≪注意事項≫
※現代・転生パロディです。
※鶴丸国永短編「神様の涙を君は見たことがあるか」、鶯丸短編「あなたの紡ぐ文字が何よりも刃」等と同じ世界設定です。
※上記の短編の鶴丸、鶯丸等がいた本丸と今回の大倶利伽羅がいた本丸は同一本丸ですが、主は別人です。
※主人公設定がしっかりしています。苦手な方はお気を付けください。
※別短編の設定を含みます。
※上記二作と違い、大倶利伽羅視点で話が進みます。




 嫌気が差す。湿気を含んだ生温かい不快な風。背後から聞こえてくるうるさい大人どもの機嫌取りの声。さっきから頼んでもいないのに声をかけてくる女どもの声。甘ったるい匂いと息苦しい空間。無理やり着せられたスーツは動きを制限するかのように思える。こぼれたため息を耳ざとく聞いた女がまた話しかけてきた。

「目障りだ。消えろ」

 そう言えば消える。後ろでぼそぼそと恨み言を言う声が聞こえたが聞こえないふりをした。
 くだらない。金の話や女の話、権力の話。何一つ求めていないのに誰もが俺を見つけるたび、その話しかしてこない。会場の中央でにこにこと馬鹿みたいな笑顔を浮かべる男を見る。父親だ。父方の高祖父の代から続く会社を受け継いだ代表取締役社長。能天気にへらへらと隙があるような人懐こいような笑みを浮かべているが、その実裏ではいとも簡単に人を斬り捨てたり利用したりする人間だ。誰もそんなやつの顔を知らない。誰しもが有能で、人が良く、責任感が強いだけの人間だと思っている。それは間違っていないとは思うが、それに隠された本当の顔を知らないまま手の平の上で転がされていることには一生気付かないだろう。
 その隣で穏やかな笑みを浮かべるのが俺の母親だ。社長令嬢としていつでも一歩下がって社長を見守る良き妻。そういうふうに誰もが思っている。けれど、その裏では一切妻らしいことはせず、ただただ金を貪るだけの存在だ。母親として俺に愛情を注いではいたが、俺が次期社長になる存在だからという下心が透けている。それに気が付いた瞬間、母親からの愛情をすべて下心だと感じるようになった。

「広光くん」
「…………話しかけるな」
「こんなところで何をしている。上原社長が君に挨拶をするために探しているから戻りなさい」
「挨拶など必要ない」
「まったく……。君は伊達の名を継ぐものなのだからそろそろ自覚を持ってくれないか」
「お前が継げばいいだろう」

 盛大なため息をついたこの男は山切長義(ながよし)。社長秘書をしており、何かと口うるさく関わってくるやつだ。秘書としてはかなり有能だそうで、俺の父親はどこへ行くにも長義を連れていく。長義が秘書になったばかりのころ、家族旅行にまで連れてきたときはさすがに驚いた記憶がある。長義がそういうふうに父に気に入られていく姿を見ていて内心清々した。これで俺に会社を継がせようなんて馬鹿な考えはなくなるだろうと。会社のことをあまりよく知らない俺から見ても長義は有能な人間だと思う。頭の回転が速く、気遣いができ、言動に無駄がない。冷たいと言われることもあるようだが仕事のパートナーとしては申し分ないのだろう。会社を継がせてもまったく問題はないはずだ。だが、それでも、俺の立場は変わらなかった。半年に一度行われるパーティーには必ず連れていかれる。知りもしない会社の人間から挨拶をされる。それが鬱陶しくてたまらない。

「はあ……君は変わらないな、昔から。まあ出席しているだけぎりぎり可ではあるが。広光くんを見ていると心配でね。君は俺の親戚にいる出来損ないと同い年なんだ。だからあんなふうに道を踏み外さないか見ていてはらはらするよ」

 諦めた様子で長義は「話しかけてきた人に失礼な口を利くなよ」と言い残して去って行った。会場内へ戻った長義に気味の悪い猫撫で声で女どもが声をかけている。大手企業の敏腕社長秘書で容姿端麗、人当たりが良く誠実に見える上、浮いた話のない独身。そういう要素は女を引き寄せるようだ。女どもには目の前にいる長義がまるでダイヤモンドにでも見えているのだろう。長義は女ども一人一人に笑顔を向けて対応している。それは第三者から見れば親切で優しい男に見えているだろう。だが、付き合いの長い者であれば一目で分かる。あれは面倒くさがっている顔だ。ただ社長が招いた客人である以上無下にはできない。一つも興味はないが興味がある振りをして今後も会社に益をもたらしてもらわなければ。そう考えているのがすぐに分かった。
 それに比べて。視線を少し左に向ける。黒髪の長身、鍛えられているのがスーツの上からでも分かるガタイの良さ。その見た目に反して優しい声で常に柔らかく笑う男。あいつのほうがよっぽど女からすればダイヤモンドのようだと思うが。あいつもよくやるものだ。長義とあいつが違うところは、嘘で塗り固めた対応をする長義と違い、あいつは何一つ嘘をついていないところだろう。話しかけてくる人すべてに関心を持ち、向けられた好意には一つ一つ対応する。
 長船光忠。あいつも俺が子どものころからの長い付き合いだ。光忠は十代のころから俺の父親の会社で働いている、今の会社内ではかなり古株の社員となっている。子どものころ、光忠ではなく長義が秘書になると聞いたときひどく驚いたのを覚えている。今でもそれなりの地位にいるが、当時は光忠が秘書になるのが当たり前だと思っていた。父も光忠に秘書をしてほしかったそうだが本人から断られたと言っていた気がする。光忠は父と母から全面的に信頼されており、両親が忙しく俺の面倒を見られないときはよく光忠の家に預けられたものだった。学校の授業参観も光忠が来たし、ひどいときでは三者面談にも光忠が来た。親代わり、とはまではいかないが俺にとっては兄のような存在なのだと思う。死んでも本人には言ってやらないが。
 ふと、光忠と目が合った。光忠は周りにわらわらと集まっていたやつらに断ってからこちらへ近付いてくる。困ったように笑いながら「退屈そうな顔だね」と声をかけてきた。

「帰ってもいいか」
「だめだよ。あと一時間くらいの辛抱だから」
「……」
「露骨に不満げな顔しないの」

 光忠は「まあ広光くんの気持ちは分からなくはないけれど」と笑う。一応光忠も少しはこのパーティーを退屈に思っていたようだ。それでよくあんなににこにこと笑顔を振りまけたものだ。そう思ったのが顔に出てしまっていたらしい。光忠はため息をつきつつ「これも仕事のうちだからね」と呟く。なんでも今度新たに取引することになった会社役員の娘が光忠の甚く気に入っているらしい。今日のパーティーにも娘を連れてきているそうで、その相手をずっとさせられていたようだ。光忠の接待のおかげで相手方会社役員はかなり上機嫌だったそうだ。

「そうだ、社長には黙っててあげるから裏庭に避難してみるのはどう?」
「裏庭?」
「そこの階段を下りて左に曲がったところ。噴水があるんだけど、会場からは見えないし誰もないから静かだよ」

 適当に誤魔化しといてあげるから、と光忠は笑った。
 光忠に言われたとおりテラスの階段を静かに下りる。会場から聞こえる喧騒がほんの少しだけ遠くなった。たったそれだけなのに、ようやくちゃんと呼吸ができたように思えた。きれいに手入れされた庭を歩いていく。そうして突き当りを左に曲がって、すぐ開けた場所が目に入った。大きな噴水があり、静かな水の音だけが聞こえている。ここなら静かにしていられそうだ。
 一つ大きな呼吸をしてから噴水に近付くと、ふとばしゃっと水の音が聞こえた。驚いて立ち止まってしまう。誰かいるのか。そう思い様子を窺うが、そういうときに限って雲が月にかかってしまい辺りが暗くなる。目を細めて噴水の周辺を見てみるが人の姿はない。気のせいか? そう思ってまた一歩ずつ噴水に近付く。こつ、こつ、と自分の靴音がやけに大きく聞こえた。そうして噴水の目の前で立ち止まる。そこでようやく気が付いた。ちょうど噴水が邪魔になって見えなかったが、俺とは反対側に誰かいる。内心舌打ちをこぼす。誰もいないんじゃなかったのか、光忠。光忠に文句を言ったところで意味はない。気付かれないうちに引き返そう。そう思って戻ろうとした瞬間、突風といっていいくらいの強い風が吹いた。思わず目を瞑ってしまう。それと同時に、噴水の向こう側にいるやつが「わっ」と声を上げたのが聞こえた。女の声だ。余計に面倒だ。そう思ったのががさっと何かが倒れた音と同時に「いった……」と悲痛な声が聞こえてくる。俺には関係ない。そう、戻ろうと思うのだが。「もう、どこ行ったんだろ……」という声とともにがさがさと音が聞こえてくる。無視するにしきれなくて、思いっきりため息をついてしまうと、相手もようやく俺の存在に気が付いたようだった。

「だ、誰かいますか……?」
「……何をしている。パーティーの参加者か?」
「あっ、は、はい、そうです! あの、大変申し訳ないのですが、このあたりにメガネって落ちてませんか? 何も見えなくて……」

 暗がりで顔がよく見えない。黙ったまま辺りを少し見渡してやる。そうして目を向けた噴水の中にきらりと光る何かが落ちている。少し近付いて見てみればそれがメガネであることはすぐに分かった。どうすれば噴水の中にメガネを落とすというのだろうか。呆れつつ「噴水」とだけ教えてやると女は「えっ噴水?!」と驚いたように中を覗き込んだ。そこでようやく気が付いた。その女は髪がずぶ濡れな上、ドレスもずぶ濡れになっていた。俺に礼を言いながら必死に噴水に手を入れて探し回っている。けれど、女の腕が水をかき回すたびにメガネも少しずつ移動していく。舌打ちをこぼしつつ仕方なく水に手を入れてメガネを取ってやる。「おい」と声をかけながら、女の顔をまっすぐに見た、その瞬間。雲がゆっくりと流れて月が姿を現す。辺りが月明りで照らされ、女の顔をようやく見ることができた。

「あ、ありがとうございます! 私ひどい近眼で……何も見えなくて本当に困っていたんです」

 そう笑った顔は、痛いほどに。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「クロダサポート株式会社の? 聞いた覚えはないな」

 帰りの車内、こいつに聞いた俺が間違いだった。目の前で怪訝そうな顔をしている長義は一応もらった名刺をめくって探してはいるが、ちらりと視線をこちらに向けた。「その人に何の用が?」と茶々を入れる気満々の顔をしている。光忠に聞くと余計に面倒なことになるが、ただの平社員に聞いても仕方がない。そう思って苦渋の決断で長義に聞くことにしたのだが間違いだったようだ。運転手と眠りこけている父親以外誰もいないこのタイミングで聞くのが一番安全だと思ってしまった。

「クロダサポートは黒田社長と長谷部常務しかちゃんと話していないな。その他の社員もいただろうからその中にはいたかもしれないが」
「それならいい」
「良くない。というのは何者だ?」
「お前には関わりないことだ」
「ならなぜ俺に聞いたんだ……」

 長義は深いため息をつきぶつぶつと文句を言ってくる。その間も一応まだ名刺を探しているようで、目線は手元に落ちたままだ。探しつつ長義は会社のことを説明し始める。クロダサポート株式会社というのは伊達警備のグループ会社で、もともと母が働いていた会社だそうだ。伊達警備からの出向も多く、非常に関わりの強い会社だと前にも聞いた覚えがある。今日みたいなパーティーにも必ず出席しているし、なんなら伊達警備の社員と同じように客人をもてなしているほどだそうだ。

「あ、これか」
「……話しているじゃないか」
「話したかもしれないが記憶にはない。ただの事務員のようだし、印象に残らなかったんだよ」

 ピッと俺に名刺を差し出した、かと思えば「いや、待て」と名刺を再び見る。名刺を確認してから長義は「女じゃないか」と驚いた表情を浮かべた。まさか俺が訊いた相手が女だとは思わなかったらしい。長義は驚いた顔のまま「どんな関わりが?」とまた質問を投げかけてきた。

「いいから見せろ」
「良くない。まさかとは思うが好みのタイプだったとかか?」
「お前には関係ない」
「ならなぜこの女のことを知りたがる?」
「…………返してもらうものがあるだけだ」
「君が人に物を貸したのか? 珍しいな」

 仕方なく、といった様子で名刺を差し出す。それを手に取って見るとという名前と会社名や会社連絡先などだけが書かれていた。顔写真などはないが、名前が聞いた通りのものだし間違いはないだろう。
 名刺を見ている俺をまじまじと見ていた長義が「なるほどな」と得意げに呟く。俺を指さして「背広はどこへやった?」と笑った。

「……どこでもいいだろう」
「あとシャツの袖がほんの少しだけ濡れている。何をしたんだ?」
「話すことは何もない」
「そんな態度では明日にでも光忠くんに教えてしまうかもしれないな」
「…………背広を貸しただけだ」

 長義は「それは見れば分かる」と呆れた声をあげる。そこに至るまでの経緯を話せということだろうが、話してやる義理はない。黙りこくっていると長義はようやく諦めたようで「その名刺はあげるよ」と言ってから、携帯電話を手に取った。
 子どものころからどこで見たか覚えていない光景が頭の中に在った。雲一つない夜。月明りが眩しいくらいに美しい満月。涼やかな風が心地よく吹く中で、目を細める。自分の髪が肌に当たるのが少しくすぐったいが、それよりも。目の前で穏やかに笑っている女から、目が離せないのだ。知っている。覚えている。その女は、彼女は、あんたは。俺の主だった。それだけを覚えている。俺が何だったのかとか、あんたとの関係の詳細だとか、そういうのは何も覚えていない。ただ、あんたは、俺の、きっともう二度と現れない人だったということは、はっきりと覚えている。この感覚をなんというのかは分からないままだ。
 俺の記憶はたまに混乱するときがある。はじめて光忠に会ったとき、俺の目には光忠が黒い眼帯をつけている姿が見えた。はじめて長義に会ったとき、俺の目には長義が布をまとっている姿が見えた。高校のやつ数人もそんなふうに別の姿が見えるときがあった。ただそんなことを人に言えるわけもなく、誰にも言わないままに十六年の月日が流れていた。
 十六年間、彼女の顔を忘れた日は一度もなかった。無意識のうちに探していた気がする。あんたは誰なんだ。俺の何なんだ。そんなふうに思ってずっと過ごしていた。そうして、今日、ようやくその答えを見つけた。
 メガネを俺から受け取った女はゆっくりとメガネをかけた。濡れているそれにちょっと驚きつつも恥ずかしそうに笑うと「すみません、ありがとうございます」と言った。そうして急いで鞄を開け、名刺入れを取り出す。だが、中にはもう一枚も残っていなかったようで。会社名と自分の名前を言うと、「失礼ですが、お名刺いただけませんか?」と申し訳なさそうに言う。長義から名刺は受け取っていたが、生憎そんなもの配り歩いてたまるかと思っていたので持ってきていない。持っていないと答えると女は「お名前をお聞きしてもいいですか?」と言う。ここで、俺が伊達と名乗ればすぐにパーティーを主催する父親と親族であることが知られてしまう。なぜだかそれを避けたかった。広光、とだけ下の名前を名乗ると女は困惑していた。だが、それ以上の情報を出すことはしない。黙っている俺に女は笑いかけて「広光さん、ありがとうございました」とまたお礼を言ってきた。立ち上がった女を見上げると、思った以上に服がずぶ濡れになっている。女の着ているドレスが少し透けて肌の色が見えていた。俺が指摘する前に自分でそれに気が付いたようで、少し体を横に向けて「すみません、お見苦しい格好で」と恥ずかしそうに俯く。聞けば上司に連れてこられたはいいものの、途中で同僚たちとはぐれてしまったという。人混みがあまり得意ではないらしくこっそり休憩をしようとここへ迷い込んだそうだ。そうして躓いて転んでしまい、メガネを落としてしまったそうだ。メガネを探してうろうろしていたら噴水で躓き、水の中に落ちてしまいこの有り様になったと苦笑いした。
 しばらく黙ったまま二人で噴水の端に腰を下ろした。パーティーがお開きになった雰囲気を察すると、女は立ち上がって「戻らないと」と言う。「その格好でか」と問いかけると女は「そ、それもそうですね……!」と慌てる。だから、上着を脱いで渡した。断られたが無理やり着せるように肩にかけると、「すみません」と深々頭を下げられた。「必ずクリーニングしてお返しします」と言い、「あの、どちらの会社にお勤めなんですか?」と申し訳なさそうに聞かれた。仕方なく伊達警備と答えると、女は恐縮したように「し、失礼しました、すみません!」と身を縮める。それが、妙に、不愉快だった。

「まあ、さすがに君の恋愛にまで口を出すつもりはないが。そんなことにかまけていないで会社を継ぐ準備をすることだな」
「黙れ」
「はは、威勢が良くて期待ができるよ」

 車が停まる。家に着いたようだ。眠っている社長を起こしつつ長義は「広光くん、今日はお疲れ様。来月は名刺を持ってくるように」と言って笑った。それを無視して先に車を降り、家には入らずそのまま道をまっすぐ歩いていく。その背中に運転手が「広光様! どこへ?! お送りいたしますよ?!」と声をかけてきたがそれも無視。長義が運転手には話をしているようで、後処理は任せておく。
 ようやく静かになった。自分の足音しか聞こえない空間に息をつきつつ足を進める。自宅から歩いて約十分のところに住んでいる親戚。長谷部国重というのだが、偶然にも俺が先ほど名刺を長義からもらったと同じ会社に勤めている。恐らく彼女が言っていた上司というのは長谷部のことだろう。そうか、長義に聞かずとも長谷部に聞けば一番手っ取り早かったのか。自分の早計さにため息をこぼしてしまう。それくらい、驚いていたのだ。目の前に彼女がいることに。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




か? うちの事務員だが何かあったのか?」

 長谷部はお茶を淹れつつ不思議そうな顔をした。長谷部のいいところは長義や光忠と違ってからかったり茶化そうとしたりすることがないところだ。そういうところはいつも助かる。長義のときと違い、すらすらと今日あったことを話せた。長谷部は若干頭を抱えつつ「あいつはなあ……少しドジなところがあってな……」と呟く。パーティーの途中で姿が見えなくなったから気にはしていた、と長谷部は言う。現地解散だったため、俺が背広を貸したことやずぶ濡れになっていたことは知らなかったそうだ。

「それでなんだ、俺が背広を受け取ってくればいいのか?」
「いや……自分で受け取る。連絡先だけ伝えといてくれないか」
「ああ、そういうことか。分かった……というか広光、お前まさかちゃんと名乗っていないのか?」

 伊達広光だといえば一発で分かるだろうに。長谷部の言葉にはそういう意味が込められている。それはそうだ。自分の親会社の社長の息子だと知れば向こうから必ず連絡を取って来る。会社だけ伝えたはいいが俺はただの学生で社員ではない。俺のことを学生だということも知らないだろうし、誰に連絡を取ればいいか困っているに違いない。
 長谷部は腰を下ろしてから「悪いが仕事をしながらでもいいか」と聞いてくる。いつものことなのでもう聞かなくともいいだろうに。いや、それよりも。いつ会っても仕事ばかりしている姿にはほとほと呆れてしまう。なんとなく既視感があるような気がしなくもない姿を不思議に思いつつ、ため息をついて「構わん」と答える。長谷部は「なら遠慮なく」と飛びつくようにノートパソコンを開いた。いつもいつも何をしているのか。そう思いつつちらりとパソコンを覗き込んだが、何かの会議に使うような書類を作っているようだ。自分の父親が経営する会社のグループ会社に対してこういうのもなんだが、所謂ブラック企業であることに違いはない。そういうところにいることに嫌気が差さないのか聞いたことがある。俺の問いに対して長谷部はどこか遠い目をして言った。「何かをしていないと落ち着かない」と。それを聞いた瞬間、シンプルに「こいつ、やばい」と思ったのを昨日のことのように思い出せるものだ。けれど、それさえ既視感があるのだから不思議な話だ。

「それにしても珍しいな」
「……何がだ」
「広光が人にものを貸したり、律義に自分で受け取ろうとしたりするのが。しかも相手が初対面の女だしな」
「……初対面、か」
「なんだ、知り合いだったのか?」
「いや」

 違う、と、言いたくない。気味が悪いと笑われたって構わない。俺はたしかに、あの女を知っている。けれど、どこで知り合ったのかとか、いつ知り合ったのかとか、そういうことは覚えていない。夢の中で、とか薄気味悪いことが頭に浮かんだが案外間違いでもないのかもしれない。それくらいあの女のことをぼんやりと知っているのだ。笑った顔や怒った顔、泣いた顔、真剣な顔、必死な顔。見たこともない表情がすべて簡単に頭に思い浮かぶ。話し声も、癖も、好きな食べ物も。なぜ知っているのだろうか。そして、なぜ確かめてもいないのにそれが真実であると分かるのだろうか。

「…………さあな」

 長谷部は苦笑いをして「曖昧な返答だな」と呟いた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「せ、先日は、あのっ、ありがとうございました!」

 がばっと勢いよく頭を下げた女はひどく緊張しているように見えた。誰かが余計なことを言ったんじゃないかとうんざりしたが、どうもそういうわけではなさそうだ。様子を窺いつつ「いや」とだけ短い言葉を返す。女は鞄からささっと名刺入れを取り出すと「先日は大変失礼いたしました!」と名刺を差し出してくる。あのとき渡せなかったことを気にしていたのだろう。もうすでに見たことのある名刺だったが、そう言うわけにもいかず大人しく受け取ることにする。
 長谷部から俺の連絡先を聞いたという女、と会うことになったのは、長谷部の家を訪れてから五日後だった。スマホに登録していない番号からの着信があったので出てみるとこの女で、ひどく緊張した様子でこの約束を取り付けてきた。指定されたのは駅からほど近いカフェで、時間より十分ほど早く着いた俺よりも早く女は到着していた。ただ、近くへ行っても反応がなかった。緊張した様子でじっとしていたので仕方なくこちらから声をかけると、まるでどっきりにかけられたかのように驚いたのでこちらが驚いた。あわあわとしながら「すっすみません! あのときは、その、暗くてお顔がよく見えなくて!」としどろもどろに謝罪される。ぺこぺこと頭を下げながら、きれいな紙袋を俺に差し出す。背広がきれいに畳まれて入っていた。クリーニングに出したらしく、カバーがかけられている。そこまでしなくていいだろう、と内心思いつつも言葉にはせず受け取っておく。女は俺に座るように言うと店のメニューを見せてくる。「お好きなものを頼んでください」と言うので、適当にアイスコーヒーを頼んでおいた。
 向かい合って座ると、あわあわしたままの女が至極丁寧なお礼と謝罪を再び述べ始める。俺が親会社社長の息子であることには一切触れてこなかったので、長谷部はそこを言わなかったのだろうと確信した。わざとなのかたまたまなのかは分からないが助かったことに変わりはない。店員が運んできたアイスコーヒーを飲みつつ女の話に相槌を打つ。心地の良い声だ。少し忙しなくも思えるが。なぜそう思えるのかはまだ分からない。

「あ、えっと、広光さんは伊達警備にお勤めなんですよね?」
「……学生だ」
「ガクセイ?」
「高校生だ」
「…………こっ、こう、高校生?!」

 今日一番の驚きっぷりだった。女は驚愕の表情のまましばしフリーズする。アイスコーヒーを飲みつつ言葉を待っていると、恐る恐る「あの、ど、どうしてあのパーティーに……?」となかなかに鋭い質問をしてきた。少し考えてから「父親に連れてこられた」と答えておく。嘘ではない。続けて「お父様がお勤めなんですね」とこれまた鋭いところを聞いてくる。意地でも答えたくない。少し視線を逸らして「答える義理はない」と言えば女は「すみません!」と慌てた様子を見せた。
 言葉少なにしていたからなのか、突然女が「すみません、あの、貴重なお時間をいただいてしまって」と申し訳なさそうな声を出す。俺がアイスコーヒーを飲み終わるのを待っていたようだ。オーダー表を手に取り「本当にありがとうございました。お届けに上がらないといけない立場なのに、来ていただいて申し訳ありませんでした」と深々頭を下げられる。そうして、立ち上がろうとした。

「おい」
「あっ、は、はい!」
「…………」
「あ、あの……?」

 呼び止めた、は、いいものの。そこからなんと言葉を出せばいいのか分からない。女は困惑した様子で浮かしかけた腰を再び椅子に下ろす。ここで別れたらもう会えない気がした。なにか繋ぐ糸がなければ、もう。
 困惑している表情をちらりと見る。小さく舌打ちがもれつつ店の呼び出しベルのボタンを押していた。隣のテーブルを片付けていた店員がすぐさま音に気が付き、ペンを出しながら注文を聞いてくる。アイスコーヒーとミルクティーを頼むと、女が持っていたオーダー表をちらりと見て「よろしいですか?」と貸すように言った。慌ててオーダー表を店員に渡した女は俺を見たり店員を見て謝ったりと忙しそうにしている。そこに追加を書いてから店員が去って行く。「あの……?」と首を傾げられた。ちらりと女の顔を見てからもう一度ため息を吐く。

「……なぜあの会社に入ったんだ」
「へっ」

 素っ頓狂な声。目をぱちくりさせて「志望理由ですか」と考え始める。真剣に考える姿はまるで試験を受けている受験生のようだ。別にそれほど聞きたい話題ではなかった。ただこの人自身の話が聞きたいと思った。どうすればこの場に残ってくれて、どうすれば自分の話をしてくれるのか。そういうことをするのが苦手だと自分で分かっている。あまりにも不自然な話題の振り方だったと思ってはいるが、仕方ない。

「お恥ずかしながら立派な理由ではなくて……実家が、貧乏なんです。高校を卒業してすぐに働きたかったですし、できればお給料の良いところがよくて……。就職活動はあまりうまくいかなかったんですけど、今の会社だけが採用してくれたんです。社員寮もありますし有名企業のグループ会社ですし、いやらしい話ですけどお給料も良くて。ここだ、って思いました」

 恥ずかしそうに頬を軽くかいて「すみません、こんな理由しかなくて」と苦笑いした。きゅっと握られた手。よく見てみると指先がささくれていたり、紙で切ったような傷がいくつかあった。長谷部が言っていた。「が頑張り屋なのは認めるんだが、どうも要領が悪くてな」と。基本的に人に厳しい長谷部がなんとなく居心地悪そうに言ったのが印象的だった。なんでも社内では少し、疎まれているところがある、のだという。基本的にどんくさくて、ミスが多く、落ち着きがない。ミスをしてもスマートに処理できるわけではなく、ただただ慌ててしまう。まあ、たしかに、そういう人間が仕事仲間だと思うと鬱陶しいと思われても仕方ないのかもしれない。長谷部曰く、今は社内の人間が面倒くさがってやらない書類を打ち込む仕事をすべてやっているのだという。掃除やお茶くみ、来客の対応。簡単だが毎日やるとなると億劫になるようなことを自らすすんでやりに行っている。長谷部はそういうところを「健気だとは思う」と言って、一応褒めていた。
 とくに何の気なしに服の袖をまくる。癖みたいなもので別に暑いわけではないのだが。何の理由もなかったその行動に女が少し反応したのが見えた。視線を向けると「あ、すみません」と慌てた。

「それ、すごくきれいですね」
「……それ?」
「腕の竜です。入れ墨ですか?」

 どくん、と心臓が高鳴ったのが分かる。腕の竜。ちらりと視線を落とす。左腕にあるこれは生まれつきのものだ。ただ不思議なことに、これはどうやら俺以外の人間には見えていないらしかった。自分の子どもにこんな痣があるなんてふつうの親は気にするだろう。だが、俺の両親は何も言わなかった。子どものころに不思議に思ってこの痣について聞いたことがある。それに対する両親の反応は「なんのこと?」という、子どもだった俺にとってはあまりにも冷たいものだった。光忠も、長義も、他の人間も。誰一人として俺の痣について何か言うやつはいなかった。ああ、これは人には見えないのだ。そんな非現実的なことを受け入れる他、この状況を説明する手段がなかった。それなのに。目の前にいる、知らないはずなのに知っている女には、これが見える。確信した。いや、元から俺は確信していたが、よりいっそう、強く思えた。俺はこの女を知っている。ずっと今まで無意識に探していた彼女で間違いない。

「……見えるのか」
「へっ」
「……いや」
「え、えっと……学校の校則とか、大丈夫なんですか?」
「ふっ」
「え?! すみません! へ、変なこと言いました?!」
「気にするな」

 思わず笑ってしまった自分に驚く。こんなに自然に笑いがこぼれたのはいつぶりだろうか。ふつう、こんな竜の入れ墨が腕に入っている男を見たら怖がるだろうに。きれいだとか、校則は大丈夫なのかとか。ずれているにも程がある。

「あんた、変わってるな」
「そ、そうでしょうか……?」

 きょとんとした顔。見覚えがある。瞳も、口も、鼻も、髪も、何もかも。見覚えがある。触った感覚が分かる。体温も声も、いつかに俺が、きっと、心から愛したものだと体中が叫んでいた。
 だがそれを伝える術が俺にはない。なんと言えば彼女に伝わるのか、なんと言えば気味悪がられないのか。何も分からない。黙ってしまった俺を不審がっているだろう。そう思いつつ彼女に視線を向けると、また俺の腕にいる竜を見ていた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ちょっとちょっと、なんで僕に何も教えてくれなかったの!」

 出迎えるなり光忠がそう喚いた。その瞬間に長義が余計なことを話したのだとすぐに察した。靴を脱ぎつつ光忠を押しのけて中に入る。中には先に来ていた薬研がいた。俺を見るなり「よ」と手を挙げる。一瞬、その手に黒い手袋をしているように見えて目をそらしてしまった。それに気が付いた薬研が苦笑いして「なんだよ、今日はつれない日だな」と言う。
 玄関から喚き散らかしていた光忠が戻ってくると「もう! 長義くんから聞いてるからね?!」と怒る。薬研もその様子に「なんだ、何かあったのか」と若干引き気味で俺に聞いてきた。どこまで聞いているのか、何を聞いているのか。ため息をつきつつ「何のことだ」と言っておく。光忠はキッチンに行きつつ「はぐらかしてもだめだよ」と言い、コップを三つとお茶を持ってくる。

「パーティーに気になる子がいたんでしょ?」
「おいおいマジか、ついに広光にも春が」
「お前らに話すとろくなことがない」

 黙ろうとして、少し考える。光忠と薬研はたしかに調子が良く、茶化したり変に盛り上がったりすることもしばしばある。だが、ただの一度も俺を馬鹿にしたり呆れたりすることはなかった。真面目に聞きつつ茶化してくる。そういう感じだった。
 話してみるのも、悪くないだろうか。妙な既視感、妙な錯覚、そして腕の入れ墨のような痣。俺の頭がおかしいのか、それとも。という女に出会ったことによりすべてが現実味を帯びていく。その感覚が心地よくもあり、不可解でもある。誰でもいいから答えを教えてほしかった。俺が変なのか、正しいのか。光忠が眼帯をしているように見えるのは、薬研が手袋をしているように見えるのは。を知っているのは。俺がおかしいからなのかどうなのか。

「…………という女が、妙に、頭から離れない」
「へえ、もう絶対に恋だね、それは」
「恋だな」
「茶化すな」
「すまん」

 一口お茶を飲んだ薬研は「で、そのって人はどこの誰なんだ?」と頬杖をつく。ソファに腰を下ろした光忠も聞く姿勢に入ったようだった。ようやく真面目に聞く気になったか。そうため息をつきつつ、ぽつぽつとあのパーティーでのことを話した。噴水のところで女に会ったこと、妙に鈍くさくて放っておけなかったこと、月明りでその顔を見た瞬間から目を離せなくなったこと。そして、俺が、その女のことを、知っていたこと。

「……気味が悪いと笑えばいい。理解を求めたわけじゃない」

 俺の話を黙って聞いていた二人は、そのままお互いに顔を見合わせた。そうして無言のまま何か会話したかのように小さく頷く。再び俺に視線を戻す。光忠はどこか柔らかい顔で笑っていた。そうして穏やかな声色で「他には?」と言った。

「他?」
「何か夢で見たとか、何ももうない? 自分で変だと思っていることとか」
「…………妙な錯覚を見ることがある」
「どんな?」
「……光忠に眼帯が見えたり、薬研に手袋が見えたり、長義に布が見えたり」

 そう言った瞬間だった。光忠と薬研が思いっきり身を乗り出して俺の肩をつかむ。そうして今まで見たこともないような、喜んでいるような顔をした。「からちゃん!」だの「おおくりから!」だの、意味不明な言葉を何度も言いながら何度も俺の肩を叩いたりつかんだりを繰り返す。鬱陶しくて「やめろ」と押しのけると「すまん」と薬研は大笑いした。

「間違っちゃいねえよ、大倶利伽羅」
「ああ、おかしくなんかないよ、伽羅ちゃん。正しい記憶だよ」
「……さっきからその、オオクリカラだのカラだの、何を言っている?」
「えっ、覚えてるんじゃないの?」
「何をだ」
「本丸のこととか、刀剣男士だったときのこととか」
「いや、でも俺たちの当時の姿を覚えてるんなら分かってるんじゃないのか?」
「どういう意味だ」
「君は大倶利伽羅という刀だったじゃないか。僕は燭台切光忠、薬研くんは薬研藤四郎。それを覚えているわけではないのかい?」

 意味が分からない。俺がそういう顔をしているのだろう。二人とも先ほどまでの表情を一気に曇らせ、「どういうことだ?」と考え始めた。二人にもっと詳しく話すように言うと、戸惑いつつではあったが説明をはじめる。
 説明された内容は到底信じられるものではなかった。俺が元は日本刀で、それを人と成す審神者の力によって刀剣男士として戦っていたこと。本丸という場所で光忠や薬研、長義らとともに暮らしていただけではなく、歴史上ではもっと昔から光忠たちとともにいたこと。光忠は一部を、薬研はすべてを覚えているが、どうやら長義にはその記憶がないらしいこと。今までは俺のことも記憶がないと思っていたということ。そうして、俺が知っていると思っているあの女は、恐らく、その審神者であったということ。

「……意味が分からん」
「鶴丸と一緒のパターンか?」
「いや、鶴さんよりちゃんとした記憶として覚えているような感じはするんだけどね」
「光忠の隣人に何の関係がある」
「鶴さんも元刀剣男士なんだよ」
「……なあ、広光。お前妙な刀を持ってたりしないか?」
「持っているわけがない。……妙な刀は持っていないが」
「他に何かあるのか」

 薬研は興味深そうに俺の顔を覗き込む。長袖をまくって見せると、二人とも不思議そうな顔をする。やはり見えないか。二人の話を信じるとすれば、同じ存在であったであろう二人にもこれが見えると思ったのだが。そう思いつつ「何でもない」と腕を引っ込めようとしたときだった。光忠が俺の腕をつかんだ。そうして、目を丸くて「ねえ、もしかして」と声を震わせる。

「あるんだね、入れ墨」
「……見えるのか」
「見えない。見えないけど、知っているよ」

 光忠が笑った。そうして、俺は二人の話を信じることにした。
 もっとたくさん、詳しい話を聞いた。俺が知っていると言う女は恐らく本丸の二代目審神者であったこと。光忠は初代審神者の記憶しかないそうで、その辺りはすべて薬研が話してくれた。二代目審神者は明るく笑顔の絶えない女で、刀剣男士たちからは慕われていたそうだ。俺は近侍というポジションにいたそうだがそれは審神者が俺を大層気に入って無理やり就かせたポジションだったと薬研は笑った。俺は嫌がっていたそうだが、目を離すとすぐに転んだりはぐれたりする審神者に対し、次第に世話を焼くようになったと言われた。そうしている間に徐々に距離が近付き、最終的には、所謂恋人という関係になったそうだ。

「まあ大倶利伽羅と大将は俺らに隠してたみたいだが」
「バレバレだったんだよね?」

 自分のこと、なのかもしれないが実感はない。それなのになぜだか妙に居心地が悪い。そんな妙な気持ちになりつつ二人の会話を黙って聞く。近い昔の話をするように楽し気に、二人の声は俺の耳に馴染みよく響いた。
 ふと、視線を窓のほうへ向ける。高層階の窓から見える空はいつもより近く見えた。雲がかかっていて星は見えない。月も見えない。手を伸ばせば届きそうなのに、月は見えなかった。いつかに見た月を思い出す。明るくて、眩しくて、近くて。手が届きそうだと誰かが笑った。あの月を取ってよ、などとくだらないことを言われた。取ってどうする、などとくだらないことを返した。そうして彼女は笑って言った。ふたりだけの宝物にしちゃおうよ、と。くだらない。くだらないのに、なぜだか、頭から離れない。馬鹿馬鹿しいにもほどがあると思っているのに不思議とそれを受け入れている自分がいる。
 俺は彼女に月を渡せたのだろうか。あまりにも滑稽な自問をする。そんなわけがない。取れそうなくらい近くに見えるだけで、あれは指一本触れることのできないところにある。言わなくとも誰もが分かっていることだ。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ひっ、広光さん!?」

 長谷部から聞いた大体の退社時間にぶらついていると案外あっさり会うことができた。俺の姿を見るなりひどく驚いた様子では恐る恐る俺に近寄り「あ、あの、どうかされたんですか……?」と首を傾げた。が勤める会社周辺は学生が立ち寄るような店はない。こんなところに学生である俺がいることを不思議がっているのだろう。

「こんなに暗い中で危ないですよ。親御さんも心配しているでしょうから、」
「あんた」
「あ、はい!」
「時間はあるか」
「え、あ、はい……?」
「ついてこい」

 戸惑いつつ俺の少し後ろを歩き始めた。はそうっと息を潜めるように「あの、どこへ?」と小声で聞いてくる。どことは決めていない。答えがないのだから答えようがない。「嫌なら来なくていい」と言うと、は焦ったように「あ、いえ、あの嫌ではなんですけど!」と俺の顔を覗き込む。何を考えているのか読み取ろうとしているのだろう。できるものならやってみてほしいものだ。内心そう思うと、ほんの少しだけ表情に溢れ出てしまったようだ。は不思議そうな顔をして「なんで笑ったんですか?」と首を傾げた。驚いた。笑ったつもりはなかった。表情に出てしまった自覚はあったが、気付かれるほど大きく表情を崩したわけではないと思う。
 歩いて行った先に小さな公園があった。幼児が遊ぶ用の簡単な遊具と砂場くらいしかない公園だ。そこに入って行くともよく分からないまま俺についてきた。座りづらいブランコに腰を下ろす。も俺の隣に腰を下ろすと、「あ、もしかして」と少し苦笑いをして笑った。

「家に帰りたくないとかですか?」
「なぜそう思った」
「私も広光さんくらいの年齢のとき、家に帰りたくなくて寄り道をしたことがありますよ」

 喧嘩をしたのかとか成績が落ちてしまったのかとか、どうでもいい心配ばかりしてくる。その声に耳を傾けているだけで、不思議と心が落ち着いた。ぎいぎいと鈍い音を立てるブランコが邪魔だと感じるくらいに、俺の耳は彼女の声だけを求めていた。
 見上げた空は今日も曇っている。月明りが雲の向こう側からなんとかこちらを照らし出そうと光っている。晴れないだろうか。そうぼんやり思って見ていると、も同じように空を見上げた。その横顔をちらりと見る。知っている。覚えている。ずっと昔から、俺はあんたを知っている。それをなんと伝えればいいのか分からない。伝えるべきなのか否なのか、それさえも。
 は第一ボタンまできっちり止めてあるボタンをひとつ外す。大きく息を吐くと「不思議ですね」と呟いた。俺が何がと問う前に、どこか照れたように笑って「なんだが落ち着くんですよね」と頭をかいた。空に笑いかけるようにすると「晴れないかなあ」と独り言を呟く。

「……月が」
「はい?」
「月がほしいと思ったことはあるか」
「へっ、月ですか?」

あの月を取ってよ。声が頭の中で聞こえた。今よりも無邪気な声で、今よりも子どもっぽい話し方で。それを言ってはくれないだろうかと願ってしまう。思い出してはくれないだろうか。俺と同じように、俺を知っていると思っていてはくれないだろうか。月が見えたその瞬間に、思い出してはくれないだろうか。早く姿を見せろ。早く光を見せろ。雲に隠れた月にそう願う。

「あはは、ロマンチックですね。月が取れたら素敵ですけど、取ったあとはどうすればいいんでしょうね」

 真面目に考え始める。楽しそうに「アクセサリーにしてみるとかどうでしょうか」と笑う。贅沢なやつだ。そう言ってやるとは恥ずかしそうに「た、たしかに!」と笑った。

「じゃあ、ふたりのひみつにしちゃいましょうか」

 無邪気に笑う。その顔が昔と重なる。知らないはずの昔。知っているはずの昔。あの月もそれを知っているだろうか。
 ぎい、とブランコが嫌な音を立てる。立ち上がった俺を追いかけて立ち上がろうとしたを遮るように、身を屈めた。ほんの少し触れるだけのそれには暗がりでも分かるほど顔を真っ赤にして、ブランコから落ちた。よほど驚いたのだろう。「大丈夫か」と声をかけると真っ赤な顔のまま、「え、あ、はい!」と急いで立ち上がる。それからすぐにハッとした顔をして俺の顔を見上げた。口元を手で隠して「な、なに、なにするんですか!」と余計に顔を赤くした。

「は、はんざい、はんざいになってしまうので!」
「は?」
「いえ、あの、広光さん高校生じゃないですか……!」
「怒るポイントが違うんじゃないのか」

 はまたハッとした顔をして「そ、そうです、そうですよ!」と真っ赤な顔で俺を睨んだ。それがおかしくて笑ってしまった。

「卒業すればいいのか」
「そっ、そういうわけではなくてですね?!」

 風が吹いた。ゆっくりと辺りが明るくなっていく。空を見上げると雲の流れが速くなっていき、月が少しずつ姿を現していく。見事な満月、には少し足りない。まだほんの少し欠けている月が雲を払うように眩しく光る。その月明りに照らされたの白い肌に触れたくて、瑞々しく光る唇に触れたくて。知っている。覚えている。俺はあんたを知っているんだ。そう叫びたくて。思い出してくれ。俺を知っていると言ってくれ。そう願ってやまなくて。伝えたい言葉や気持ちをうまく声に乗せられない。その代わりに手が伸びた。彼女の髪に触れると、さらりと指の隙間をすべっていく。その感覚ですら懐かしく愛しい。

「あんたがほしい。どうすればいい」

 素直にこぼれ落ちた言葉にはきょとんとした。言葉の意味を理解しようとぐるぐる思考を巡らせているように思えた。そうして理解した瞬間、一瞬引いた赤色がまたの顔を染める。その顔も知っている。思わず小さく笑ってしまうと、はすぐさまそれに気が付いて「お、大人をからかわないでください!」と顔を背けた。風に揺れた髪の隙間からの耳が見えた。耳の裏まで赤い。するりと髪が流れ、白いうなじが無性にきれいに見える。触れたら怒るだろうか。それとも。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







「おい」

 低い声が頭の上から降って来た。上を見ると怖い顔をした大倶利伽羅が「何をしている」と新たな言葉を紡いだところだった。大好きな声。それに思わず顔がにやけてしまったのだろう。大倶利伽羅はなんとなくバツが悪そうな顔をしつつ「何をしていると聞いている」と言って私の隣に腰を下ろした。先ほどまで空を見上げていた顔は自然と大倶利伽羅のほうを向き、顔はにこにこと自分で分かるほどご機嫌に笑っているだろう。そんな私をちらりと横目で見ると、大倶利伽羅は一つため息を吐く。

「隠し事はできない質か」
「え、なんのこと?」
「……他のやつに黙っていようと言い出したのはあんただろ」

 頭を抱えている。話がよく理解できなくて首を傾げていると、大倶利伽羅は呆れた顔をして私のでこをピンッと軽く指で弾いた。

「顔に出すぎだと言っている」

 ふ、と優しく笑った。そう言われてようやく、私が日中も表情が緩み切っていたのだと気付いてしまった。照れつつ謝ると大倶利伽羅はため息をついて少し笑うだけにしてくれた。大倶利伽羅は私から視線を外して空を見上げる。「あれを見ていたのか」とまっすぐに月を見ていた。
 満月の夜が好きだ。夜なのに明るくて、眩しいのに優しい光に満ちていて。さみしいような、満ち足りているような。そんな気持ちになれるのだ。だから、曇っていたり月が欠けている夜は、無性に不安になってしまうことがある。真っ暗な夜は怖い。自分がどこに立っているのか分からなくなることがたまらなく、怖い。満月は私にとって、代わりだった。手を取り、導いてくれるひとの代わり。幼くして両親や友人と引き離され、独りぼっちでこの本丸に連れてこられた私にとって、明るく優しい満月はそういうものだった。まあ、それはもう、昔の話なのだけれど。今はもう代わりなんてなくったって、さみしくないから。

「今日のお月様はすごく大きく見えるね」
「満月に近いからだろう」
「え、まだ満月じゃないの?」
「小望月だ」
「こもち……?」
「満月は明日だろうな」

 よく見ろ、と私に顔を寄せると指をさす。「あの辺りだ」と言われた箇所を見ると、たしかにまだ真ん丸じゃない。よく見ないと分からないくらいだ。大倶利伽羅がそれに気が付くなんてちょっと意外かも。そう思っているとぴたりと大倶利伽羅の頬が私の頬にくっついた。

「好きなのか」
「え?」
「あんたはよく月を見ているだろう」
「……うん、好きだよ。見ていると落ち着くんだ」

 へらりと笑う。大倶利伽羅は月を見上げたままじっと黙っていた。柔らかな体温を感じると、まるで月に触れられたように思えた。きっと空に浮かぶ月もこんなふうに温かいのだろう。そうぼんやりと思っているとまた顔がにやけてしまう。すぐに気が付いた大倶利伽羅が「何がおかしい」と不満げに呟く。おかしくて笑ったんじゃないのに。不満げな声色がなんだかかわいくて、ちょっとからかってみたくなった。そうっと手を伸ばして「あの月を取ってよ」なんてくだらないことを言ってみる。大倶利伽羅のことだからきっと取れるわけがないだろうって言うんだ。そう想像していたのに。少し黙ってから大倶利伽羅が言う。「取ってどうする」と。ちょっと予想外の返答だった。絶対にくだらないって言われると思ったのに。はじめて会ったときからずいぶんと変わってくれたんだなあ。私に合わせてくれたのかも、なんて調子に乗ってしまう。

「ふたりだけの宝物にしちゃおうよ」

 そう小指を大倶利伽羅に向けた。そうすると大倶利伽羅はそっと小指を絡ませて、「ああ」と短く返事をしてくれた。それがうれしくて、また調子に乗ってしまう。小指を絡めたまま、顔を少し話して頬に唇を軽く当てた。「月よりも今は大倶利伽羅のことが好きだけどね」と笑うと、大倶利伽羅はゆっくりと小指をほどく。自由になった手をそのままつかむと、ぐいっと大倶利伽羅のほうへ引っ張られた。そこそこ強い力だったから反射的に抵抗する間もなく、すっぽりとその腕の中に倒れこんでしまう。

「知っている」

 耳元で囁かれた言葉は、短くてなんでもないものだった。けれど、私にとっては世界中どこを探したって見つからないもので、何にも代え難いもので。きっと今、私はこの世の誰よりも幸せなのだろう。なんて、おこがましいことを思ってしまうほどだった。


material by MUIKKU