≪注意事項≫
※現代・転生パロディです。
※鶴丸国永短編「神様の涙を君は見たことがあるか」と同じ世界設定です。
※上記の短編の鶴丸がいた本丸と今回の鶯丸がいた本丸は同一本丸ですが、主は別人です。
※鶴丸が前の審神者(上記の主人公)の話をします。
※ものすごく微妙ではありますが鶯丸がヤンデレです。苦手な方はご注意ください。




 何度チャイムを押しても出てこない家の主に思わず舌打ちをこぼす。昨日、四時には家にいるようにと連絡を入れたというのに彼はどうやらそれを無視したらしかった。私の予想になるが、無視したというよりは恐らく怖いくらいの早さでその連絡のことを忘れたのだろうけれど。一つため息をついて頭をかく。あの人は本当に、なんというか。呆れにも似た感情を押し殺すように肩の力を抜く。ずるりと落ちかけた鞄を上げ直してから念のためもう一度だけチャイムを鳴らした。まあ、当たり前のように反応はないのだけど。
 思い当たる節は多くはないがいくつかある。鞄から携帯電話を取り出してアドレス帳を開く。一人の男性の連絡先を見つけて電話をかける。コール音がいくつか続いてから、割かし早く出てくれた。

「こんにちは、光忠さん」
『こんにちは。鶯丸さん来てますよ』

 やっぱりか。喉の奥でそう呟いたのをごくりと飲み込む。光忠さんにお礼を言って通話を静かに切る。携帯電話を鞄にしまうと、また一つ大きなため息が出て行ってしまった。
 鶯丸さん、というのが私の目的の人なのだが、これが実に困った人なのだ。この時間にここにいてくれと頼むと必ずいない。この時間にここに来てくれと頼むと必ず来ない。この時間まで待ってますから時間のあるときに来てくださいと頼んでも絶対来ない。こちらから連絡を寄越しても反応しない、というかあの人は携帯電話というものを持ち運ばないことが多い。いや、持ち歩いてはいるかもしれない。けれど、必ずと言っていいほど私からの連絡には出てくれないのだ。振り回される毎日を過ごすうちに鶯丸さんの知り合いの人と親しくなり、今の居場所を教えてもらうことが多くなった。その人が光忠さんなのだ。
 私と鶯丸さんの関係を簡単に言えば、仕事のパートナーのようなものだ。もっと細かく言うと鶯丸さんは小説家、私はその担当編集者。繋がりが深いようで浅い、けれどぺらぺらの紙のように薄い関係性ではない。そんな微妙な関係なのでいまいち信頼されていないのかも、なんて最近は思っている。鶯丸さんは私にあまり口を開かない。元々口数が多い人ではないのだけど、私に対しては余計に言葉が減るのだ。仕事の話をしても私が聞いているのを静かに聞いて、最後に「君に任せる」と笑うだけ。それに、ひどく、傷付いていたりする。
 急ぎ足で鶯丸さんの家の庭に停めた車に乗り、光忠さんの自宅へ向かう。立派な平屋の日本家屋を横目に道路に出て、車をまっすぐ走らせる。鶯丸さん、ペンネーム鶯谷平介は時代小説から推理小説、SF小説など幅広く有名作を生み出してきた作家だ。書いた小説はいくつも映像化されて映画になったりドラマになったり、一番最近だとアニメになったりと何かと話題になる。新刊が出れば本屋の一番目立つ場所にコーナーを作ってもらうことが多く、担当としては有難いことだ。サイン会を開けば老若男女幅広いファンの人が足を運んでくれる。まあ、いわゆる人気作家だ。まだ作家としては若いということもあってか女性ファンが多いので雑誌連載なんかも多く持っている。鶯丸さんの作品が人気になった一番の要因は、恐らく、目の前で起こっていると錯覚するような文章だろう。特に時代小説において剣豪が斬り合うシーンは心臓が冷えるようなリアルさを感じた。
 確かに鶯丸さんに振り回されることは多い。不満も多いしむかつくことだってないわけじゃない。けれど、やっぱり、この人の文章を読むと、すべて忘れられるのだ。それくらい私は鶯丸さんの文章に惚れている。全くの新人としてうちの出版社に原稿を送ってきてくれたことは本当に奇跡だと思う。それくらいの逸材だったのだ。
 そうこうしている間に光忠さんの自宅に到着した。光忠さんの自宅は高層マンションなのだけど、いつ見てもその立派さには驚いてしまう。四十五階まであるこのマンションの三十八階に住んでいるというのだから余計に驚く。居心地の悪さを感じながら車を地下駐車場に停め、地下エントランスから光忠さんの部屋番号にコールする。いつも通り早い反応があってすぐに扉が開いた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「まったく……昨日言いましたよね? 四時にはいてくださいって」
「さあ、そうだったか」

 鶯丸さんはくつくつと笑いながらじっと窓の外を見ている。光忠さんの部屋でくつろいでいたこの人を引っ張って連れ出し、車に押し込んで家へ帰っている途中だ。不思議なのはこの人、帰るとなると素直に着いてくるのだ。約束を平気で破るのできっと仕事をしたくないのだろう、と初期は思っていたのだけれど実はそうではないらしい。ドラマやアニメに出てくる作家のように締め切りに間に合わず逃げ惑う、なんてことは絶対にない。鶯丸さんは締め切りの五日前には必ず作品を仕上げているのだ。何本連載が詰まっていたとしても必ずだ。そこは本当に尊敬する。五日前に仕上がっているのなら、締め切り日に提出せずその日に提出してほしいものだ。なぜか鶯丸さんは仕上がった原稿をすぐにくれない。決まって締め切り日にしか渡してくれないのだ。そして締め切り日、約束の時間には現れないし待っていない。なかなかの変人だ。

「一応聞きますけど、原稿は」
「できている」
「……それなら前日に渡してくれませんか、本当に」
「断る」

 顔は微笑んでいるが言葉は鋭い。その妙な圧力に言葉が続かず、出ていくのはやはりため息ばかりだった。鶯丸さんはのん気に流れていく景色を眺めながら、相変わらず微笑んだままだった。
 鶯丸さんの文章は物凄く噛み砕いて言えば異彩を放っていた。はじめてこの人の原稿を手にしたとき、明らかに他とは違うものを感じた。重くて厚くて、どこか切ない。揺るぎない強さの中にどこか儚い脆さが隠れているような。懐かしさすら感じる妙な気持ちになった。そんな不思議なものを感じたのだ。相当努力をして書いてきたのか、それとも生まれながらの才能なのか。どちらなのかは原稿を読んだだけでは分からなかった。それくらい鶯丸さんの文章は自然で、心地よい流れを作っていたのをよく覚えている。
 初めて本人に会ったときは、なんというか。一言で表すなら「変な人」としか言いようがなかった。今までいろんな作家に会ってきて、確かに変な人は多かった。部屋にこもって文章を書いてばかりだからなのか捻くれている人もいたし、逆に書くために外に毎日出かけて明るすぎて怖い人もいた。けれど、鶯丸さんという人は、そういう「変な人」ではなかった。こちらの過去も未来も現在も、何もかもを見通しているような瞳。確かに初めて会った人なのにどこか懐かしい。まさに彼が書く文章そのままの人だったのだ。

「君は神を信じるか」
「……はい? 何の話ですか?」
「神様という存在を、君は信じるか」

 新作の題材だろうか。鶯丸さんの表情はいつまで経っても読めない。恐らくこちらから質問をしても無駄だということだけはよく分かるのだけれど。どういう意図があって変な質問をしてくるのかは分からない。意味があるのかどうかすら分からないが、訊かれたらもう答えるしかない。

「人並みには信じていますけど」
「意外だな」
「そうですか?」
「ならば付喪神というものを知っているか」
「知ってますよ。物に宿る神様のことですよね」
「見たことはあるか」
「…………はあ?」
「君は付喪神を見たことはあるか」
「…………いや、ないですよ、普通」
「はは、そうか」

 一体何の話を、そう言いかけて思わず口をつぐんでしまった。鶯丸さんの横顔があまりにも物悲しそうで。なんだかこれ以上足を踏み入れてはいけない気がした。踏み入れば、なんだか、戻って来られなくなりそう。そんな風に思ってしまった。
 鶯丸さんの家に着くと庭先に車を停めさせてもらう。鶯丸さんが家の鍵を取り出したちょうどそのとき、玄関の戸ががらがらと開いた。「おかえりなさい」と出迎えてくれたのは平野くんだった。「もう帰っていたのか」と声をかけられると平野くんはにこにこと笑ったまま「どこをほっつき歩いていたんですか」と鶯丸さんを睨んだ。
 平野くんは鶯丸さんの親戚の子らしく、この近所の中学校に通う二年生だ。剣道の強豪校である中学校から入学を勧められて親元を離れて鶯丸さんの家に居候している。中学生とは思えぬしっかり者で鶯丸さんを手綱をしっかり握っており、私の手助けもよくしてくれる非常に真面目ないい子だ。

さん、毎回すみません」
「いえいえ。平野くんが謝ることじゃないから」
「そうだぞ、平野」
「あなたが謝ることだと言ってるんですが」

 鶯丸さんは愉快そうに笑いながら家の中へ入っていく。「原稿ください」とその背中に声をかけると片手をひらひら振りながら奥へ消えて行った。それにまたため息を漏らしつつ待っていると平野くんが「良ければお茶をお出しします」と声をかけてくれた。ここには原稿を取りに来ただけなので「すぐに帰るから」と断ったが、平野くんは苦笑いをして「いえ、上がってください」と手招きした。気を遣われている。疲れている顔をしてしまっていたらしい。それを察する辺りがさすが平野くん、というところだ。その気遣いを有難く受け取り、上がらせてもらうことにした。鶯丸さんの家には何度も上がったことがあるが、失礼ながらあまりくつろげる雰囲気ではない。恐らく平野くんが整えているであろう和室の居間にはきれいな花が挿してあったり、美しい茶器が並んでいたり。なんとなく普通ではない雰囲気が漂っていてどうも落ち着かないのだ。リラックスして足を伸ばして座ったことはない。まあ、鶯丸さんと平野くんが見た目からリラックスしているところを見せないからかもしれないけれど。二人ともどこで習ったのか分からないくらい所作が美しくて、どうも調子が狂う。
 居間の一番奥に座らせてもらうと、平野くんがすぐにお茶を淹れ始める。その所作も美しいのだからいつ見ても感心してしまう。いつかに「茶道もやっているの?」と訊いたことがあったっけ。平野くんは首を横に振って「いいえ」と言っただけで、とくにそれをどこで習ったかは言わなかった。なんだか訊いてはいけない領域のように思えたのでそれ以上は何も訊かなかったんだっけ。平野くんが「どうぞ」と私の前にお茶を置いてくれたところで、口を開く。

「平野くんは神様とか信じる?」
「えっ、なぜですか?」
「さっき鶯丸さんに訊かれたの。新作の案を出そうとしているのかな、と思っているんだけど」
「ああなるほど。……いると思いますよ、僕は」
「見たことある?」
「えっ?」
「やっぱりそうなるよね〜! これも鶯丸さんに訊かれたんだよ」
「……見たこと、は……あるかもしれません」
「えっ」
「なんとなくです」

 まさか平野くんがそんなことを言うなんて思わなかった。驚いていると平野くんは淹れたお茶を飲みつつ、「あの、本当になんとなくです」と苦笑いをこぼした。冗談のつもりだったのだろうか。どちらかよく分からないままこちらも苦笑いをこぼして「そっか」とだけ返した。
 鶯丸さんの家は変わったものがいくつかある。居間だけでもよく分からない掛け軸、お祓いのときに使う大幣、あといつも気になる日本刀。大事にされているのがよく分かるほど埃一つかぶっていない日本刀は、いつもどこか冷たく光っている。初めてこの居間に入ったときに思わず「あれなんですか」と訊いてしまったのだけど、鶯丸さんはおかしそうに笑うだけだった。置いてあるものたちのどれもがどこか古風なのでそういう趣味があるのだろうと思っていたけれど。改めてみると気になるものだ。

「気になりますか」
「えっ」
「あの刀、気になりますか」
「……気になるというかなんというか」
「あれは古備前派の太刀で銘を備前国友成というんですよ」
「……詳しいね?!」
「日本刀、好きなので」

 刃長二尺七寸、反り九分のかなり古い日本刀なのだという。妙に美しい光を放つそれをじっと見つめながら平野くんの説明を聞いていると、おや、と思った。友成、という響きをどこかで聞いたような。少し考えてすぐに思い至る。鶯丸さんの名前だ。鶯丸友成さん、それが彼のフルネームだ。下の名前は滅多に呼ばないし見ないので忘れかけていた。自分の名前と同じ名前がついているから手元に置いているのだろうか。そうだとしたらちょっとかわいくて意外な気もする。
 じっと日本刀を見つめていると、平野くんが「やはり」と呟いた。その声に思わず顔を上げる。平野くんははっとしたような顔をしてからにこりと笑顔を作って「気に入ったんですか」と何事もなかったように言った。その前の呟きの意味が気になったけれど、隠した素振りをしたのに掘り下げるのは可哀想だ。あえて気付かなかったふりをして「そこそこ」と返しておいた。

「待たせたな、原稿だ」
「本当ですよ。はい、確かに受け取りました」
さん、あの日本刀を気に入ってくださったみたいですよ」
「…………それはそれは」
「いや、別に日本刀のこととか全く分からないですけど……きれいだなあと」
「付喪神も喜んでいることだろうな」

 ぴんっと糸が張ったような空気に、思わず体が固まる。鶯丸さんは目を伏せたまま平野くんの隣に腰を下ろした。いつの間にか平野くんが淹れたお茶をゆっくりした動作で飲みながら「今日も良い日だった」と呟く。その瞳はまるで遠いどこかを見ているように、ひどく悲し気に見える。視界の隅で妖しく光る日本刀の刃が、なんだか私に向いているような、そんな不安感を覚えた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「鶯谷先生の新作はどうだ」
「あっ膝丸さん」

 「おはようございます」と椅子から立って頭を下げる。膝丸さんは私の上司でありここの編集長だ。鶯谷さんの作品をかなり気に入っているらしく、こうして新作が出来上がると一番に様子を聞きに来る。膝丸さんは「おはよう」といつもながらクールに返してから「それで、どうなんだ」とすぐに話を戻した。先ほど新作を読み終わったのだが、なんとも言えない、というのが正直な感想だった。今までの作品の傾向としてはまるで目の前で起こっているかのような臨場感あふれるものが多かった。日常どこにでも転がっている風景をバックに巻き起こる出来事を映画のように魅せる。もしくはSFのように完全に異世界を舞台にしたファンタジーが詰まった作品なんかもあったっけ。
 けれど、いま私の手元にある原稿は、当たり前の日常の風景ではあったのだけれど、どこか不思議で奇妙なものだった。とある男女が前世で恋をするところから物語が始まる。男はただの人間ではなく、女が大切に持っていた櫛に宿った付喪神という設定だった。女は男が人間ではないことを知りつつも愛してしまい、二人は永遠の愛を誓う。けれど、女の命が尽き果てるその寸前、女は男の依代である櫛を故意に壊したのだ。男は怒った。愛した女の死に目に会えないどころか、まるで自分の存在を壊すかのように櫛を壊した女に男は怒った。怒った男は転生した世界を這いずり回って転生しているであろう女を探し回り、一度、またもう一度と人生を終える。そうして六回目の転生で女を見つけるのだ。男は怒りと恨みを心の奥に隠し持ちながらも、また女に恋をする。心からの愛を注ぎ、心からの恨みを注ぎ、女の傍で生きていく。そうして女が自分に見せたくなかったであろう死に際を見て、恨みを晴らしたのだった。女の鼓動が止まってから男ははじめて、涙を流す。そんな物語だった。
 あのとき付喪神のことを聞いてきたのはこれに使うためだったのか、と答え合わせが終わってから、心がざわついた。激しい怒り。悲しい愛情。心の底から叫んでいるような、そんな文章だった。こんなに感情が剥き出しになって読者を置いてけぼりにするようなものを読んだのははじめてだった。

「……なんというか、はい」
「どうした」
「いえ……面白くないというわけではないんですが……」
「なんだ、はっきり言え」
「すっきりしないと言いますか……あ、いえ、これは私的意見なのであれなんですけど」

 いまいちこの物語に出てくる男に共感できなかった。付喪神という存在は神様なのだし年を取らないであろう。文中にも「女は老いていくが、男は女が愛したそのままだった」とあった。もし自分がこの物語の女だったならば同じことをするかもしれないと思ってしまったのだ。好きな人はいつまでも自分が恋した瞬間そのままだというのに、自分は老いて皺くちゃになっていくし体が動かなくなっていく。見られたくないと思ってしまうのではないだろうか。それに対して一方的に恨みを持ってわざわざ死に際を見てやるなんて、ひどい気がした。それに最初から最後まで女の心情にはほとんど触れないままなのだ。女がどんな思いで櫛を壊したのか、読めば分かる人もいるだろうが不自然なほどに何も書かれていない。女が男をどれだけ愛していたのかもほとんど、書かれていなかったのだ。
 単純に作品の出来がどう、という話ではなくただの私の感想に過ぎない。分かっていてもどうしても、この物語を「面白かった」と素直に言えなかった。そう、面白くないわけじゃないのだ。作品としては面白かったと思っている。いつもより文章が少々乱暴で感情的であったとしても、今までの作品に並べても何ら不思議はない。ラストは男の深い愛が見えたし、ストーリーが悲しすぎるわけではない。けれど、なぜだろう。妙に喉の奥が詰まるのだ。

「話の展開が気に入らないことはあってもおかしくないだろう」
「まあ……そうなんですけど」
「大幅に話を変えた方がいいと思うなら先生に相談しろ。お前の話ならあの先生は聞いてくれるだろう」
「そうでしょうか……」

 膝丸さんは「修正期限までに何とかしろ」と言い残してすたすたと自分のデスクに戻ってしまった。「お前の話ならあの先生は聞いてくれるだろう」。これはよく上司から言われる言葉なのだが自分ではいまいちそう思えない。
 鶯丸さんの原稿がうちに送られてきたとき、上司は別の人間を担当にするつもりだったと聞いた。当時の私は新人もいいところで、まだ簡単な仕事しかしたことがなかったのだ。担当を持ったこともないしやることといえば資料のコピーやお客様へのお茶出し、簡単な打ち込みくらいだった。そんな私が鶯丸さんの担当になったのは、何を隠そう鶯丸さんの指名だったのだ。そもそも原稿の送り先から上司たちは不思議がっていた。大抵の新人作家さんは原稿の送り先を出版社、または募集期間であれば担当の者に送ってくるものだ。鶯丸さんが原稿を送ってきたときは特にコンテストの募集などはしていなかった。けれど、封筒には確かに「様」と書かれていたのだ。有名作家の担当をしている人たちに送るのであればまだ訳は分かるのだけど、新人の私宛だったこともあってかなり話題になった。私の身内ではないかとか怪しいものが入っているのではないかとか。いろいろあって分厚いそれをそーっと開け、ただの原稿だったときは本当にほっとしたものだった。読んだ原稿に私は感動してしまってすぐ上司に渡したところ、上司もすぐに鶯丸さんの自宅へ飛んで行ったっけ。鶯丸さんの本が出ることはすぐに決まった。その話をしたときに上司はベテラン社員を一緒に連れて行って紹介したらしい。けれど、鶯丸さんはにっこり笑ってさんは?」と首を傾げたと後で教えられた。それと同時に「彼女が担当でなければ、俺は本を出す気はない」とも言ったという。そうして私は晴れて初担当を持ち、初担当で大ヒットを記録したのだった。上司たちや先輩たちには褒められて嬉しかったけど、その大ヒットは決して私が生み出したものではない。あれは鶯丸さんの作品が、とんでもなく面白くて魅力があるから生まれた大ヒットなのだ。褒められてどんな顔をすればいいのか分からないまま、今日までずっと担当を続けている。
 鶯丸さんは私との約束は軒並み破るしスルーするくせに、担当が変わりそうになると「なら俺は作家引退だな」と言う。変な人なのだ。上司が言うような私の話を聞いてくれるなどということはただの一度もない。

「……言うだけ言ってみるか」

 大きなため息。それと一緒に決意を混ぜ込んで呟くと、隣に座っていた同僚が「よう分からんけどファイト〜」と親指を立ててくれた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「おかしなところでもあったか」

 玄関を開けるなり鶯丸さんは首をかしげてそう訊いてきた。原稿をもらった翌日にこうして私が来るのが珍しいので警戒しているのだろうか。「そういうわけではないんですが」と苦笑いをこぼしながら言葉を探していると、「まあ上がれ」と居間の方へ消えて行ってしまう。靴を揃えてから鶯丸さんを追って居間に上がらせてもらうと、すでに座ってお茶を淹れ始めていた。いつも通りの場所に座らせてもらって預かった原稿を鞄から取り出す。お茶が入った湯呑を受け取ってから、意を決して口を開く。あまり言葉にするのが上手くないので自信はなかったが、思ったことを素直にそのまま。主人公の男に共感できないこと。女の気持ちの描写がほとんどないままに物語が終わっていること。それがなんとなく自分の胸につっかえているだけなのに、こうして作品に口を出していることへの謝罪。すべてをなんとか話し終えてからお茶を一口もらう。鶯丸さんも同時にお茶をゆっくりと飲み、静かに呼吸をした。

「君が万年筆だったとしよう」
「……はい?」
「ある作家に愛用されている万年筆だ。デビュー作、あまり売れなかった二作目、持ち直した三作目、ずっと君は物語を綴ってきた」
「何の話ですか?」
「だが、その作家は自分の限界を感じて引退を決意する。最後にあと一作だけ書こうと決めてな。最後の作品なのだから力が入るだろう。魂を込めて書くだろう。特別な作品になるはずだ。けれど、その作家は最後の作品の執筆をする際、新しく買った万年筆を取り出してきた。ずっと作家の人生を見てきた万年筆になっている君はどう思う?」
「…………まあ、嫌だと、思いますけど」
「どうしてだ?」
「……だってそんなに大事に使ってくれていたのに、最後の最後で別の万年筆で書くなんて嫌ですよ」
「櫛の彼も同じということだ」

 鶯丸さんは私が取り出した原稿を掴んでぱらぱらとめくる。薄く笑みを浮かべたままの表情は何を思っているのかはよく分からない。

「櫛は愛する女の髪を最後に梳きたかっただろう。万年筆は共に過ごした友人の最後を綴りたかっただろう。時計であれば恭敬する主人の最後の時を刻みたいだろうし、刀であれば敬愛する主の最期を己の刃で終わらせたかった」

 「それが人に使われる物としての誇りだ」。鶯丸さんはそう言って原稿を机に戻す。またお茶を一口飲んでからにこりと笑い、「まあ細かいことは気になるな。これはただの物語だ」と呟く。確かにその通りだ。これはただの物語。鶯丸さんが創ったお話だ。出来としては申し分ないしきっと人気が出るだろうと思う。鶯丸さんは思い出したように「女の心情がないのは男側から見た話だからだ」と付け加える。まあ、それはそう言われると思っていたのでとくに何も返すことがない。全部分かっているのに。どうしてこんなにも何かが引っかかるのだろうか。
 原稿を静かに手に取って鞄にしまおうとしていたときだった。ぎらり、とまるで稲妻が落ちたように鋭い何かを感じた。誰かにじっと恐ろしい視線を向けられているような、そんな感覚だった。そんな冷たい感覚がして思わず振り返ってしまう。そこにはいつも気になって仕方ない日本刀。独りでに動くはずもない日本刀なのに刃先がこちらを向いている気がしてならない。何よりも妙に妖しい光を放つそれが、私の瞳をとらえて離してはくれないのだ。

「あれは古備前派の太刀で銘を備前国友成という」
「……平野くんに教えてもらいました」
「そして、号を、鶯丸という」
「…………うぐ、いす、まる……って、」
「君の瞳にはあの刀がどう映っている?」

 視界が真っ暗になる。鶯丸さんの両手が後ろから私の視界を塞いでいた。じんわり温かいのにその奥に鋭い冷たさがある。ああ、これだ。私があの作品を読んで感じた胸のつかえ。これによく似ている。誤解を解きたいような、ちゃんと話を聞いてほしいような。女は理由もなしに櫛を壊したんじゃないんですよ、鶯丸さん。男を愛しているからこそ、どんどん醜くなる自分を見られたくなかったんですよ。醜い自分の髪を梳かせることが苦しいのではないかと思ったんですよ。だから壊したんですよ。だから、暗い蔵に、しまったんですよ。だって壊れてほしくなかったから。……あれ、どうしてだろう、鶯丸さんの物語に出てくる櫛のことを、考えていたのに。どうして日本刀が頭に浮かぶんだろう。

「俺は納得できないままなんだ、主」
「え……?」
「なぜ君は、俺を使わなかった?」
「うぐ……いすまる、さん?」

 視界がぼんやりと明るくなる。気付かない間に閉じていた瞳を開け、刀を再び見たつもりだった。私の視界の先にいたのは鶯丸さんで、いつの間にかその手に日本刀が握られていた。どきりとした。鶯丸さんの手に握られた刀は、確かに鞘に納められていた。けれど、おかしなことに私はその日本刀の鞘を見るのははじめてだった。この居間の隅に飾られていた日本刀は本当におかしなことに、鞘に納まってなどいなかったのだ。この違和感は一体どういうことなんだろう。ぐるぐると静かに混乱していく私をよそに、鶯丸さんはとても柔らかに微笑んでいる。鶯丸さんは固まって動けない私の腕を掴んで日本刀をぐいっと押し付けてくる。持て、ということなのだろうか。恐る恐る柄を握る。鶯丸さんが日本刀をぱっと離した瞬間に想像よりも重かったそれががくんっと膝にぶつかった。鞘の方を片手で持ってもずっしり重たいそれに、なぜだか恐怖した。

「何も言わずして理解しろというのはあんまりじゃないか」

 さっきから鶯丸さんが何を言っているのか一つも理解ができない。私は何をしたのだろうか。鶯丸さんに何かひどいことをしてしまったのだろうか。たぶん、そうなんだと思う。だって鶯丸さんがすごく苦しそうな顔をしているのだから。
 ほんの少しだけ鞘を抜いて刃を見てみる。きらりと冷たく光るそれにどきりと心臓が動いたのと同時に、なぜだか温かい涙が頬を伝って落ちていった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 その日の夜、不思議な夢を見た。古い日本家屋、書院造のように思える立派な家の一室に私らしき女が寝ている。きれいにされている畳の上に布団を敷いて、私らしき女は静かな呼吸をしていた。部屋は張り替えられたばかりらしい障子に囲まれている。外は雨が降っているようだ。夢を見ている私の足が畳の上についた。足音を立てないようにそっと障子の方へ歩いてそれを開けようとするのだけど、手は空をかくばかりだ。私が見られる空間はここだけらしい。眠っている私らしき女を振り返って、その顔を見下ろす。よく見るとその女はずいぶん痩せていることに気が付いた。頬がこけ、顔色が悪くて、髪の毛は少し白くなっている。どう見ても私ではないのに、なぜだか、これは私だと頭がすんなり理解した。未来の夢を見ているのだろうか。不思議に思いつつその女の横に腰を下ろす。ふと視線を上げたときに気が付いた。立派な掛け軸がある床の間に、刀掛けがぽつんと置かれている。けれど刀は掛けられていない。不思議に思って立ち上がって床の間の前に移動する。何も置かれていない刀掛けにそっと手を伸ばしてみるけどやっぱり空をかくだけ。少し残念に思いながらため息をした瞬間だった。

「誰かいるの?」

 私らしい女が目を開けていた。けれど視線はまっすぐ天井に向けられたまま。先ほどまで静かだった呼吸はどこか苦しそうなものに変わっていて、今にも息絶えてしまいそうな恐怖心を煽る。きっと私のことは見えていないと思うけれど、反射的に息を潜めてしまう。私らしい女は苦しそうに布団をぎゅうっと握りしめて必死に呼吸を続けている。
 障子の向こうから静かな足音が聞こえてきた。その足音はぴたりとこの部屋の障子の前で止まり、影がその場で膝をついたのが見えた。「主、入るよ」と声がして静かに開いたそこには見たことのない男の人がいた。

「歌仙さん」

 かせんさん、と呼ばれた男の人は私らしい女の状態を見て唇を噛んだ。「大丈夫かい、薬を持ってきたよ」と早口で言い、私らしい女の体を支えて上半身を起こした。粉薬を白湯に溶かして私らしい女に渡してその人はずっと背中をさすってくれた。なんだか、とっても懐かしい気がする。かせんさん。かせんさん、かせんさん、歌仙、さん。そうだ、歌仙さんだ。どこかで会ったような気がするけれど、一切思い出は浮かんでこなかった。
 歌仙さんは私らしい女が薬を飲み終えてからゆっくり布団に寝かせる。体に優しく布団をかけてから立ち上がって、こちらへ向かってきた。え、え、どうしよう、見えてるのかな? 焦って思わず身を縮めてしまう。「ちが、ちがうんです、気付いたらここにいて、」と私が弁解するのも聞いてはくれない。怪しい人だと思われているのだろう。歌仙さんがその腰にある刀に手を伸ばした瞬間にぎゅっと目を瞑ってしまう。夢だから斬れるわけがないのに、怖いものは怖い。両手で体を抱きしめるように固まっているが、一向に何も起こらない。不思議に思ってそっと瞳を開けると、刀が刀掛けに置かれていた。歌仙さんはいつの間にかまた私らしい女の傍に戻っていて、穏やかな顔をして話しかけている。なんだ、見えてないんだ。ほっとしたら体から力が抜ける。長く息を吐いて落ち着かせていると、歌仙さんが一つ間をおいてから「いいのかい、主」と言ったのが聞こえた。

「彼をそろそろ出してやったらどうだい」
「いいの、歌仙さん。お願いだからこのままで」
「彼、とても怒っているよ」
「こんな姿を見られるくらいなら、死んだ方がいいもの」
「……本当に君の最期を飾るのが僕でいいのかい」
「ええ」
「……後悔するよ。君も、鶯丸も」

 え、と思わず声が漏れた瞬間、歌仙さんがこちらをじっと鋭い眼差しで見つめていることに気が付いた。ぞくりと背中が冷えた感覚してすぐに息苦しさを感じた。

「後悔するよ」

 鋭い眼差しは怒りではない。深い悲しみの色をしていた。その視線はとても居心地が悪くて仕方ない。立ち上がって思わず速足で先ほど触れもできなかった障子に向かう。ぽつりと歌仙さんが「いいのかい」と呟いたのを聞いてしまって、恐ろしくて無我夢中で障子に手を伸ばした。さっき空をかいた手が障子に触れた。勢いよく開けてどこへ行けばいいのかも分からないまま廊下を走った。とにかく歌仙さんの視線から逃げられればどこでもよかった。
 ずいぶん先ほどの部屋から離れたところで壁に手をついて息を整える。走っている途中いろんな人を見た。女の子らしいかわいい子や髪も着物も真っ白なきれいな人、お酒を抱えて機嫌が良さそうな人。誰にも私のことは見えていない。けれど、不思議なことに私はその全員のことが懐かしくてたまらなかった。変な感覚だ。最近変なことが多い。いつからだろう。はじめてそれをしっかり考えると、思い当たるのは鶯丸さんの原稿を受け取ったあのときだった。いつも変な夢を見た。目が覚めると内容はさっぱり忘れているのだけど、変な夢だったという妙な胸騒ぎだけが残っていた。それと似た感覚がしている。
 俯かせていた顔を上げると、目の前に誰かの背中が見えた。すぐに分かった。平野くんだ。平野くんは静かに歩いていき、ちょうど突き当りにある部屋の障子の前で立ち止まる。そのままそこに座って何か声をかけている。そうっと近付いていくと、平野くんの手に食事が乗った盆があることに気が付いた。ぼんやりと周囲が薄暗い部屋の中にいる人に渡しに来たのだろうか。
 私が知っているよりも小さな手が障子にかかったその瞬間。障子が勢いよく破れ、物凄い音がした。平野君の右頬すれすれに、冷たく光る刃があった。

「鶯丸様。どうか気を落ち着かせてください」

 どくん、と胸の奥が痛む。

「……主はいつ来る」

 その怒りが滲んだ声を聞いた瞬間、口から何かが落ちた。咄嗟に右手で口元を払うと、べったりと赤い血が手の平いっぱいに広がっていた。どこも痛くはない。痛くはないけれど、なんだろうか、体中を何かに縛られているような感覚に襲われている。誰の声かなんてすぐに分かる。ここ最近ほぼ毎日聞いている、鶯丸友成さんの声に違いない。違いないのだけれど、あんな怒りで黒ずんだ声を聞くのははじめてで、足が震えた。怖い。まるで、刃が話しているかのように鋭いそれが、怖くてたまらない。
 少し視線を横に剥ければ激しく降る雨が目に映る。土砂降りのそれを縋るように見つめる。すぐそこに咲いている椿の花を小さく揺らしながら降る雨はいつ頃から降り続けているのだろうか。庭にある池の周りには水たまりがいくつもできている。晴れていればきれいな池だろう。意識を逸らすように食い入るように庭を見つめ続け、気が付けば口から突然流れた血が止まる。落ち着いてきた。何か悪い気に中てられていたのだろう。ほっと息をついて再び平野くんの背中に視線を戻す。

「一人で逝かせはしないぞ」

 鶯丸さんだった。少し頬がこけて顔色が悪い。瞳は光を失っていて生気が感じられない。まるで、死に場所を探しているような顔に、体が固まる。その右手に握られた鞘から抜かれた刀。あの刀、見たことがある。鶯丸。あのとき二人が教えてくれた刀だった。きれいで、妖しく光って、妙に惹きつけられる。夢の世界でも美しい色を放っているそれはやはり私の心をつかんで離さない。
 鶯丸さんが右手を振り上げる。そうして、躊躇なく、微笑んだまま、刃を振り下ろした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 目覚めの悪い朝だ。びっしょりと汗に濡れた前髪を払う。体を起こすと髪の毛全体が湿っているせいで気持ちが悪い。辺りを見渡してようやく気付いたが、どうやら私は鶯丸さんの家で眠っていたらしい。けれど、この部屋は見覚えがない。和室はうちにないので鶯丸さんの家なんだろうけれど、一体ここはどこなのだろうか。勝手に眠りこけた私を別室に連れて行くなんて面倒なこと、鶯丸さんはしなさそうなのに意外だ。居間の真ん中に置かれたテーブルを退けて布団を敷くくらいはしてくれるだろうと思うけれど。
 そんなことを呑気に考えて、はっ、とする。目覚めの悪い朝だと思ったのだけれど、なぜ目覚めが悪かったのだろうか。ここ最近悪夢を見ているらしいが内容が一切思い出せない。今日も何一つ思い出せないまま妙な胸騒ぎだけ残して朝を迎えたようだった。起きたばかりのときにばくばくとうるさかった心臓はもう落ち着いている。こんなに連日見る悪夢、本当にどんなものなのだろうか。少しぼんやりしている頭を押さえつつかけられていた布団を畳んでから立ち上がる。ぐるりと部屋を見渡してみると、びっしりと本が詰められている棚と原稿用紙が置かれた机。座椅子と飲みかけのお茶。鶯丸さんの書斎なのだろうか。そっと襖を開けて廊下を覗く。しんとしている廊下を静かに歩いていつもの居間を目指す。今更ながら鶯丸さんの家は物凄く古い。築何年なのかとかそういう細かい話を聞いたわけではないのだけど、とにかく古いのだ。歩けば床が軋む箇所がいくつもあるし、雨漏りをする個所もある。直せばいいのに面倒だからか鶯丸さんはその場しのぎの退所をするだけで放っている。何度も直した方がいいと言っているのだけど、一切聞く気はないらしい。珍しく平野くんもそれに関しては消極的で「家主は鶯丸さんですから」と言って鶯丸さん側につく。何か思い入れのある家なのだろうか。
 こうして一人で鶯丸さんの家の中をうろつくのははじめてだ。というよりは今まで居間とお手洗いくらいしか入ったことがないので、正直今どこにいるのかもよく分かっていない。外から見ても大きい家だと感心していたけれど、中を歩いてみると余計に広く感じる。角を曲がると行き止まりに突き当たってしまった。迷路みたいな家だな。そう頭で呟いてからくるりと方向転換をした瞬間、ぐう、とお腹が鳴った。腕時計で時間を確認するともうお昼をとっくに過ぎている。どれだけ寝ていたのだろうか。それを考えると少々へこむ。今日が休日だったからよかったけれど、鶯丸さんも起こしてくれればいいのに。仕方なくポケットから携帯を取り出して鶯丸さんに着信を入れる。家の中で迷子になった、なんて恥ずかしいけれど仕方ない。だってはじめて歩くのだしこんなに広いのだから。変なことではないはずだ。そう自分を励ましたものの、鶯丸さんは当然のように電話に出てくれなかった。強めに通話終了ボタンを押して思わず「ああ、もう!」と頭を抱えてしまう。こんなときすら電話に出てくれないのかあの人は! 仕方なくまたふらふらと別の廊下を歩く。平野くんの携帯番号も知っているからかけてみようかと思ったけれど、今の時間だと部活動だろうと思うのでやめておく。それに中学生に昼間まで寝ていた上に家の中で迷子になったなんて情けなくて言えない。はあ、とため息が漏れたとき、ふと何か美味しそうなものの匂いを感じた。おや、と思いながらその匂いを辿って廊下を歩く。腹が減っては戦はできぬ。ふらふらと足が進むままに廊下を歩いていくと、入ったことのない部屋の前で止まる。ここからいい匂いがしているのか。人の気配がするので鶯丸さんだろうか。そっとガラス戸を開けると、戸の向こうは昔ながらの台所だった。そこには鶯丸さんでも、もちろん平野くんでもない男の人が一人いた。

「……おや、見つかってしまったね」
「え、あ、ご、ごめんなさい、あの私、」
「鶯丸の担当のさんだろう? はじめまして、僕は歌仙兼定だ。まあ……鶯丸くんの友人だよ」

 歌仙さん、は苦笑いをこぼしながらそう言った。なんとなく懐かしいような気がしたけど初対面の人だ。「はじめまして」と頭を下げてから自分を名乗ると、歌仙さんは「お腹空いただろう」と笑って食器を用意し始めた。

「今朝急に呼び出されてね。昼食だけでも作りに来てくれないかと頼まれて来たんだ」
「鶯丸さんはどこへ?」
「彼は気まぐれだからね。どこかへ散歩にでも出かけたんだろう」

 歌仙さんはそう言いながらお味噌汁をよそってくれる。白米と茶碗蒸し、切り干し大根の煮物、アジフライが置かれた食卓に、またお腹が鳴ってしまう。歌仙さんはそれを笑ってから「お茶を淹れてくれるかい」と私に湯呑を二つ渡してくる。返事をして受け取りお湯が沸いたやかんを手に取る。もうすでに準備されていた急須にお湯を入れて、少し待つ。歌仙さんがその間に箸や取り皿を出して机に並べてくれる。席に着くと二人で手を合わせて「いただきます」と言って箸を手に取った。
 あれ、と思った。なんだかとても懐かしい。変な感じだ。こんな空間をどこかで私は知っていた。そんな気がして。お味噌汁を飲んでも同じ感覚がしてしまってなんだか動きがぎこちなくなる。歌仙さんとは初対面なはずなのに。変なことを言って印象を悪くしたくない。妙な感覚を消し去るようにお味噌汁を飲んで、お茶を湯呑に注ぐ。歌仙さんに湯呑を渡すと「ありがとう」と笑ってくれた。

「鶯丸さんのご友人ということでしたけど、どこで知り合ったんですか?」
「平野くんと同じ部活に僕の親戚がいてね。たまたま迎えに行ったときに知り合ったんだ」
「よく呼ばれるんですか?」
「彼は僕を便利屋だと思っているみたいでね。全く困ったものだよ。君からも言ってやってくれないかい」

 歌仙さんはそううんざりした顔をする。どうやら食事や家事などは時折歌仙さんに任されているらしい。鶯丸さんも料理は得意なはずだったけれど、あの面倒くさがりの性格からして気分によっては作らない日もあるのだろう。平野くんも不得意ではないけれど部活で遅い日が多いと聞くし、そんな日は歌仙さんが呼ばれているに違いない。「一応言ってみます」と苦笑いを返すと「頼むよ」とため息を返された。歌仙さん曰く執筆で忙しいときなんかはほぼ毎日呼ばれるので、そういうときは諦めて泊まっていくことも多いのだという。歌仙さん専用の部屋まであるらしく、勝手に来て勝手に泊まっていっても何も言われないので好き勝手使っているとのことだった。
 歌仙さんの愚痴を聞いていて、ふと、思い出した。私が眠る直前。確か鶯丸さんの様子がおかしかったことを覚えている。なんだか苦しそうで、悲しそうで、必死に私を責めているような。そんな顔を、よく覚えている。鶯丸さんに何かをした記憶はないのだけれど、あんな顔は見たことがなかった。恐らく自分で気が付かないうちに何かしてしまったのだろう。そう思うと急に心が痛んでしまって苦しくなってくる。それに耐えようと口を閉じたはずだったのだが、気が付けば反対に口を開いていた。

「私、鶯丸さんに何かしてしまったんでしょうか」
「……喧嘩でもしたのかい?」
「いえ……ただ、鶯丸さんが苦しそうな表情をして、納得できない≠ニ言って……」

 歌仙さんが箸を止めた。何か知っているのだろうか。顔を上げると、歌仙さんはなんだか何も考えないようにしているように見えた。ゆっくり目を伏せて一口お茶を飲む。歌仙さんの目線を追いかけながら言葉を待つ。

「そうだね。君は彼にひどいことをしたと僕は思うよ」

 困ったように笑った顔。あれ、私、やっぱりどこかで。言葉が落ちる前に涙がこぼれ落ちて、視界がぼやける。歌仙さんはそれを優しく見つめて「でも、僕は君の味方だよ」と私の頭を撫でた。どうして。どうしてなんだろう、歌仙さん。こんなにも胸が痛いのは苦しいからなのか、悲しいからなのか。それとも嬉しいからなのか。自分の感情がぐちゃぐちゃになって頭が真っ白になる。自分が自分ではないみたいな感覚に襲われてどうすればいいのか分からない。

「君は覚えていないだろうけれど、僕は君にとってはじめての刀だからね」

 はじめての、刀?よく分からないそれにすら涙がぼろぼろとこぼれる。感情の抑制ができなくなっている。情けない。恥ずかしい。いい大人が初対面の人の前で子どもみたいに泣いて。そう思って袖でごしごしと目をこする。すると、歌仙さんが「ああもう、君はいつも」と当たり前のように言って私の手首をつかむ。ハンカチでぽんぽんと涙を拭いている顔はなんだか少しだけ怒っている。「そんなにこすっちゃいけないよ」と、怒っていた顔がなんだか嬉しそうに綻んだ。

「ねえ、主」
「……え、わ、私のこと?」
「今はそんなことは気にしないで」
「……はい」
「恋人はいるかい」
「はっ?! え、あ、い、いません、けど……」
「これまでずっと?」
「は、はい」
「もういい年齢だろう? どうしてだい?」
「なっ、失礼なこと言わないでください! どうしてって! ……どう、して、って」

 学生時代のことが頭を駆け巡る。初恋はいつだっただろう。ちょっといいな、と思っていた男の子はいた。サッカー部のエースで足が速くて、快活な人気者。顔だってちょっとカッコよかった。その人が初恋だったと思う。けれど、中学二年生のときに私はその人に告白されたのだ。嬉しかった。だって憧れていた人気者に「付き合ってください」と言われたのだから、嬉しくないわけがない。笑って「はい」と答えようとした。答えようと、したんだ。けれど、答えようとすればするほどに口が動かなくなった。どうしてこの人のこと好きなんだっけ? 本当にこの人のことが好きなんだっけ? 私にはもっと、もっともっと好きな人が、いたような気がしない? 私の中にいるもう一人の私が問いかけてくるような感覚が物凄く気持ち悪くて、「ごめんなさい」と気付いたときには口から言葉が飛び出ていた。
 思い起こせばすべてがそうだった。大学二年生のときに告白してくれた人にも同じような感覚があったから断った。隣の部署の先輩に告白しようと思って呼び出したときも、気付いたら全く違う話をしてそれっきりだった。

「誰かを忘れているんじゃないかい」

 歌仙さんの優しい声。責めるような声じゃない。寄り添ってくれているような声は、私の心を落ち着かせてくれる。
 誰かがいる。私の心の奥底で誰かが手を伸ばしている。私に気付いてほしいと、引っ張り上げてほしいと、必死に。暗い奥底に沈んでいるその人を助け上げたいのに。彼が誰なのか、私にはまだ分からない。分かることは彼が確かにここにいることだけだった。

「君は神様を信じるかい」
「……人並みには、信じています」
「神様は涙を流すと思うかい」
「…………どうでしょうか」
「僕はね、思うんだ。神様は案外寂しがり屋なんだろうと」
「どうしてですか?」
「そういう神様を知っているからかな」

 え、と間抜けな声が漏れる。歌仙さんは優しく笑うだけで詳しくは話さなかった。

「いくら寂しいからといってこれはひどいけれど」
「あ、あの、歌仙さん?」
「君も厄介なのに好かれたものだね」

 「僕は心配だよ」と言って歌仙さんはため息をつく。ちょうどそのタイミングで玄関の戸ががらがらと開いた音がした。鶯丸さんが帰ってきたのだろう。はっとしてまだ少し残っている涙の跡を拭いてまだ食べ終わっていない昼食に箸を伸ばす。すぐに鶯丸さんが顔を覗かせて「ようやく起きたか」と声をかけてきた。私が何か言う前に歌仙さんがその頭にチョップをして「せめて起こしてあげたらどうなんだい」と呆れて言った。鶯丸さんはそんなことは気にしないまま普通に席について「茶」とだけ言った。仕方なくお茶を淹れてあげると微笑みながらそれを飲み始める。昼食もまだだったようで、歌仙さんが微妙な表情のまま準備してあげている。歌仙さんが鶯丸さんのご飯の準備をしている間、なぜだか鶯丸さんは私がご飯を食べているのをじっと見ていた。あまりにも見られるので箸の持ち方が変なのか、とか口元に何かついているのか、とかいろいろ考えてしまう。

「……あの、何ですか?」
「美味いか」
「え、ああ、はい。美味しいですけど」
「そうか。それ以外には?」
「はい?!」
「何か感想はあるか」
「…………歌仙さんはとてもいい人だと思いました」
「そうかそうか。それだけか」

 最近言葉に棘が多い。ちょっと居心地の悪さを感じていると歌仙さんがその脳天にまたチョップを落とす。「困らせるんじゃないよ」と言った顔はやっぱり呆れていた。鶯丸さんは頭を摩りながら「はは」と笑うだけだった。よく分からない会話を目の前で繰り広げられている気がしてならない。言いたいことがあればはっきり言えばいいのに。そう思いつつもどうせくだらないことだろうと勝手に決めつけさせてもらった。
 歌仙さんは昼食を食べ終えると用事があると言い残して出て行った。鶯丸さんと二人になるのはなぜだか不安だったけれど、ここは鶯丸さんの家だから仕方ない。鶯丸さんから視線を外してゆっくりと瞬きをする。

「あ、そういえば。すみません気が付いたら眠っていて」
「構わない。適当に布団を敷いて適当に転がしておいたが大丈夫だったか」
「ころが……いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございました」

 鶯丸さんは湯呑を置いてから頬杖をついて、じっと私を見据える。「それはよかった」と呟いた声はどこか遠くから聞こえるようだ。なぜだろう。鶯丸さんと二人きりになった途端に頭が痛くなってきた。奥の方が針で刺されているような痛み。目がちかちかとしてなぜだか瞬きが多くなる。妙に心臓がうるさくなってきて、薄っすら額に汗が滲んできた。なんだろう、この感覚。汗をかいているのに体中は嘘みたいに冷たくなっていって、箸を握る指がほんの少し震えている。私は何に怯えているのだろう。

「弁解など望まない。済んだことは巻き戻せない」
「何の、こと」
「俺は君から一言、そう、たった一言が欲しかったんだ」
「え……」
「君の口から、君の声で」

 鶯丸さんが手を伸ばす。私の前髪をさらりと梳いて、額の汗を手で拭きとる。そのあとに横髪をすくって耳にかけた。鶯丸さんの手が離れて行ったあと、違和感がして触られたところに手を伸ばす。髪飾りだろうか。触った感じだと花の形をしているものを付けられたようだった。

「ずっと探していたぞ、主」






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







――春。

「主様、もうお薬はお飲みになりましたか?」
「大丈夫よ、平野くん。ありがとう」

 平野藤四郎くんは少し心配そうに顔を陰らせて「お体の具合はどうですか」と布団の横にお茶を置いてくれた。それにお礼を言ってから「今日は調子がいいの」と返したら、嬉しそうに笑って「本当ですか」と顔を上げる。私の身体が原因不明の病に侵されてからもう一ヶ月が経つ。政府から派遣されてきたお医者様には類似する病気の薬を渡されている。発症したばかりのころに比べれば病の進行が遅くなった気がするし、多少の発作は抑えてくれる。意外とこの薬で治るのではないか、と最近は少し明るい気持ちになってきた。
 平野くんとほのぼのと笑い合っていると襖が開く。「失礼するよ」と歌仙兼定さんが顔を出した。歌仙さんは私が審神者になったばかりのとき、政府から受け取ったはじめての刀、所謂初期刀だ。今でもみんなをまとめることが多く、はじめのころからずっと頼りにしている人だ。一代目近侍として割と長く働いてくれていたのだけれど、今は二代目の人と代わっている。本人としては自分の好きなことをする時間が増えたことを喜んでいたが、二代目近侍にはいろいろと苦労が絶えないらしい。

「今日は調子が良さそうだね」
「うん。ご飯も食べられそう」
「それは何より。あ、そうだ。そろそろ彼が内番のことで相談に来るようだけど、大丈夫かい」
「大丈夫だよ」

 歌仙さんは「それならいいんだけれど」と呟きながら視線を下に向ける。平野くんが持ってきてくれたお茶を見つけると歌仙さんは少し困ったように笑った。

「それ、平野には悪いけれど、飲んであげない方がいいかもしれないね」
「なぜですか?」
「先ほど台所で彼が隠していたらしい良い茶葉を出していたのを見たんだ」
「ふふ、そういうことでしたか。主様、このお茶は僕がいただきますね」

 平野くんはそう微笑んでお茶を私の近くから離してしまう。なんだか二人の微笑ましそうな顔が恥ずかしくなってきて「からかわないでください」とそっぽを向く。それにまたしても二人が笑うので、顔が赤くなっているのが自分でも分かってしまった。
 そこへ、廊下を歩く静かな足音が聞こえてくる。どきりと胸が高鳴るのとほぼ同時に平野くんが立ち上がる。振り返ると湯呑が乗ったお盆を持って、「では」と小さく頭を下げていた。歌仙さんも「くれぐれも無理はしないように」と笑って襖を開けて、廊下に出ると静かに閉める。襖の向こうで話し声が聞こえてからすぐに二人の足音が離れて行った。

「主、入るぞ」

 その声にどきりと先ほどよりも胸が高鳴る。はっとして手で髪を整えてから「どうぞ」とできるだけ穏やかな声で返事をすると、ゆっくり襖が開く。そっと視線だけ上げると優しい表情の鶯丸さんが湯呑が二つと茶菓子が載ったお盆を持っていた。その顔を見ただけで病気なんて吹っ飛んだかと思うほど、胸が軽くなって思わず口角が上がる。
 鶯丸さんは腰を下ろしながら「茶を持ってきたぞ」と笑う。湯呑を渡してくれたので「ありがとう」と受け取る。一口飲むと鶯丸さんも一口飲んで、「今日は良い日だな」と開けっ放しの襖の向こうに広がる空を見上げて言った。私も空を見上げる。青く高い空。真っ白な雲。それに映えるように舞う桜の花びら。「そうですね」と息をつくように、思わず声が溢れたほどきれいな空だった。しばらく二人で黙って空を見上げていると遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。鶯だった。なんだかおかしくて笑ってしまう。鶯丸さんは空から視線を私に戻して、ひどく穏やかな顔をした。そうして片手がすうっと私の方へゆっくり伸びてくる。少し緊張して固まっていると私の髪をすくって耳にかけた。それをくすりと笑ってから、「土産だ」と言って手を引く。鶯丸さんが触ったあたりに触れると、小さな髪飾りがついていた。すぐそばの机に置いてあった手鏡を取って見ると、きれいな色をした桜の髪飾りだった。

「ありがとう」
「もう少し薄い色のものと迷ったんだが、こっちでよかった」
「そ、そう?」
「思った通り君は可愛らしい色の方が似合う」

 ほんの少し。じっと見なければ分からないほど、鶯丸さんの頬が薄い赤色に染まっていた。それがとっても嬉しくて、とっても恥ずかしくて。けれど、今まで味わったことのない幸せな気持ちだった。鶯丸さんはまた先ほどと同じように私の方へ手を伸ばす。そうして今度はゆっくりと頭を撫でて「元気そうで安心した」と呟く。そのまま手を下ろしていき、私の手を優しく握ると「早く君と散歩がしたいものだ」と笑う。「ちゃんとお仕事はしてね」と手を握り返すと困ったような表情で「まるで俺がさぼっているような口ぶりじゃないか」と言って口をとがらせた。鶯丸さんは少しさぼり癖があるのだ。ここ最近は仕事ぶりを近くで見られていないのでどうなのか分からないけれど。二代目近侍として、真面目に仕事をしていてくれると信じている。

「そういえば内番のことで相談があるって歌仙さんから聞いたけど」
「ああ、そういえばそうだったか。まあ今は置いておこう」

 そう言うと体をこちらへぐっと寄せる。手はつないだまま、もう片方の腕を私の背中に回す。ぎゅうっと抱きしめるその力は強いけれど優しい。温かい体温に目がくらみそうなほど気持ちが落ち着く。きれいな空を見上げて「ふふ」と笑みが漏れた瞬間だった。きれいな青空。開けっ放しの襖。部屋を覗き込んでいる、鶴丸国永さん。

「ちょっ、つ、つるまっ」
「バレたか。お二人さんが今日も幸せそうで何よりだぜ!」
「うぐっ鶯丸さん!」
「鶴丸、襖を閉めておいてくれないか。主の体が冷える」
「了解だ!」

 あくまでいつも通りな鶯丸さんにあくまでいつも通りな鶴丸さんが返事をして、すぐに襖が勢いよく閉まる。先ほどよりほんの少し薄暗くなった部屋の中で、片手で鶯丸さんにしがみつくように抱き着いて大きなため息をつく。それを愉快そうに笑う鶯丸さんが少し憎い。わざとだ、この人。「もう!」と思わず声が出て鶯丸さんの背中を軽く叩く。鶯丸さんはなだめるように私の背中を撫でて「はは」と笑うだけで悪びれるそぶりはない。
 何回か背中をぽかぽか叩いてから思いっきりぎゅうっと抱きしめる。つないでいた手を離して両手で抱きしめられたので、私も両手で抱きしめ返す。永遠にこんな日が続けばいいのに。そう思うと、涙が溢れそうだった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――秋。

「主、大丈夫か」

 咳が止まらなくて返事ができない。ごほごほと咳が続く私の背中を鶯丸さんが一生懸命さすってくれる。ありがとうと言いたいのに言えない。せっかく持ってきてくれたお茶。うまく力が入らなくて湯呑を落としてしまった。それを平野くんが片付けているのを見て、謝りたいのに言えない。呼吸もまともにできないほどの激しい咳が続く。必死に止めても苦しい呼吸になるだけで声は出せない。歌仙さんが急いで持ってきてくれたいつもの薬はもう効かないのだろう。飲んでずいぶん経ったけれど、一向に治まらない。いつも以上に具合の悪い私を心配してか、先ほどから一人、また一人と集まってくる。口々に私を心配してくれている。大丈夫だよと言いたいのに言えない。それでもなんとか喋ろうと開いた口からは、ぽたぽたと血が流れていった。

「落ち着け、ゆっくり呼吸をしろ」

 ずっと優しく背中をさすってくれている手が、震えている。あんなに勇敢に刀を振るっている頼もしい手が。それがひどく悲しくて悲しくて、たくさん感情が溢れ出す。大好きな人を、愛している人を、こんなにも悲しませている。いつだって穏やかで冷静で、こっちが心配になるくらい優しい人が悲しんでいる。悲しくて情けなくてつらくて。そう思えば思うほどうまく呼吸ができなくなっていき、余計に鶯丸さんの手が震えていく。歌仙さんがこんのすけを呼んでいつものお医者様を呼ぶように頼んでいる。けれど、今は政府との通信が途絶えている時間帯。こんのすけは何度も何度も「申し訳ありません」と歌仙さんに謝り続けている。歌仙さんは「緊急事態なんだ、なんとかなるだろう!」と怒っている。鶴丸さんがそれをなだめながらもこんのすけに何度もお願いし続けている。平野くんは血塗れになった私の手を支えるように手を当てて泣きそうな顔をしている。鶯丸さんは震える手を必死に動かしながら、無理やり微笑んで「大丈夫だ、落ち着け」と繰り返している。苦しくて苦しくて、情けなくて。咳がぱたりと止まったのを最後に、私は意識を手放した。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――冬。

「主、大丈夫かい」

 歌仙さんが薬を白湯に溶かしながら顔を覗き込んでくる。私は約一週間、目覚めなかったそうだ。その間に来たお医者様に「持ってあと三ヶ月」と余命宣告を受けたことも聞いた。体の全身から力が抜けた。私、死ぬんだ。まだ歴史修正主義者との戦いは終わっていない。まだ大切なみんなの兄弟や友人を見つけられていない。まだ終わっていないことがたくさんあるのに。
 私が意識を失ったあと、止めるこんのすけを振り切って歌仙さんと鶴丸さんが政府本部へ走ったそうだ。何度も何度も門を叩いて助けを求めてくれたのだという。もちろん政府はすぐには応じてくれなかったが、次の早朝にはお医者様が来てくれたとのことだった。二人がすぐに対応してくれない政府への不満を抱えて本丸に戻ると、鶯丸さんが私を抱きしめたままずっと泣いていたという。「死ぬな」と何度も何度も言って。見ていられなかったよ、と歌仙さんは苦笑いした。あまりにもその姿が痛々しかったからと。

「人はあまりにも脆い。鶯丸はそれが怖いんだろう」

 僕もだけれど。歌仙さんはそうなんだかつらそうに笑って呟く。「大切な人が死ぬというのは、果てしない絶望だよ」と言って、歌仙さんは薬を溶かした白湯を渡してくれた。それをゆっくり飲むとほんの少しだけ咳が漏れた。「長生きしなくちゃね」と強がりで言った言葉はあまりにも弱弱しかったのだろう。歌仙さんは何も言ってくれなかった。
 机の上に置いた鶯丸さんからもらった髪飾りを手に取る。少しでも明るく、元気でいなくちゃ。一緒に手鏡も手に取って髪飾りをつけてから鏡を覗く。覗いて、息が止まる。頬がこけている。黒かったはずの髪は白が混ざって汚い。まるで別人のような、なんだかおばあちゃんになったような、自分がいた。意識を失ったあとも苦しみ続けていた私にお医者様が打った薬の副作用なのだという。髪は白く染まり続け、やせ細っていくのだという。醜い。自分がこんなにも醜いと思ったのは生まれて初めてだった。

「……歌仙さん」
「なんだい」
「…………みんな今日からしばらく、ここに来ないようにして」
「え?」
「お願い」

 こんな姿、見られたくなかった。歌仙さんにも、平野くんにも、みんなにも。もちろん、鶯丸さんにも。鶯丸さんはこの可愛らしい髪飾りが似合うと言ってくれたのだ。似合うと思ってこれを選んでくれたのだ。私だけのために。それなのにまったく似合わない自分が、悲しくてたまらなかった。

「主、せめて僕だけは許してくれないかい。薬を用意したり食事を運んだりしないといけないだろう」
「……」
「僕が嫌なら鶯丸を、」
「やめて!」

 びくりと歌仙さんの肩が震えた。気付いたらぼろぼろと涙が流れていて、髪飾りをぎゅうっと握りしめていた。見られたくない。鶯丸さんにこんな姿を見られて、悲しい気持ちにさせたくない。必死に震えを止めようとしている鶯丸さんを思い出すたびに胸が痛い。私が好きになってしまったから、私を好きになってくれたから、お互い好きになってしまったから、あんな顔をさせる羽目になったんだろうか。そう思うと今までの想いの全てが間違っていたように思えて悲しくてたまらない。

「……分かった。けれど、僕だけは許してくれるかい?」
「……うん」

 私の頭を優しく撫でる。はじめて会ったときからずっと、歌仙さんは何があっても私の味方でいてくれた。それに「ありがとう」と言ったら歌仙さんは穏やかに笑ってくれた。


 その日から何度も襖の前まで鶯丸さんが来た。襖の向こうから私に話しかけてくる声はとても悲しそうで、何度も何度も「開けてくれ」「顔が見たい」と襖に手を当て続けていた。特定の刀剣男士は部屋に踏み入れることができないように札を張ってあるせいで鶯丸さんは襖を開けることはできない。はじめの方は無理やり術を破ろうと刀を抜いたり何かを投げつけたりしていた。けれど、何をしても術が破れることはない。鶯丸さんはそれが分かると襖の前にへたり込んで、ずっとそこにいるだけになった。愛している人が私のせいで悲しんでいる。私が病気になったせいで。私がここにいるせいで。次第にか細くなっていく声が胸に突き刺さって、いくつも傷を作っているようだ。鶯丸さんも私も悲しい。やっぱり、私たちの想いは全部、間違いだったのかな。そう思ったら涙が止まらなくて。精神が不安定になって行くと病の進行も早くなって。私はもう布団から起き上がることすらできなくなっていた。
 声だけでも分かるほど弱っていく鶯丸さんの姿があまりにもつらくて。私はついに、鶯丸さんだけに術をかけた。私の部屋があるこの棟へは出入りできないように。私のことなど考えずにいられるように。時が忘れさせてくれる。人間はそういうものだった。つらいことも悲しいことも、時が過ぎていく中で忘れられる。心に何かを残したとしても小さな傷跡くらいで済む。それを知った歌仙さんはひどく怒ったけれど、私は術を解かなかった。私のことなど忘れてほしかった。こんな醜い姿ではもう会えない。鶯丸さんがくれた髪飾りもつけられない。弱っていく私を見て悲しむくらいなら、忘れてくれた方がずっといい。


 審神者というものは不思議なもので、この霊力に満ちた空間にいる間は自分では死ねない。寿命が来れば死ねるんじゃないの? そう鶴丸さんに訊いたことがある。鶴丸さんはこの本丸に来る前の記憶が残っていると聞いたからだ。鶴丸さんの前の主も女性で、鶴丸さんはとても親しかったと楽し気に話してくれたものだった。私の予想ではきっとその人とは恋人だったんだろうと思う。鶴丸さんの前の主は老衰死したのだという。老衰死は自分で死ぬ、のうちに入らないのだろうか。その疑問に鶴丸さんは一瞬口をつぐんで、きゅっと唇を噛んだ。すぐにいつもの明るい顔に戻って笑いながら教えてくれた。「審神者は刀でしか死ねないんだ」と。たとえ死因が老衰だったとしても誰かが刀で斬らない限り審神者は死ねない。審神者が寿命を迎えるその瞬間は数日前には全刀剣男士ならば分かるのだと鶴丸さんは笑った。「こう、ビビっと来るんだ。あ、何日後か、ってな」と笑う顔はどこか切なそうに見えた。寿命を迎えても刀で斬られなかった審神者は悪霊となってしまうのだという。鶴丸さんは自分の刀をそっと触って、「だから誰かが斬ってやらんとなあ」と笑う。鶴丸さんは斬ったのだろう。愛していた女性を自分の刀で。
 刀剣男士たちも不思議なもので、前の本丸の記憶がある者もいればない者もいる。記憶がある刀剣男士は政府の見解としては一度も刀解、破壊の経験がなく、また審神者への嫌悪感がなかった者に多い傾向があるという。記憶がない刀剣男士はその反対で刀解または破壊に遭ったか、審神者による虐待などに遭って嫌悪感が激しかった者が多い。

「主はこんな話を聞いたことがあるか」
「なに?」
「強い愛情や強い憎しみの想いを強く持ったまま死ぬと、別の時代に生まれ変われるんだそうだ」
「輪廻転生のこと?」
「それだそれ! ……俺は、信じているんだ」
「……そんなことがあったら素敵だなあ」
「だろう?!」

 鶴丸さんはぱあっと眩しいほどの笑顔を見せる。自分の刀の柄を指でこすりながらにこにこと笑う。毎日眠る前に本丸にいて楽しかったことを必ず思い出してから眠るようにしているのだという。いつか遠い未来、きっとまた出会えるであろうその人のことを想って。鶴丸さんがそんなに好きになった人とはどんな人なのだろう。あんまりにも楽しそうに話すから気になって聞いてみてしまう。前の審神者の話をされることは審神者にとって嫌なことらしい。けれど、私はちっともそんなことは思わなかった。鶴丸さんがこんなにも楽しそうな顔をするのだ。きっと素敵な人だったのだろうと、訊きたくなってしまう。

「そうだなあ……君によく似ていたかもしれない」
「ええ? 私に?」
「不器用で、ちょっと抜けていて。なんだか危うい人でなあ」

 照れくさそうに笑う。自分のことはよく分からないのでその人と似ているかは分からない。けれど、鶴丸さんが楽しそうなので「そうなんだ」とだけ返した。思い出話を話してくれる顔も楽しそうで、本当は誰かに聞いてほしかったのだろうと分かってなんだか私まで嬉しくなった。雪が積もった冬の寒い日、縁側に火鉢を置いて二人だけでお餅を焼いて食べたのだそうだ。この本丸にも雪が積もっている。真っ白な雪を見つめる鶴丸さんの瞳には別のものも映っているかもしれない。そう思ったらなんだか微笑ましくなってしまった。

「主」
「うん?」
「君は今のままでいいのか」
「……うん、いいんだよ、これで」
「悲しむ顔が見たくないのか」
「うん」
「人間は時が経てば悲しいことやつらいことを忘れられると聞いたことがある」
「そうだね」
「でもな、主。俺たちは人間じゃないんだ。人間のよりも気持ちの制御が下手で、気持ちを読み取るのも下手なんだ」

 それだけは忘れてくれるなよ、と鶴丸さんが私の頭を撫でる。その顔はとても優しくつらそうに見えた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――春。

 ついに私が死ぬ日が分かった。今日から三日後。それを伝えに来た歌仙さんの顔は、とても強張っていた。だからもうあまり動かない表情をなんとか動かして笑顔を作り、「歌仙さん」と掠れた声を絞り出す。歌仙さんは「ああ」となんだか苦しそうな声を出して、だらりと垂れている私の手を握ってくれた。

「私の最期、よろしくね」
「主。これは刀剣男士としてじゃない、刀として言わせてくれ」
「なに?」
「せめて最期のときは、鶯丸に頼んでやってくれないか」
「……」
「刀として敬愛する主の最期を共にできないことは一生の傷になる。動ける身を持っている今ならなおさらだ」
「……」
「君が術をかけたその日から、彼、一睡もしていないんだ」
「……」
「食事もろくにとっていない。平野が無理やり口にねじ込んではいるが、一切受け付けようとしないんだ」

 握られている手が少し痛い。歌仙さんの手は驚くほど冷たくて、ほんの少しだけ震えているように思えたけれど、もう私の手が震えているのか歌仙さんの手が震えているのか、そんなことすら分からない。
 鶯丸さんは私の部屋がある棟の隣、今まで離れとして使っていた棟の一番奥の部屋にいるのだという。病に侵されて霊力の制御ができなくなっている私の術が日に日に強まり、鶯丸さんはもうその棟から出られなくなっていた。まだ術を解くだけの力は残っている。残っては、いるのだけれど。鶯丸さんに会う勇気は一握りもなかった。こんなに情けない姿になってしまったけれど、せめて思い出の中だけでは。そんな風に考え始めるようになっていた。

「歌仙さん、よろしくね」
「……後悔するよ。君も、鶯丸も」
「私ね、生まれ変わったら必ず鶯丸さんを探しに行くよ」
「……」
「自分勝手だけれど、きっと、鶯丸さんを見つけるよ」
「……見つけたら、どうするんだい」
「愛していますって伝える」

 歌仙さんが俯く。その瞳には涙が浮かんでいて、きらきら光りながら一粒が落ちて行った。「君はばかだ、後悔する、必ず」と言いながら私の手をぎゅうぎゅう握って、堰を切ったように泣いた。
 そう。生まれ変わって、健康な姿で、また鶯丸さんに恋をするんだ。だから鶯丸さんのことを忘れないように強く強く想って死んでいこう。そうすればきっと見つけられる。また、出会えるはずだ。鶴丸さんが信じているように私も信じよう。そう思いながら、この命が終わる瞬間までは生きていくのだ。






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 主、主、主、主、嗚呼、主! なぜ俺を閉じこめる? なぜ俺を遠ざける? なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。こんなにも愛しているのに、あんなにも愛し合っていたのに。どうして君は、俺を突き放すんだ? 命が尽きかけていることを俺は知っている。もう一生会えないかもしれない場所に君が逝ってしまうことを俺は知っているんだ。こんなにも会いたいのに。こんなにも顔が見たいのに。こんなにも、君が恋しいのに。どうして君は応えてくれない? なぜなのか言葉で伝えてくれなくては分からない。俺は人間ではない。君の心を読み取りたくても分からない。こんなにも心が乱されるのは刀として生きてきた中ではじめてで、感情の波に呑まれてしまいそうで恐ろしいんだ。君の顔が見たい。君の声が聞きたい。君の手を握りたい。
 閉ざされたままの襖の向こうで激しい雨が降っている。主の命が尽きる日。うるさいほどの雨音だけが俺には聞こえている。雨でもなんでもいいから、誰か、彼女をつなぎ止めてはくれないか。そう祈っても願ってもどうせ思いは届かない。主は俺の言葉を完全に遮断したのだ。それが、ひどい裏切りだと、なぜ分からない。日に日に痛いほどに恋しかったはずの感情は真っ黒に染まっていた。憎い。憎くてたまらない。どうしてこんなに悲しくてつらくて寒くて、寂しい思いをしなくてはいけないんだ。君の顔を一目見られればこんな思いは消えるというのに、どうして君は応えてくれないんだ。憎い。憎くてたまらない。俺の刃では、死にたくないとでも言うのか。

「……必ず、必ずこの恨み、来世で果たしてやるぞ、主」

 傍に置いた己の刀を握る。今日この日、愛する主を斬るはずだったこの刀。そのためだけに在ったと言ってもいいくらいだった。けれど、主はそれを拒否した。

「必ず、君を俺が見つけ出してやる、そうして、俺を愛していると、その声で言わせてやる」

 主の最期の時が迫る。ぴりぴりと心臓が静かに疼いて、呼吸が落ち着く。己の刀を鞘から抜く。まさかこんな日が来るとは。俺も刀も思いもしなかっただろう。それに自嘲を漏らす。
 生まれ変わったら、君を探そう。そうして君を見つけたら嫌と言うほど俺を探させてやろう。君をたくさん困らせてやろう。そうして、君の口から、俺を愛していると言わせてやる。どんなに惨めな姿になっても、君の傍にいてやろう。死ぬまで離さない。二度と。

「一人で逝かせはしないぞ」

 己の腹に突き刺した刃は、ひどく、心地よかった。






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 まるで、映画を観ているようだった。頭の中で再生された映画の内容は、物語ではなかった。そうしてもちろん映画でもなかった。確かに、私の記憶だった。記憶に溺れそうになっている私を見つめているのは鶯丸さんで。鶯丸さんを見つめているのは私だった。ばかみたいに涙が流れて、ばかみたいに手が震える。鶯丸さんだ。鶯丸さんだった。私の中にずっといてくれたのは。私の中でずっと私に手を伸ばしていたのは、間違いなく、鶯丸さんだった。
 私が見つけると言ったはずなのに、私は記憶の全てを失って間抜けにも転生していたのだ。そこで理解した。鶯丸さんは私に呪いをかけたのだと。私が鶯丸さんを探せないように記憶を故意に消したのだ。そうして自分で私を見つけて、私の最後の願いを阻止したんだ。それが、鶯丸さんの恨みの塊だった。

「主」
「……うぐ、いすまるさん」
「俺はここにいるぞ」
「うぐいすまるさん」
「鶯丸は俺だ」
「ごめ、んなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」

 私はなんてことをしたんだろう。今なら分かる。私は、鶯丸さんに、ひどいことをしてしまった。悲しませたくなかったから遠ざけた。それが一番良いと前の私は思っていたけれど、今では分かる。それこそが一番の裏切りだったのだと痛いほど分かる。憎まれるのも恨まれるのも、呪いをかけられるのも当然のことだ。鶯丸さんの心に深い傷を残したのは紛れもなく私だった。
 鶯丸さんはいつの間にか刀を片手に持っていた。記憶を取り戻した今の私には、それが血で染まっているのが分かる。鶯丸さんの血だ。私の命が尽き、歌仙さんが刀を振り下ろしたと同時に、鶯丸さんも自身の刀で腹を突いて死んだのだ。前世の記憶がなければ知らなかったことだ。

「俺は確かに君を憎んだ。恨んだ。呪いもかけた。けれど、想いは変わっていない」

 そんなことは言われなくても分かる。本当に憎んでいたならば、本当に恨んでいたならば、私が転生した人生で苦しむような呪いをかけるのに。鶯丸さんがかけた呪いは「前世の記憶を忘れる」、たったこれだけだった。あんなにひどいことをしたのに。私の自己満足に振り回されたのに。この人は、それでも私を、好きでいてくれたのだ。

「君の口から、君の声で、聞かせてくれないか」

 血濡れた刀はいつの間にか消えていて、鶯丸さんの手は私の手をしっかり握っていた。震えていない。ただただ、優しくて温かくて、頼もしくて愛しい。そんな手の感触が嬉しくて、愛しくて。罪悪感で押しつぶされそうな私の心を救ってくれていた。
 転生して男は恨みを晴らすために這いずり回って女を探す。怒りと恨みでいっぱいの感情を全部まとめていたのが愛情だった。愛しくて愛しくて、だからこそ憎かった。愛しているからこそ女の最後を美しくするために、己の櫛で愛した女の髪を梳きたかった。愛しているからこそ最後の作品を見届けて、その人生を讃えるような素晴らしい作品を綴りたかった。愛しているからこそ最後の時や人生の節目を刻み、かけがえのない時間にしたかった。愛していたからこそ、私の最期をその瞳に焼き付けて、その刃で終わらせたいと思ってくれていたんだ。物語はすべて鶯丸さんの心の叫びだった。何も覚えていない私への心の叫び。その鋭い文字が私の心臓を貫いて、違和感となって湧き出たのだ。そのほんのわずかな綻びに鶯丸さんはさらに刃を突き立てて、ついには私を斬ったのだ。

「愛していました、愛しています、昔も今も、ずっと」

 溢れるように紡いだ言葉。鶯丸さんは私の体を痛いほど抱きしめて、ただただ、黙っていた。


material by トネリコ