつも眺めているだけですが」

 梅の花。机の上でも美しい色をして咲いている花は、何の色もないこの部屋を一気に彩りを与えてくれた。宗三左文字は淡々と話を続ける。最近戦に出ていない面々、たとえば先ほど出てきたにっかり青江。彼は庭の手入れをよくしているらしく、決まりを守って会話こそ交わさないらしいのだけどよく土だらけで汚れている姿を見るという。食事当番の堀川国広は今まさに刀剣破壊の調査部隊の前線に入れられている和泉守兼定をいつも気にかけているという。同じく前線に入れられている加州清光はぼろぼろになっても爪紅だけは必ずきれいに塗っているのだという。宗三左文字は私が泣き崩れるまで、刀剣男士みんなのことを淡々と話してくれた。私の頭に触れた手はぎこちなくて頼りなかったけど、恐ろしいくらいに優しかった。
 宗三左文字はそれ以来、何かあれば必ず私に報告するようになった。空に虹が出ていたとか、モンシロチョウが飛んでいたとか。どうでもいいことすらも事細かく報告してきた。最初は困惑しながら聞いていたのだけど、次第にその声が心地よくなってたまに笑ってしまうまでになっていた。宗三左文字とすごす短い穏やかな時間が唯一私が落ち着ける瞬間となっていた。

「今日は青江がたんぽぽを十数分眺めていましたよ」
「……十数分、それを観察していたんですか?」
「まあ。することもなかったので」

 宗三左文字は私の机に頬杖をついてそうため息をついた。そしていつものように机の上に何かを取り出す。今日はにっかり青江が見ていたらしいたんぽぽだった。梅の木の近くにたくさん咲いているそれをこっそり本丸のみんなが気に入っているのだとなんだか楽しそうに話してくれた。宗三左文字もたまに眺めてぼうっとする時間があるらしい。

「宗三左文字が見惚れるくらい、本当にきれいなたんぽぽ畑なんでしょうね」
「……そうですね。気が向いたら見てみるといいですよ」

 にこりと笑った宗三左文字の顔は、本当になんだか、胸がぽおっと温かくなるような色をしていた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「刀解、ですか」

 刀剣破壊のデータを提出しに出向いた本部で、突然「宗三左文字を刀解しろ」と命令された。困惑している私の目の前に何枚かの写真がつき出される。宗三左文字が私の部屋に花を持って訪れている写真、部屋の中で話している写真。すべては恐らくこんのすけがこっそり撮っていたものだった。言葉を失っているといつもの一言が吐き出される。「家族がどうなってもいいのか」。その言葉に、何も返せないままに、本部を後にした。
 本部から本丸に戻り、自分の部屋に向かって廊下を歩く。途中、宗三左文字が言っていた小さなたんぽぽ畑がある場所を通りがかる。そうっとそちらに視線を向けると、たしかにささやかなたんぽぽ畑が広がっていた。眩しいほどの黄色が風に揺れる様子はチョウチョが飛んでいるようにさえ思えるほど、とても穏やかで自由なものに見えた。
 部屋に戻って数分後、宗三左文字はいつものように私の部屋に訪れた。開口一番「また変なことを言われたんでしょう」とため息をつく。宗三左文字は私の表情を読むのが上手い。なんでもかんでもすぐに見破られるのが、少し悔しくなり始めたころだった。どうやって宗三左文字をだましてやろうか、それを考え始めた、ころ、だった。

「……泣くほど嫌なことを言われたんですか」

 ぼろぼろとこぼれる涙を、宗三左文字がそのきれいな着物で拭いてくれる。ため息を何度もついて「まったく」と消え入りそうな声で呟くと、私の頬をぐいっと指で押し上げた。

「ぶっさいくな顔ですね」

 おかしそうに笑って宗三左文字は私を優しく抱きしめた。ぽんぽんと背中を撫でる手が、やっぱりぎこちなくてちょっと痛かった。

「僕がいなくなっても、ちゃんとやるんですよ」

 いいですね、そう呟いた宗三左文字の声は、泣いているように聞こえた。ちゃんとやるんですよ。どういうふうにちゃんとやればいいの、宗三左文字。また一人ぼっちでこの色のない部屋で私は、ただただ時が経つのを待つだけ。誰かが折れるのを待つだけ、誰かの死を待つだけ。自分が死ぬその日までずっとその日々が続くだけ。子どものように泣いた私を、宗三左文字は黙って抱きしめてくれた。
 きれいに咲いていたと宗三左文字が教えてくれた梅の花が、すっかり散ってしまった日。宗三左文字、刀解。相模国第七番本丸において、もう何度目か分からない刀解はなんの滞りもなく、終了してしまった。きれいさっぱりいなくなった宗三左文字はもう二度と私の本丸に顕現することはなかった。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 ぐわんぐわんと頭が揺れていた。けれど不思議と気持ち悪さはなく、まるで地球が独りでに揺れているだけというか、それがふつうというか。なんと表現していいのか分からないのだけど、とにかく頭が揺れているのに気分が悪いというわけではなかった。全身は汗でびっしょりと濡れているうえに冷えている。寝汗をかいたらしい。大きく息を吸い込んで、吐き出す。
 宗三左文字。はっきりとその名前を思い出した。三好宗三。あの人こそが、あの、私の本丸にいた宗三左文字だったのだ。私を救ってくれた優しい刀剣男士。あんな仕打ちをした私を救ってくれたのに私が殺した人だった。
 ドッドッと脈を打つ心臓を押さえながら、ベッドの端に置いたにっかり青江を手に取る。これを持ったから審神者だったころの記憶が急に夢に現れたのだろうか。そうだとしたら青江さんはそれを狙って私に刀を渡したのだろうか。でも、どうして青江さんが? 青江さんは私を憎んでいるだろう。なにせ仲間をたくさん手入れすらせずに見殺しにした審神者だ。殺したいほど憎んでいるに違いない。この記憶を呼び覚ますことで私を苦しめようとしているのだろうか。そうだとしたら。ぎゅうっと刀を握って目を瞑る。
 時計を見ると青江さんのお店がオープンする二時間前だった。けれど、居ても立っても居られず、にっかり青江だけを握って部屋を飛び出した。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「おや、今日は早いねえ」

 青江さんのお店はまだ準備中の札がかかっていたけれど、待っていたかのように私を迎え入れてくれた。青江さんは私が握っているにっかり青江をちらりと一瞥してから、その名の通りにっかりと笑った。

「いい夢は見られたかい?」

 手を伸ばす。その手ににっかり青江を渡すと、青江さんは「紅茶を出すよ」と言って一旦奥へ消えていった。一人残された私はしばらく立ちつくしていたけれど、宗三さんの絵が飾ってあるあの席に自然と足が向かい、その絵をぼけっと見つけていた。叫んでいるようで静か。激しいようで穏やか。派手なようで地味。見れば見るほどよく分からなくなるその絵は、まさに人間の心そのもののように思えた。

「どうやら宗三に会えたようだね」
「あの」
「勘違いしないでほしいのだけど、僕ら≠ヘ君を憎んではいないよ」
「……どうしてですか」
「宗三左文字がいたからさ」

 宗三左文字は私やこんのすけの目を盗んで、一人一人刀剣男士に声をかけて回ったのだという。審神者は政府から脅されている、と。蜂須賀虎徹やにっかり青江はまだ政府から命令を受けていない本丸を知っている。急な変わりように困惑しながらすごしていたけれど、宗三左文字のその言葉で何もかもが理解できたと言った。

「はじめは裏切られた気持ちでいたけれど」
「……ごめ、」
「けれど、僕ら≠ヘ君が優しいのを知っているからこそ、憎んでいないよ」

 後ろからにっかり青江の腕が回ってきて、とても優しく抱きしめられた。にっかり青江はまだ穏やかだった本丸時代の話を淡々と語った。はじめて顕現したときは体が上手く動かせなかったけれど、みんなと過ごすうちに上手く動かせるようになったのが嬉しかったこと。初陣であまり格好がつかなかったことが今でも悔しいこと。蜂須賀虎徹や小夜左文字のこと、そして、宗三左文字のこと。
 あの日、宗三左文字が私の部屋に持ってきてくれた梅の花は、にっかり青江がこっそり一枝切って宗三左文字の足元に投げたのだという。たんぽぽもそうだった。他の花や木の実もすべてそうだった。

「宗三はずっと君を探していたよ」
「……そう、なんですか」
「案外近くにいて拍子抜けしていたけどねえ」

 腕をほどきながらくすりと笑う。「紅茶、飲むかい」と笑いかけられると、一気に目の奥が熱くなってしまった。はじめて顕現されてから数日後、にっかり青江が私にお茶を淹れてくれたこと。さっきみたいに「お茶、飲むかい」と言ってくれたこと。ぜんぶちゃんと覚えている。あの楽しかった日々といっしょにあの苦しかった日々のすべてが私の中にきれいに蘇っていた。にっかり青江は宗三左文字が刀解された十日後、戦場にて刀剣破壊。そのデータを書類にまとめた日のことも、何もかも。

「なんだか放っておけない子なんです」
「え」
「そう言っていたよ」

 「彼も大概だけれどねえ」とにっかり青江は苦笑いをこぼす。たしかに。ちょっとだけ笑ってしまうとにっかり青江が紅茶をカップに注いでくれた。二人で紅茶を飲みながらいろいろな話をした。にっかり青江は転生して京極青江として生きてきた人生を穏やかに語る。自分がにっかり青江だと気付いたのは小学三年生のときだったそうだ。不思議なことに誰にも見えない日本刀を持っていて、気味が悪くて捨てたこともあったらしい。何度捨てても自分の元へ戻ってくるそれのことを調べ、にっかり青江にたどり着いたとき、まるで記憶が一気にすり替わったように昔を思い出したといった。短かった髪をそれ以来伸ばし続け、当時と同じ長さを保って今はのんびりこの喫茶店をやっているとのことだった。宗三左文字と出会ったのは偶然だった。宗三左文字が通う美大がこの近くにあり、たまたま出くわしたのだと笑った。宗三左文字はこの時代に生まれ落ちた瞬間から刀剣男士であった記憶を持っていたため、すぐに声をかけてきたとにっかり青江は楽しそうに言った。

「宗三がいっしょに住んでいる親戚というのは歌仙兼定のことだよ」
「そうなんですか……」
「歌仙は記憶があるけど、小夜くんは一切記憶がないそうだよ」

 他にも歌仙兼定伝いに鶯丸、平野藤四郎、燭台切光忠、鶴丸国永、一期一振、へし切長谷部、大倶利伽羅もこの時代に転生していることが確認されているらしい。他にもまだいるだろうとのことだったけど、元刀剣男士を積極的に探しているのは歌仙兼定ではなく、燭台切光忠なのでまだそれ以降の情報は入ってきていないとにっかり青江は言った。

「あの」
「なんだい」
「あの刀、どうして私たち以外には見えないんですか」

 今日もあの刀をふつうに持ってきたけれど、誰も何も言わなかった。交番の前を通ってもお巡りさんが反応することもなく、そういうものに反応しそうな小さい子も一切見なかった。不思議だ。にっかり青江の話にもあったように、本当に誰にも見えない刀なのだ。にっかり青江は私の疑問を指で転がすように自分の輪郭をなぞる。「ん〜」と言葉を探すしぐさが妙に色っぽいのは相変わらずなような気がした。

「僕や宗三左文字、他の刀剣男士たちも自分の分身≠何らかの形で持っているんだよ」
「分身、ですか」
「僕が勝手にそう言っているだけだよ。どういう存在なのかはよく分からないんだ。ただ一つ分かっているのは、この刀が存在している間は僕らはまだ人間じゃない」
「……どういうことですか?」
「鶯丸を例に挙げようか。彼も僕と同じように日本刀・鶯丸を所持していたんだ。元刀剣男士にしか見えない刀をね。彼は本丸時代、恋仲の女性がいたんだよ。君の先代審神者だ。悲恋でその恋に幕が下りたのだけど、転生したこの時代で彼女と結ばれたのさ。すると、不思議なことに日本刀・鶯丸がきれいさっぱり消えてなくなった」
「……それでどうなったんですか?」
「説明しようにも感覚だからなんとも言えないけれど、それ以降鶯丸はちゃんと$l間になったように思えるよ。その話を聞いてからはこの刀は恐らく審神者の霊力の残り香の塊なんじゃないかと僕は思っている」

 だから元刀剣男士や元審神者にだけ見えるのだろう。にっかり青江はそう呟く。正直なところ私が審神者だった時代に鶯丸が顕現していないので、たとえとしてはいまいち想像がしづらかったけれどなんとなくは分かった。けれど、例外もあるとにっかり青江は続けた。たとえば鶴丸国永。鶯丸に聞いた話なのだというけれど、彼は一切本丸時代の記憶を持っていなかったのだという。本丸時代とはまったく違う静かで落ち着いた性格になっていた彼に困惑していたと鶯丸は語っていたそうだ。けれど、彼が恋仲だった元審神者と出会ったとき、まるで心が解放されたように刀剣男士だったころと同じような賑やかで騒がしい性格に戻った。そうしてまた元審神者と結ばれたそのときから、鶴丸国永はちゃんと$l間になったように彼らは感じたのだという。恐らく日本刀・鶴丸国永は彼の体内に潜んでいたのではないかとにっかり青江は推測しているようだった。

「けれど、僕は本丸時代に恋仲になったり女性として惹かれた審神者はいなかったはずなんだけどねえ」
「鶴丸国永以外の刀剣男士は持っているんですか?」
「持っていると思われる≠ニいうのが正しい言い方かな。聞いた話だから詳しくは知らないけれど、平野藤四郎は本丸時代の記憶がきれいに残っているのに刀は出ていないらしい」

 「体内に埋もれているのか、はたまはもともと存在していないのか」とにっかり青江は首をかしげる。ともに暮らしているらしい鶯丸の話では「平野藤四郎はちゃんと$l間として生きている」との見解だったとにっかり青江はさらに首をかしげた。

「こればっかりはまさに、神のみぞ知る、というやつだねえ」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 にっかり青江のきれいな字で書かれたメモを頼りに住宅街を歩く。宗三左文字が住んでいる歌仙兼定の家に向かう足取りは、恐ろしいほどに緊張していた。にっかり青江の話ではとても立派な家だから見ればすぐに分かるとの話だった。そろそろ見えてくるはず。そう思ってメモから顔を上げたとき、まさに言われた通りだった。すぐに分かった。少し古そうに見えるけれど品のいい雰囲気の家。雅を重んじていた歌仙兼定が好みそうだと、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。
 今日は土曜日ということもあり、宗三左文字は昼までは家にいるだろうとのことだった。恐らくあの家で作品制作をしているか寝ているか。それを考えながらゆっくりと家に近付く。チャイムが門のところにはついていなかったので、鍵がかかっていない門を静かに開けて玄関へ近付く。歌仙兼定は私を見たらなんと言うだろうか。小夜左文字は何か思い出してしまうだろうか。そんな不安に駆られながらゆっくりチャイムに指を伸ばしたときだった。家の中からものすごい声量の怒鳴り声が聞こえた。

「使った食器は自分で運べと何度言えば分かるんだい?!」

 その怒鳴り声に固まってから、すぐに吹き出してしまう。笑いが治まるのを待ってから息を整え、ゆっくりとチャイムを押した。そのチャイムの音に反応したのはどうやら歌仙兼定ではなかった。軽い足音がぱたぱたとこちらに近付いてきてゆっくりと玄関が開く。開いた扉の向こうにいたのは、小夜左文字だった。

「……どちら様?」
「あ、えっと、そ、宗三さん、いる、かな?」

 覚えていないし思い出さない。それに安心したような、少し心が痛いような。どきどきとうるさい心臓を押さえつつ小夜左文字の顔を見ていると、「待ってて」と静かな声がしたのち小夜左文字は部屋の奥へ消えていった。そんな小夜左文字に代わって顔を覗かせたのは歌仙兼定だった。

「お茶でも飲まないかい」
「え、あ、」
「上等な茶碗が手に入ったんだ。一番を君に譲ろう」

 私の目の前に立って歌仙兼定は笑った。そうしてゆっくり私の頭を撫でると「元気そうで何よりだよ」と言ってくれた。その対応に呆けていると苦笑いをして「憎んでいると思っていたかい?」と続けたけれど、すぐさま自分で「それはないよ」と否定した。歌仙兼定はまるでその話はどうでもいいから、と言うような満面の笑みを浮かべて「それよりも茶碗を見てくれ」と私の腕を引っ張った。なんでも宗三左文字は茶碗の話を全く聞いてくれないし、この頃は小夜左文字しかその話を聞いてくれないから困っていたとのことだった。あまりにもふつうに話してくれるその様子に戸惑いはあるけれど、それ以上にうれしくて笑ってしまった。
 居間に連れていかれ歌仙兼定がいろいろ茶碗を取り出す。どれもこれもきれいなものだとは分かるのだけど、あまり詳しくないので「きれいですね」とかそういう当たり前のことしか返答できない。それなのに歌仙兼定は嫌な顔一つせず「そうだろう?!」とうれしそうに話し続けた。よほど宗三左文字に話を聞いてもらえないのだろうか。ちょっと苦笑いをこぼしていると、部屋に小夜左文字が帰ってきた。

「宗三兄さん、ちょっと待ってほしいって」
「どうかしたのかな……」
「絵だよ」
「絵?」
「君に見せたい絵があると、最近ずっとアトリエにこもっているんだよ」

 「突然君が来たから急いで描いてるんじゃないかな」と歌仙兼定は愉快そうに笑った。そんな歌仙兼定の隣で一人記憶がない小夜左文字が不思議そうな顔をして私を見ている。私が知っている小夜くんより少し大きいけれど、何も変わっていない。頼もしくて心優しい子。見ただけでそれが分かった。

「小夜、挨拶を」
「……細川小夜です」
「ほそかわ?」
「僕の養子なんだ」

 歌仙兼定はこの時代に「細川兼定」という名前で生まれたのだそうだ。けれど本人は元刀剣男士や元審神者には「歌仙兼定」と名乗っているし、ほとんどそういった身内との交流が多いらしいので「細川」という姓を忘れてしまうと笑った。小夜左文字にも「歌仙兼定」で定着しているとなんだかうれしそうに笑う。
 小夜左文字は元々ごくふつうの一般家庭に生まれたのだという。けれど、両親から虐待を受けてぼろぼろになっていたところを偶然歌仙兼定が見つけ、引き取ると申し出たのだそうだ。両親にそれなりのお金を渡せばいとも簡単に両親は小夜左文字を手放した、と歌仙兼定は忌々しそうにつぶやいた。そういう経緯で小夜左文字を養子に迎え、二人で暮らしていたところにひょっこり宗三左文字が現れたそうだ。まだ小学生だった小夜左文字に絡んでいる不審な男がいる、と通報されていたらしい。交番で保護された小夜左文字を迎えに行った際に宗三左文字と出会ったと歌仙兼定は笑いながら言った。ちょうど当時アパートの隣人と揉め事を起こして追い出されていた宗三左文字も拾って、三人で暮らし始めたとのことだった。

「歌仙、さんは何をしてるんですか?」
「一応陶芸家の端くれさ」
「え、すごいですね?!」
「にっかり青江の店に行っただろう? あの店の皿にいくつか僕の作品があるはずだよ」

 にっかり青江のことだ、私に出した皿のすべてが歌仙兼定の作品だったにちがいない。そうだとしたらお皿はかなり上等なものだった記憶があるし、こんな立派な家に住んでいるくらいだし、相当有名な陶芸家に違いない。にっかり青江の話だと鶯丸は小説家として成功しているらしいし、宗三左文字だってあんな絵を描けるのだ、将来は美術家で間違いない。元刀剣男士というのはそういう才能を持っている可能性が高いのかもしれない。
 しばらく歌仙兼定の茶碗自慢を聞いて小夜左文字とともにお菓子やお茶をいただく。歌仙兼定は話をするのが好きみたいで、まったくその口が止まることはなかった。小夜左文字はそれにもうすっかり慣れているらしく、適度に相槌を打ちながら机に教科書とノートを広げ始めた。そうして勉強をしつつ歌仙兼定が新しいお茶を出しに席を立ったとき、内緒話をするように私に声をかけた。

「宗三兄さんと結婚するの?」
「えっ?!」
「あの絵は大切な人に描いてるって言ってたから……」

 そうなのかと思ったんだけどと小夜左文字はなんだか気恥ずかしそうに私の顔を覗き込んだ。

「そうならいいな、って思って聞いたんだけど」

 ちがうなら、ごめんなさい。小夜左文字はそう言って少しだけ視線を下へ向けた。小夜左文字はぽつぽつと言葉を続ける。宗三左文字が突然自分の兄だと言ってきたときはひどく困惑したのだという。一人っ子としてこの世に生まれ落ちて、理不尽な暴力を受けた。その状況から救い出してくれたのが歌仙兼定で、心の中で消えなかった孤独感をなくしてくれたのが宗三左文字だったと小夜左文字は話した。宗三左文字の構いっぷりはかなりすごいものだったらしい。もしかしたら本丸時代もふつうにすごしていれば仲の良い兄弟だったのかもしれない。そう思うと、胸の奥がぎゅうっと苦しくなった。
 戻ってきた歌仙兼定は新しい茶碗に入れたお茶とお茶菓子を机に置く。三つあるそれに首をかしげると「宗三に持って行くかい?」といたずらっぽく笑った。きれいな梅の花が描かれた茶碗は、まるで宗三左文字があの日見せてくれた梅のように色鮮やかに見えた。宗三左文字の分だけを別の盆に載せると「そこをまっすぐ行って左に曲がるとアトリエだよ」と笑った。それをそのまま渡されて「いってらっしゃい」と二人に見送られた。
 言われたとおりの道順を行き、絵の具のあとが少しついた扉の前についた。中からはときおり小さな物音が聞こえるだけでとても静かだと分かる空気感が伝わってくる。少し緊張しながら扉をノックすると中から「どうぞ」とまるで誰がノックしたのか分かったような声が聞こえた。

「失礼します……」
「お茶はそこに置いてください」
「あ、はい」
「そこの椅子にどうぞ」

 大きなキャンバスの裏面しか見えないけれど、どうやら宗三左文字はその向こう側にいるらしい。ふつうならキャンバスを壁に寄りかからせるのでは、と思ったけどキャンバスを立てる道具を使ってわざわざ部屋の真ん中にキャンバスを立てているのには理由があるのかもしれない。言われた椅子に腰を下ろすとキャンバスから宗三左文字が顔を覗かせた。

「僕がいなくなってもちゃんとやるんですよ、って言ったじゃないですか」
「……ちゃ、ちゃんとやってましたよ」
「ちゃんとした食事もしていない人が何を言うんですか」

 宗三左文字はため息をつきながらまたキャンバスの向こうへ隠れてしまった。少しだけ開いている窓から風が流れ込んでくる。真っ白なカーテンが揺れると同時になぜだか涙が溢れた。

「最初はあなたを斬ってやろうと思っていたんです」

 小夜左文字が折れたあの日、彼は帰還した部隊を見てそれを察したと言った。隊長として戦場へ行ったはずの弟が見当たらない。ずっと手入れをしてもらえず全身傷だらけだった弟が、どうしてそこにいないのか。聞かずともすぐに分かったと宗三左文字は言った。だから蜂須賀虎徹が報告を終えたあと、当たりから人気がなくなるまで潜んでから部屋を訪れた。けれど、いざ襖を開けてみると刀剣破壊の書類を床にまき散らしてそれを踏み荒らし、泣き崩れている私がいた。

「馬鹿な人だと思いましたよ」

 顕現したばかりの頃、蜂須賀虎徹や加州清光といった初期メンバーから「主は本当はいい人なんだ」と説明されたと宗三左文字はため息交じりに呟く。「信じませんでしたよ」と言った声は突き放すように冷たかった。そこで小夜左文字を前はかわいがっていたことなどを聞いたらしかった。小夜左文字が折れたところできっと審神者は平然としているのだろう、そう思って部屋に乗り込んだ。けれど、実際はまったく違う光景が広がっていて、宗三左文字は一瞬でほとんどのことが分かったと鼻で笑った。

「子どものくせに見栄を張って、意地を張って。嫌われ者になろうなんておこがましい」
「……み、見栄とはでは、なく、」
「誰かに打ち明ければよかったんですよ」
「……でもそんなことしたら、」
「誰かが刀解されてしまうから、でしょう」
「……はい」
「あなたのそういうところは嫌いですね」

 筆をおいた音がした。キャンバスの向こうから宗三左文字が出てくると、私がおいたお茶を一口飲んだ。腕まくりした袖に少し絵の具が付いてしまっている。腕はもちろん、顔にまで。

「にっかり青江や蜂須賀虎徹、加州清光、そして小夜たち。みんながあなたの身を案じていたことには気付いていますか」
「……え」
「誰かさんに聞いたんでしょうが、たしかに僕はあなたのことを全員に話して回りましたよ。ですが、全員一様に同じ反応をしていました。ああ、やっぱりそうなのか≠ニ」

 お茶菓子を口に放り込んで食べると、どうやら思っていたより甘かったらしく少しだけ眉間にしわが寄った。もう一口お茶を飲んで息を吐くと、まっすぐに私を見据える。

「周りをちゃんと見なさい。自分のことをちゃんと考えなさい。そういう意味のちゃんと≠ナすよ」

 涙を拭く私の手を握った。少しだけ絵の具がついた感覚があったけど、嫌な感じは一切しなかった。その手をぐいっと引っ張られたので立ち上がると、キャンバスのほうへ連れていかれる。宗三左文字は「よく描けているでしょう」と笑ってキャンバスを眺めた。恐る恐る見たキャンバスは、その大きな一面いっぱいに黄色いたんぽぽ畑が描かれていた。あの本丸にあったものよりはずいぶん立派なたんぽぽ畑だ。けれど、不思議とあの本丸のたんぽぽと同じ色と空気を匂わせるその色に、また殺していた感情が溢れ出る。

「せいぜい今世は人を頼って甘ったれて生きていくことですね」

 黄色い絵の具がついた指が私の腕を撫でる。同じ色の絵の具で塗っただろうに、キャンバスに広がる黄色はどれもこれも同じ色は一つもない。チョウチョが飛んでいるように思えるほどに穏やかで自由な彩りは、この瞳にはまだ眩しく感じてしまった。けれど目が離せないのだからもう笑うしかない。
 手首を握っていた手がそのまま絵の具を広げながら私の手を滑る。手の平同士が合わさると、長い指が私の手をほんの少しだけきゅっと握った。

「今度は梅を描きましょう。とびきりきれいな色の絵の具を買います」

 小さなキャンバスに描きますよ、と宗三左文字は笑って頬についていた絵の具を指でとろうとする。上手くとれていないのを見て笑ってしまうと「拭いてください」となんだか拗ねたように言われた。置いてあったティッシュを一枚とって宗三左文字の顔を優しくこすったら、余計に黄色が広がってしまう。それに謝りながら笑うと、とてもとても穏やかな顔で、笑い返してくれた。


material by suisaisozai