≪注意事項≫
※現代パロディです。どことなく転生パロディでもあります。
※主人公設定が割としっかりしているので苦手な方はご注意ください。




 幼いころからよく、変な夢を見た。見たこともないくらい深く積もった真っ白な雪。それを見ながら誰かと縁側でお餅を食べている。火鉢というものだろうか、使ったこともないそれがやけに懐かしく見える。温かなオレンジの火を小さく浮かべ、ぱちぱちと炭が燃えている。餅をひっくり返している私の隣には白い着物のようなものを着た人。その人の顔はぼんやりとしか覚えていない。けれど、とても美しくて優しそうな人だったと思う。ころころと変わる表情が面白くて私が笑うと、その人は不思議そうに首をかしげるのだ。その人は餅が早く食べたいらしい。火鉢を覗きながら「まだか」と楽し気に言った、その声。その声だけが私の記憶にはっきりとある。まだ静かに降り続ける雪を二人で眺めながら、微笑み合う。そんな、静かで、恐ろしいほど、幸せな夢。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 反抗期というものは多くの人にあるものだと思う。両親や教師、兄弟。こちらのためを思ってだとしても何か言われたり求められたりすることが鬱陶しくなる。反発して反論したり抵抗したり。そういう時期に入る子が私の周りには多かった。受験のことを言われて腹が立った、とか。アルバイトばかりしていることを注意されて嫌だった、とか。そういう話を聞いていると、ああこの子の家族はいい人たちなんだなあ、と心の底から思う。
 学校から帰ってきて、あまり立て付けの良くないアパートの扉を開ける。無言で帰宅した家には誰もいない。高校に入学して、両親とは離れて生活している。
 父親は仕事に真面目すぎる人で、家族のことを顧みない人だった。一人娘である私のことにも興味がない。高校受験のときも志望校を伝えたら新聞から目を離さないままに「そうか」としか言わなかった。そういう人で都合がいいことも多かったので文句はない。母親も似たような人だったけれど、父とはまたタイプが違った。母は派手好きな人で父から受け取った金で遊びまわる毎日を送っていた。パチンコにホストクラブ通い、ブランド品を身につけ、挙句の果てには浮気。家に帰って来ないことも多かったし、帰ってきても一言も喋らずに寝ることが多かった。父のことはいない存在、もしくはお金をくれる便利な存在くらいにしか思っていない様子だった。そんな二人が離婚せず、共同生活を送っていたのが不思議なほど、夫婦関係は冷めきっていた。
 二人が離婚を決めたのは私の高校受験が終わったときだった。母は父に縋りついて嫌がった。「捨てないで」「寂しかったの」「あなたのことを愛しているの」と喚く姿は恐ろしく醜かった。金目当てだ。遠くから見ていた私ですらそれが透けて見えた。当の本人である父には、それが怖いほどよく見えていただろう。父はそんな母を冷たい目で見下ろして「触るな」とだけ言った。父は離婚のために様々な情報を集めていたらしく、裁判の結果は見なくても分かるほど簡単に出た。母は怒り狂ったが父に慰謝料を払い、借金を負ったらしい。けれど浮気相手には捨てられずに済んだらしく、知らない男の人と出て行った。父は母が出て行ったあと、引っ越しの準備を始めた。母が残していったもの、家族の思い出、何もかもを躊躇なくゴミ袋に入れていく。それを横で手伝っていると、父は視線をこちらに向けないままに言った。「お前はどうする」、と。父についていくか、一人で暮らすか。父はどちらでも好きな方を選べと言った。一人で暮らすのであればお金は出すと。
 そうして私は、一人で暮らすことを選んだのだった。引っ越し資金は父が出してくれたし、高校の学費も父が出してくれている。けれど、家賃や生活費の援助は断って自分で出している。アルバイトをいくつか掛け持ちしてお金を貯めながら、できるだけ節約を続けて。いつか父にこれまでに出してもらったお金は返すつもりだ。そして、いつか、縁を切ろうと思っている。どうにかして一人になりたい。そんな思いが今の私には芽生えていた。
 スカートを脱いで、リボンを外して上着も脱ぐ。クローゼットから適当にパーカーとズボンを出して着替えを済ませる。ダッフルコートを羽織ってから学生鞄に入れていた財布と携帯、家の鍵を取り出す。それをいつも使っているリュックに入れ直して背負い、また玄関の方へ向かう。今日はこれからスーパーでアルバイトが入っている。ため息をつきつつ靴を履き、扉を開ける。冷たくなってきた風がざあっと吹いてきて体が縮こまる。冬までにマフラーくらい買いたいけど、いつもお店で見るだけで結局買わず仕舞いだ。なんだか無駄遣いをしてしまうように思うのだ。なくても多少寒いくらいで死なないし、なんて。しっかり鍵を閉めてからアパートの廊下を歩く。アパートの住民とは一切隣人付き合いがない。どんな人が住んでいるか分からない。お隣さんがどんな人なのかも知らない。知ろうとも思わない。学校にも友人と呼べる人は、実はいない。なんだか面倒になって人と関わらないようにしている。そんな淡々とした毎日を送っているからなのだろうか。気付けば表情が動きにくくなってしまって、たぶんいつも不愛想な顔をしていると思う。アルバイトをしているときはなんとか作り笑いができているけれど、それにも最近疲れてきている。なんか、生きるのって、しんどいなあ。そんなことをぽつりと頭の中で呟いた。

さん! レジ入って!」

 今日は特売日の日でやたらめったらお客が来た。品出しをしていた私も声をかけられて急いでレジに入る。レジには奥様方がたくさん並んでいてどこのレジももう回っていない。急いでレジに入ると奥様方が我先にとレジに飛び込んでくるのだから迫力がすごい。圧倒されつつ「お待たせしました」と声をかけてからレジ作業を始める。ピッピッとバーコードを読みつつ商品を一つ一つカゴに移していく。チラシに載せた商品ばかり十七点、計三七五〇円。奥様がクレジットカードを出したので支払回数を確認してからカードでの会計を済ませる。レジ袋がないのかと聞かれたので一枚五円だと伝えると「レジ袋で金をとるの?!」と言われてしまう。エコのためにレジ袋を廃止した旨を伝える。文句を言いつつ財布から十円を取り出して一枚お買い上げ。割と前から実施しているものなのに未だに文句を言ってくる奥様は多い。こうして淡々と対応しているものの、たまに激しく突っかかってくる人もいるものだから困ったものだ。レジ袋をカゴに入れて次の会計に入る。長蛇の列を横目で見て、誰にも聞こえないくらい小さいため息をついてしまった。
 奥様方の列は数時間途絶えなかった。それまで私はレジに入り続けてなんとかお客をさばき、空いてきた夜の七時にようやく休憩をもらえた。他のパートさんと一緒に休憩に入ると「今回の特売日は凄かったわねえ」と話を振られる。「肉とか魚が安かったですから」と返すと「やっぱりメイン食材が目玉商品になる日は人を増やさないとね」と苦笑いが返ってきた。そんな他愛ない会話をしているうちに短い休憩時間はどんどん過ぎていく。それがひどく、勿体なく思えた。三十分の休憩を短いとは思わない。けれど、こうして他の人と狭い休憩室に入れられるのは正直好きではない。一人でじっとしていたいのに。パートの人たちは人懐こい人が多くて、こうして必ず世間話を振られる。適当に返しているけれど、面倒なものは面倒だ。かといって学校と違って一緒に働く人たちだ。それなりに良い関係でないとやりにくくなる。ため息をつくと、ちょうどタイマーが鳴った。
 次の人たちに休憩を代わり、また品出しに戻る。チラシに載せた商品はほとんどなくなっている。チラシに載っていない商品で時間が来たものに半額シールやオフシールを貼るのも同時にやっていく。ちょうど近くにいた奥様がそれを虎視眈々と狙っているようだったので早めに貼ってやる。思った通りすぐそれをカゴに入れると、別の売り場へ向かっていった。最後の惣菜物の補充をしつつ今日の晩御飯はどれにしようかと考える。このスーパーでのバイト日にはここの惣菜を晩御飯にしているのだ。唐揚げとポテトサラダは決まっているのでもう一品はどうしようか。そう考えていると、後ろから突然、声をかけられる。

「すみません。茶っぱはどこにありますか」
「お茶っぱはお菓子コーナーの隣の棚に、」

 「ありますよ」、と言いながら振り返る。振り返って、その人の顔を見た瞬間、思わず呼吸が止まった。見たことがないくらいその人の顔がきれいで。こういう人を美形というのだろう。スーツを着ているので仕事帰りのサラリーマンなのだろう。男の人とは思えない真っ白な肌にきらきらと光る髪の毛。華奢だがスタイルがいいからかスーツがとてもよく似合っている。首に巻いた濃い赤色のマフラーがよく似合う、眩しいほどに白い人だ。その人のきれいさに固まってしまっていたが、はっとして「あ、こちらです」と立ち上がって案内をしようと歩き出す。けれど、その人は、瞬きもせずに固まってついてこない。私の顔をぼんやり見つめ、口が開きっぱなしだ。どうしたのだろうか。「あの」と声をかけるが一向に動かない。あまりの固まり具合に心配になってしまって、その人に歩み寄る。「どうしました?」と問いかけると、その人は持っていたカゴを落とす。入っていた玉ねぎやニンジン、お菓子類に洗剤が散らばってしまう。物凄い音に周囲のお客の視線が突き刺さる。「大丈夫ですか?!」としゃがんで商品を拾おうとすると、それよりも先にその人が私の両手を掴んだ。

「俺と、どこかで会ったことがないか?!」

 きらきらとした瞳で、そうまっすぐ問いかけられる。握られた掴まれた手は冷たくて、この人は寒がりなのかもしれないとぼんやり思った。返事に困っているとその人は一人でうんうんと頷きはじめ、「間違いない、君だ、君だったのか」と呟いている。その異様な光景に周囲の人がざわざわとし始めて、ようやく頭が回転しはじめる。目の前で目を輝かせているきれいな人。これだけきれいな人ならば一度関わればそれなりに記憶に残るだろう。でも、一切覚えがない。初対面なのだろう。そう、思うのだけど。どこか懐かしい人のようにも思えてしまって、なんと返事をすればいいか分からない。
 しばらくそのままの状態で固まっていると、社員が奥から出てきたらしい。私とその人を引きはがすと「警察を呼びますよ?!」とその人に怒鳴った。どうやら常連の奥様が「店員さんがナンパされて手を掴まれてます」と言ってきたらしく、慌てて社員が出てきたというわけだった。その人は焦りながら「違う! そういうんじゃない!」と必死に弁解をした。社員が疑いの眼差しを向けつつ私に「知り合いですか?」と聞いてくる。知り合い、ではない。会ったこともたぶんない。そのままそれを伝えると社員は「ほら!」とその人の腕を掴んで「ちょっと事務室まで」と言って連れて行ってしまった。唖然として固まっていると、一部始終を見ていた常連の奥様が駆け寄ってきて「ちゃん大丈夫?」と声をかけてくれる。このスーパーでアルバイトをしている学生は私一人なので常連さんには名前を覚えられている。申し訳ないことに私は常連さんの名前までは覚えていないのだけど。怪我をしていないかを聞かれたので、大丈夫と苦笑いをしておくと常連さんはほっとした顔で微笑んだ。

「ストーカーになられたら怖いから、帰りは気を付けなきゃだめよ」

 それに苦笑いで「大丈夫ですよ」と返した。
 大丈夫だと、思っていたのだが。アルバイトを終え着替えを済ませて裏口から外に出た。すると、「よっ」と軽く声をかけられた。驚いて開けたドアの裏側を覗き込むと、あの人だった。社員に事務室に連れていかれたあとのことは分からなかったが、どうやら警察は呼ばれずに済んだらしい。穏便に済んだのに、どうしてこんなところで自らまた警察沙汰になりそうなことをしているのだろうか。「どうも」と一応頭を下げておくとその人はけらけら笑って「驚かせてすまない」と頭をかいた。
 その人の名前は、鶴丸さんというらしい。見た目によく合うきれいな名前だ。鶴丸さんは最近この近くに越してきたらしく、このスーパーに来たのははじめてなのだそうだ。勤めている会社のことや自分のこと、住んでいる家の場所まで事細かく話す。鶴丸さんは一気に自分の個人情報を話し終えたところで、「一応先に言っておくが、ナンパじゃないぞ」と苦笑いをこぼす。ナンパでないのなら一体何なのだろうか。こんなきれいな人が私をナンパするなんてはじめから思っていなかったが。援助交際の提案をしてきそうにもない。一体何が目的なのかさっぱり見当がつかない。考えていると背後から「さんどうしたー?」と社員の声が聞こえた。なかなかドアを閉めない私を不審に思ったらしい。鶴丸さんがびくっと体を震わせたのを見て咄嗟に「いえ、なんでもないです、お疲れ様です」と返して慌ててドアを閉めた。ドアが閉まると暗い外に鶴丸さんと二人になってしまう。冷たい風に身を震わせつつ「それで、一体何の御用ですか」と問いかける。鶴丸さんはその問いかけに少し固まった。そうして口元を指でかきながら「あー、いや」と笑う。言おうかどうしようか迷っているような表情をしつつ、鶴丸さんは私をまっすぐ見た。

「夢で」
「はい?」
「夢で、君と、一緒にいた気がして」

 「つい声をかけてしまった」と鶴丸さんは笑った。照れくさそうに笑う顔が暗闇の中でもほんのり赤くなったのが分かる。それは分かる、のだけど。夢で見た気がして声をかけた、なんて言われたら、怪しいと思うのが普通ではないだろうか。一気に鶴丸さんを見る目が疑いで染まる。やっぱりこの人ナンパ目的なんじゃないだろうか。そうなるとあまり長く関わるのも良くないし、このままもし家について来られたらまずい。私の頭の中は一気にいかにして鶴丸さんから逃げるか、それだけを考え始める。とりあえず歩き始めると鶴丸さんも当然のようについてきた。鶴丸さんはにこにこと笑いながら楽し気に話を始める。鶴丸さんの見る夢に出てくる私(に似た女性)は着物を着ているらしい。いつも季節は冬のようでしんしんと静かに雪が降っているそうだ。なんとなく私がよく見る夢に似ていて気色悪さを感じてしまう。それを口に出すのは面倒事に繋がる気がするので黙っておくことにする。鶴丸さんの話す夢の話は実に美しく、驚くほど私の夢に似ていた。膝丈くらいまで積もった雪を眺めながら、鶴丸さんと着物の女性は火鉢で餅を焼いているのだそうだ。真っ白な雪と、真っ赤に咲いた椿の花。それを見つめながら鶴丸さんはその女性に「きれいだなあ」と呟く。白くなった息を見つめて女性がくすくすと笑うのがたまらなく愛しくて、愛しくて、愛しくて。鶴丸さんは胸がきゅうっと苦しくなって、いつも目が覚めるのだという。「いい夢だろう?」と鶴丸さんは私の顔を覗き込む。
 いや、いよいよまずい人に見えてきた、こちらとしては。すーっと冷えた心臓を悟られないようにしつつ「はあ、そうですね」とだけ返す。鶴丸さんはつまらなさそうにしたが、それ以上どんなリアクションを取ればいいのか分からない。その相手と私が似ているから声をかけた、なんて、怖すぎる。しかもこうして閉店まで待っているなんて余計に怖すぎる。ナチュラルについてきているし。いくらきれいな人だからってナンパされるのもストーカーになられるのもご免だ。さて、どうしようか。そう考えつつまっすぐ家に帰ることがまずいということだけははっきりしている。とりあえず近くの公園の前で立ち止まる。鶴丸さんは不思議そうに「どうした?」と首を傾げて、当たり前のように立ち止まった。「いや、ちょっと」と鶴丸さんの顔を見上げる。鶴丸さんはきらきらした瞳をまっすぐこちらに向け、「お、公園寄るか?」と笑う。なんだかそれがちょっと恥ずかしくて思わず視線を逸らしてしまった。「そうです」とだけ返して公園に入る。鶴丸さんも当然のようについてくると、自販機を見つけて「何飲む?」と鞄から財布を取り出した。流石に見ず知らずの人に奢ってもらうのは悪い。断ったのだが鶴丸さんは「いいからいいから」と言って引かない。それでも私が断り続けると「仕方ないな」と呟いてから、自販機に小銭を入れる。ブラックコーヒーのボタンを押したのでどうやら私に奢るのは諦めてくれたらしい。ほっとしていると、躊躇なくまた自販機に小銭を入れる。そうしてホットココアのボタンを押した。出てきたそれを私に差し出す。「いただけません」と受け取りを拒否したのだが、鶴丸さんは問答無用で私にそれを握らせた。

「間違えて買ったんだ。君がもらってくれないと無駄になる」
「……いや、バレバレの嘘を自信満々につかれても」
「ははは! まあいいから飲んでくれ」

 鶴丸さんはコーヒーを飲み始めると、一つ息を吐く。仕方なく「ありがとうございます」と言ってから缶を開ける。一口飲むと冷えた体が温まった。少しの沈黙が流れてから鶴丸さんがまたぽつぽつと話をはじめる。自分が小さいころにしていた遊びのこと。自分が好きだったアニメのこと。自分と仲の良い友人のこと。どれもこれも私にはちっとも関係のない話だ。普段の私だったら聞いているだけで時間が無駄だと思うような話ばかり。それなのに。鶴丸さんの喋りが上手いのか、聞いているのが楽しかった。寒いのは苦手なのだけれど、そんなことも忘れられるほど。やっぱり鶴丸さんはナンパ師なのかもしれない。喋りが上手いのを利用して女の子を引っかけているのかもしれない。そうだとしても、人の話を聞いてこんなに楽しいと思えたのは久しぶりで。ついつい相槌を打ってしまうのだ。ところどころ笑わせてくるのだから余計に楽しくて。思わずくすくす笑ってしまうと、鶴丸さんも笑った。

「一つ聞きたいんだが」
「なんですか」
「君の名前、聞いてもいいか?」
「……です」
「下の名前は?」
「個人情報なので」
「君はなかなかケチだな」
「それに鶴丸さん、女子高生引っかけるのは流石にリスク高いんじゃないですか」
「……えっ、君、高校生なのか?!」
「そうですよ。そろそろ卒業ですけど」
「こりゃ驚いた!」
「失礼ですね」

 鶴丸さんは目を丸くしたまま「すまん」と口だけ謝る。それが面白くて笑ってしまうと「いや、本当にすまん」とバツが悪そうに笑った。とっくに成人していると思っていたらしい。鶴丸さんは本当に驚いたようで何度も何度も「女子高生」と呟いては私をじっと見ていた。それを何度か繰り返したところで、はっとしてから眉間にしわを寄せた。

「高校生がこんな時間までバイトなんかして、親御さんが心配するだろう」
「……いえ、それはないので」
「心配しない親なんかいないさ。引き留めて悪かった、家まで送る」
「親はいないので」

 ぴしっと空気が固まったのが嫌でも分かる。鶴丸さんは立ち上がろうとしていた体を止めて、また目を丸くしている。しばらくそうして固まって、ようやく口を開いたかと思えば「すまん」と言う。それがやけにむかついて「いいえ」とだけ返して立ち上がる。飲み終わったココアの缶を自販機横にあるゴミ箱に捨てて、「じゃ、さようなら」と鶴丸さんに背を向けた。するとがたがたっと鶴丸さんが立ち上がった音がした。まずい、またついて来られる。急いでダッシュして公園から飛び出て狭い道に入る。土地勘のある人間しかこの道は知らないはず。ここで一気に撒いてしまおう。そう思ったのだが。腕を掴まれる。鶴丸さんは見た目に反して意外と足が速いようだ。ひょろひょろとした優男だから絶対に運動神経は悪いと思ったのに。とんだ計算違いだった。家まで送ると言われたらなんと断るのが一番いいのだろう。鶴丸さんはたぶん悪い人ではないんだと思う。そう思うのだけど、見ず知らずの人に家の場所を知られるのは流石に怖い。どうしよう。ぐるぐると考えていると、突然、ふわっといい匂いがした。視界の隅に濃い赤色のマフラー。鶴丸さんがさっきまでつけていたものだ。それが私の首に巻かれている。驚いて鶴丸さんを振り返ると、優しく微笑んでやっぱりまっすぐ私を見ていた。

「家まではついていかないから。怖がらせてごめんな」
「……いえ」
「ただ、またよかったら、今日みたいに話をしてくれないか」

 そう言って鶴丸さんは私の腕から手を離す。そして「じゃあな、まっすぐ帰れよ」と私の頭をわしゃわしゃ撫でる。私に背を向けるとひらひら手を振った。「あ、ちょ、マフラー、」と声をかけると先ほどの私と同じように突然走り始めた。「え! ちょっと!」と声をかけて私も走る。けれど、鶴丸さんはやっぱり想像以上に足が速くて、すぐ見失ってしまった。
 残された鶴丸さんのマフラー。咲き始めの花の匂いのような、ひんやりと冷たい雪のような、そんな静かな香り。それをかすかに感じてしまうと、なぜだか心がざわめく。人と話して楽しいと思ったのは久しぶりで。なんだか照れくさい。変なことを言う人だけど。鶴丸さんのまっすぐな瞳を思い出してしまうと、悔しいけれどまた会いたいなあなんて、思ってしまった。濃い赤色のマフラー。鶴丸さんによく似合っていたなあ。きゅうっと心臓が締め付けられるようなこの感覚を、人はなんと呼ぶのだろうか。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「よっ、今日も遅くまでお疲れさん」

 鶴丸さんは毎週木曜日、スーパーが閉店したあと裏口の前で私を待つようになった。このスーパーでのアルバイトは他の曜日にも入っているけれど鶴丸さんには教えていない。教えたらまるで「来てください」と言っているように思われそうだから。そんなの恥ずかしすぎるじゃないか。
 二回目に会ったときにマフラーを返そうと思ったのだけど、鶴丸さんはそれを受け取ってくれなかった。「君にやるよ」とまたくしゃくしゃ私の頭を撫でるのだから、なんだかちょっとむかついた。人から物をもらうなんて、久しぶりで。また照れくさくなったけどぐっと堪え、「どうも」とできるだけ素っ気なく返して、有難く使わせてもらっている。今日もまた、はじめて鶴丸さんと会った日と同じ公園で、二人並んでベンチに座っている。不思議な感覚だ。たった三十分のバイトの休憩時間を他人と過ごすのはとても無駄に思えるのに。バイト終わりの自由な時間、鶴丸さんと二人でいることは、なぜだかそう思わない。

「社会人って暇なんですか」
「木曜日だけは早めに終わらせてるんだ」
「ジョシコーセーと会うから早く帰りますって上司に言うんですか」
「そんなわけないだろう!」

 鶴丸さんはけらけら笑う。「君は本当に面白いなあ!」と笑う顔がとても年上の男の人に見えないほど、子どもっぽく無邪気に見える。その顔をちらりと見てからふいっと顔をそむける。鶴丸さんの顔は誰がどう見てもきれいなんだ。こんな美形の顔をじっと見ていたら照れるに決まってる。そう頭の中でぶつぶつ呟いていると、鶴丸さんが「そういえば」と話題を変えた。「君、近くのコンビニでもバイトしてるのか?」と思いがけない話題を振られて、思わず鶴丸さんの方に顔を向けてしまった。鶴丸さん曰く、親しい知人にだけ私の話をしたのだという。私の話をした数日後、その知人が鶴丸さんに「その女子高生の名前、か?」と言い当てたのだそうだ。その知人曰く鶴丸さんが話した女子高生とよく似ていたから一応聞いてみた、ということだったらしい。その知人はほぼ毎朝そのコンビニでその日の朝食やら昼食やらを買っていくらしく、常連客のようだった。店員が女子高生だと分かったのは、ある日珍しく遅刻してきたらしいその店員の姿を見たとき、自分の母校の制服を着ていたからだそうだ。隠しても無駄だろう。素直に「そうですけど」と返したら、鶴丸さんは笑ったまま眉を顰めるという高度なテクニックを見せた。

「その知人はほぼ毎日君がいると言っているぞ」
「ほぼ毎日そこでバイトしているので」
「朝だぞ」
「深夜から早朝のシフトなので」
「平日だぞ」
「平日ですけど」
「学校はどうした女子高生?!」
「ちゃんと行ってますけど、何か問題でも」
「……君なあ」

 頭を抱えられてしまった。鶴丸さんは深く長いため息をつきつつ、ちらりと横目で私を見る。そうして突然がばっと私の脇腹をつかむと「だからこんなに細いんだろ?! 倒れるぞそのうち!」と真剣な顔をした。突然腹をつままれて驚かない人間はいない。思わず鶴丸さんの手を叩いてしまう。「セクハラですよおじさん」と言うと鶴丸さんは青い顔をして「すまん! そういうあれじゃない!つい!」と顔の前で手を合わせてぺこぺこした。その様子があまりにも必死で面白かったけど、なんだか可哀想に見えてくる。「冗談です」と言うと一気に安心したらしく鶴丸さんはほっと息をついた。安心した表情も一瞬だけだった。すぐに怒ったような顔になると、「君なあ!」と片手で頭を押さえる。

「そこまでして何が欲しいんだ?」
「え」
「学生がアルバイトを二つも掛け持ちなんて……しかも深夜のシフトも入っているだと?」
「そうでもしないと生活ができないので」
「……生活? ああ、そうか、ご両親……」
「いや、そうじゃなく。学費は出してもらってますけど、生活費は自分で……すみません、変な話して」
「いや構わんが……ご両親、亡くなったわけじゃないのか」
「母と父が離婚して一人で暮らしてます」
「……どちらかについていかなかったのか」
「父が好きにしていいと言ったので」

 鶴丸さんはなんだか苦い顔をした。その顔がなんだかむかついたので、一気に全部話してやった。両親が娘にもお互いにも無関心だったこと。両親が離婚する前から家庭が崩壊していたこと。母の愚行、父の無愛、そして自分の冷めた感覚。父にお金を返したら縁を切ろうと思っていること。高校生活のこと、アルバイトの不満、何もかも。鶴丸さんは私の話を相槌も打たずに静かに聞いていた。
 どうしてこんな話を赤の他人にしているのか分からない。でも、なんだか、まるで「君のことが心配なんだ」とでも言いたげな苦い顔が、心の底からむかついたのだ。心配なんてされなくてもこうやってしっかり一人で生きていけるのに。むかついて、むかついて、むかついて。話し終わったころには、顔が涙でぐちゃぐちゃになっていた。恥ずかしいやつ。頭でぽつんと呟いたら少し笑えた。話し終えて黙っていると、鶴丸さんは顎に手を当てて何かを考えている。呆れただろう。鶴丸さんが夢に見ているような美しい女性と全く違う私を、鶴丸さんはばかみたいに構っていたのだ。自分がどれだけ時間を無駄にしたのか考えて虚しくなればいい。

「あそこのコンビニの時給、そんなに高くなかったよな」
「……なんですか、急に」
「あんなものよりもっと高い時給のバイト、しないか?」
「……何言ってるんですか。援助交際ならしませんよ」
「恐ろしい単語を出さないでくれ、そういうんじゃない」
「じゃあなんですか」
「週に一度、俺に飯を作ってくれないか」
「…………援助交際じゃないですか」
「いや、ちがうちがう! 本当に飯を作ってくれるだけでいいんだ。そうだなあ……一回五万でどうだ?」
「やっぱり援助交際じゃないですか」
「だからちがうと言っているだろうが!」

 鶴丸さんはけらけらと笑って私の頭をわしゃわしゃ撫でる。何がしたいのかよく分からない。鶴丸さんにとって私は赤の他人なのに。ご飯を作るだけで五万円? そんな良い話があってたまるか。どうせ部屋に引き入れた瞬間に内容が変わるにちがいない。やっぱりただのナンパ、もしくは体目当ての人だったんだ。そう思ったら途端に気が落ち込んでしまう。人と話すのが楽しいなんて久しぶりだった。どうでもいい話をして、適当な相槌にも嬉しそうな顔をしてくれて。バイト終わりのささやかな楽しみなんて思ったりして。浮かれていた自分がばかみたいだ。みたい、というかばかなんだ。

「何度も言うがそういう誘いじゃないぞ」
「……どこがですか。どうせ部屋に入れた瞬間にそういうことするつもりなんでしょ」
「変な妄想をするな!」
「援助交際相手に選ぶならもっとかわいい子にすればいいのに」
「いや、君はかわいいと思うぞ。正直かなり好みだ」
「やっぱり援助交際じゃないですか」
「あと何回このくだりを繰り返せば気が済むんだ?」

 苦笑い。鶴丸さんのような美形は苦笑いですらきれいなんだから、うっかり見惚れてしまう。その造形はなんだか、もう、人間ですらないみたいにきれいなのだ。神様みたいな。そんな明るささえ覚える。陽だまりのように優しくて、綿のように柔らかくて。けど、ときたまにどこかに影が落ちているようにも見えて、そこがとても鋭くきらりと刃のように煌く。ひんやりとした冷たい刃物を押し当てられているような感覚。その煌きを見つけるたびに鶴丸さんがなお遠い存在に思えてならない。もしかしてお化けだったりして。
 そんなことを思っていると、鶴丸さんは「仕方ない」と呟く。ごそごそと鞄の中に手を入れて何かを探している。もしものために身構えていると、鶴丸さんが鞄から手を抜く。握られていたのは、黒い長財布だった。また自販機で飲み物でも買おうと言い出すのだろうか。鶴丸さんの手先を眺めていると長財布を開けてお札を何枚か引き抜く。何をしているんだろう。ぼんやりそれを眺めていた私の手をいきなり掴むと、鶴丸さんはそのお札を強引に私に握らせた。驚いて固まっていると鶴丸さんはすぐに財布を鞄にしまう。鞄のチャックをじゃっと勢いよく閉めた。そして、素早く立ち上がり満面の笑みを浮かべて「じゃあまたな!」と言った。次の瞬間には目にも止まらぬ速さで走り去ってしまった。残されたのは驚きのあまり未だに固まっている私と、握らされた福沢諭吉数人だけだった。ようやく体がいうことを利き始め、恐る恐る握らされた福沢諭吉を見る。手を広げて数えてみると、この手に収まっているのは福沢諭吉五人。つまり五万円が握らされていた。鶴丸さんはどういうつもりでこれを私に握らせたのか。どんなに考えても分からなくて腹が立った。けれど、まさかこれをここに放置していくわけにもいかない。仕方なく自分の財布を、取りだそうと思ったのだけど。なんだか自分の財布に入れるのはいけない気がした。五万円を二つ折りにして持っていたハンカチに包む。リュックの中にある内ポケットにしまって、ため息をつきながらリュックのチャックをしめた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 その次の日の朝。鶴丸さんに握らされた五万円は封筒に入れ直してリュックに入れた。また木曜日に返そう。ついでに文句の一つや二つ言わなくては気が済まない。そう思って学生鞄を持って家を出た。いつものように鍵をしっかり閉めてアパートの廊下を歩く。階段を下りてまっすぐ高校までの道を歩いていく。木曜日、鶴丸さんになんと文句を言ってやろうか。まずそもそも一度警察を呼ばれかけたくせに私に構ってくるなんて頭がおかしい。しかも夢の中で会った女の人に似ていたからって理由も頭がおかしいとしか言えない。毎週毎週ストーカーみたいに声をかけてきて。まるで親か友人か恋人のように心配してきて。挙句の果てにご飯を作ったらお金をあげるなんて下手な誘いをしてきて。最終的に勝手にお金を握らせてくるなんて。どうかしている。どうかしているよ、鶴丸さん。黙っていれば顔は美形なんだからきれいな女の人なんてほいほいついてくるだろうに。どうして私に目を付けたのか。皆目見当もつかない。……夢の中の女の人に似ていたから、と鶴丸さんは言っていたけれど。そんなの理由として認めない。
 ぶつぶつと頭の中で鶴丸さんに言う文句を考えつつ歩いていると、突然右側から「あ」と男の声がした。十字路の真ん中で思わず足を止める。右に視線を向けると、背の高い男の人が私を見てなんだか嬉しそうな顔をしている。その人も鶴丸さんみたいに美形だと一目で分かる顔立ちだ。鶴丸さんはきれいという感じだけど、その人は穏やかというか優しそうなお兄さんといった感じだろうか。こちらをじっと見ているので一体何事かと固まってしまう。その人はこちらにゆっくり歩み寄りながら「君だろう、鶴丸の」と声をかけてきた。

「いつもコンビニで世話になっている」
「あ、鶴丸さんの……」
「鶯丸という。すまない、つい声をかけてしまった」

 鶯丸さんは静かに笑うと「そうだ」とポケットをごそごそと探る。そうして取り出したのは抹茶味のチョコレート菓子だった。最近出たばかりの新作のお菓子だ。私に差し出しながら「勝手に鶴丸にアルバイトのことを教えて悪かったな」と言う。鶴丸さんに知られたのはちょっと予想外だったけど、そのことについて鶯丸さんに非は一切ない。お菓子を受け取らずに「いえ、大丈夫です」と苦笑いを返す。鶯丸さんは無表情のままにぐいぐいお菓子の箱を私に押し付け「ならよかった」と笑った。この人、見た目に反して結構強引だな。仕方なくお菓子の箱を受け取ると鶯丸さんは満足そうな顔をした。変わった人。強引な人の友達は強引な人なのかもしれない。そう思いつつ「ありがとうございます」と頭を下げる。鶯丸さんは穏やかに笑いつつ、いつの間にか取り出していた水筒のお茶を飲んだ。

「今から学校か」
「あ、はい……ちょっと早いですけど」
「学生は大変だな」
「いや……まあそれなりに……社会人よりは全然、」
「ところで君は神を信じるか?」
「はい?!」

 鶯丸さんは私のことなど無視して民家の塀にもたれる。一つゆっくりした呼吸をしてから私を見つめた瞳が、ぎらりと光ったように見えたのは、なぜだろうか。淡々とした、けれどどこか優しい声で鶯丸さんは話を続ける。
 神とは人を繋ぎ、結び、ときには切り離すものだと鶯丸さんは言った。人を創るのも消すのも神の成せる業だと。そういう存在がいてこそ人間というものが存在でき、繋がり、結び、憎しみ合い、愛し合う。人が人と何かしらの縁を繋ぐ背景には神が必ずいる。鶯丸さんが言うに、その神という存在にも多く種類があるのだという。たとえば、物に宿る神。付喪神と呼ばれるそれを鶯丸さんは心から信じているようだった。

「付喪神というのは厄介なものだ。人に愛され求められ宿った魂だが、物はいつか飽きられる。人に愛されなくなった神様はどうするのだろうなあ」
「……あの、一体何の話なんでしょうか」
「けれども、中にはずっと人に愛される物もある」
「話聞いてます?」
「大切にされて、ずっと同じ人間の手元に置かれる。けれど、人の命は永遠ではない。ずっと大切にしてくれた人間を亡くしたとき、付喪神は何を願うのだろうな」

 遠くを見つめる。今日はいい天気だ。真っ白な雲が少しだけ空に浮かんでいるけれど、それがより青い空を引き立てているように見える。青というよりも鮮やかな水色をしている空はひどく高く見えてしまう。鶯丸さんはそれがまるですぐ近くにあるかのように微笑んでいる。不思議な人だ。けれど、悪い人ではない。そんな気がした。

「君は、神様が恋をすると思うか?」

 にこり。鶯丸さんは持っていた水筒を鞄にしまいながらそう問いかけてきた。そうして腕時計をちらりと見ると「しまった」と苦笑いを漏らす。どうやら会社に遅刻してしまっているらしい。もっと焦るのがふつうだろうに、鶯丸さんはまるでどうでもいいという感じですぐ腕時計から視線をそらした。私の答えを待っている。それだけは分かるのだけど、そんな壮大な話を突然されても、うまく答えられない。神様がどうとか、付喪神がどうとか。そんなことすらよく分からないままに「神様が恋をするか」なんて。答えられるわけがなかった。答えをなんとか捻り出そうとしていると鶯丸さんが突然お腹を抱えて笑い始める。「すまない、そんなに真剣になってくれるとは思わなかった」と呟くと、鶴丸さんと同じように私の頭をくしゃくしゃ撫でた。

「そうだ、君に一つ良いことを教えておこう」
「なんですか」
「困ったときは福沢諭吉をよく見ると良い」
「……はい?」
「それじゃあな。健闘を祈る」

 え、あの、と声をかける暇もないままに鶯丸さんはすたすたと早歩きで去ってしまった。引き留めようにも角をすぐに曲がっていってしまって、すぐに姿を見失った。鶴丸さんといい鶯丸さんといい、見た目とちがって行動が素早いのがなんだか違和感でしかない。神様の話やら諸々と意味の分からない話を聞かされた頭は混乱しきっているが、もう鶯丸さんはいない。考えても仕方ないので止めていた足を動かす。学校へ向けた足を進めながら、一つため息が漏れていった。一歩一歩足を進める。木曜日、鶴丸さんになんて言ってやろうか。それを再び考えながら。
 学校、アルバイト、学校、アルバイト。そんな毎日を繰り返していくうち、どこか自分が消えて行っているような感覚に陥っていった。誰とも深く関わらず、親とは金だけで繋がり、自分も金だけで人と繋がっている。そんな冷めきった日常を過ごしているのは私の望みであり、自分が招いたことだとは分かっている。それが一番楽だし、それが一番良いと思っていた。そんな日常に突然、現れたのが鶴丸さんだった。まるで沈んでいくこの体を引き上げてくれたような、そんな感覚があった。自分で楽になろうと水底に沈めて軽くなっていたつもりの体が、突然陸に上げられた。とんでもなく自分の体が重く感じたし、とんでもなく生きづらいと思った。けれど、それ以上に、今までずっと感じていた息苦しさが消えていったように感じた。生きるって、重いししんどいけど、死んでるときの息苦しさは、ないんだなあ。そんな風に思ってしまった。それくらい、私は、鶴丸さんと話すのが楽しかった。なぜだかよく分からないけれど。だから、ちょっとショックだったんだ。鶴丸さんがお金で私と繋がろうとしてきたことが。お金なんかいらなかったのだ。お金なんかもらわなくても、「ご飯を作りに来てくれ」とさえ言ってくれれば、私はそれでよかったのに。五万円なんか渡されなくても私は、鶴丸さんとお話できれえばそれで、よかったのに。だから、文句を言ってやるんだ。そうじゃないと気が済まないんだ。……私、そんなに傷付いていたんだ。そんなことにも気付いてしまって、余計に鶴丸さんに腹が立った。
 いらいらしながらようやく木曜日を迎える。いつもより手際よくレジ作業に品出しをする私を社員さんが褒めてくれた。パートさんたちもいつもよりなんだか優しくしてくれて、ちょっとだけ照れくさくなったけど根底にはいらいらが残っている。閉店を迎えてすぐに着替えを済ませ、ロッカーからいつものリュックを取り出す。中にはちゃんと一週間前の五万円が入っている。これをすぐに突き返してがーっと文句を言ってやる。そう意気込みながら大きく深呼吸をする。「お疲れさまでした!」といつもより大きな声で挨拶をしてから裏口へ向かう。いつもより強めにドアノブを握る。そして、勢いよくドアを開けた。
 冷たい風。もう本格的に冬が来ている。今年は雪が降る可能性が高いとニュースで言っていたので、もうすでに真冬かと思うほどに風が冷たい。吹いてきた風に揺られて前髪がふわふわと動く。濃い赤色のマフラーも風になびいて、何かを探すように動いている。鶴丸さんは、いなかった。毎週木曜日は欠かさずここで私を待ってくれていた。ドアが開いたら「よっ」とか「お疲れさん」とか、明るく声をかけてくれた。鶴丸さんと会うようになってからはじめてだった。鶴丸さんがここで待っていないのは。仕事で忙しかったんだろうか。きっと来られない理由があったんだろう。むしゃくしゃした気持ちをぐっと押し殺して裏口のドアを閉める。来週。来週全部一気に吐き出せばいい。そう思ってまっすぐ家に帰った。
 それから毎日、鶴丸さんへの文句は山ほど積もっていったが、鶴丸さんは来なかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 鶴丸さんが来なくなってもうどれくらい経っただろうか。鶴丸さんとはじめて会ったその日からカレンダーを二枚めくった。肌寒かった季節は雪が降る真冬になり、街中はコートにマフラー、手袋をしている人ばかりだ。積もってはいないけれど、雪が降る日が増えてきた。そんな窓の外をぼんやり見つめつつ、のそのそと携帯電話を手に取る。一週間ほど、アルバイトを休んでいる。コンビニもスーパーも。体調不良だと話したら何の疑いもなく休ませてくれた。それどころかコンビニの人たちもスーパーの人たちも、心配そうに何度も電話をかけてきてくれた。とくにスーパーの方なんかはパートのおばちゃんたちが代わる代わる話をするのでおかしくて笑ってしまったほどだ。ああ、私、この人たちとちゃんと繋がれていたんだなあ。そんなことをうっかり思ってしまうほど、それが嬉しかった。
 受験を控えているというのに学校すら休みがちになっている。この一週間のうちに三度も休んだ。担任の教師からは電話で「受験もあるし……」と言われたが、体調が悪いのだから仕方ないじゃないか。適当に理由をつけて電話を切り、今に至る。今の電話も担任の教師からだった。自慢ではないけど成績はそこそこいい。担任の教師から期待されているのは分かっている。それが、ちょっと鬱陶しい。
 鶴丸さんの声をもう忘れてしまいそうな自分が、死ぬほど嫌いだ。なんだ、実はそこまで鶴丸さんと話すの楽しいと思ってなかったの? そう思うほど。その場で浮かれてなんだか救われた気になって。子どもみたい。子どもなんだけど。体が重たい。沈んでいった私を勝手に地上に引き上げたくせに、思い通りにならなかったらぽいって捨てるんだ。鶴丸さん、自分勝手な人だなあ。そう思いつつ携帯電話を床に投げる。ごとん、と嫌な音がしたけどそのあとは静かな空間がまた襲い掛かってくる。一人で部屋にいることを静かだと思ったことはなかった。それが普通だし、それが楽だった。それなのに。今、どうしてこんなにも静かなんだろう。
 やっぱり鶴丸さんのせいじゃん。そう思ったらいらいらしてきた。がばっと起き上がって枕を手に取る。それを思いっきり壁に投げつけて「もう!」と大きな声を出す。応えてくれる人は誰もいない。それが余計に腹立たしくて。むかむかした気持ちを抱えながらいつもバイトに持って行くリュックを手に取る。中から封筒に入ったままの五万円を取り出して、それも壁に投げつける。早く返させろよ! そう思いながら。鶴丸さん、どうして急に来なくなったんだろう。考えても分からないそれに困ってしまう。私、何か気に障ることを言ったのだろうか。年上の人に失礼なことを言い過ぎたのだろうか。いろいろいらいらしながら考えて考えて、頭を抱えてしまう。気持ち悪い。悩みすぎて吐き気がする。どうしたらいいんだろう。信じているわけじゃないけど、こういうとき相談に乗ってくれる神様がいればいいのに。鶯丸さんの顔を思い出して余計にげんなりした瞬間だった。

「困ったときは福沢諭吉をよく見ると良い」

 鶯丸さんが別れ際に言った言葉を思い出す。全く意味が分からなかったけれど、どうすればいいか右も左も分からない今、鶴丸さんと関わりのある彼の言葉を信じてみるしかない。とりあえず携帯電話を拾う。そうして「福沢諭吉」とネットで検索をかける。日本の偉人でも特に名前が知られている人だし、たくさんのページがヒットする。蘭学者で著述家で、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾大学も関連項目としてたくさん出てくる。『学問のすゝめ』は学校で誰もが習う著書だろう。私が一番印象に残っているのは、居合の達人でもあったが、人を傷つけるために身につけたものではなかったと先生が熱弁していたことだろうか。ここまで福沢諭吉のお勉強をして正気に戻る。これで一体何が解決するというのか。鶯丸さん、適当なことを言ったな。一度しか話したことのない人を憎く思いつつ思いっきりため息をつく。携帯をベッドの上に置いてまたため息。五万円が入ったままの封筒を見下ろして、また、大きなため息。

「…………あ」

 はっとした。封筒の中に入っている五万円を取り出して、じっと見る。福沢諭吉。鶴丸さんが私に残していったものはこの福沢諭吉と、最近めっきり使っていない濃い赤色のマフラーだけ。この福沢諭吉は渡されたときに枚数を数えた以外触らずじまいだった。枚数だって指先で札を適当に数えただけだ。そのまま二つ折りにして一旦ハンカチに包んだあと、家に帰って封筒に入れ直しただけ。恐る恐る一枚一枚床に並べていくと、残り二枚のところで、小さな紙がひらりと落ちた。映画の半券くらいの大きさの紙。真っ白なそれをゆっくり拾う。そうして裏面を見ると、黒色のボールペンで文字が書かれていた。住所だ。部屋番号も書いてある。その横には謎の数字も書かれている。この大都会の一等地にあるマンションらしいその住所は、恐らく、というか確実に鶴丸さんの自宅にちがいない。さっきベッドに置いた携帯をまた手に取って、地図アプリを開く。紙切れに書かれた住所を入力したら思った通り立派なマンションの画像が目に飛び込んできた。突然五万円でご飯を作らないかと誘ってきたり、突然五万円を押し付けて消えたり、こんな立派なマンションに住んでいたり。鶴丸さんって何者? 今更だけどそんな疑問が頭に浮かんだ。
 気付いたらリュックを引っつかんで、部屋着のまま外に飛び出ていた。五万円はまた封筒に入れてしっかりリュックに入れた。コートなんか羽織る余裕はなかった。なのに鶴丸さんがくれたマフラーはしっかり握りしめているのだから、どうかしている。この住所ならここからバスで十五分くらいだ。何も考えないままに出てきてしまったからバスの時間なんか見ていない。アパートを出てすぐにあるバス停で時間を確認すると、運よくあと数分でバスが来るようだ。財布持ってたっけ?! 急いでリュックの中身を確認しつつ、握っていたマフラーを首に巻く。しっかり中に入っていた財布に安心し、久しぶりに巻いた鶴丸さんのにおいのするマフラーにも安心してしまった。ばかじゃないの。ぽつりと頭の中で呟いて、またいらいらしてしまった。いらいらいしているうちにやってきたバスに乗って、一番後ろの席に座る。まだ帰宅ラッシュではないらしく空いている。ちらほら学生の姿はあるがサラリーマンやOLさんの姿はない。今行ってもまだ帰っていないだろう。凍え死んでも、待ってやる。そう思いつつリュックの中に入っている五万円を思い出してまたいらいらが募る。思わず舌打ちがもれると近くに座っていた男子中学生らしき男の子がびくっと肩を震わせていた。
 目的のバス停に着くと立派なマンションがもうすぐ目の前に見えていた。買い物帰りの奥様方がちらほら辺りを歩いていて、そのマンションに入っていくのを遠くからこそこそを見ている。どう見ても不審者なのでできるだけ早くこの状況を脱したい。鶴丸さんの住んでいるマンションは、オートロック完備になっているようで住民しか自由に出入りできない仕様になっているらしい。困った。鶴丸さんが帰っているのかすら分からないし、このままここで待っているのも……。そう思いつつ物陰に隠れてため息をつく。住所のメモを取り出してじっと見る。部屋番号は3-805号室と書いてある。一体何階なのかすら分からないんですけど。そう思いつつ頭を抱えてしまう。その横に書いてある五桁の数字もよく意味が分からない。どうしたものか。マンションはかなり高層階まであるらしく、恐らく四十階くらいまではありそうだ。よく分からないけれど高層マンションと言われるものなのだろう。鶴丸さんはお金持ちなのだろうか。見た目には似合っているけれど、どうも本人の性格を見るとそんな風には見えない。そんな失礼なことを考えつつ、またこっそりマンションの前を覗き見る。すると、帰ってきたらしい奥様が入り口のタッチパネルのようなものを操作している最中だった。五回画面をタッチしたのを見て、はっとした。このメモに書かれた部屋番号の次の五桁。これ、あそこに打ち込むものなのでは? もし間違っていたら管理人さんとかが出てきてしまうんだろうか。ぐるぐると不安が渦巻いたが、ここまで来たんだ、やるしかない。奥様が一人マンションの中に入っていったあとに、そそくさとそのタッチパネルに近付く。こんなものを操作したことはなかったが、意外と分かりやすい仕様になっていて安心した。「open」と「knock」と書かれたボタンが浮かび上がったので迷わず「open」の方をタッチする。すると思った通り五桁のパスワードを要求された。恐る恐る書かれていた数字をタッチし、最後に「OK」のボタンをタッチする。すると、私の心配など知らんふりしてドアが当然のように静かに開いた。
 思わずほっと息をつきつつ急いで中に入る。エントランスは明るくてきれいだったが、あまりの静かさに少し不安になってしまう。またメモを見て部屋番号をもう一度確認する。3-805号室。これ、本当何階なの? 私が住んでいるアパートは二階しかない。私の部屋番号は二階の三つ目の部屋なので簡単に203号室となっている。その理論で言ったら八階の五つ目の部屋、なのだろうけど、この「3-」は一体何なの? 普通の人ならこんなことすぐに分かるのだろうか。自分の世間知らずさに落ち込みつつ、顔を上げる。マンションのことが簡単に書かれた見取り図。目に飛び込んできたそれをぼんやりと眺める。このマンションは四十五階まであるらしい。一階は管理室やら何やらとなっているようで、二階から四十二階までに人が住んでいるようだ。それより上は住民だけが使える施設があるということらしい。見取り図を眺めていて、ようやく気付いた。この「3-」って、三十階ってことか! つまり三十八階の五つ目の部屋?!よ うやく気付いたそれに達成感よりも驚いてしまった。鶴丸さん、本当に何者なんだろうか。高層マンションは階数が上の方が値段が高いと聞いたことがある。四十二階あるうちの三十八階って……。驚きつつもずっとエントランスにいるのは怪しいだろうから、エレベーターホールへ向かう。ボタンを押したらすぐにエレベーターがやってきたので乗り込み、恐る恐る三十八のボタンを押した。ゆっくり上昇するエレベーターの中で、鶴丸さんはもういるだろうかとか、会ったらなんと言おうかとか、いろんなことを考えてしまう。ここに到着するまではいらいらしていた気持ちが、なんというか、そわそわした気持ちに変わっている。
 ぽん、と軽やかな音がしてドアが開く。三十八階に到着してしまった。恐る恐る降りるとエレベーターのドアが閉まり、逃げ道がなくなってしまう。そっと廊下を覗き込むとしん、とした空間が広がっていて心細くなる。そそくさと目の前のドアに近付いてみると、有難いことにここには部屋番号が書かれているらしい。とはいっても「1」とか「2」とか、それだけなのだけど。恐らく鶴丸さんの部屋は「5」のところだ。そっと廊下を歩いて一つ一つドアの前を静かに通り過ぎる。「1」。「2」。「3」。「4」。そして、「5」。ぴたりと足を止めて、ふーっと息を吐く。ばくばくしている心臓を必死に抑えつつ、インターホンに指を伸ばす。ゆっくり押したそれにより、部屋の中に音が響いたのがかすかに聞こえた。どきどきしながらドアの前に立っていたが、静まり返ったままだ。やっぱりまだ帰ってきていない。どきどきしていた気持ちは落ち着いたが、これからどうしようかと焦ってしまう。いつ帰ってくるかも分からないし連絡先も知らない。もし同じ階の住民の人に不思議がられたら「鍵を忘れた」とでも誤魔化せばいいだろうけど。うーん、と悩んでいると、エレベーターが開く音がした。びくっと肩を震わせて固まってしまう。早速適当な誤魔化しをするときがきたのだろうか。固まっているとこつこつと靴音が聞こえてきた。恐る恐るそちらの方を見ると、スーツを着た黒髪のお兄さんだった。

「あれ、君、鶴丸さんに用事?」

 声をかけられた! しかも鶴丸さんの知り合い! 一番最悪のパターンだ。これじゃあ「鍵を忘れた」なんて言っても信じてもらえない確率が高い。どうしようか悩んでいると、そのスーツの男の後ろからひょっこり、知っている顔が出てきた。私を見つけるなり、ふわりと笑って「やあ」と近寄ってくる。

「福沢諭吉の謎は解けたようだな」
「……うぐいすまるさあん」
「えっ泣い……? 鶯丸さんこの子誰なの? えっえっ、ごめんね、泣かないで、お菓子食べるかい?」
「落ち着け光忠」

 あまりの安堵感にぼろぼろ流れ続ける涙には自分でも驚いてしまった。こんな人間らしいものがちゃんと残っていたんだなあ、なんて。ぐずぐず鼻をすすっていると鶯丸さんが鞄からティッシュを出して手渡してくれた。受け取って鼻をかんでいると、「なんでそんな薄着なんだ」と苦笑いして上着まで貸してくれた。
 黒髪のお兄さんは長船光忠さんという人で、鶴丸さんのお隣さんなのだそうだ。鶯丸さんとは大学時代の先輩後輩で、よくこうして遊びに来ているのだという。鶴丸さんも光忠さん(長船さんと呼んだら嫌がられたので光忠さんと呼ぶことになった)とはお隣さんということもあって仲が良いのだという。

「鶴丸ならまだ残業中だぞ。俺から連絡してやろう」
「えっいや、いいです、別に」
「いいですって言ってもそこでずっと待つわけにもいかないだろう? それとも退散するか?」
「まあ……はい、じゃあまた別の日に来ます」
「いや、待ってろ」
「どっちなんですか!」
「いい加減、俺もあいつの話に付き合うのに飽きてきてるんだ」
「あの、鶯丸さん? 僕には何も説明してくれないの?」
「彼女は鶴丸の想い人だ」
「へえ、そうなんだ…………って、え?!」
「おもいびと…………えっ?!」
「もしもし、鶴丸か。単刀直入に言うが今すぐ残業を切り上げて帰ってこい」

 鶯丸さんは淡々とした口調で鶴丸さんを二三罵倒すると「いいから帰ってこい意気地なし」と言って問答無用で電話を切った。淡々と人を罵倒していたとは思えないほど穏やかな笑みを浮かべて私を見る。「最近コンビニにもいないし、心配していたぞ」と言われて自分がバイトを休んでいたことを思い出す。心配させてしまったようなので一応「すみません」と頭を下げると、鶯丸さんは「元気で何よりだ」と私の頭を撫でた。
 立ち話もなんだから上がるか、とさも自分の部屋に誘うような口ぶりで光忠さんの部屋を指さされたが、さすがにはじめて会う人の家に上がるのはいかがなものか。そう思って断る。鶴丸さんに連絡をしてもらったのだし、玄関で待つと言ったら光忠さんが「いやいや!」と驚愕の顔をした。

「遠慮しないで良かったら上がってよ。お菓子あるよ?」
「いや、あの、私お菓子でつられるような子どもではないです」
「でもさすがに廊下で一人ぼっちは……あ!」

 光忠さんは物凄くいい顔をして「良いこと思い出した」と言って自分の鞄からカードキーを取り出す。そうして自分の部屋の鍵を開けてから「ちょっと待ってね」と言って部屋に入っていくと、玄関でごそごそ何かを探しているらしい。割と探し物はすぐ見つかったらしく、玄関から顔だけひょっこり出してにっこり笑った。「これ、なーんだ」と人懐こい顔を見せたその手にはさっきのと同じカードキー。スペアキーか何かなのだろう。こういうマンションのことはよく分からないのでハテナを飛ばしていると、鶯丸さんが「良いものじゃないか」と笑った。よく分からないままぼけっと立っていると光忠さんが私の前に歩み寄る。そして出してきたカードキーを私に差し出して「人生何事も経験だよね」と意味不明なことを言いながら、私にそれを握らせる。ぐいぐい私の背中を押して鶴丸さんの部屋のドアの前に立たせる。すると突然「ここに細長い穴があるだろう?」と楽しそうに言う。たしかにあるのでうんうん頷く。光忠さんは私に持たせたカードを指さして「ここに通してごらん」と笑う。言われた通り細長い穴に通すと、赤く光っていたランプが緑色に光り、何やらガチャンという音がした。

「開けたのは僕じゃないからね」
「え」
「俺でもないな」
「え?」
「鶴丸のうちに茶はあっただろうか」
「なかったら僕の部屋から取ってくるよ」
「え?!」

 愉快そうに笑いながら鶯丸さんがドアを開ける。鶴丸さんの部屋のドアはいとも簡単に開き、薄暗い玄関が出迎えてくれた。混乱しつつ鶯丸さんにぐいぐい体を押されるので恐る恐る部屋に踏み入る。光忠さんまで楽しそうに「お邪魔します!」と言って部屋に入ると、靴を脱いでまるで自分の部屋のように中へずんずん入っていった。唖然としている私も鶯丸さんに言われて靴を脱ぎ部屋に上がる。薄暗い廊下を抜けてリビングに入ると、光忠さんが先ほどのカードキーのことを話し始めた。私に握らせたのは鶴丸さんの部屋のスペアキーなのだという。鶴丸さんは稀に部屋にこもって連絡が取れなくなることがあったらしく、「そのときはこれを使って叩き起こしてくれ」と頼まれていたのだそうだ。渡されてから片手で数えられるくらいしか使ったことがないらしく、今日までほとんど忘れていたとのことだった。騙された! そう思いつつ確かに開けたのは私だ。ちょっと罪悪感を覚えつつも、こっそり鶴丸さんの部屋を見渡す。驚くほど物がない。白を基調とした家具は鶴丸さんらしいけれど、あんなに騒がしい人なのに部屋がここまで静かだとなんだか違和感を覚えてしまう。無駄なものは何一つないといった空間はちょっと落ち着かない。あんなに賑やかな性格なのに、本当に意外だ。棚も机もソファも、カーペットすら白色だ。白色が好きなのだろうか。私が部屋をこっそり見回している間に光忠さんは迷わずキッチンの方へ向かっていき、鶯丸さんはソファに座ってテレビをつける。恐る恐る私もソファに腰掛けると鶯丸さんは「鶴丸という男は」と突然口を開く。

「物静かなやつだと思っていたよ」
「……え、どこがですか」
「君にとってはそうかもしれんな」
「物凄くうるさい人じゃないですか」
「君に出会ってからはな」
「え」
「君に出会う前、あいつは本当に口数の少ない男だったよ」

 光忠さんもそれに頷く。鶯丸さんが言うに、鶴丸さんは本当に話をしない人だったのだという。鶯丸さんは今は会社を辞めているのだけど、鶴丸さんとは同期だったのだと笑った。新入社員として会社に入社した当時、鶴丸さんは他の人と全く話さず孤立していたらしい。見た目がああなので女性陣が寄っていったらしいのだけど、ほとんど言葉を交わさないので次第に遠ざかっていった。鶯丸さんでさえそれなりに会話できるようになるまで数年かかったと苦笑いして言った。それでも業績が良かったし、仕事もかなりしっかりこなしていたから本当の意味で孤立することはなかった。でも、一切誰とも口を利かずに帰っていく日々だったそうだ。
 そんな鶴丸さんが変わったのは、ちょうど私とはじめて会ったくらいのときだったそうだ。人が変わったようにころころ表情を変えるようになり、うるさいほど喋るようになった。会社の知り合いも鶯丸さんに「鶴丸さん、変なんだよ」と最初は驚いていたそうだ。周囲は驚いたが次第に慣れていき、鶴丸さんは今のうるさいけどできる人、というポジションにすっぽり違和感なく収まったのだという。恐らくそれが鶴丸さんの本来の姿だったのだろう。鶯丸さんはそう呟いた。

「君が鶴丸の何かを結んだんだろうな」

 まるで、神様のように。鶯丸さんはそう微笑んだ。光忠さんが淹れたお茶を受け取って一口飲むと、また「ふふ」と小さく穏やかに笑うのだった。光忠さんもうんうん頷いてお菓子をつまむ。よく分からないまま私もお茶を飲むと、なんだか心がようやく落ち着いた気がした。
 落ち着いた瞬間、はっ、と思い出す。鶯丸さんが言った「想い人」という言葉。嫌なものを思い出してしまった。なんだか急に心臓がうるさくなってくる。あんなの鶯丸さんが適当に言っただけだ。気にすることじゃない。気にすることじゃないのに、どうしてこんなにも気になるんだろう。忘れよう忘れようとすると余計に頭の中で膨らんでいく。別に鶴丸さんのことなんか好きじゃない。今日だって会いたくて来たわけじゃないのだ。あの五万円を返すのと、諸々の文句を言いに来ただけ。それなのに、早く帰ってこないかなあとか、なんでちょっとそわそわしているんだろう。それがむかついてたまらない。
 それから一時間くらいだろうか、三人で何でもない話をした。大学時代の鶯丸さんの武勇伝とか、光忠さんがいかに女性にモテるかとか。鶴丸さんがここ最近会社で起こした問題の話とか。どこか緊張してそわそわしていたらしい私を気遣ってくれたのだろう。やっぱり大人の人ってすごいなあ、なんて思いつつ話を聞いていた。そうして鶴丸さんがやらかした問題の七つ目を鶯丸さんが話し始めたときだった。玄関の方からがちゃがちゃっと慌ただしい音がした。そうしてドアが開いた音がして、「おい! 勝手に上がるな鶯丸!というかどうやって、」と言いながら鶴丸さんがリビングに入ってくる。言葉は最後まで続かなかった。ぽかん、とした顔をして、鶴丸さんは見事にフリーズしていた。それを見た鶯丸さんと光忠さんは爆笑して、ばしばしソファーやら床やらを叩いたり踏みつける。鶴丸さんはそれでもなお固まったまま、ずるりと肩から鞄が落ちていくのも構わずこちらを見続けている。たぶん、原因は私なのだろう。いや、自分から住所と部屋番号、オートロックの解除キーまで渡したくせに。そう思いつつ一応「お邪魔してます」と声をかけたら、鶴丸さんはまるでリンゴ飴みたいに顔を赤くさせた。

「じゃあ邪魔者は退散するとしよう」
「そうだね、あとは若いお二人で」
「いや、光忠、鶴丸よりお前の方が若いぞ」
「あっそうだったね、こりゃうっかり!」
「ははは」
「ははは」
「君たち……あとで覚えてろよ……」
「お礼は辻本屋の抹茶カステラでいいぞ」※予約いっぱいで三ヶ月待ち
「僕はマ・ピリエーヌのガトーショコラでいいよ」※予約いっぱいで三ヶ月待ち
「言ったな?! 三ヶ月待てよ?! 注文するからな?! 忘れるなよ?!」
「あと」
「なんだ!」
「女子高生に手を出したとなると、さすがに俺も庇いきれんから程々にな」
「黙って出てってくれ!!」
「えっ待って、さんって女子高生なの? 鶴丸さん捕まらない? 大丈夫?」
「いいから出てけお前ら!!!」

 どかどかとリビングの中に入ってきたかと思えば、鶴丸さんは鶯丸さんと光忠さんの腕をがしっと掴む。その細腕からは想像もできない強引さで二人を引っ張ってリビングから出て行った。廊下でぎゃーぎゃーと何かを言っているが鶯丸さんと光忠さんの声は聞こえてこなかったので一人で怒鳴り散らしているだけだろう。ぽつんと残された私は、今まであんなに子どもっぽく怒っている鶴丸さんを見たことがなくて、ちょっと驚いていた。ああいう顔もするんだな、あの人。そんなことを呑気に考えていると勢いよくドアが閉まった。二人は閉め出されてしまったらしい。ドアが閉まった音のあと、息を吐く音がしてから静かな足音がこちらに戻ってきた。リビングのドアが開いて、鶴丸さんはなんだか赤い顔のまま「あー」とほのかに笑う。

「あの、お邪魔なら私も帰ります」
「なぜそうなる?!」

 鶴丸さんは心底意味が分からない、というように目を丸くした。その辺に放ったらかしにしてあった鞄を拾い上げてそそくさとソファの近くに置く。どことなく慎重にソファに腰を下ろすと、「久しぶりだな」とはにかんだ。
 その瞬間だった。ぶわっと。本当に、音で表すなら、本当に、ぶわっと。いろんな思いがこみ上げてきて、言葉にしたいのに一向に声に出せなくて。ぐっと唇を噛んでぎゅうっと拳を握るだけで、なんだかいっぱいいっぱいになってしまった。何かを堪えつつ波が治まるのを待つ。それなのに鶴丸さんが不思議そうに「どうした?」と顔を覗き込んでくるのだから、ものすごく腹が立って。気が付いたら鶴丸さんの顔面を思いっきり叩いていた。鶴丸さんは「おあ?!」と間抜けな声を出してバランスを崩したらしく私の視界から消えていく。それがとてつもなく面白くて、おかしくて、たまらなくて。思い切り笑い声が出たのと同時に、なぜだかぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。横目で鶴丸さんを見ると、そんな私を間抜けな表情をして見つめていた。私が見ていることに気付くと間抜けな表情のまま「痛いじゃないか、驚いたぞ」と呟く。少しの沈黙のあとに鶴丸さんはへにゃりと表情を崩して、また、はにかんだ。

「鶴丸さん、今日はこれを返しに来ました」
「……そうだと思った」
「なんでお金なんか渡したんですか」
「君がお金に困っているようだったから」
「善意のつもりですか。そういうのはボランティア活動でもしてきてください」
「この世界にただ一人の君が困っていたから、力になりたかっただけだ」
「なんでですか」
「君のことが好きだからだ」
「好きだからお金で釣るんですか」
「君なあ……まあ、本音は君の作った飯を食べたかったというかなんというか」

 「好きな女の子の手料理は男の夢だからな」、なんて満面の笑みで言う。ばしん、と五万円で鶴丸さんの顔を叩いてやった。鶴丸さんは「そういうプレイは好みじゃない!」と言いながら私の腕をつかむ。ぐいぐいとその腕を押して五万円をなんとか押し付けようとするのだけど、鶴丸さんは意外と力も強い。まったく受け取る気がないらしいその態度にいらいらが復活してくる。
 私が作ったご飯が食べたかったなら、駄賃なんて提示せずにそう言ってくれたら作ったのに。お金なんか渡されなくてもこうやって家まで来たのに。好きだと、普通に言ってくれれば、よかったのに。お金を渡されて、お金を話に出されて、私がどれだけ傷付いたか。鶴丸さんは何も分かっていない。

「悪かった。俺は、なんというか……給料を使えない男でなあ。自分でも驚くほど貯金があるんだ」
「自慢ですか」
「試しに世間的に良い家を買ってみたりもしたが、なんだか満たされた気にならなくてな」
「むかつく」
「自分のために使うくらいなら好きな女の子のために使いたいなあと思ってだな」
「思いついた使い方が援助交際ですか」
「だからちがうと言っているだろうが!」

 鶴丸さんは苦笑いをして「口を開けば援交援交と、この不良娘」と私の頭を軽く叩いた。私の腕から手を離す。その隙に封筒を鶴丸さんの膝に置こうとしたのだが、再びそれも阻まれる。

「でもその五万円を渡したのは、実のところ、不安だったからなんだ」
「……不安」
「そう。もしかしたら君を無理やり俺に付き合わせてるんじゃないかと思ってな」
「住所を挟んだのもそういうことですか」
「だから君が会いに来てくれたのが、その、心から嬉しくてたまらない」
「最低な大人ですね」
「なんとでも言ってくれ」

 意地でも返させてくれないらしい。むかつく。一旦五万円を返すことは諦めて、大人しく腕を元の位置に戻す。鶴丸さんはほっと息をついてぽつぽつと話を続ける。本当は普通に家に呼ぶつもりだったのだという。けれど、私は女子高生だし、鶴丸さんは社会人だし、いろいろ世間的にまずいのではないか、そもそも私が嫌がるのではないか。いろいろ考えているうちに自分でもどうしたいのか分からなくなって、気付いたら住所を書いたメモと五万円を私に押し付けていたとのことだった。全く意味が分からない。意味が分からないけど、それが答えだった。アルバイトを入れすぎだとか、卑屈に考えすぎだとか、体を大事にしろとか、言いたいことは山ほどあったのだという。けれどそれを不審者に近しい存在の自分が言っていいものか、もやもやしていたそうだ。いや、それほとんど全部鶴丸さん私に言いましたけどね、なんて思ったけど黙っておいてあげた。五万円を渡して姿を消したあと、鶴丸さんは自分でも驚くほど生気がなくなったのだという。仕事をしていても上の空で、木曜日になるとうっかりあのスーパーに向かおうとしていたり、家に一人でいるのがひどく静かに思えたり。「ああ、あの子は俺のこと、迷惑に思っていたのだなあ」なんて卑屈になっていったのだと、鶴丸さんは俯いて苦笑いした。

「でも、会いに来てくれたということは、そうじゃなかったと思っていいんだよな」
「……まあ変な人だとは思ってますけど」
「おい」
「迷惑だと、思ったことは、ないです、よ」
「……泣きそうだ」
「勝手に泣いててください。でも五万円は返します」
「大人が情けない理由で振り回した迷惑料だと思ってくれ」
「迷惑じゃないのでいりません」
「じゃあお小遣いだと思ってくれ」
「あんたは親ですか」
「親といえば」

 鶴丸さんがぱっと顔を上げる。私の目をまっすぐ見て「君のお父さんに会った」と、なんとも簡単に口にした。驚いて言葉を失ってしまう。どうして、父親のことなんか、ここに出てくるんだ。鶴丸さんは「あ、いや、君のことを調べて会いに行ったとかじゃないぞ」と慌てて言葉を付け足した。鶴丸さん曰く、会社帰りに父から声をかけられたのだという。ちょうど私と会うようになって少ししてからのことだったらしい。父はなんと声をかけたのだろう。あんな出来損ないの娘に関わっているなんて暇なんだとか、良ければもらってくれとか、そういうことだろうか。薄ぼんやりと暗くなっていく心をこそっと隠していると、鶴丸さんは思いっきり笑った。「いやあ、驚いたなあ」と言う声はとんでもなく明るくて、どこか楽しそうだった。父は鶴丸さんに、「君は娘の何なんだ」と声をかけたのだという。

「君はお父さんのことを無関心≠セと言っていたが、どこかだ! 立派な親馬鹿な人だったぞ」

 父は、ときどき私が住んでいるアパートの近くまで来て、私の様子を見に来ていた。仕事に真面目に取り組んで家にいない時間が多かったのは、母の愚行をずいぶん前から知っていたからだった。いつか母と離婚するつもりで、そのあと不自由なく私と暮らせるようにするためだった。母となかなか離婚しなかったのは私の学生生活に区切りがつくのを待っていたからだった。裁判や離婚のことは詳しく知らない。浮気をして借金を背負うであろう母でなく、父に私がついていくのは当たり前だと思っていた。けれど、本当は母は私を連れて行くつもりだったのだという。父はそれに猛反発して母と母の弁護士を言いくるめて私のことは自分が引き取ると約束させた。弁護士の人から「父親と母親、どちらについていきたいか」を聞かれた私はというと、どっちでもいいなんて答えたのだけど。家族の思い出の品を捨てたのは母親のことで私が傷付いたと思ったからだった。私に、一緒に暮らすか一人暮らしするか、選ばせたのは、自分のことすら憎んでいるかもしれないと、思ったからだった。私のためだったらいくらでもお金を出せるように、今日まで動いてきたから、私の好きなようにさせようと思っていたからだった。

「怖かったぞ、君のお父さんの目。娘を心配する立派な父親の目だった」

 父は鶴丸さんの胸倉を掴んだのだという。私が鶴丸さんと公園で話しているのを見かけた父は、鶴丸さんが私のことを誑かしていると勘違いしたらしい。それこそ援助交際に誘っているとでも思ったのだろう。鶴丸さんのことを怒鳴り散らして、最後に、「娘に何かあったらただじゃ済まさないぞ」と言ったと、鶴丸さんは笑った。
 あまりの衝撃に、言葉が出てこない。父と暮らしてきた十数年間。私が幼いころこそ、父との楽しい思い出はある。けれど、そんなのは遠い昔のもので、いつしか父との思い出なんか、ないように思っていた。父が仕事で家に帰って来なくなり、母は外で遊び呆けて家を空けるようになった。世界に私、ただ一人ぼっちだと思った。寂しいと言いたくても言える人はいない。だって父も母もいないのだから。言う相手がいないのなら、黙るしかない。押し殺すしかない。だから、いつしか寂しいという感覚は消えていって、それが当たり前だと思うようになった。父も母と同じで、いつか私を置いて出ていくんだと思っていた。だって、父は、何も言わないから。受験のときも、離婚のときも、一人暮らしをはじめるときも。父は何も言わなかった。何も教えてはくれなかったのだ。自分が何を考えていて、どうしたいと思っていて、どうすればいいのかも。父は何も教えてくれなかった。鶴丸さんに言ったことの何一つ、私には、教えてくれなかった。

「だから俺は言ってやったぞ! 俺は娘さんを世界で一番幸せにする男だ! ってな。まあ思いっきり殴られたが」
「ばかだなあ」
「ひどいな。そのあと土下座もしたぞ、娘さんをくださいって」
「私、ばかだなあ」
「……そうだな、君はとんでもないばかだ」

 鶴丸さんは静かに微笑んで、私の頭を優しく撫でた。その手が、ふわりと記憶を巻き戻す。小学生のときに近所の森に妖精が出るとクラスの男の子が言っていた。それを信じて私は一人で森に入って、妖精を探した。けれど、どれだけ山奥に入っても妖精なんかいなかった。どんどん辺りが暗くなって、どんどん体が冷えていって、怖くて怖くて。遠くの方で動物の鳴き声がして、転んでけがをして。心細くて泣き喚いていたらどこからか父の声がしたんだ。「!」って。「おとうさあん」って必死に父を呼んだ。そうしたら父は、すぐに私を見つけてくれたんだ。私を見つけたときの父の顔は覚えていない。けれど、そのとき私の頭を撫でたり私を抱きしめたりしてくれた、父の温かさ。今の今まで、ずっと、忘れてしまっていた。それを急に思い出してしまった。
 無関心だったのは私の方だった。父と言葉を交わそうと、関係を繋ごう結ぼうとしなかったのは、私だったのだ。

「君はもっと欲張っていいんだぞ」

 わしゃわしゃと。頭を撫でられる。ああこれは鶴丸さんの手だ。当たり前のことを思い直したら、熱い涙がまたこぼれ落ちた。あまりにも優しい手はまるで私のことを想ってくれているようで、たまらなく嬉しくて。きゅうっと胸が苦しくなる。夢みたい。あの、真っ白な雪を見て、二人で縁側に座っている夢のように、とんでもなく静かで、恐ろしいほど幸せだ。あの夢が手に入ったらどれだけ私は幸福だろうか。顔を上げる。鶴丸さんの瞳の中の光を見たら、呼吸が止まった。ああ、この人だ。私の隣で白い着物を着て、火鉢を覗き込んだり私の顔を見たり、ころころと表情を変えて笑っていたのは、この人だったんだ。ぼんやりしていて分からなかった夢の中の人の顔が、急にはっきり見えた。この声だった。私がずっと無意識に探していたのはこの人の声だった。すーっと心臓が落ちて、しっかりと根を張る。どくどくと脈を打って全身に血液を運び、体が熱を帯びる。消えかけていた自分が戻ってきたみたいに、心地いい感覚だった。

「……鶴丸さん、この五万円、もらいます」
「お、やっとか」
「ちょっと待っててください」
「は?」

 きょとんとしている鶴丸さんを置いてソファから立ち上がる。リュックもマフラーも持たないままにドアの方へ歩く。鶴丸さんが「え、どこに行く?」と不思議そうに言いながら立ち上がろうとしたが「待っててください」と睨んだら大人しく座った。鶴丸さんを置いてリビングを出て、廊下をまっすぐ進んで玄関にたどり着く。自分の靴を履いて外に出る。そしてすぐ隣の部屋のチャイムを迷わず押した。少し待つと光忠さんが「あれっ、どうしたの?」と出てきた。にこやかな光忠さんの目の前に五万円を突きつける。

「……え、どうしたんだい?」
「この五万円とさっきのカードキー、交換してください」

 光忠さんは固まったまま「え」と首を傾げた。その様子を遠くから眺めていた鶯丸さんが愉快そうに笑いながらこちらへ歩いてくる。片手にはお茶菓子。この人いつでも何か飲み食いしてるなあ、なんて思ってしまった。鶯丸さんはお茶菓子を口に入れてから光忠さんの家の棚を勝手に開ける。そして「これか」と言いながらカードキーを取り出した。それを私に差し出しながら「これに五万の価値はあるのか?」と微笑む。答えかねる。そんなことはよく考えていなかった。ただ交換できるのがこれだったというだけだ。困惑したままの光忠さんの手に無理やり五万円を押し付け、鶯丸さんの手からカードキーを奪う。「お邪魔しました」と言ってまたすぐ隣のドアの前に戻る。鍵が閉まってしまったので手に入れたばかりのカードキーを使って鍵を開けて、鶴丸さんの部屋に戻る。

「え、なんだったの、あれ」
「さぁな。まあ今日はその五万円で良い物が食べたいな」
「いや、え、これ本当何のお金?」

 そんな会話に少し恥ずかしさを感じつつドアを閉める。靴を脱いで揃え、また廊下を歩いてリビングに戻る。鶴丸さんは私が睨んだときの恰好のまま固まって待っていた。「どこに、」と言葉を出しかけて、私の手に握られているものを見て、黙ってしまった。あまりにも手元を見られるのでむかついてしまう。手に握っているカードキーをずいっと鶴丸さんに見せつける。「これ、五万円で私が買ったので、私が持っていても文句ないですよね」と鶴丸さんに言い放つ。恥ずかしい。何やってるんだ、私。恥ずかしさに耐えていると鶴丸さんは、ゆっくり、まさにぽかん、という音が合う風に口を開ける。驚きのあまり言葉も出ない、というやつだろうか。なんとか言えよ大人のくせに、と恥ずかしさから俯いてしまう。

「……それ」
「なんですか」
「俺から渡そうと思っていたのに」
「は」
「まさか自分で手に入れてくるとは、君には本当に驚かされるなあ」

 鶴丸さんは頭を抱える。笑っているのだろう。むかついてその顔をゆっくり覗き込んでやる。鶴丸さんはやっぱり笑っていた。けれど、その顔は、今日一番赤かった。

「もうアルバイトは全部辞めないか」
「嫌です」
「お父さんにはもう一度ちゃんと挨拶に行かせてくれ」
「気が早いです」
「もう、なんでもいいから、ずっとここにいてくれ」
「……考えときます」
「だめだ、にやける」

 白い肌が赤くなっている。鶴丸さんの名前の通り、まるで、鶴みたいにきれいだと思ってしまった。
 鶯丸さんが言ったように神様がいたとしたら、その神様は鶴丸さんなんじゃないかと思う。こうやって鶴丸さんは私との縁を結んでくれた。それだけじゃない。鶴丸さんと関わったことで、父やアルバイト先の人、そして鶯丸さんや光忠さん、いろんな人との縁に気付けたり新しく結べたり。鶴丸さんのことを憎く思ったりもした。鶴丸さんのことが、今は、愛しくてたまらなかったりもする。私から伸びている糸を全部きれいに結んでくれたのは鶴丸さんなのだ。神様みたい。鶴丸さんこそ、きっと、私にとっての神様だったんだ。心の中で呟いた、ありがとうと。そうしたら夢の中で白い着物を着ている鶴丸さんが、鶴丸さんじゃない鶴丸さんが、「どういたしまして」と笑ってくれた気がした。

「君が大人になったら、君の人生を俺にくれないか」

 「代わりに俺の全てを君に」と鶴丸さんが呟く。緊張している。けれど、とても幸せそうな顔をしてくれた。

「俺にとっての神様は、君だったんだな、本当に」

 今も昔も、過去も未来も。ずっといつまでも。きっとそうだったんだ。鶴丸さんはそう呟くと割れ物にでも触るように私の指にちょん、と自分の指をあてる。冷たい手。ああ、この体温。夢の中で私の手に触れていた気がする。とてつもなく懐かしいような、涙が出そうなほど欲しかったもののような。不思議な感覚。ずっと待っていた。きっとそうだ。そんなロマンチックなことを考えてしまって、少し笑ってしまう。
 神様も恋をする。眩しくて暗い、温かいのに冷たくて、遠くて近い、そんな恋をするんだ。待ち望んでいたそれを手に入れたとき、神様は美しい涙を流す。その瞬間に神様は神様じゃなくなるんだ。ただ一人の、恋をしている人間になるんだ。きっとそうに違いない。

「ああ、やっと、君と同じになれた」


material by トネリコ