≪注意事項≫
※現代・転生パロディです。
※鶴丸国永短編「神様の涙を君は見たことがあるか」、鶯丸短編「あなたの紡ぐ文字が何よりも刃」等と同じ世界設定です。
※上記の短編の鶴丸、鶯丸等がいた本丸と今回の山姥切国広がいた本丸は同一本丸ですが、主は別人です。
※山姥切国広の転生後設定と主人公設定がしっかりしています。苦手な方はお気を付けください。
転生後の山姥切国広が少しいじめに遭っているような描写があります。お気を付けください。
※上記二作と違い、山姥切国広視点で話が進みます。




 伝えられないまま飲み込んだ言葉は、体のどこに仕舞われていくのだろう。
 ぼんやりそんな分かりもしないことを考えて空を見上げる。青い空に浮かぶ白い雲。眩しいほどに高くきれいな空に嫌気が差した。パーカーのフードを目深にかぶり直して立ち上がると、どうしようもなく広くて息苦しい現実の光景が広がる。あと何年、俺は生きていくのだろう。それを考えると体が重くてたまらなくなる。人間なんかに生まれるんじゃなかった。ため息をこぼして、仕方なく足を進めた。
 口を閉じたままいつも通り自分の席につく。程なくしてクラスメイトたちが教室にどんどん入ってきて、すぐに辺りは騒がしくなる。窓側のちょうど真ん中の自分の席の周りだけが静けさに包まれている。うるさいのが嫌いというわけではない。賑やかなことは悪いことではない。誰も俺のことを見ていない。それなら周りがどうであろうがいいのだ。
 今日も退屈な一日がはじまる。頬杖をついて窓の外を眺めれば、眩しさで目が眩む。どこを見ても眩しい。痛いほどに眩しい世界は、なんだか自分には不釣り合いな気がした。明るい世界に嫌気が差す。眩しい空にも、澄んだ空気にも。何もかもに嫌気が差す。睨みつけるように外を見ていると、突然かぶっていたフードが脱がされる。驚いて顔を上げると担任が「ホームルームはじめるよ」と笑っていた。それに返事ができないまま黙っていると、担任は慣れているようにまた笑いかけてから教卓へ歩いて行った。

「それじゃあホームルームはじめます。出席を取るから元気に返事をしてください。では、相川さん」

 どんどんクラスメイトの名前が呼ばれ、元気だったり無気力だったりする返事が聞こえる。隣の席の女子が近くの席の女子と私語をしていると「こら、そこ」と注意をされた。女子たちはきゃっきゃっ言いながら「すみません〜」と担任に謝り、ようやく静かになる。担任は女子たちから人気がある。名前は堀川国広。小柄だが整った容姿をしていて女子たちがしきりに「かわいい」と言っているのをよく見る。赴任してきたばかりのころは男子たちからは馬鹿にされていた。けれど、怒ると怖くて実は腕っぷしが強いという噂が広まり、今では男子からも支持されている教師の一人になった。担任が人気教師になったころだろうか。クラスの男子が俺の近くでひそひそと言った。「名前は同じでもこっちはな」と。国広という名は俺と同じもので、担任もはじめて俺の出席を取ったときに反応していたのを思い出す。同じ名前だね、と。妙に印象強い言い方だったそれがきっかけなのか、俺は担任のことが少し苦手だと感じるようになった。

「山切くん」
「……はい」
「はい、今日はみんな欠席も遅刻もなしですね」

 二限目の体育が座学になったこと、テスト期間が近付いていること。そんな連絡があってホームルームはいつも通り終わるかと思われた。担任が「あともう一つ」と名簿を閉じながらにこやかに話すのをぼんやり眺める。

「明日、隣のクラスに転校生が来ます。困っていたら声をかけてあげてくださいね」

 ホームルームが終わると担任は教卓から下り、そのまま教室から出て行った。その姿にほっとするのはなぜなのだろうか。分からないことだらけだ。俺が生きてきた十七年間は分からないことばかりで、自分は病気なのではないかと不安になる。
 都心のど真ん中で生まれ、そこそこ裕福な暮らしを与えられ、そこそこ恵まれた環境に育った。友人は少なかったが寂しくはなかった。両親からはあまり良く思われていないようだったがそれでも寂しくはなかった。一人でいても人に笑われても。寂しいとか悲しいとかそういう感情はなかった。ただ、何かが欠けている。そんな自分でも分からない喪失感だけを抱えて生きてきた。
 その妙な喪失感を抱えていたせいだろうか、俺は幼いころから変な幻≠見続けている。たとえば子どものころ、親から「たまには外でお友達と遊んできなさい」と家を追い出されたどり着いた公園。人付き合いが苦手なのは昔からだ。どの輪にも入れず空いていたタイヤの上に座ってぼんやりしていたとき。突然、目の前が真っ暗になった。驚いて辺りを見渡しても誰もいないし何もない。真っ暗な世界にただ怯えていると、ふうっと辺りが明るくなる。そこは古い街。わずかな月明かりだけが辺りを照らしているようだ。きょろきょろと辺りを見渡して少し足を進める。すると、ガサッと大きな物音がして、驚いて振り返ると。見たこともない化物を音もなく斬り裂く、白い布をかぶった男がいたのだ。自分と同じ髪の毛の色に、瞳の色。驚いたまま瞬きをしたら、見慣れた公園の光景が広がっていた。夢だったのかとそのときは思った。けれど、それ以来、何度も何度も似たようなことが起こるようになったのだ。あるときは見たことのない和室にいたり、あるときは化物と戦っていたり。美しい刀をきらりと輝かせ、布をかぶった男が口を固く閉じて俺を見ていたり。白昼夢なのだろうか。それにしては、少し、現実味があるような。
 子どものころは怖くてすぐに両親や小学校の先生に相談したりした。けれど、誰一人俺の話を真面目には聞いてくれなかった。はじめのうちは優しく「夢を見たのよ」と言っていた両親も、次第にうんざりしていった。今では俺のことを気味悪がり、あまり積極的に関わろうとはしてこなくなった。小学校の先生も、当時仲が良いと思って心を開いていた数少ない友人たちも。気付けば誰も俺の周りにはいなかった。俺のその話はすぐに広まって嫌がらせを受けるようになり、俺はもうその幻≠フ話は誰にもしていない。
 誰も俺の話を聞いてくれない。そう思い始めたとき、一人だけ俺のことをやたら気にかけてくる女子がいた。中学の同級生だったそいつはずっと俺の近くにいて話しかけてきてはお節介を焼いていた。はじめは鬱陶しかったが次第に少し自分の話を聞いてくれることが嬉しくなり、少しずつではあったが俺も言葉を出すようになっていた。けれど、それも長くは続かなかった。ある日そいつと話しているときに幻≠ェ現れたのだ。駅のホームで突然。化物が現れていつも現れるはずの布の男は出てこない。殺される。俺にはどうすることもできない。そう思ってしゃがみ込んだ瞬間に腕を持ちあげられた。「大丈夫ですか?!」と駅員の顔が見えて、現実の世界に引き戻された俺の隣に、そいつはいなくなっていた。次の日、昨日のことを謝ろうと声をかけたら、そいつは俺のことを無視して友達のもとへ走り去っていった。「顔がタイプだったから話しかけてたのにあんなに変な人なんて思わなかった」と友達に嘆いていたことを、あとから知った。そういうのははじめてではなかった。でも、はっきりと拒絶されたのははじめてで。それ以来俺は前髪を伸ばしてできる限りフードをかぶるようになった。まるで幻≠ノ出てくる布の男のように。俺みたいなやつがあんな化物を倒すようなあの人にはなれるわけがないけれど。隠れ蓑を作るように人を拒絶した。自分を見られることも、人を見ることも。不思議とそうしていると落ち着いて、頻繁に見ていた幻≠ヘあまり出なくなったように思えた。
 高校に上がってから両親に黙って一度だけ心療内科を受診した。誰でもいいから話を聞いてほしくて行った先で出会ったのが蜂須賀先生だった。蜂須賀先生は俺の顔を見るなり驚いたような顔をして何か呟きかけたが、押し黙るように口を閉じてカルテをじっと見つめていた。そうして「やまきり、くんだね」と優しく笑い俺に座るように言った。座ってからしばらくの沈黙があって、蜂須賀先生は「何か怖い夢でも見るのかな?」と言ってカルテを机に置いた。俺はまだ何も話していない。それなのに蜂須賀先生は俺の悩みを分かっているように思えた。この人になら話せる。それにはなぜだか自信があって、いつもつっかえて上手く話せないくせにそのときだけはすらすらと幻≠フ話をしていた。蜂須賀先生は静かに相槌を打ってくれた。その瞳は優しくてまっすぐな色をしていて、なんとなく懐かしく思えたのが不思議だった。俺の話を聞き終わった先生が言った言葉は「フラッシュバック」。その言葉に強烈な違和感を覚える。フラッシュバックというのは何か強烈なトラウマがあって、それを後になって突然思い出したりすることだ。何か経験があって起こることのはず。あんな化物に襲われたこともないしあの男に助けられたこともない。あの街並みは見覚えがないし、穏やかな幻≠ナ見る部屋も見覚えがない。そもそもこの世にあんな生き物かどうかも分からない化物が存在するはずがない。それをフラッシュバックと言われても。言葉を出せず戸惑っている俺に蜂須賀先生は言った。「いつか分かる日が来る」と。その言葉の意味は分からなかったが、蜂須賀先生の瞳のまっすぐさに圧倒されて、ただ頷くしかできなかった。
 それ以来、幻≠ェ恐ろしくなると蜂須賀先生が看護師たちに秘密で教えてくれた連絡先に連絡するようになった。連絡とはいっても蜂須賀先生は忙しい。俺が勝手に日記をつけるようにメールを送るだけだ。言えないことや言わないようにしていることも多い。蜂須賀先生は暇を見つけては返信をくれるが、誰かに自分の思っていることや伝えたいことを伝えるという行為だけでずいぶん気持ちが落ち着く。俺にとってはそれだけで十分な救済だった。
 今日は幻≠見なかった。中学のときはほぼ毎日見ていた幻≠ヘここ最近三日に一度見るか否かくらいの頻度になっている。学校が終わり、帰宅しても暗い家の中をなぜだか息を殺して歩く。自分の部屋に入ってようやくほっとする。電気をつけてベッドに横たわると、自然とため息がもれた。両親は仕事で忙しく夜遅くに帰ってくることが多い。恐らく今日も遅いのだろう。夕飯をどうするか考えているうちに眠くなり、食べることが面倒になってしまう。そううだうだしているうちに眠りこけしまった。
 目が覚めたのはいつも通りの時間で、なぜだか恐ろしく、虚しくなる自分がいた。

「転入生女の子だって〜!」
「なんかめちゃくちゃ剣道強い子なんでしょ? 剣道部入るのかな?」

 朝、教室に入ってきたクラスメイトたちが口々にそんなことを言っていた。そういえば隣のクラスに転校生がいるとかなんとか担任が言っていたか。だとしても隣のクラスだし、第一地味で一人でいる俺には関係のないことだ。いつも通り窓の外を眺めてぼうっとしていると、なぜか妙な胸騒ぎを覚える。この感覚には慣れている。たぶん今日どこかで幻≠見るのだろう。心構えさえしておけば幻≠ェ出ても怖くないし驚かないので周りから不審がられずに済む。兆候が出てくれるだけマシな幻≠ネのだろう。そう思って一つため息をついて外に向けていた視線を教卓の方へ向ける。そろそろ予鈴が鳴る。担任が入ってきていつも通りのホームルームがはじまるのだろう。そう思うとまた体が重くなる感じがする。何度このいつも通りを繰り返せばいいのだろうか。この妙な喪失感だけを抱えて。つきまとってくる幻≠一人で見ながら。一人で隠れ蓑に身を潜めて、言いたい言葉を飲み込み続けていく。……言いたい言葉とは、なんだっただろうか。

「いた!」

 教室中に大きな声が響く。女子のものだ。あまりの大声にクラス中が静まり返っている。俺も驚いて声がした方へ顔を向けると、教室の入り口に一人の女子生徒が立っていた。見たことのない顔だ。恐らく隣のクラスに来たという転校生だろうか。クラス中が少しずつざわつきはじめる中、声の主の女子生徒はゆっくり教室内へ入ってくる。ずかずかと早歩きで、その女子生徒が近付いてくる。知り合いでもいたのだろうか。俺には関係のないことだけれど。そう思ってまた視線を窓の外に向けようとした瞬間だった。突然肩を思い切りつかまれて、ぐいって引っ張られた。バランスを崩して肘を机に強打した俺の目の前に、その女子生徒が満面の笑みを浮かべていた。

「やっと見つけた! 山姥切!」

 やま、やまんばきり? 聞き慣れない言葉と突然の行動に驚きを隠せないまま黙ってしまう。何か声を出そうとはするのだけど何を言えばいいのかも、自分が何をどうしたいのかも分からない。迷っていると突然、目の前に靄がかかったように視界が霞む。それを払おうと一度瞬きをすると、目の前にはその女子生徒がいた。けれど、その頬には涙が伝っていて、なぜだか悲しそうに笑っている。よく周りを見渡してみればそこはいつも幻≠ナ見る和室だった。けれどいつもより薄暗く、なんだか部屋が荒れている。ところどころ刃物で斬られたような大きな傷がついていたり、花瓶がひっくり返って割れていたり。俺はその和室の真ん中に座っていて、なぜだか女子生徒を抱きかかえていた。咄嗟に手を離そうとしてようやく気付いた。女子生徒の腹から大量の血液が流れている。刃物、日本刀で斬られたような、深く長い傷。べったりと両手についた血液の感触がとんでもなくリアルで、ぞっとした。振り払うように目を瞑って、ゆっくり開くと、見慣れた教室と未だに目の前にいる女子生徒の光景に戻る。

「山姥切? 分かる? 私だよ」
「…………誰かと間違えてるんじゃないか」
「間違えてない!」
「俺はそのやまんば? きりとかいう名前じゃない」
「名前なんていうの?」
「山切だ」
「下の名前は? 国広?」
「……そうだ」
「じゃあ今度は国広って呼ぶね」

 女子生徒はと名乗ったが名前にも聞き覚えがない。はにこにこと笑ってつかんでいた俺の肩を離す。「国広かあ、呼び慣れないなあ」となぜか一人で照れくさそうにしている姿は、どう見ても不審者だ。会ったこともない女子にどうして下の名前で呼ばれるんだ。まるで知り合いかのようにしてくるがお前は一体誰なんだ。いろんな疑問がわくが言葉にはならない。

「あ、そうだ! 国広何部? 剣道部? それとも弓道部?」
「……なんなんだ、アンタは」
「だからだってば。で、何部なの? やっぱり剣道部?」
「……部活には入っていない」
「嘘でしょ?! あんなに強かったのに?!」

 予鈴が鳴る。それと同時に担任が教室に入ってくるとすぐに俺の方に目を向けた。「あ……さん、教室に戻ってくださいね」となぜか苦笑いをして言うと、は「えー」と言いつつも戻る気になったらしい。俺の顔をじっと見つめて笑ったあと「またあとでね」と言って教室から出て行った。一体、お前は、誰なんだ?



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 はじめて会ったその日から俺の周りをそいつはうろちょろしはじめた。隣のクラスだというのに休み時間はいつも俺の元へ来た。噂通り剣道部に入ったらしく放課後はあまり絡まれなかったが、時間があればちょろちょろと俺の近くにいた。そうして何度も何度も剣道部に入ろうと誘ってきたり、一緒に昼飯を食べようと誘ってきたりした。これは、いつぞやかの女子に似ている。良い思い出ではない。今更俺なんかに興味を持つやつがいるとも思えない。いつも通りあまり相手にせず遠ざける選択をしたのだが。

「あ、国広! 聞いてよさっき授業で堀川先生に当てられちゃってね」

 いつまで粘るんだこいつは。もう一週間だぞ。さすがにうんざりしてきたが強く当たることもできないまま放置していたら、なぜか周囲からもそういう二人なのだと認識されているらしい。不本意だ。微妙な気持ちのまま強く言えず結局こいつの話を黙って聞くしかできない。どうせすぐ飽きる。あと一週間我慢すればさすがに諦めて別の誰かのところへ行くだろう。
 そんな風に思いつつ、こいつの顔を見るたびに思い出すあの日の幻≠ェ忘れられない。あの幻≠フ中でどうしてこの見知らぬ女が泣いていたのか、笑っていたのか。どうして俺はその死にかけの女を抱きかかえていたのか。幻≠ノ現実の誰かが介入してきたのははじめてで、正直戸惑っている。この一週間で幻≠ヘ五回も見た。最近治まってきたはずだったのに突然だ。一週間で幻≠見なかった二日間は休日、つまり学校へ行かずにこの女に会わなかったときだけ。どう考えてもおかしい。あの化物が幻≠ノ出てこなくなった代わりにこの女がいつも現れるようになったのが何よりも不可解だ。あるときは穏やかな、あるときは明るく、あるときは静かで。そうして、ときたまに、ものすごく悲しくて。どうしようもなく体の中がざわつく感覚に未だ慣れない自分がいる。十七年間見てきたはずなのに。気味が悪い。
 この一週間で知りたくもないがこの女のことをたくさん知った。母親と二人暮らしであること、兄弟はいないこと、剣道が強いこと、とにもかくにもうるさく元気なこと。そして、どうやら俺とはどこかで会ったことがあるらしいこと。まったく覚えはないのだが口ぶりからそう判断ができる。俺の下の名前を名乗る前に言い当てたこともそういうことなのだろう。名前も顔も見覚えがない。家で幼いころのアルバムをめくってみたけれど、幼稚園のときにも小学校のときにも、もちろん中学校のときにも、どのアルバムにもいなかった。それなのに。この女は俺のことを誰よりも理解しているように思えた。フードをかぶったり帽子をかぶっている理由が「顔を見られたくないから」だとすぐに言い当てた。自分のことが好きではないが嫌いではないことも。この女は俺の心を覗いているかのように、俺が考えていることをずばずばと言い当てていくのだ。

「国広、手を見せて」
「……どうしてだ」
「見たいから!」
「……好きにしろ」

 にこにこと笑って俺の右手を両手でつかむ。ぎゅっと握ったり撫でるように触ったりと好き勝手しはじめる。それをちらりとだけ見てからすぐに視線を外す。こいつの顔を見ているとまた幻≠見そうで怖い。前までのような化物に襲われる見慣れたものならうまくかわせるのに。こいつと似ている女が出てくる幻≠ノは未だに少し狼狽えてしまう。薄暗い和室で和服を着た女がひたすらに笑っている。その片隅にはスズランの花が飾られていて、俺はなぜだかそれを色濃く覚えているのだ。……いや、「覚えている」と表現してしまうと語弊があるのだが。とにかく薄暗い和室に置いてあるスズランの花、そして和服の女が俺のことを見て笑っている光景が、ひどく俺を動揺させる。

「国広の手はきれいだね」
「……きれいとか、言うな」

 その瞬間だった。俺の手を触り続けていた手が止まる。ぎゅうっと握ったままではあるが一切手が動かなくなった。どうしたものかと顔を上げると、そいつは間抜けに口を少し開けたまま俺のことを見つめていた。驚いているようなその表情の意味が分からず首を傾げてしまう。あまりの沈黙に耐え切れず「どうした」と聞いてみるが、返事はない。返事はない代わりに余計にぎゅうっと手を握られた。まるで縋るように、何かを手繰り寄せんとするように。握られている手に目を向ける。ずいぶん小さな手だ。剣道をしているからか肉刺ができている手はほんのりと熱を持っている。自分の手が男らしいだとかゴツゴツしているだとか、そこまでは言わないけれど。そんな俺の手よりも小さな手が、俺に何かを伝えようとしているように思えた。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 ――夢を、見た。
 季節はどうやら春。暖かな空気を頬に感じて視線を外の方へ向ける。美しい庭が広がっており、しばらく見惚れてしまうほどだった。桜が咲き誇り、小さな池には色鮮やかな鯉が泳いでいる。池の周りに子どもが数人いる。鬼ごっこをしているのだろうか。楽し気に笑う子どもたちの近くに穏やかに笑う男が数人見えた。縁側から様子を窺っていると、一人の男が俺に気が付いたようだ。

「山姥切、主のところへ行くのか?」

 やまんばきり。聞き覚えのあるそれはどこで聞いたものだっただろうか。黙ってそれを考えてると声をかけてきた男が怪訝そうな顔をする。「山姥切?」とこちらに歩きながらまた声をかけてきた。俺のことか。俺の名前は山切なのだが。この夢の中ではどうやらやまんばきり、を名乗らなくてはいけないようだ。

「山姥切、聞いているのか」
「……ああ、すまない」
「主のところへ行くのなら用度品の一覧をいただけないか聞いておいてくれないか」

 あるじ、が誰なのか分からないが。夢なのだから誰であろうが関係ない。ジャージを着た男に「分かった」とだけ返しておく。どうやらここから立ち去ってどこかに向かった方が良さそうな雰囲気だ。どこへというわけもなく歩き始める。それにしても立派な建物だ。庭の様子からなんとなく察していたが、かなり広い家らしい。先ほどの男が言っていた「あるじ」がいる場所など分かるはずもない。ため息をつきつつあてもなくまっすぐ歩き続ける。どこまでも続きそうなほど長い廊下。ここは一体どこなのだろうか。こんな場所には来たことがないし、テレビや雑誌で見た覚えもない。どこか非現実的な空間は夢だからという一言で片づけてしまってもいいものだろうか。
 庭とは反対側に視線を向ける。ガラス戸に薄く映っている自分の姿に、思わず足を止めてしまった。少し汚れた白い布。腰の日本刀。その姿は知らないはずなのに知っている男のものだった。幻≠ナ俺の前に現れて化物を倒す、あの男そのものだったのだ。刀に手をかける。なぜだか手に馴染みのいいそれが気になり、恐る恐るそれを鞘から抜いてみる。きらりと刀身を光らせたそれに心臓がどくんと大きく脈打つ。

「山姥切、そんなところで刀を抜いてどうしたの?」

 はっとして顔を正面に向ける。そこにいたのは、あの鬱陶しい女だった。

「……いや、なんとなく」
「ふふ、変なの。しばらく戦闘に出てないから腕がうずく?」
「……いや……そういうわけでは、ない」

 にこにこと笑って女は「いつ見ても、やっぱりきれい」と俺が持っている刀を見つめた。それを黙って見ているとなんだか驚いたような顔をされる。「きれいとか言うな、って今日は言わないのね」と首を傾げ、女は俺の額に手を当てた。思わず後ずさると「熱でもあるんじゃないかと思って」とくすくす笑う。

「あ、そういえば長谷部を見なかった? 用度品の一覧、いるかと思って持ってきたんだけど」

 用度品の一覧、という先ほど聞いた言葉から推測するに、俺に話しかけてきた男のことだろう。「庭にいた」と答えると女は笑って「ありがとう」と言った。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 肌にべったりと張り付いた前髪を払う。あいつ、と知り合ってからろくなことがない。夢見も悪いし幻≠熾p繁に見てしまうし。一応蜂須賀先生に相談してみたが、明確な対処法は分からないと言われてしまった。それに加えて「だからといって彼女を避けてはいけない」と言われたので、無視すればいいという話でもないらしい。
 なぜだか喉が焼けるように熱い。咳払いをしてから呼吸をすると、余計に喉がじんじんと痛んだ。黙っているとしんどいような、何か話してしまいたいような。一体何を話せばいいのかは分からないけれど、とにかくそういう感覚だった。前髪を払った自分の手を見る。がきれいだと言った手。自分では微塵にもそんなふうには思わない。けれど、はまっすぐな瞳で何の雑音もない声で、俺に言った。それがどうしてだか心臓の奥をくすぐったくさせるのだ。
 彼女は、は一体俺の何を知っているというのだろうか。俺に何を求めているのだろうか。未だに分からないそれに少し嫌気が差すが、不思議と振り払おうとは思わないままだ。

「国広は甘い物好き?」
「……ふつうだ」
「じゃあお団子あげる!」

 またしても俺のもとへやってきたはにこにこと笑って三色団子を手渡してきた。渋々それを受け取ると明るく笑って「いただきます」と言う。おいしそうに頬張るその姿が子どものようで少し笑ってしまった。それをはからかうかと思ったのだが、何も言わずにただただおいしそうに三色団子を食べ続けるだけだった。
 あ、と思った。そのの顔に、なぜだか懐かしさを覚えた。俺は、この顔を、どこかで見たことがある。夢の中かあるいは幻≠フ中か、それとも。……そこまで考えてやめた。俺の記憶のどこにもはいない。何かと記憶を混濁とさせているだけだ。とは会ったことも言葉を交わしたこともないのだから。

「……あんたは」
「ん?」
「……どこから引っ越してきたんだ?」
「んー……すごく遠いところだよ」

 なんだ、その曖昧な回答は。そう思ったのが顔に出てしまっていたらしい。はけらけら笑いながら「その顔!」と腹を抱えた。笑われたことにむっとしつつも問いかけを続ける。は俺のことばかり聞くくせに、こちらが質問することに対してはあまり詳しく返してこない。。どこなのか聞いても「遠いところ」としか言わないは、その言葉と同じように遠くを見つめている。食べ終わった団子の串を円でも書くかのようにくるくる回しながら「気になる?」と首を傾げた。

「前に私が住んでいたところはね」
「ああ」
「きれいな庭があって、春には大きな桜の木が満開になって、小さな池には鯉たちが泳いでいて。私の部屋は和室だったんだけど、朝日が眩しいのが嫌だからって奥にしてもらったからちょっと薄暗かったんだ。部屋の中は殺風景だったけど、小さな花瓶にスズランを飾ってたなあ」






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 主は、十五という年齢で審神者になったと聞いた。はじめて瞳を開けたときに目の前にいた子どもを主とは思わなかった。思わなかった、というより、思えなかった。こんなにも汚れを知らない、ただの子どもが血生臭い戦場にいるわけがない。俺のような人を殺すための道具に触れるわけがない。そう思っていた。
 本丸においてはじめての刀剣男士として顕現した俺は、右も左も分からない主とともに長い時間を二人で過ごした。主は特別霊力が強いわけではなく、そう簡単に鍛刀を行うことはできない。戦場で俺が怪我をして帰ってくると手入れに霊力を使ってしまい、余計に何もできない。仲間が増えないまま季節は巡り、顕現した秋から気付けば庭の桜が満開の春を迎えていた。主は桜を見上げては「二人は寂しいね」と苦笑いをこぼして、「ごめんなさい」と俺に謝った。けれど、俺は、寂しいとは思わなかった。二人きりの本丸はとんでもなく広く静かな場所ではあった。けれど、寂しいとは思わない。主と二人で過ごす慌ただしいながらも静かな生活が割と気に入っていたのだ。
 けれど、それはなんだか言ってはいけないことのような気がして。「寂しい」と言った主に咄嗟に「そうだな」と返してしまった。主は桜の木を見上げていた顔をこちらに向けて「明日、鍛刀してみようか」と言った。負担になるならやめておけ、と言ったが、「やるだけやってみる」と言って主はもう決心していたように見えた。
 翌日、緊張した様子の主が行った鍛刀は、驚きの結果となる。俺が戦場へ赴きとってきた資源はそう多くない。最低限の資源で行う鍛刀では恐らく短刀か脇差が出ると聞いていた。眩い光に思わず目を瞑ってしまう。その光が治まったところでゆっくり目を開けると、そこにいたのは小柄な刀剣男士だった。どう見ても俺より小さい。つまりは短刀か脇差。予想通りだ。主は俺を振り返って「できた!」と嬉しそうに声を上げ、泣きそうな顔をした。顕現した刀剣男士がきょろきょろと辺りを見渡していることに気が付くと、主はすぐさま駆け寄って挨拶をし、刀剣男士に名を訪ねる。

「じゃーん、真打登場ってね。蛍丸、大太刀だよ」

 主が固まる。俺も固まる。騒いでいたのは見守りに来たこんのすけだけだった。


 主は霊力はあまり強くはなかったが、どうやら強運の持ち主のようで。次々と強力な仲間を鍛刀していき、ゆっくり一歩一歩、本丸は賑やかな声で溢れていった。気付けば庭には短刀たちが駆け回り、本丸の中では様々な刀種の刀剣男士たちが思い思いに過ごしていた。それもこれもはじめての鍛当で顕現した蛍丸の驚きの強さのおかげだろう。蛍丸のおかげで資源の回収が以前より効率よくできるようになったし、俺もあまり怪我をせずに帰って来られるようになっていた。その資源と主の霊力温存により、この状況が出来上がっているのだ。蛍丸には感謝しきれない。
 賑やかになった庭を眺め、何度目かの春。蛍丸が急に花見がしたいと言い出し、庭の桜の木の下ではどんちゃん騒ぎの宴会が開かれている。俺はあまり酒が得意ではないので先ほどから縁側に座ってその様子を眺めている。相変わらず目が眩むほど満開の桜が風に揺れるたび、花びらが舞い上がって空を彩っていく。ずっとこんな光景を見たかったような、少し寂しいような。

「今年もきれいに咲いたね」
「……もう飲まないのか」
「あんまり得意じゃないんだよね」

 主は静かに俺の横に腰を下ろすと、ふう、と一息つく。先ほどまで悪酔いしたへし切長谷部と宗三左文字に散々な目に遭わされていたらしい。宗三左文字はいつものことだがへし切長谷部は酔うと人格が変わるようで、なかなかにひどい絡み酒をしはじめる。それから逃げるのが大変だった、と主は苦笑いをこぼした。
 どこか慈しむように桜の木の下を見つめる。幾度となく見てきたこの横顔を見るたびに、なぜだか体のどこかが痛い気がする。その痛みの理由を恐らく俺は知っている。知っているけれど知らないふりをしている。言ってしまいそうになるものを体の奥で砕いては粉々にする。それでもなお出ていきそうになる声を抑えると、喉が焼けるように熱くなるのだ。言いたい。伝えてしまいたい。そう口をつきそうになる。

「ありがとうね」
「……は?」
「は、ってひどくない?」

 笑って俺の肩を叩く。主は照れ隠しなのかばしばしとそのまま俺の肩を叩く。照れ隠しもあるが、どうやら少し酔いも回っているらしい。

「山姥切が初期刀じゃなかったらここまでやって来られなかったかもしれないからさ」
「……いや、あんたは俺じゃなくても上手くやったと思うぞ」
「そんなことないよ」

 瞳がこちらをしっかりとらえる。十五で審神者になり、さまざま季節を超えて、主はじきに三十になる。長い日々をともに過ごしてきたものだ。最近主は化粧のりが悪くなっただの、前よりはりがなくなってきただのとうるさい。けれど、俺からしてみれば何一つ変わったところはない。十五の主も、二十九の主も。はじめて出会ったときから変わらず、ただ一人だけの主であることに間違いはないのだ。

「山姥切、これからもよろしくね」
「……ああ」
「よかった、言えて」
「どうしてだ?」
「私、あんまり自分が思っていることを話すのが得意じゃないから」

 いつ言おうかどきどきしてたの、と主は頬をかいた。たしかに主は発言をするのが得意ではないのだろうと感じる瞬間がある。出陣の前に行われる前日の話し合いでは、俺たちの意見を聞くだけで自分からは滅多に発言をしない。歌仙たちに食べたいものを聞かれても短刀の食べたいものを答える。そんなふうに、主は自分の気持ちをあまり表に出さない。

「たくさん、たくさん言いたいことがあったけれど、全部まとめちゃった」

 そう主が微笑んだその瞬間、喉の熱さがすうっと消えた。これでいい。俺と主はこのままでいいのだ。言わないままが一番いい。名前を付けそうになっていたそれを静かに手放す。そうすると、体の中のどこかに小さな傷をつけた気がした。
 花見は終始どんちゃん騒ぎのまま夜を迎え、ごねる酔っ払いたちを説き伏せてどうにか解散となった。珍しく少しだけ足がふらつく主を部屋まで送る。なんとなく呂律が回っていないその喋りにはらはらしていると主の部屋の前についた。これは明日は寝坊だな。そう思わず笑ってしまう。ふらつく主の体を支えて一旦座らせてから布団を敷く。主はその間に眠ってしまったようだ。布団を敷き終わってから主の体を抱き上げ、ゆっくりと布団に寝かせる。規則正しい寝息を立てる主の顔を少し見てから立ち上がり、部屋から出た。
 自分の部屋に帰る途中、ふと主の部屋の中を思い出す。何度か入ったことはあるが大体は執務室で顔を合わせることが多いので、そうちゃんと主の部屋の中を見たことはなかった。ぼんやり思い出した部屋の中はとても殺風景だった。主のものであるということが分かりやすいものがないというか。ふと、庭に目をやる。朝日が眩しいのが嫌だからと言って、わざわざ日当たりの悪い奥の部屋にある主の部屋。同じようにどことなく薄暗い庭の片隅に、白い花が咲いていた。俯いているように見えるその花は、どこか控えめな主に似ているように思えた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「いらない花瓶?」
「何でもいい」

 歌仙兼定は不思議そうに首を傾げる。しばらく何かを考えてから明るい表情を見せ、「まさか雅に目覚めたのかい?!」と俺の肩をつかんできた。そういうわけではない。否定するとどこか残念そうな顔はしたが「花瓶がいるということは花を飾りたいんだろう?」と言った。なんとなく気恥ずかしかったが、一応頷いておく。歌仙は「ちょっと待っていてくれ」と言って、部屋の奥にある物入らしき箱を開けた。がちゃがちゃと硝子がぶつかる音がいくつか聞こえてから歌仙が立ち上がり、「これなんかどうだい?」と小さな花瓶を差し出した。派手な装飾など一切ない、実に単純な小振りの花瓶だ。けれど、歌仙が持っているということはそれなりに良いものなのだろう。「いいのか?」と花瓶を受け取りつつ一応聞いてみる。歌仙は俺の問いかけに「ああ、いいとも」と笑った。

「その代わり、主にぴったりの花は自分で見つけることだね」

 そう言って「それじゃあ、お休み」と歌仙は部屋の襖を閉めた。一人取り残された俺は、ただただ顔が熱くなって仕方がなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 朝、どこか気だるそうに起きてきた主の背中を薬研藤四郎がばしっと叩く。「大将、あんまり飲むなと言っただろう」と苦笑いをこぼす薬研に主は苦笑いをして「面目ない」と項垂れた。けらけら笑う薬研の隣で乱藤四郎が心配そうに主の顔を覗き込む。それに苦笑いのままではあったが「大丈夫」と言い、主は定位置である俺の隣に腰を下ろした。

「おはよう」
「おはよう。昨日はありがとうね、布団敷いてくれたでしょ?」
「あんた、部屋に入るなり寝たからな」
「申し訳ございません」

 笑う主に燭台切光忠が「はい、これ飲んで今日もかっこよく頑張ろう」と味噌汁をよそう。本日の配膳係の一人である今剣にも「あるじさま、せすじがのびていませんよ!」と注意される。「はい、すみません」と主がどこか楽しそうに今剣に返事をしつつ背筋を伸ばすと、今剣が「はい、よくできました!」と主の前に焼き魚を置いた。
 全員に朝食が渡ると主の挨拶のあと、全員で手を合わせてから食べ始める。賑やかなこの時間がはじめは少し煩わしく思えることもあったが、今となってはどこかほっとする時間でもある。主もそれは同じようで、朝という事もあり口数は少ないがどこか穏やかな顔をしていた。その横顔を横目で見ていたのが、突然主の視線が俺の方を向いた。それに驚きつつ知らん顔をして視線を逸らすと、主は「山姥切」と俺に声をかける。

「机にね、小さな花瓶が置いてあってそこにスズランがさしてあったんだけど」
「そうか」
「誰が置いてくれたか知ってる?」
「……さあな」

 主は「そっかー」と首を傾げる。「誰が置いてってくれたんだろ」と不思議そうな顔をする主に胸がくすぐったくなる。俺がやったなんて知られたらどうにも気恥ずかしくてたまらない。俺みたいなのが、花を贈るなんて。
 そう思って黙っていると俺の前に座っていた歌仙がじっと俺を見ていた。それに視線で返す。黙っていてくれ、という視線を送ったはずなのだが、歌仙は「おや、それは実に風流だね」と会話に混ざってきた。主はうれしそうに「でしょ」と笑い返す。歌仙は花にも詳しいらしくスズランの花についていろいろと話し始めた。俺はあの花がスズランだということも知らなかったというのに、歌仙兼定という刀剣男士は物知りなものだ。

「ああ、そういえばスズランは有毒植物だから気を付けるんだよ。症状としては嘔吐、眩暈、頭痛などかな」
「?!」
「へ〜」
「ど、毒があるのか?」
「そうだよ。最悪の場合死に至ることもあるようなね」

 近くで聞いていた燭台切光忠も「それは知らなかったな」と意外そうな顔をした。薬研も毒の話には興味があるようで「へえ」と歌仙の話に耳を傾けだす。主も興味津々にその話を聞いている隣で、俺は恐らくただ一人ものすごく焦っていた。毒性のあるものを主に贈ってしまった。知らなかったとはいえ、とんでもないことをしてしまったのだ。歌仙がスズランの毒で引き起こす症状を語り始め、主が「結構怖い花なんだね」と言ったところで「すまない」とつい謝っていた。

「ん? なにが?」
「その、毒があるとは、知らなくて」
「ふつうは思わないよね、きれいな花だもの」
「見た目があんたに似ていると思ったんだが、その、そういう花だとは知らなくて…………あ」
「やっぱり、山姥切が置いてくれたんだね」

 ものすごく得意げに主が笑う。歌仙もしてやったりといった顔をしていた。

「……すぐに処分しに行く」
「大丈夫大丈夫、注意すれば何もないよ」

 バレてしまっていたことよりも気付かれていたことに恥ずかしさがあふれる。主もそんな俺に気付いてか、そこで言葉を止めた。ただにこにこと笑っている横顔がどうしようもなくくすぐったくて仕方ない。歌仙を少し睨みつけると、とどめだと言わんばかりににっこり笑った歌仙が、また性懲りもなく口を開いた。

「ちなみにスズランの花言葉は再び幸せが訪れる≠セよ」

 主が「へえ!」と顔を輝かせた。歌仙はにっこり笑ったその顔のまま「ぴったりの花、ちゃんと見つけられたんだね」と言った。その満足気な顔を見るとどうにもこうにも文句は言えなくて「うるさい」とだけしか言えなかった。
 主は気を付ければ大丈夫だと言っていたが、どうにも心配で。こっそり主の部屋に行って捨ててしまおうとしたのだが。そうしようとするたびに主が邪魔をしてきた。主曰く根や花に強い毒があるのでそこを摂取しなければ大丈夫だと言うが。あとで本で調べると花粉がついたものを摂取しても症状が出る場合もあるらしい。どうしても心配で何度も何度も主の部屋へ行ったが、主はそれを処分させてはくれなかった。そんなにもあの花が気に入ったのだろうか。そう思ったので咲いている場所を教えたが、主はそれでも処分させてはくれなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 花見から数日後の深夜。本丸の誰もが寝静まったころ、なぜだか俺は目が覚めてしまい部屋を出た。一つあくびは漏れたものの、とくに眠気はない。むしろどこか頭が冴えていて、なんだかぴりっとしたものを感じた。どことなく不穏な予感を覚えてしまい、そっと庭を見渡す。いつもと変わらない穏やかな庭だ。月明かりが池に反射して明るくさえ思える夜。主は夢の中だろう。こんなに穏やかな夜に、なぜ妙な予感を覚えているのだろうか。
 そう自分に対して一つため息を漏らした瞬間だった。がさりとまだ桜の花が多く咲いている木の枝が揺れた。風で揺れたにしては不自然な音だ。すぐ後ろにある自分の部屋に一度戻り、襖の隙間から様子を窺う。鳥だろうか。予感がどんどん強いものになっていき、心臓がどくんと大きな音を立てた瞬間だった。突然、空を火が舞った。咄嗟に刀を手に取って襖を開けると、それと同時に庭いっぱいに時間遡行軍が姿を現す。空を舞った火は火矢だ。本丸の至る所に放たれたそれがすぐに燃え移り始めた。大声で「敵襲! 総員臨戦態勢をとれ!」と叫ぶとすぐさま辺りの部屋から打刀たちが姿を現した。この庭の周辺は打刀と脇差の部屋で固めてある。機動力のあるへし切長谷部が自己判断ですぐさまその場から離れていった。恐らく部屋の遠い刀剣男士たちに知らせに行ったのだろう。もう数秒長谷部が遅かったら指示を出しているところだったので手間が省けた。すぐに脇差と、今日の門番係をしていた蜻蛉切、獅子王、小夜左文字も揃うとその場で戦闘がはじまる。向かってきた大太刀を一体切り捨てると蜂須賀虎徹に「君は主を!」と言われた。この場で一番練度が高いのは俺だ。俺が残り、練度が高く状況判断に優れた兄弟である堀川国広に任せるつもりだったが、その兄弟にも「早く!」と言われる。すぐさま足が主の部屋の方に向くと、背後から「絶対守ってよね!」と加州清光の声が聞こえた。
 主の部屋の周辺はまだ時間遡行軍の進軍を許していない。静かな主の部屋の戸を乱雑に開けると、その音で主がぼんやりと目を開けた。

「山姥切……?」
「敵襲だ、すぐにここを出るぞ」
「え……?!」
「こんのすけに連絡を、」

 その瞬間、体中を殴りつけるような殺意が部屋に広がる。主を背に隠して振り返ると、時間遡行軍が数体こちらに来ていた。この狭い部屋で戦闘になるとさすがに危険すぎる。けれど、主の部屋は一番奥の端にあることもあり、出入り口は時間遡行軍が塞いでいる場所のみだ。ここを出てから状況説明をするべきだった。もう反省しても遅いが、後悔となって湧いて出るそれを振り払って刀を抜く。主から離れることはできない。向かってくる敵を斬っていき、隙を見て脱出するしかない。すぐに向かってきた短刀を斬り落とし、その背後から刀を振りかぶった太刀を斬り捨てる。その隙に短刀が右方向から斬りつけてくる。主の体を左手で反対側に引っ張りながら短刀を斬り落とし、次は左方向から来た脇差を斬り落とす。正面から来た大太刀を斬り捨てたとき、その背後から放たれた矢が左腕に刺さった。

「山姥切!」
「大丈夫だ、あんたは動くな」

 どうやら毒が塗ってあったらしい。刺さった場所が妙に熱くひりひりとしはじめる。引き抜いて毒を吸い出そうにも斬りかかってくる時間遡行軍の相手をしなければならず、それは叶わない。体を動かすたびにどこか、体が錆びていくような感覚を覚える。少し焦りが出たのだろう、左方向から斬りかかってきた打刀の刃を腹に受けてしまった。毒が回りつつある体から血が溢れる。誰もこちらの応援に来ないところを見るに、相当な数の時間遡行軍がこの本丸に送り込まれているのだろう。じわじわと本丸を炎が包んでいく。他の刀剣男士たちは無事だろうか。状況はどうなっているのだろうか。様々なことが頭をめぐったが、今の俺の使命はただ一つだけだ。審神者を、主をなんとしてでも生かす。主の命さえ無事であれば本丸が全焼しようが構わない。主無くしては俺たち刀剣男士は形を保てないのだ。主さえ生きていればそれでいい。それは刀剣男士たち全員に当てはまる思いだろう。
 何体斬り捨てても群がってくる時間遡行軍。主の体が震えていることに気付いてしまい、余計に焦りが出てくる。恐らく時間遡行軍たちはこの本丸を潰すために長い時間をかけて準備をしてきたのだろう。時間遡行軍による本丸急襲の話は聞いたことがあったので、門番係を設けたり侵入しやすい庭付近に夜目が利く刀剣男士を集めたりしていたが。そんな取って付けたような対策ではまったく意味がない。それほどまでに、時間遡行軍は準備を綿密にしてきたということだった。
 遠くの方からも戦いの音が聞こえてくる。本丸を包む炎の勢いすら音だけで分かってしまう。じりじりと部屋の隅に追い詰めてくる時間遡行軍が狙うのはただ一つ、審神者の命だけ。それが分かっているからこそ、余計に焦りが出てしまう。震える主の手を左手でつかむ。炎に包まれつつあるというのにその手はひどく冷たかった。
 飛びかかってきた短刀を二体同時に斬り落とす。ずいぶん毒が回って来てしまったらしい。動きがかなり鈍くなってきてしまった。太刀の刃を受け止めてから斬り捨てると、突然視界が霞んだ。刀を握る手が小刻みに震えていることに気付いてしまい、思わず唇を噛んでしまう。恐らく、このままでは主を守り切れない。状況を総合的に判断した結果、その結論にしかたどり着けないことが、ひどく、不甲斐なくて。

「……俺が敵に突っ込んで隙を作る。そのときにここから逃げろ」
「や、やま、」
「俺のような不甲斐ないやつじゃなく、別のやつに近侍を任せるべきだったな」

 刀を握り直す。何度も瞬きをして視界の霞みを払おうとするのだが、どうにもうまくいかない。思わず自嘲が漏れた瞬間、主が思い切り俺の布を引っ張った。

「なんでそんなこと、言うの」

 その声は震えていた。ぎゅうっと俺の布を握る手を振り払おうとするが、主は決してその手を離そうとはしない。離れる気はない、その意思表示のようだった。向かってきた数体の敵を斬り落とし、また主の手を払おうとする。あまり自己主張をしない主が頑なになるのは珍しいことで、主が何を考えているのかが分からない。言葉にしない主はただただ布をきつく握るだけだ。

「おい」
「不甲斐なくなんかない」
「主、」
「山姥切は私にとって一番の近侍だよ」
「なにを、」
「だって、私、山姥切のことが」

 その瞬間、本丸のどこかで建物が崩れたようなひどい音が響く。それに俺も主も肩を震わせた瞬間、時間遡行軍が一気に斬りかかってきた。主の手はそれでも布を握り続けている。主の手を振り払うことはせずに布を脱ぎ捨てて主の前に立ちふさがる。尖兵を斬り捨てたあと、一気に主力であろう敵と交戦し、出口に続く道を切り開く。主に向かおうとする敵も斬り、主力も斬り、もうどれだけ斬り捨てたか分からない。部屋を出た先に時間遡行軍の姿が見えないことを確認してから主のほうを振り返った。

「今だ! 行け!」

 その瞬間、背に刃を受けた。大量の血液が流れ出た感覚があったが、そんなことは今はどうでもよかった。自分はどうなってもいいから、主だけは、守りたかった。刀剣男士としてではなく。本丸の一員としてではなく。近侍としてではなく。従者としてではなく。ただ、一人の人間のように、そう強く思ってしまった。
 ぐらり、と体が揺れたとき、主が駆け出す。向かおうとする敵をなんとか斬り落とした瞬間、主の手が俺に伸びた。刀を握る俺の手をつかむと、弱い力で引き寄せる。ふらつく体はいとも簡単に引き寄せられて、気付けば主の背に体が隠れていた。それと同時に、頬に雨のように、血液が落ちてきた。

「な、にを」

 その瞬間に時間遡行軍は勝利を確信したのだろう。振り下ろした刀を再度振り下ろしただけで、それ以上は深追いしてこないまま、音もなく軍を引いた。燃える本丸。建物が崩れる音。流れ落ちる自分の血液。目の前で倒れる主。すべてが遠い非現実的なものに思えて、呼吸をすることすら忘れた。畳をじわじわと侵食していく真っ赤な血液。自分と同じものなはずなのに、どうしてなのかまったく別のものに思えて仕方なかった。かろうじて握ったままだった刀を捨てて、立ち上がれないまま主に近寄る。震える手で抱き起した体は知っていたはずなのに驚くほど華奢で、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。手の平いっぱいについた血液が、まるでしみ込んでくるかのように温かい。それだけで、もう、これが主の体から流れ落ちているものなのだと分かってしまう。

「おい」
「……山姥切、あのね」
「主」
「私、言いたいこと、たくさん、あって」
「主」
「でも、どう、言葉にして、いいか、分からなくて」
「おい、誰か、誰か本部の医療班を、」
「分から、なくて、ね」
「誰か! 誰かいないのか!」
「ごめんね」

 主の頬に涙が伝う。それを何度拭っても流れていく涙が自分のものだと気付いたのは、主の指が俺の頬を撫でたときだった。

「ごめんね、山姥切」







▽ ▲ ▽ ▲ ▽







「……スズランか」
「そう、スズランの花! かわいくて好きなんだ! 国広、スズランがどんな花か分かる?」
「それくらい分かる」

 は楽しそうに笑う。スズランの写真を携帯で何枚も見せてきては「これがスズランだよ」と何度も言う。知っていると言っているのに。やっぱりは変わったやつだ。

「知ってるって言っただろ」
「本当に〜?」
「嘘をついて何になる」
「じゃあスズランってどんな花?」
「有毒植物で根や花に強い毒を持っている花だろ。春ごろに咲くんだったか。あと、花言葉は再び幸せが訪れる=v

 はにこにこと笑って「そうなんだ」と言った。その声が先ほどまでの楽しそうな声と違い、何かを含んだ声色だったのが気になるが、あえて無視した。俺が言ったことにいくつか情報を足しながらスズランのことを話してから、は視線を窓の外に向けた。どこか遠くを見るその瞳の先には何が映っているのだろうか。柔らかな風が吹くと、の髪が揺れる。その光景はどこか懐かしさを感じさせるものだったが、やはり、どれだけ記憶をめぐっても俺はのことを知らなかった。

「スズランの花言葉とか、どうして知ってるの? 誰かに教えてもらったの?」
「……さあな。誰かに教えてもらった気はするが、ずっと昔のことでよく覚えていない」

 風が止む。は一呼吸おいてから「そっか」とやんわり微笑んだ。その表情に、最近よく出てくる何かを言いたくなる衝動を感じたが、やはり何を言いたいのかは分からないままだった。何なのか分からないのに、どうしてだろうか、それがひどく大切なものであることだけはぼんやりと分かる。大切すぎて自分でも分からなくなる場所に隠してしまったのだろうか。そんなありもしないことを考えると、ほんの少し口元が緩んでしまった。

「国広、あのね」
「なんだ」
「私、言いたいことがたくさんあったんだ」
「……たとえば?」

 言いたいことがたくさんある。は口数が多くて勝手に一人で話し出すようなやつだから、言いたいことなどすぐに口に出していそうなのに。溜め込まずに全部言ってしまえばいいのに。言いたい言葉を飲み込み続けることは苦しい。飲み込み続けると俺のようにそれが何だったのかを忘れてしまうかもしれない。は、まだちゃんと、言いたいことを覚えているのだろうか。

「国広のことが好き! とか!」

 ……心配した俺が馬鹿だった。ため息をつくとは「何よー!」と俺の肩を小突く。何を言い出すのかと思えば。は呆れる俺のことは無視して「一番かっこよくて、一番頼りになって、一番優しくて、」と指折り数えながら呟く。恥ずかしいからやめろ、と言ってもはやめない。ゆっくり瞬きをしてもう一度ため息をつく。瞳を開けたとき、指折り数え続けているの瞳から、涙が溢れていた。ぎょっとしつつ俺は、気付けばその頬に手を伸ばして涙を拭っていた。そんなことをした自分にも驚いたし、もひどく驚いた顔をしてから余計にぼろぼろと涙をこぼした。流れ続ける涙を何度も何度も拭う。の頬も俺の指も涙でびしょ濡れになってしまった。困惑していると、そんな俺の頬にが手を伸ばす。そうして俺がしたのと同じようにが指を滑らして、はじめて、自分が涙を流していることに気が付いた。


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