≪注意事項≫
※現代・転生パロディです。
※鶴丸国永短編「神様の涙を君は見たことがあるか」、鶯丸短編「あなたの紡ぐ文字が何よりも刃」等と同じ世界設定です。
※上記の短編の鶴丸、鶯丸等がいた本丸と今回の一期一振がいた本丸は同一本丸ですが、主は別人です。
※上記の短編を未読でも大丈夫ですが、一応シリーズ作品になっています。




 目が覚めると、さっきまで隣に誰かがいたような感覚を覚えることが、結構よくある。
 カーテンから差し込む光に少し目を細める。今日もいい朝だ。子どものころから寝つきの良さと寝起きの良さだけは変わらない。そういう体になるように育ててくれた両親か、はたまた別の誰かのおかげなのかは分からないけれど、とにかく有難い体質だ。ベッドから体を起こして一つ伸びをする。くしゃくしゃの髪を軽くといてから掛け布団を畳んで立ち上がる。カーテンを勢いよく開けると、ちょうどすずめが数羽窓の外を飛んで行った。
 アパートの入り口のほうから人の声と騒がしい音が聞こえてくる。窓から少し顔を出して下を見てみると、引っ越し業者らしき男性が数人とトラックが一台。どうやらこのアパートに新たな入居者がやってきたらしい。アパートから出てきた男性がその人のようで、引っ越し業者の人たちと二三会話を交わしてから荷物を運ぶのを手伝い始めた。そこそこ若い男性だ。どうやら私よりは年上のようだけど。私の部屋がある階が数部屋空いていると大家さんから聞いたことがあるから、きっと同じ階に越してきたのだろう。そう思うとどんな人なのか少し気になってしまう。気付かれないように下を覗き込んでその人を観察する。つむじしかまだ見えていないし上からだからよくは分からないけど、恐らく背が高い人だ。引っ越し業者の人たちより少し頭が近く見える気がする。でも体は細くてなんだか力ない感じだ。聞こえてくる声は穏やかで落ち着いた大人の男性、という感じだろうか。それだけでご近所さんとして大歓迎だ。うるさい人とか怒りっぽい人とか、不潔な人も嫌だし、過干渉な人も嫌だ。けれど、あの人はそんな感じはしないし、むしろいい人そうに見える。人は見かけによらないとはいうけれど、やっぱり第一印象は大事だと思う。
 そんなふうに失礼にも男性を見ていると、突然男性が顔を上げた。びくっとしつつも隠れるのは失礼かと思ってなんとかそのまま留まる。目が合ってしまったので小さく会釈をしてみる。すると、男性も小さく会釈を返してくれた。その動きがなんだか上品だったので余計にいい人に見えた。
 けれど、それよりも気になったのが、目の下を黒く染める隈。顔色も悪くて何かを患っているように見えた。生まれてこの方隈なんかできたこともなければ風邪も滅多に引かない。他人とはいえどうしたらあんなに不健康そうになってしまうのだろうか、などと心配になってしまった。世間的には「かっこいい」といわれるような感じだったし、勿体ないなあ。なんて、人の心配をしている場合じゃないのだ、私は。
 三日前、新卒から勤めていた会社を辞めた。理由はいろいろあったから割愛する。私は三日前から無職というわけだ。次のあてもなければ就活にやる気が出せる状態でもない。貯金はそれなりにあるのでしばらく生活には困らないけれど、不安がひょっこり顔を出しそうになる瞬間が増えてきた。まあ、でも、まだ悪夢を見るほどの不安ではない。むしろ解放感があるからなのか楽しい夢を見た三日間だったような気がする。能天気なやつ、と自分で自分を笑ってしまった。
 窓から出していた顔をあげて網戸を閉める。何も食べていないお腹が食べ物を欲している。仕方なく冷蔵庫を開けてみるけれど、数日買い物に行っていなかったせいであまり何も入っていない。かといって買い物に出かけるのは面倒だ。どうしようかと考えていると、隣の部屋から物音が聞こえてきた。私の隣は空き部屋だった。つまり、先ほどの人は私の新しい隣人というわけらしい。いい人そうだったし何も不満はない。しばらく冷蔵庫の前に座って物音を聞いていると、「ありがとうございました」と落ち着いた声がかすかに聞こえた。荷物がすべて部屋に運ばれたらしい。ドアの前で見送った、という感じだろうか。
 のん気にそう予想していると、チャイムの音が鳴り響いた。のろのろと立ち上がって玄関へ向かう。「はーい」と声を出しつつ鍵を開け、チェーンも外してドアを開ける。すると、そこにいたのはあの男性だった。

「はじめまして。隣に引っ越してきた粟田口と申します」
「あ、どうも。です」
「ご迷惑おかけすることもあるかと思いますが、よろしくお願い致します」
「はい、こちらこそ」
「これ良ければどうぞ」

 渡されたきれいな包みに入った箱を受け取る。あわたぐち、さんか。まったく聞いたことのない名字だから遠くから引っ越してきたのだろうか。いや、ただ単に珍しい名字というだけかもしれない。もう少し仲良くなったら聞いてみよう。
 あわたぐちさんはにこりと笑って「それでは」と頭を下げた。あ、もしかして反対側の部屋の人に挨拶するのだろうか。あわたぐちさんの隣の部屋、つまり私の部屋から向かって左側の二番目の部屋。そこには一人暮らしの男性が住んでいる。会社員のようだが、平日は朝早くにスーツで出ていき、夜はかなり遅くに帰って来る。日付が回っていることが常なくらい遅くにだ。その様子から恐らくいわゆるブラックな会社に勤めているのだろうと私は思っている。休日は寝ているのか一切部屋から出てこないし、夕方になっても電気がついているところ見たことがない。私の予想が正しければ今も寝こけているはずだ。

「あの」
「はい?」
「お隣さん、たぶん今は出てこないと思うので、夜に行ったほうがいいですよ」

 お節介だったかな?そう思いつつ声をかけてしまった。あわたぐちさんは私の心配など忘れさせてくれるほど「そうなんですね。ありがとうございます。そうします」と優しく笑ってくれた。その笑った顔がなぜだか私の気持ちを安心させるものだから、温かい人なのだとは思う、のだけど。それ以上に隈と顔色の悪さが気になって仕方なかった。
 あわたぐちさんからもらった箱の中身は洗剤とタオルだった。洗剤はちょうど使っているものと同じだったし、タオルなんか自分では滅多に買わないから有難い。有難く使わせてもらうことにしつつ、空腹だったことを思い出す。仕方なく買い物に出るための準備をはじめることにした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 食料品だけ、と思って出かけたはずが結局ふつうにショッピングもしてしまった。ついでに途中で高校時代の友人に会ってしまったものだから話が止まらない止まらない、果てしなく続いた。夕飯も食べていこう、なんて話になったのでアパートに戻ってきたのは夜八時すぎだった。アパートを下から見上げると、私の部屋の隣のあわたぐちさんの部屋は電気がついている。その隣は電気がまだついていない。あわたぐちさん、挨拶行けたかなあ。夜に行ったほうがいいと勧めたのは私なので少し心配になってしまう。休日の朝に大家さんが用事があって何度もチャイムを連打しているところを見たことがある。出てきたその人はものすごく不機嫌そうな顔と声をしていたのを見て以来、「隣の隣の人は怖い」と私の中ではしっかり刻まれてしまった。連打する大家さんも悪かったのだけど、あの顔と声はあまりにも怖すぎた。日頃の仕事が大変なのだろう。そんなに大変なら、辞めちゃえばいいのに、私みたいに。なんて無責任なことを考えてしまったので反省する。人には人の事情があるのだし、何の役職もない平社員だった私とは立場が違う可能性だって大いにある。そういうのが何よりもお節介なのだ。
 階段をあがって一つ息を吐くと、あわたぐちさんがいるのが見えた。その手には私にくれたものと同じ箱がある。どうやら挨拶に出向いたらしい。

「あわたぐちさん!」
「こんばんは、さん」
「お隣さん、まだ寝てるみたいですね。反応なかったですか?」
「ええ、何度も押すと申し訳ないので出直そうかと思いまして……」
「そうしたほうがいいです。怒るとすっごく怖い人なんです」
「それはいいことを教えてもらいました。覚えておきます」
「はい、ぜひ!」
「ちなみにこの部屋の方、お名前はなんというのですか?」
「えーっと……あっ、長谷部さんです。あまり話す機会はないと思いますよ」

 あわたぐちさんは終始穏やかに笑っている。でも、やっぱり顔色が悪いことのほうが印象に残ってしまう。それくらい、なんというか、疲れ切っているように見えた。今日知り合ったばかりの赤の他人なのに、なぜだかそれが心配で仕方なかった。私、自分でも気付いていなかったけどイケメン好きなのだろうか。なんだか恥ずかしい気持ちになりつつ、ちょっと仲良くなりたい気持ちは消えない。

「あわたぐち、ってどうやって書くんですか?」
「植物の粟に田んぼの田に口です」
「へ〜、珍しいですね。下の名前はなんていうんですか?」
「一期一会の一期です。女の子みたいだって子どものころはよくからかわれました」
「え! すごく素敵なお名前じゃないですか! 子どもにはちょっと難しかったのかもしれないですけど……」

 粟田口さんは私の言葉に少し驚いたような顔をしたけど、すぐに少し照れくさそうに「ありがとうございます」と笑った。

「もしよければ一期と呼んでください。生徒たちからもそう呼ばれているので、名字はあまり慣れていないんです」
「生徒?」
「あ、すみません。高校で教師をしているんです」

 なるほど。イメージにぴったりの職業だ。それをそのまま伝えると「そうですか?」と首を傾げられた。
 粟田口さん、というのは音数が多くて噛みそうだったので、有難く一期さんと呼ばせてもらうことになる。私のことも下の名前で、と言ったのだけど「むやみに女性の名前を呼ぶのは」と紳士的に断られた。一期さんの好感度が私の中でぐんぐんあがっていっている。いい人が隣に越してきてくれたなあ。そうしみじみ思っていると小さくスマホのバイブ音が聞こえた。どうやら一期さんのスマホだったらしい。ポケットから取り出しつつ「それでは。教えてくださってありがとうございました」と頭を下げてから部屋に戻っていった。それを見送ってから私も部屋に戻る。
 どさりと買ったものをとりあえず床に置いて靴を脱ぐ。ちょっと買いすぎたかもしれない。でも、食料品以外の服やら化粧品やらを買ったのは本当に久しぶりだ。会社を辞める前は休日は、それこそ長谷部さんと同じように、部屋からほとんど一歩も出ずに寝こけていたものだ。ショッピングに行く元気もなかったし、何より服とかそういうものへの興味が薄れていた。仕事を辞めた途端物欲が復活してきたらしいから困ってしまう。ため息をついてから荷物を再び持ち上げて、部屋に入った。
 夕飯は友人と食べたし、だらだらすごしてあとは寝るだけ。明日はどうしようか。早いうちに就職相談に行ったほうがいいのかもしれないけど、まだ少し休んでいたい。誰も私のことなんか見ていないから言ったところで無駄だけど、私、頑張ったんだよ。誰にともなくそう呟く。頑張ったんだから、少しくらい休んでもいいよね。自分に問いかける。答えはもちろん「いいともー!」だった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 深夜二時ころ。いつの間にか眠っていたのだけど、ふとした瞬間に目が覚めた。もう一度そのまま寝直そうと寝返りを打ってから、窓を閉めずに網戸のままにしていたのが見えた。さすがに防犯上よろしくない。仕方なく立ち上がって窓を閉めようと手を伸ばす。すると、外が少し明るい気がした。それも左側だけ。そっと小さなベランダに顔を出すと、どうやら一期さんの部屋の明かりがついているせいらしかった。こんな時間まで起きてるなんて、なんだか意外だ。そう思いつつ顔を引っ込めようとしたタイミングで、カラカラと窓が開く音がした。びっくりして動きが止まったところをちょうど一期さんに見つかってしまった。

「こっこんばんは……」
「こんばんは。こんな時間にどうしたんですか?」
「えーっと、ちょっと夜風に当たりたくて……?」
「奇遇ですね。私もそうです」

 一期さんは少し照れくさそうに笑って「寝つきが悪くて」と言った。そのせいで目の下に隈があるのだろうか。顔色が悪いのも寝不足のせいなのかもしれない。なんでも子どものころから寝つきが悪い上、眠ると妙な夢を見ては飛び起きてしまうのだという。一期さんはなんでもないことのように話したけれど、昔から寝つきの良い私からするととんでもない話に思えた。

「妙な夢って、怖い夢ですか?」
「いいえ、怖くはありません。ただ……ただただ、幸せな夢だったと思います」
「え? それなのに飛び起きちゃうんですか?」
「はい。不思議な話ですよね」

 一期さんは私から視線を逸らす。夜空をぼうっと見上げつつ「初対面のさんに話すのも変なのですが」となんだか恥ずかしそうに笑った。一期さんがここに引っ越してきたのは通っている精神科が近いからとのことだった。なんでも不安になったり何も手につかないほど考え込んでしまったりすることが増えてきたらしい。

「笑い話ですが、幼いころに自分は自分ではないのだと思っていたのです」
「自分は自分ではない……哲学的ですね」
「自分でもよく分からんのです。ただなんとなく、自分という存在に物足りなさを覚えていて」

 そこまで話して一期さんははっとしたように私の顔を見た。「すみません、こんな話を」とバツが悪そうに言う。けれど、不謹慎かもしれないが一期さんの話は私にとってとても興味深いものだ。一期さんさえ良ければ、と申し訳なさを感じつつ言ってみる。少しだけ考えてから一期さんはほっとしたような顔をした。
 一期さんは田舎のごく一般的な家庭の一人息子として生まれたそうだ。幼いころから勉強が好きで、外で遊びまわるよりは室内で本を読むのが好きな子どもで、父親からはよく呆れられていたと笑った。ある日、幼い一期さんは夢を見た。その夢の主人公は自分なのだけど自分ではない誰かで、自分よりもはるかに幸せそうに毎日を過ごしていたのだそうだ。その夢を見て以来、一期さんは自分という存在を疑い、自分が自分として生きていていいのか分からなくなってしまったのだという。それ以降も恐らくその夢を見ているようだけれど、先ほど言ったように起きると夢の内容はきれいに忘れてしまっている。一期さんはそう、なんだか物寂しそうな瞳をして言った。

「不思議ですな」
「何がですか?」
「今までこんな話、人にはするまいと思っていたのです。けれど、なぜでしょう、さんにはできてしまいます」

 「情けないところをさらしてしまい、申し訳ありません」と一期さんは頭を下げた。目の下の隈がやっぱり気になってしまう。幸せな夢なのに、どうして一期さんをそれほどまでに苦しめてしまうのだろうか。一体どんな夢なのだろう。気になることはたくさんあったけれど、今は聞くときではないと思った。
 不眠症、と診断を受けているのだそうで、一応睡眠薬をもらってはいるらしい。一期さん曰く「飲んでも利かないものは飲まない」ということで、滅多には飲まないようだけど。精神科医の先生とはもう長い付き合いだそうで、一期さんのそういう性格を汲んでくれていて飲むようにはあまり言われないのだという。ここ最近は眠れない日々を送っているが、気が付けば部屋で倒れたように眠っているので問題はない、なんて言うものだから驚いてしまった。それ、倒れたように眠っているんじゃなくて、ふつうに倒れているんじゃ……?

「お仕事に影響はないんですか?」
「ええ、不思議なもので学校にいると全く何もないのです。体調が悪くなったりも不安定になったりもなくて」

 家に着くと体がだるくなり、頭痛がしたり動悸が激しくなったりするらしい。それが不思議でたまらないと困ったように笑う。恐らく「病気」になるのだろうから、心配をかけたくなくてご両親には話していないのだそうだ。今まで相談相手は精神科医の先生だけで、誰にも打ち明けたことがなかったと私の顔を見て言った。

「私でよければ話くらい何時間でも聞きますよ!」
「い、いえ! そんな迷惑は、」
「迷惑じゃないです! その代わりに私の話も聞いてください」
さんの話、ですか?」
「はい」
「…………それはいいご提案ですな。私などで良ければ、ぜひ」
「こちらこそ! です!」

 ほんのり冷たい夜風が頬に当たる。部屋を振り返って時計を見ると、もうすぐで深夜三時を差すところだった。明日、というよりはもう今日は平日だし、一期さんは仕事があるはずだ。そのことを聞くと「ええ、そうですね」となんでもないふうに言った。その返答からこの人が本当にしばらくちゃんと寝ていないのだとよく分かった。あまり詳しくはないのだけど、横になって目を瞑るだけでもずいぶん違うと聞いたことがある。一期さんも眠れなくともそうしたほうが少しは体が休まるかもしれない。そう思ってそのことを言おうとしたのだけど。

「こんなにも人と向き合って話をしたのは久しぶりです。なんだか昔に戻れたようで、少し嬉しいです」

 そんなふうに、笑うものだから。言うタイミングを失ってしまい、私もつられて笑ってしまった。

「私なんかでよければいつでも聞きますよ! あ、そうだ!」
「なんですか?」
「連絡先! 交換しませんか?」

 一期さんは少しだけ驚いたような顔をした。まさかそんなことを提案するとは思っていなかったのだろうか。断られるかな、とちょっと不安が顔を出したけど、すぐに消え去る。「私もそう言おうとしていました」と一期さんが笑うと、なんだかうれしくなってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 一期さんと連絡先を交換してから、結構頻繁に連絡を取るようになった。相変わらず一期さんの隈はひどいままだったし、顔色も悪いままだけれど、心なしか余裕があるように思えた。連絡の内容は大体夜中に「起きてますか?」という連絡だ。私はそれに返信はせず、ベランダから顔を出す。そうすると一期さんと目が合って「こんばんは」とお互い挨拶するのだ。
 一期さんのことをたくさん教えてもらった。高校では日本史の教師をしていて、生徒たちからも「一期先生」と呼ばれて親しまれているらしいこと。とある三人の生徒に手を焼いていて、ここ最近はその三人のことが心配なこと。大学の同輩である人が同じ高校で教師をしていること。一期さんは自分の話をし終えると必ず私の話を聞いてくる。仕事は何をしているのかと聞かれたので、ふつうのOLをしていたけれどつい最近辞めたことを伝えた。一期さんは分かったいたように「そうですか」と言ったのち、聞きづらそうに退職理由を聞いてきた。退職理由は、まあ、簡単に言ってしまえば上司からのパワハラだった。新卒で入社した会社は男性が多いところで、私が所属していた部署で女性は私一人だけ。入社当初から直属の上司からは「女のくせに」とよく言われていたものだった。どんなに残業をして書類をしっかり作り上げても「女の作った書類なんか」と言われた。ふつうに仕事をしていれば「女のくせにコーヒーくらい淹れてくる気遣いはできないのか」と言われた。そういうのが積もり積もって、ようやく辞めるという決心がついたのだった。

「それは……ひどい話ですな」
「ですよね〜。自分でもよく我慢したなあ、と思います」
「精神を病んだりはしなかったんですか?」
「まあ……成長のために必要なのだと言い聞かせてましたね。あと眠れば大体のことはきれいに忘れられる体質なので!」

 一期さんは軽く笑ってから「けれど、さぞお辛かったでしょうな」とじっと私の瞳を見て言った。その瞳が、まるで包み込むかのような熱を帯びていて、なぜだかどきりと心臓が動いた。勝手に私が一人でどきどきしていると一期さんが不意にあくびをこぼした。思わず「あ」と声がもれると同時に一期さんも驚いたような顔をする。一期さんはどんなに夜遅くになってもあくびをしなかった。眠たくなる、ということすらなかったと言っていたのに。あくびをしたせいか目が少しだけうるんでいる。一期さんはそれを指で払ってからおかしそうに笑う。

「あくびなんて、いつぶりでしょうか。さんはすごいですね」
「え、私なにもしてないですよ?」
「いいえ、たくさんしてくれていますよ」
「そ、そうでしょうか……」
さんの声にひどく心が落ち着くのです。そのおかげです」

 照れくさそうな顔の一期さんをじっと見ていて、はっと良いことを思いつく。ポケットからスマホを出して、画面を操作する。アドレス帳を開いて一期さんの番号をタップすると、当然だけれど一期さんのスマホが振動した。不思議そうな顔の一期さんはスマホを出しつつ「あの?」と首を傾げる。

「このままベッドに横になればいいのではないでしょうか!」
「こ、このまま、とは?」
「電話をしながら、です」

 あくびが出たということは少なからず睡眠欲が出てきた証拠なはずだ。疲れ切った体でベッドに横になり、その状態が続けば自然と眠りにつけるかもしれない。一期さんが言っていた「ただただ幸せな夢」を見ないとは言い切れないけれど。
 一期さんはスマホをタップして電話に出た。耳にスマホをあて、「そんなこと、お願いしてもいいのでしょうか」と苦笑いをこぼす。耳元で聞こえる一期さんの声は少しだけ聞こえは違うけど、ちゃんと一期さんの声だ。「もちろん」と返すと、一期さんは小さく頭をさげて「お願いします」と言った。

「じゃあやってみましょうか」
「はい」

 通話したままお互い部屋に戻る。もぞもぞと布団に横になったらしい音が聞こえたので、私もベッドに横になる。電話の向こうから「ふふ」と堪えきれなかった笑い声が聞こえた。「不思議な感覚ですね」と耳元で一期さんが話している。なんだかくすぐったい。さっきまで直接顔を見て話していたというのに。電話というだけで少し恥ずかしくなるのはなぜなのだろうか。

『眠くなったら無理せず寝てください。私もそうします』
「どっちが先に寝るか、競争ですね」

 そこから私が覚えている限り一時間はずっと話をした。仕事の話の続きや実家の話、ご両親の話。担当医の先生が不思議な人で、未だに実態がつかめていないという話。一期さんは話し上手なのだと分かるほど、どれもこれもいつまでも聞いていられるものだった。まるで絵本を子どもに読み聞かせているように思えた。
 次第に一期さんの声がぼやぼやと滲んでいくように聞こえ、気付けば眠っていたのか、一期さんが眠ったのか、はっきりとは覚えていない。気が付いたときにはすでに朝になっていて、一期さんとの通話は午前五時半で終わっていた。それは私が切ったものなのか、それとも一期さんが切ったものなのか。一期さんが帰ってきたら尋ねてみようと思いつつ、スマホを机においた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 一期さんとの深夜の電話はその日からほぼ毎日続いた。今までは一期さんの「起きてますか?」というメールからベランダへお互い出る、という流れだったけれど、電話をするようになってからは一期さんから前触れなくかかってくるようになった。すでに私が寝こけてしまっていて出られない日もあったけれど、一期さんが持ち帰った仕事をやっていてかけてこない日もあった。そんなふうに、お互い今日電話します≠ネんて約束などないまま、不思議な関係が続いている。
 一期さんがぽつぽつと次第に語ってくれたのは、不眠症になるきっかけとなった夢の話だった。その夢はどうやらものすごく昔の夢らしく、一期さんではない一期さんは刀を持っているらしかった。仕えている主がいて、周りにはたくさんの仲間がいたという。一期さんはその中でもなかなか高い地位があったらしく、仕えている主からは頼りにされていたようだ。何よりも一期さんが印象深かったのが周りにいる仲間だったそうだ。刀を持っている、ということは恐らく戦のある時代だろうに、そこには子どもが多くいたという。その大半の子どもが一期さんのことをまるで兄のように慕っていて、「いちにい」と呼び掛けていたのだそうだ。一期さんにとってはそれが何よりもうれしく、幸福で、満ち足りていた。そう感じた瞬間に一期さんは夢から覚めたといった。その日から妙な喪失感が体のどこかに大きな穴を作り、自分は自分に必要な何かをなくしてしまっていると感じるようになったのだという。一期さんは一人っ子だ。それなのに、なぜだかそれが寂しく思えて仕方ない。一期さんはそう、物憂げな瞳をして言った。
 私は一期さんの話を聞くしかできない。長く話を聞いていても、できることは何もないのだ。それがひどく情けなく、ひどく心苦しい。それに気が付いた瞬間に、はっとした。自分は自分ではない。一期さんが言っていた言葉の意味が、ほんの少しだけ分かった気がする。自分は自分に必要な何かをなくしてしまっている。私も、一期さんに何もしてあげられない自分を、そんなふうに思ってしまった。何かしてあげなくてはいけないのに。何か、して、あげなくては? いいや、何かしてあげなくてはいけないのではない。私は。私はきっと、一期さんに何かを返さなくてはいけないのだ。それがどうして、だとか、なぜ、だとかは分からないのだけど、そう思えてならなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 一期さんと夜中の電話をするようになって早二週間。顔を合わせるたびに一期さんの顔色を見るけれど、どうにも良くなっている気配がない。専門家であるお医者さんが手こずっているのだから当然なのだけど残念でならない。私がもっとできることはなんだろうか。ベッドで寝ころんでぼんやりそんなことを考える。時計を見るとそろそろ一期さんが仕事から帰ってくる時間だ。今日も電話はかかってくるだろうか。それとも今日は何か仕事があってかかってこないだろうか。どちらにせよ、今日も頑張って起きていよう。私にできることはそれくらいなのだから。そうため息をつくと、ちょうど一期さんの部屋のドアが開く音がした。今日は早く帰って来られたのだろう。残業せずまっすぐ帰って来られたのだから仕事はないはずだ。ということは電話がかかってくる可能性は高そうだ。あまりよくないことだけど、それが楽しみになっている自分がいた。
 一期さんの部屋からかすかな物音が聞こえる。耳をすませば何をしているのか多少は分かってしまう。恐らく今は手を洗っているらしい。一期さんは帰宅すると必ず手洗いうがいをする。ご両親からしっかりしつけられたのだろう。そう思うと少しほほえましくも思える。そんなことを考えつつ耳をすませていると、突然、ものすごく大きな音がした。何かが落ちたような、ぶつかったような音だ。手をすべらせて何か落としたのだろうか。しばらく黙って耳をすませていたのだけど、その後なかなか次の音が聞こえてこない。拾ったりしているだけだと物音があまり聞こえないのだろうか。じっと待っていても何も聞こえてこない。徐々に心配になってきて、ついスマホを手に取ってしまった。一期さんの連絡先をタップして電話をかけてみる。こちらからは滅多にかけないけれど、もう帰ってきているのだし何もなければすぐに出てくれるだろう。そう思ったのだけど。

「……で、出ない」

 電話に出てくれる気配がない。さあっと顔が青ざめていくのが自分でも分かった。大急ぎで部屋を出て一期さんの部屋の前に立つ。恐る恐るチャイムを鳴らしてみるが反応はない。ドアを叩いても、「一期さん」と声をかけてみても反応がない。ダメ元でドアノブを回してみたが、もちろん鍵がかかっていて開けられなかった。もしかして、倒れてるんじゃ、ないだろうか。余計に顔が青ざめていく。大家さんに開けてもらうしかない。そう思ったのだけど、今朝の回覧板を思い出した。今日は出かけているからいないそうなのだ。大きなマンションではない小さなアパートなので、代わりの人間がいるわけもない。いよいよもう救急車を呼ぶしかないのだろうか。もし私の勘違いだったら一期さんにも他の住民にも迷惑が掛かってしまう。心臓がドッドッとうるさく音を立てている中、一期さんのドアの前で立ちつくしてしまう。
 しばらく考えてひらめいた。ベランダ伝いに部屋に入るしかない。そうと決まれば、と自分の部屋に戻りかけて思い出した。うちのアパートは二部屋のベランダが繋がっていて、間にしきりがされている構造だ。私と一期さんの部屋はベランダが離れていて、私は右隣の部屋と、一期さんは長谷部さんの部屋とベランダが繋がっているのだ。つまり私の部屋のベランダから一期さんの部屋のベランダに行くのは相当リスキーになる。ついでに私は高いところがあまり得意ではない。無謀すぎる。けど、一期さんにもしものことがあってからでは遅い。余計にうるさくなる心臓を押し付けるように大きく呼吸を繰り返し、「よし!!」と気合を入れたときだった。

「……何かありましたか」
「うわあ?! あっ、は、長谷部さん、こ、こんばんは!」
「……どうも」

 今日も今日とてあまり機嫌が良さそうではない長谷部さんが現れた。珍しく早く帰ってきたらしいその腕にはぱんぱんの鞄が握られている。恐らく今から家で仕事を再開するらしい。くたびれた背広を少し着直しつつ、長谷部さんは一つ息を吐く。あ、私が邪魔で部屋に入れないのか!「すみません」と謝りつつ通路を開けたが、長谷部さんはそこから動かないまま「そこの部屋、何かありましたか」と視線を一期さんの部屋のドアに向けた。なんとなく、協力的なような気がして、もうここは行くしかないと腹をくくる。

「あ、あの、突然で申し訳ないのですが」
「……なんでしょう」
「べ、ベランダ、貸してもらえませんか?!」
「は?」
「い、一期さ、あっいえ、粟田口さん、もしかしたら倒れたかもしれなくて!」
「……大家は?」
「今日はいないのでどうしようもなく……自分の部屋のベランダから行こうと決心したところだったんです!」

 お願いします、と頭を下げる。長谷部さんは基本的に住民の誰とも交流をしていないし、ゴミ捨てのときでさえ無駄な話はしない。恐らく人付き合いが苦手であり嫌いなのだろうと私は思っている。そんな人が自分の部屋に入れてくれるなどとは思っていないし、こんなお願いは失礼だとも分かっている。断られたら自分の部屋のほうからがんばろう。そう思いつつもう一度「お願いします」と声を出す。長谷部さんはしばらく黙っていたけれど、すぐスタスタと私の横を通って自分の部屋のほうへ行ってしまった。だめか、と思って諦めつつ顔を上げると、長谷部さんは鍵を開けながら「どうぞ」と呟いた。

「えっ」
「いくらベランダが繋がっているからとはいえ、女性には危ないので自分が見てきます」
「えっ?!」
「倒れていたら声をかけるので救急車を呼んでください」

 無表情なまま長谷部さんはすらすら喋る。あまりに予想外過ぎて驚いていると不思議そうな顔をされた。はっとして「あっありがとうございます!」と頭を下げると、長谷部さんは無言で自分の部屋へ入っていく。恐る恐るそれに続いてお邪魔すると、「片付けていないので足元気を付けてください」と声をかけてくれた。いや、むしろ突然なのに入れてくれて有難い。たしかに長谷部さんの部屋は少し散らかっていて、脱いだ服が足元に散らばってはいたけど、気になるほどではなかった。
 ベランダに出ると、背広を脱いだ長谷部さんがベランダから身を乗り出してしきりを超えようとしているところだった。見かけによらない素早い動きに驚きつつ、長谷部さんが脱いでベランダに置いた背広を畳んで中に置いておく。一期さんの部屋へ消えて見えなくなった長谷部さんが、どうやら鍵が開いていた窓を開けて中へ入っていったようだ。そうしてすぐ、足音がこちらへ戻ってきた。

「救急車を」
「は、はい……あ、あの、一期さん、は」
「……手を」
「え、あ、はい」
「俺が持っているから大丈夫だ、足をこの辺りにかけて」

 長谷部さんがしっかり手を握ってくれたまま、言われた場所に足をかけていくと難なくベランダを伝えた。救急に電話をかけながらそっと一期さんの部屋に入ると、一期さんが冷蔵庫の横辺りで倒れているのが見えた。心臓がうるさい。聞かれたことに答えながらゆっくり一期さんに歩み寄る。どこか慣れた手つきで長谷部さんが意識の確認や気道の確保、呼吸の確認を行っていく。呼吸はしっかりしているらしく、人工呼吸は必要なさそうだと長谷部さんが呟いた。倒れたときに恐らく机の角で頭を打ったようで、少しだけ血が出ている。それを置いてあったタオルで止血しつつ、長谷部さんは「救急車は?」と私に聞いた。十分ほどで来ることを伝えると「そうか」と言って少しだけ肩から力が抜けたように感じた。私も一期さんの近くにしゃがんで、呼びかけたり手を握ったりしてみる。手は温かくて安心したけれど、やっぱり顔色が悪い。やっぱりあまり改善できていなかったのだろう。そう思うと自分が情けなくてたまらなかった。

「……俺も昔、こんなふうに倒れたことがある」
「え、あ、そうなんですか?」
「そのときは知り合いのやつが救急車が来るまでずっと呼びかけてくれていたらしい」
「ずっと……」
「はっきりは覚えていないが、恐らく、親しい者からの呼びかけがなければ死んでいたと思う」

 長谷部さんはそれきり黙った。黙ったけれど、何を言ってくれたのかは、よく分かった。ぎゅうっと一期さんの手を握って名前を呼び続けた。何度も何度も、反応がなくてもずっと。
 救急車が来るまで、一期さんの意識は戻らなかった。けれど、その手の温かさはそのままで、きっと大丈夫だと思えるほどだった。
 病院には私がついていくことにした。長谷部さんには協力してもらったお礼と突然のお願いへの謝罪を後日する、と伝えたけれど「気にするな」と言われた。いつもは壁を感じる敬語だったのに、その砕けた言い方がなんだか少しだけうれしかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 病院についたころには頭から少しだけ流れていた血も止まっていた。一期さんは相変わらず意識を失ったままだったけど、お医者さん曰く「寝ているようなもの」だということで心配はいらないと言われた。日頃の睡眠不足と疲労が溜まったことにより、気を失ったように眠ったらしい。一期さんが前に言っていたことを思い出す。「気が付けば倒れたように眠っている」、まさにこのことだったのだろう。本当に倒れてるだけじゃないですか、なんてため息をつきつつ眠る一期さんの顔をじっと見る。穏やかに寝ている。けれど、またあの夢を見ているのだろうか。それを思うと心臓がきゅっと痛む。
 数時間後に一期さんの同僚だという高校教師がやってきた。堀川さんというその人は、私の顔を見るなりなぜだかとても驚いたような顔をしたけれど、それはほんの一瞬だけだったので見間違いかもしれない。堀川さんは私に挨拶をしつつなんだか困ったような顔をする。なんだろう、と首を傾げていると堀川さんの後ろからどこか騒がしい声が聞こえてきた。

「ちょっと三人とも、病院だから静かにね」
「あの、どなたかいらっしゃるんですか?」
「あー……えーっと……」
「お、大将じゃねえか」
「薬研くん」
「ああ、すまん、つい」

 ひょこっと顔を出したのは三人の高校生らしき男の子たちだった。一番声が低い子は私をじいっと見て「不思議なもんだな」と笑ったが、意味はよく分からなかった。その隣にいる女の子のような子は「変なこと言っちゃだめだよ」とその子に苦笑いをこぼしている。もう一人の短髪の子はそんな二人のやりとりを私と同じで不思議そうに見ていた。

「すみません、うちの学校の生徒なんですが……一期先生に懐いていて、どうしてもお見舞いに行きたいと言うので……」
「はじめまして! もしかしてお姉さん、一期先生の彼女?」
「お前も変なこと言ってんじゃねえか」
「僕のはふつうの質問でしょ?!」
「二人ともいい加減にしないと先生%{るよ」
「すまん」
「ごめんなさい」

 その様子を見ていてピンときた。一期さんが前に手を焼いている生徒が三人いると教えてくれた。きっとこの三人がその生徒なのだろう。短髪の子は先ほどから何も話さないけれど、あとの二人はなんだか騒がしい。顔が似ているから兄弟かと思ったがどうやら違うようだ。織田薬研くん、朽木(らん)くん、一橋厚くんというらしい。とても礼儀正しく挨拶をしてくれた辺り、問題児とかぐれているとかそういう類で手を焼いているわけではなさそうだ。
 自己紹介をするまで黙りこくっていた一橋くんがわたしの顔をじいっと見て呟く。「どっかで会ったような気がするんだよなあ」、と。その言葉に織田くんはからからと笑って「かもしれんなあ」と言い、朽木くんも「そうだねえ」とおかしそうに笑った。その不思議な会話についていけずにいると、堀川さんがそれをたしなめる。そうして私のほうを向くと、なんだか申し訳なさそうな顔をした。

「えーっと、プライベートなことで申し訳ないのですが」
「はい?」
「一期先生とは、どういったご関係なんでしょうか」
「あ、あの、本当に変な関係ではないです! ただの隣人で!」
「隣人……あ、一期先生が引っ越した先のですか?」
「そうです!」
「…………すごいな」
「え?」
「え、あ、いえ、なんでも。それにしてもベランダを伝って部屋に入ったと聞いたんですが、本当ですか?」
「それも私じゃなくて、そのまた隣人の長谷部さんという方が、」
「長谷部さん?!」
「え、あ、はい、長谷部さんですけど……お知り合いですか?」
「い、いえ、すみません」

 堀川さんはなんだが驚愕したままの顔で首を振る。どう見ても何か事情がありそうだけど、出会ったばかりである他人の私が聞くのも悪いので黙っておいた。一期さんの顔を覗き込んでいた織田くんと朽木くんも顔を見合わせているが、そちらも何も聞かずに黙っておいた。
 堀川さんは私の隣に椅子に座り、「三人とも、もう少しで帰るからね」と生徒三人に言ってから私の顔を見る。じいっと見られて少しどぎまぎしてしまう。堀川さんはなんだか安心したような顔をしてから、一期さんのことを話し始めた。
 堀川さんと一期さんは大学時代からの同期で、何かと馬が合ってそれ以来ずっと連絡を取り合っていたという。教師になってから堀川さんはいくつかの高校に赴任しつつ、去年一期さんと同じ高校へ赴任してきたらしい。大学時代からそうだったと堀川さんは言ったが、不健康そうな見た目に拍車がかかっていて驚いたと笑った。いつもお昼はあまり食べないし、他の先生と比べて残業も多くやっていくし、と堀川さんは言った。大学時代よりも細くなった身体やより濃く刻まれた隈、学校にいるときは踏ん張っているけれどひとたび外に出ると顔には疲れが滲んでいたという。

「でもここ最近顔色がほんの少し良くなったんです。相変わらず隈はひどかったですけどね」
「何かあったんでしょうか?」
「きっと、あなたに出会ったからでしょうね」

 まっすぐな瞳でそう言われたけれど、首を傾げるしかなかった。私はとくになにかしてあげられたわけではない。一期さんが眠りにつけるように協力はしたけれど、結果は残せていないわけだし。私に出会ったことで一期さんが何か変われたことはない気がする。夜の話し相手ができたくらいだろうに。それでも堀川さんは「一期先生のこと、よろしくお願いします」と私に頭を下げた。織田くんたちも同じように言ってくるものだから少し困惑してしまった。

「そういえばお姉さん、名前なんていうの?」
「あ、自己紹介を忘れていましたね。です。えーっと……お恥ずかしながら数日前から無職です……」
「マジかよたいしょ……じゃなかった、さん、か。まあ職なんざいくらでもある、気ままに探せばいいさ」
「ありがとう……」

 高校生に励まされてしまった。若干恥ずかしさを感じたけれど、なんだか頼りがいのあるその声に少し背中を押してもらえた気がした。織田くんを叱ってから堀川さんが立ち上がる。カバンを持つと「帰ろうか」と三人に声をかけた。三人とも「えー」と言いつつも大人しく帰り支度をはじめた。

「あ、あの、一期さんのご家族の方には……?」
「学校から連絡を入れてありますよ。ただご実家がかなり遠いところなので来るのに時間がかかるかも、と……」

 そう聞いて、お節介がすぎるとは思ったけれど、ご両親が到着するまでは私がお見舞いに通うと堀川さんに伝える。すると、どこか嬉しそうな顔をして「ご両親にそう伝えます」と連絡しておいてくれることになった。お礼を言うと堀川さんは少しだけ目を細めて「一期先生のこと、お願いしますね」ともう一度言った。先ほどのそれよりも親しみのある言い方に、どこか懐かしさを覚えた。

「いち……一期先生のこと、お願いね。さん!」
「頼んだぜ」
「またお見舞い連れてきてくれよ堀川先生ー」
「今日は特別だって言ったでしょ、二度目はないよ」
「えー」

 ぶーぶー言っている三人を引きずるようにして堀川さんは部屋を出ていく。出ていく直前にこちらに頭を下げて出ていった姿に、なんだか少し笑ってしまった。
 四人が出ていったあとの病室はとても静かになった。一期さんの寝息とたまに聴こえてくる鳥の鳴き声。それだけが室内に響いている。じっと一期さんの顔を見ると、一番に目につくのはやっぱり濃い隈。そのあとに少し色の悪い唇、やけに白い肌。今までどれだけの時間を一人で耐えてきたのだろうか。幸せな悪夢を親しい友人の誰にも話せないまま、一人で。夢の自分と現実の自分のずれに苦しめられるというのはどんな苦痛なのだろうか。聞く人によってはたぶん理解を得られないであろう苦痛に、一期さんは子どものころからずっと心を痛めている。それはあまりにも孤独で、あまりにも寂しいものだと思ってしまった。
 ぼけっとそんなことを考えていると、病室のドアが開いた。一期さんを診てくれたお医者さんだ。一期さんは疲労困憊により体が弱っていることはあるものの、基本的には大丈夫とのことで、目が覚めたら退院してもいいとのことだった。ただ、退院したら今通っている精神科の先生にもう一度ちゃんと診てもらうほうがいいと言われた。貧血気味なところもあるので、食生活を見直すことも大切だとお医者さんは言った。手術や薬でどうにかなるものではないとも。その話を頷きながら聞き、「分かりました」と答えてお医者さんは思い出したように頭をかいた。「すみません、あなたはただの隣人の方でしたよね」と。続けて「ご家族の方や近しい方にお伝えください」と申し訳なさそうな顔をされた。それがひどく心苦しいのはなぜなのだろう。お医者さんが病室から出ていった後も、一人だけ取り残されたように体が動かなくなってしまった。ただの隣人。お医者さんが言った私と一期さんの関係はまさしくそれだ。それに間違いはないのだけど、なぜだか胸が痛い。何か大切なことを忘れているような、何かをどこかに忘れてきてしまったような。そんな胸の痛みだ。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

 一期さんが退院したその日、車で迎えに行った私に一期さんはそう深々と頭を下げた。それに「いえいえ!」と笑って返しつつ車に乗るように言うと、余計に申し訳なさそうな顔をされてしまった。私が勝手にやっていることだから、と押し切って無理やり助手席に乗せると看護師さんたちに笑われてしまう。それに若干照れつつ「お世話になりました」と頭を下げてから病院を後にした。
 車内で一期さんは背中を少し丸めて小さくなっている。「大事にならなくてよかったです」と私が言うと「大事になってます……」ととんでもなく暗い声が返ってくる。なんでも別の日にお見舞いにきた堀川さんに救出劇のことを聞いたらしい。「一緒にお礼言いに行きましょう」と言えば「お願いします……」とまた暗い声が返ってきた。

「そんなに落ち込まなくても。そりゃあびっくりはしましたけど、謝られるようなことはされてません」
「いえ……多大なるご迷惑をおかけしています……」
「迷惑だなんて思ってませんよ。あ、そういえば、結局あまり睡眠の手助けできてなくてすみません」
「なぜさんが謝るのですか。むしろ感謝しています」
「……眠れていないのにですか?」
「眠れていなくとも、以前よりはだいぶマシになっているんです」

 恥ずかしそうな顔をして一期さんは「あなたの声に、恥ずかしいくらい心が穏やかになるのです」と呟く。そんなふうに言われると私まで恥ずかしくなってきて「どういたしまして……?」と答えるので精いっぱいだった。少しだけ黙ってから一期さんは一つ咳払いをする。言いづらそうに「その、」と口を開いたかと思えばまた閉じる。それを何度か繰り返して、ようやく決心がついたようにこちらを見た。

さんさえ良ければ、今後も電話してもいいでしょうか」

 言ってから後悔をしているみたいな顔をされた。一期さんは「申し訳ありません」と叱られた子どもみたいな声で言う。

「そんなの、言われなくてもこっちからかけますよ」
「……さんは人が良すぎますね」
「そうですか?」
「自分のことも大事にしてください。私が言っても説得力がありませんが……」
「十分大事にしているつもりなんですけどね?」

 けらけら笑う。一期さんはそんな私を呆れたように笑うと「そんなことないですよ」と呟いた。
 アパートに着くと一期さんの緊張が最大まで引きあがったようだった。今日は休日ということもあり、長谷部さんは家にいるはずだ。そこまでは予想出来ていたのだけど、いつも夜になるまで電気がついていないことが多い部屋に電気がついているのだ。どうやらもう起きているらしい。一期さんは何度も咳払いと深呼吸を繰り返してから、ようやく歩き始める。引っ越してきた当初、結局長谷部さんに挨拶へ行けなかったそうで、置手紙とともに手土産をポストに入れただけで終わってしまったらしい。長谷部さんはそういうことを気にするタイプの人ではないと思うのだけど、一期さんとしてはずっと気にはしていたようだ。その上での今回の騒動があったこともあり、かなり申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまっているとのことだった。そんなの、たぶん気にしなくていいだろうに。そう思ったけど言っても聞かないだろうから黙っておくことにした。
 長谷部さんの部屋の前につくと、一期さんはもう一度深呼吸をした。そうして恐る恐るチャイムに指が伸びていき、中からチャイムの音が聞こえる。しばらくすると足音が聞こえてきて、ゆっくりドアが開いた。

「ああ、隣の」
「あ、粟田口と申します。このたびは多大なご迷惑をおかけしてしまい、」
「もう退院したんですか。早いですが大丈夫ですか」
「えっ、あっ、はい、大丈夫でした」
「そうですか。あと、タオルと洗剤ありがとうございました」
「あっ、いえ、すみません直接伺えないままで……」
「いえ、気にしていません。お大事にしてください」
「あ、は、はい、ありがとうございました」
「長谷部さん、改めてあのときはありがとうございました。助かりました」
「お礼はもう牛肉でもらった。気にするな」
「食べてくれました?」
「一昨日の夕飯だ」

 フッと笑った長谷部さんに笑い返すと「では」と言ってドアがゆっくり閉まった。一期さんはなんだか放心状態で立ちすくんでいる。それに「ほら、大丈夫だったでしょう?」と笑いかけると一期さんはなんだか赤い顔をした。

さんが言ったんですよ……長谷部さんは怖い人だって……」
「え、そんなこと言いましたっけ?」
「言ってましたよ、引っ越してきた当初に」
「あー、そのときはまだ古い情報だったんです」

 一期さんはほっとしたように「よかった」と息を吐いた。それを少し笑いながら部屋に戻るよう促す。一期さんは自分の部屋の前に行き、鍵を取り出した。そしてふと私のことを見る。「戻らないんですか?」と首を傾げられたので、「安静にするか見張ってから戻ります」と返す。一期さんは少し固まったのちまた顔を赤くして「だめです」と予想外の返答をしてきた。それに「だめじゃないです、見張ります」と返すと、少し考えて「五分ください」と言って素早く部屋に入っていった。
 きっかり五分後、そうっとドアが開く。一期さんが顔を半分だけ出して「本当に入りますか?」と聞くので力強く頷いてみせる。一期さんは若干戸惑いつつドアを大きく開けて「散らかっていますが……」と呟いた。どうやら入ることを許してくれたらしい。「お邪魔します」と言ってから玄関に入ると一期さんが小さく息を吐いたのが聞こえた。

「あ、すみません、気が利かなくて。お付き合いしている方とかいましたっけ」
「い、いいえ! その、女性を部屋に上げることが今までなかったので……」

 一期さんのその発言に驚いてしまう。整った顔をしているし、教師をしていることもあって誠実に見えるので女性にモテるだろうに。学生時代に彼女の一人や二人いてもおかしくなさそうなのに、一期さんはどうやら女性とそういう関係になったことがなかったらしい。世の中不思議なこともあるものだ。
 恥ずかしそうにしている一期さんはとりあえず置いておいて、とにかく安静にと言われているので横になるのが一番だろう。そう一期さんに言うと「いえ、いまお茶を」なんて寝ぼけたことを言いはじめる。台所に行こうとしたその手をがしっとつかんで、ずるずると引っ張る。一期さんは困惑しつつもとくに抵抗しないまま「あの?」と言うだけだ。そんな一期さんをベッドの前まで連れて行き、そこで手を離す。「とりあえず横になってください」とベッドを指さすが、「しかし」と苦笑いをこぼす。今は何よりも自分の体を第一に考えるところだろうに。きっと私が部屋に入らなければたまった仕事をしていたに違いない。やっぱりついてきて正解だった。そう思いつつ「いいから寝てください」と再度手をつかんで、ぽいっと投げるようにベッドのほうへ引っ張った。そうするとようやく観念してくれたようで、渋々ではあったけれどベッドに横になってくれた。

「眠るまで、とは言いませんから。しばらくここにいますね」
「……はい」
「本当に迷惑だったら言ってくださいね。お節介してるって自覚はあるので……」
「……いえ、むしろ、ありがとうございます」

 一期さんに布団をかけつつ笑うと、なぜだか目を逸らされてしまった。よく分からなかったけど、とりあえず嫌がられているみたいではないので安心した。ベッドの近くに座ってポケットからスマホを出す。ちょうど午後六時になったところだった。外はだいぶ暗くなってきたが、カラスの鳴き声でなんだか賑やかに思える。それをぼうっと眺めているともぞもぞと一期さんが動いた音が聞こえた。

「……そういえば」
「はい?」
「夢を、見たんです。眠っている間に」
「またあの夢ですか?」
「いいえ、はじめて見る夢でした。あまり覚えていませんが、とても、とても、幸福な夢だったと思います」
「……やっぱり怖いですか?」
「それが不思議なんです。怖くないのです」

 一期さんは遠くを見つめるような目をして言った。誰かと笑っていたような気がする、と語った夢は記憶が曖昧なためかぼんやりしたものだったけど、その表情から本当に幸せなものだったのだろうと分かった。その夢を一期さんは「できればもう一度見たいと思うほどでした」と言って、静かに目を閉じる。けれど、すぐに目が開いてしまい、どうにもこうにも眠れそうになさそうだった。やはり倒れるまで極限の状態にならないと眠れないのだろうか。睡眠薬を使って眠っても、また怖いほうの幸せな夢を見るのだろうか。いろんなことを考えて、あ、と思いついた。一期さんが倒れたときと救急車で運ばれている間、病室で眠っている間。お節介がすぎると分かりつつも、ずっと手を握っていたのだ。同じような状況になればまたちゃんと幸せな夢を見られるかもしれない。そう思って一期さんに言おうと思ったけど、あ、と気が付いた。つまりそれって、一期さんに「手をつなぎましょう」って私から言うってことだよね、と頭の中で自分がしようとしたことをまとめる。あまりにも恥ずかしすぎるうえに、ただの隣人である自分が言い出すにしては過ぎたることだ。考えなしに言ってしまわなくてよかった。そうほっとしていると、一期さんが私の様子に気が付いたようだった。こちらを見て「どうしました?」と不思議そうな顔をしている。それに「いえ、なんでも」と笑って返すと、一期さんは少しだけ考えるような顔をした。

「……あの、もしかして、なんですが」
「なんでしょう?」
「私が眠っている間、手を握っていてくれた、ような気がするのですが」
「えっ」
「なんとなくです。すみません、変なことを言って」

 一期さんはじっと私の瞳を覗き込むように見て黙った。付き合ってもいない、家族でもない、そんな赤の他人である自分がずっと手を握っていたなんて。気持ち悪いと思われただろうか。そんな不安はあったけれど一期さんに嘘をつくことはできない。正直に「すみません、握っていました」と答えると、一期さんは「やはりそうでしたか」と笑う。そして、もぞもぞと布団の中から手を出すと、私のほうへ控えめに手を伸ばす。それにはてなを飛ばしてしまう。一期さんはそんな私から目を逸らして、「さんさえ良ければ、そのときのようにしてくださいませんか」と言った。逸らされた顔は見えなかったけれど、見えている耳は真っ赤に染まっている。勇気を出して言ってくれたに違いない。恐る恐る自分の手を伸ばして、私も勇気を出してその手を握る。ほんの少しびくっと一期さんは体を震わせてから小さな声で「ありがとうございます」とだけ言って、それきり黙った。私もなんだかとてつもなく恥ずかしくなってしまったけど、黙ったまま一期さんの手を握り続けた。
 一期さんの手は大きくて、温かくて、ほんの少し硬い。そのぬくもりがどこか懐かしい気もしたけれど、こんなふうに男性の手を握ることは今まであまりなかった。きっと何かのぬくもりとごっちゃになって勘違いしているのだろう。そうは思うのだけど、どうしてだか知らないものだとは思えなかった。
 しばらくすると、静かだった部屋の中に音が小さく響き始める。すうすう、と規則正しい、一期さんの寝息だった。驚いてしまって、手を握ったまま一期さんの顔を覗き込むと、穏やかな顔をして眠っている。病室で見た寝顔とまったく同じだ。しばらく一期さんの顔を覗き込んだまま固まってしまう。眠っている。まだ疲れがあるせいからかもしれないけど、一期さんが眠っている。たったそれだけで私の心は満ち足りていった。私にとってそれは「たったそれだけ」の一言で済むようなものじゃなくなっていたのだ。自分のことのようにうれしくて、自分のことのように安心した。片手だけで握っていた一期さんの手を両手で包み込む。良い夢が見られますように。そう祈るように、手を握り続けた。
 その瞬間、自分の中に何かがすうっと落ちてきたような感覚があった。それはまるで自分がなくしてしまった自分に必要な何かが戻ってきたような、自分が自分に成れたような、そんな、満足感のあるものだった。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 十二歳という、比較的幼い年齢で本丸に着任した私は、とにかく周りの大人たちに迷惑をかけないようにするので必死だった。私が着任した相模国第七番本丸は過去に時間遡行軍の急襲を何度も受けている場所で、可能な限り霊力の強い審神者を配置するようにされていると聞いている。まだ幼い私をそんな場所に配置することには多くの反対意見もあったそうだが、年齢にしては強い霊力であったこと、そのときの審神者の多くがすでに配置先が決まっていたことから、私が配置されることに決まったとこんのすけから聞いた。相模国第七番本丸は一代目のときから長らく時間遡行軍に関する調査を請け負っている。そのため危険ではあるが時間遡行軍の出現が多くある場所に籍を置き続けているそうだ。
 初期刀は加州清光。はじめは幼い私を見て困惑していたけれど、清光はすぐに私を信頼してくれた。そうして何度も言った。「主はまだ子どもなんだから、あんまり気負わなくていいの」、と。私を気遣って言ってくれた言葉だっただろう。けれど、当時の私はそれに対して、ああもっと頑張らなきゃいけないんだ、と思ったものだった。私が子どもだから本部の人がよく視察に来る。私が子どもだから演練で負けても何も言われない。私が子どもだから刀剣男士たちも私を気遣う。そう思って、とにかく早く大人にならなければと、いつも焦っていた。
 審神者に就任して一年後、一期一振を鍛刀した。多くいた粟田口の子たちは喜んで「いち兄だ!」と騒いで、何度も私に「主ありがとう!」と言ってくれた。弟たちに囲まれた一期一振はひどく優しい顔をして笑ってみんなの頭を撫でた。それからはっとしたように私を見て、膝をついた。「申し訳ありません、挨拶が遅くなりました」と頭を下げたそれは、先ほどの優し気なお兄さんのものとは違った。主に対する従者の声色だった。それが妙に寂しかった理由を、そのとき私は分からずにいた。
 それから数ヶ月が経ち、一期一振を第一部隊隊長に任命した。私の本丸でははじめての所謂「レア」な刀剣男士だったこともあって、その力はなくてはならないものとなっていた。それには本丸の全員が納得していたし、元第一部隊隊長の清光も「いいんじゃない?」と言ってくれた。清光には第二部隊を率いてもらうことにした、と清光に伝えると「近侍はどうするの?」と首を傾げられる。私の本丸はずっと清光が近侍をしていたし、このままでいいだろうと私は思っていたので意外な質問だった。清光曰く第一部隊隊長をしている刀剣男士が近侍をしているほうがいいとのことだった。出陣の命を一番出されるのは第一部隊だし、第一部隊の出陣の有無で本丸での役割分担も変わってくる。そう言われて恐る恐る「清光はそれでいい?」と聞いてみると、不思議そうな顔をされた。「え、逆にだめなことってある?」と笑った顔を見て、決心がついた。そうして一期一振を近侍に任命し、少しだけ新鮮な生活がはじまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 審神者に就任して七度目の秋。もうみんな寝静まって何も聞こえてこない部屋の中で、じっと一人で朝が来るのを待っていた。布団から起き上がってため息をつく。眠れない。ここ最近の悩みだ。気付けばなかなか眠れなくなっていて、日中の仕事に影響が出るようになっていた。みんなに心配をかけることも嫌で特に誰かに相談をしたりもしていない。何が原因で眠れないのかが分からないので、改善のしようもない。昼間に運動をして疲れれば眠れるだろうと思っていたのに、どれだけ運動して疲れても夜になるとすべて忘れてしまう。目を瞑っても闇が襲い掛かってくるように思えて耐えられない。頭をかいてため息をつく。明日もやらなくてはいけないことがあるのに、この調子ではそのうち倒れてしまいそうだ。どうにか眠れるようになれないだろうか。そう思って考えた結果、とりあえず本丸の庭を散歩してみることにした。歩いて少し運動すれば、日ごろ寝ていないこともあってすぐに疲れるだろうし、眠くなるかもしれない。そう思って自室の襖を開けると、「やはり」と聞き慣れた声が響いた。

「うわあ?!」
「眠れていないのですね」

 寝巻き姿の一期さんだった。まさかいるとは思わなかったので驚いてばくばくうるさい心臓を押さえつつ、「驚かさないでください!」と言う。一期さんは涼しい顔をしたまま「主、布団へお戻りください」と通せんぼしてきた。

「ちょっとだけ歩いたら寝るから」
「いけません。ここ最近、昼間にぼんやりしているのはそのせいでしょう。さあ、寝てください」
「ち、違うの、あの……」
「なんでしょう?」
「…………ね、ねむれ、なくて」
「眠れない……なぜです?」
「分かんない……」

 絶対呆れただろうな、一期さん。そう思って恐る恐る一期さんの顔を見る。一期さんは首を傾げて「分からない、ですか」と私の答えを復唱していた。それに小さく頷くと、一期さんは何を思ったか「失礼いたします」と言ってから私の手を握った。驚いている私は放ったらかしのまま、一期さんはすぐに顔を上げて笑う。

「体が冷えているせいでしょう。眠るまで手を握っていてもよろしいですか」

 そんな突然の申し出に驚きつつも、たしかにそうかもしれないと思った。秋とはいえまだ凍えるほどの寒い時期ではない。それにも関わらず、夜になると私の手は冷たくなるのだ。一期さんの手がとても温かく思えるほど、私の手は冷え切っていた。布団に入ってもなんだか寒くて、なんだか寂しいのだ。「お願いします」と言えば、一期さんは快く引き受けてくれた。
 一期さんに手を握ってもらったまま布団に入ると、なんだか今までと違う感じがした。一期さんは布団に入らず横に座っているだけなのに、全身がぬくぬくと温かくて心地よい。まるで、優しく抱きしめられているような感じだ。そう思った瞬間、自分でも知らない間にぼろぼろと涙がこぼれていた。一期さんは少しだけびっくりしていたけど、何も言わずに手を握り続けてくれた。
 少しずつ、言葉が出せた。審神者になったばかりのとき、周りに知らない大人ばかりで不安だったけど、誰にも言えなかったこと。大人に追いつこうと必死にがんばっていたとき、右も左も分からなくて不安だったけど、誰にも言えなかったこと。いつ時間遡行軍が襲ってくるか分からない場所で不安だったけど、誰にも言えなかったこと。みんなが気を遣ってくれるたび、私はまだまだだめなんだと不安になったけど、誰にも言えなかったこと。そうして今も、ちゃんとできているのか不安でたまらないままなこと。自分も知らない自分がぽろぽろとこぼれ落ちていって、同じようにまた涙がこぼれていった。寂しかったのだ、私は。手離しで頼れる両親と引き離され、知らない人たちの中に放り込まれて。たった一人でここにいるように思えて、寂しかったのだ。だから一期さんを顕現したあのとき、弟たちに優しく笑いかける一期さんを見て、私にもそんなふうに笑いかけてほしいと、思ってしまったのだ。全部無自覚だったけど、いますべてを自覚した。
 子どもみたいに泣きじゃくる私の頭を、一期さんがそっと撫でた。それがあまりにも優しくて、ずっと求めていたものだったから、余計に涙が止まらなくなった。怖かった、寂しかった、つらかった。いろんな感情がこぼれ落ちていくと同時に、心が凪いでいくのを感じた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 その日から、毎晩一期さんは私の部屋に来ては手を握ってくれるようになった。はじめのうちはたくさん積もり積もった今まで話せなかったことを話していたのだけど、話すことがなくなってくると、自然とうとうとしはじめるようになっていた。そうしてある日、ついに私は一期さんの手を握ったまま眠った。起きたときも一期さんは同じ体勢のままでいてくれて、「よく眠れましたか」と笑っていた。眠れるようになったのだし、一期さんは座ったままでしか眠れていない。それが申し訳なくなってきて「もう大丈夫です」と笑ったのだけど、言ってすぐあとに後悔している自分がいた。ようやくなんとか眠れただけなのに、私はもう一人でぐっすりで眠れるようになったのだろうか。けれど、言い出したのは自分だ。今更発言を撤回する勇気もない。一期さんはしばらく黙ってから「分かりました」と言った。「眠れないときはお呼びください」と付け加え、自分の部屋へ戻っていった。
 久しぶりに眠れたおかげか、仕事も捗ったし集中力も途切れなかった。清光には「なんか今日、デキる女じゃん」と褒められ、普段厳しい歌仙さんにも「今日は別人のようだね」と驚かれた。それが嬉しかったと同時に、夜への不安につながった。不安を振り払うように自分の頬を数回叩いて、終わった書類をまとめて封筒に入れておく。次は資源の報告書作りだ。そう気合を入れて倉へ向かうことにした。
 倉に到着すると、ちょうど遠征から持ち帰った資源を置きに来た薬研に遭遇した。薬研は戦闘服のままで顔に少し汚れがついている。「よお大将」と片手を挙げられたので私も同じ動作で挨拶を返す。

「お疲れ様」
「遠征くらいどうってことないさ。大将は今から資源の報告書か?」
「うん。あ、そうだ、持ち帰った資源の数教えてくれる?」
「冷却材と砥石ともに九十ずつ取ってきたぜ」
「ありがとう」

 報告書の端に教えてもらった資源の数をメモする。薬研は顔についた汚れを乱暴に手で拭いつつ「手伝う」と言い出した。遠征から帰ったばかりで疲れているだろうに、そんなことをさせるわけにはいかない。「ゆっくり休んで」と返したのだけど「いや、ちょうど大将に用があるんでな」と笑って返された。薬研は一旦倉から出ていき、どうやら着替えて戻って来るらしかった。私に用、ってなんだろうか。薬研はこの本丸では古参のほうで、練度も高い。今は第二部隊に所属しているのだけど、もしかしたら夜戦部隊への異動を希望しているのかもしれない。そんな予想を立てつつ倉へ入り玉鋼から数え始めることにした。
 それからしばらくしていつもの服装に着替えた薬研が倉に入ってくる。私が玉鋼を数え終えたところだったので、薬研は冷却材の量を見てくれることになった。木炭を数えつつ薬研に「用ってなに?」と聞いてみると薬研は手を止めて私の顔を見た。

「いち兄となにかあったか、大将」
「えっ、どうして?」
「どうにも調子が悪そうだったんでな、ちと気になったんだ」
「え、そうかな……? 私、そんなに調子悪そうに見えた?」
「いや大将じゃなくて、いち兄のほうだ」

 薬研は苦笑いをこぼした。「いち兄は基本的に生真面目だからな、私的なことは持ち込まないほうなんだが」と言って、私の顔を見る。持ち込むとすれば大将のことかと思ってな、と声には出ていないのに薬研が考えていることが分かってしまう。何かあった、とはいっても。あったとしたら今朝のことくらいしかないのだけど、それが原因で調子が悪くなるのもおかしな話だ。調子が悪くなるとすれば私のほうなのだから。一期さんにとって悪いことなどなかっただろうから、きっと別の何かが原因でそう見えているのだろう。そう思って薬研には話さなかった。そもそも一期さんに手を握ってもらって寝ている、なんて話は誰にもしていないのだから、経緯を話すだけでも大変だし、あまり知られたくない話だ。一期さんにとっても弟である薬研たちにはあまり話したくないことだろうし。薬研は少し得意げに笑って「何か知ってるだろ、大将」と私の顔を覗き込む。それに若干気圧されつつも持ちこたえ「知らないよ?」と返す。薬研は少し考えるそぶりを見せてから「じゃあこれには答えてくれるか?」と言って立ち上がる。そうして私の隣にしゃがむと、誰もいない倉なのに誰にも聞かれないような小さな声で耳元で呟く。

「大将、いち兄に惚れてるだろ」

 その問いかけにびくっと肩が震えると、けらけら笑って薬研が「すまんすまん」と言いつつ距離を取った。薬研は私の隣にしゃがんだまま「いやな、乱のやつが絶対そうだってうるさくてな」と腹を抱えて笑い続けている。なんだか恥ずかしくなってきて「そんなんじゃないって!」と返したのに、薬研は一向に信じそうにない。どこをどう見たら私が一期さんのことを好いているように見えたのだろう。不思議でならなかったけど、聞くと厄介なことに繋がりそうだったのでやめておいた。

「弟の俺から言うのもなんだが、いち兄はいい男だと思うぜ」
「……それは、そう思うけど」
「だろ?」

 私の背中をばしばし叩いて「ま、一つ頼むぜ」と言ってからまた資源を数える作業に戻った。叩かれた背中を少しさすりつつ一つ息を吐く。私、一期さんのこと、好きなのかな。一期さんに手を握ってもらうととても安心して、なんだか眠たくなるのは事実だ。けれど、それがどうしてなのかは考えたことがなかった。単純に近しい信頼している人の体温を感じて安心しているのだと思っていたけど、違うのだろうか。そう思って一期さん以外の誰かに手を握ってもらって眠れるかを想像してみた。想像上ではあるけれど、一期さん以外の人ではなんだか無理な気がした。目の前にいる薬研だと安心するというよりは緊張してしまいそうだ。初期刀の清光だと安心、というのとは別の感情にはなりそうだけど、それが眠りに繋がりそうにはない。一期さんに感じるあの安心感は一体なんなのだろうか。弟が多いゆえの包容力があるせいなのだろうか。私は一期さんのような兄がほしかったのだろうか。そんなふうに考えると、自然に「否」と頭が否定をした。
 考えこんでいる私に気が付いたらしい薬研は「簡単なことだろ」と笑う。

「触れたいと思えば、それはもう惚れてるようなもんだと俺っちは思うがな」

 「色恋のことはよく分からねえが」と言って薬研は報告書が挟まったバインダーを拾い上げる。そうして冷却材の数を書き込むと、次は砥石を数え始めてくれた。
 触れたいと思えば、それはもう惚れているようなもの。薬研の言葉をゆっくり噛み砕くように喉の奥で繰り返す。触れたい、と思えば、か。薬研の言葉は心の奥に留めておくことにして、今は資源の報告書作りに集中することにした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 一日しっかり仕事をやり切り、珍しく明日に持ち越す仕事はない。今日はゆっくり寝て明日もしっかりね、なんて数人に言われたけど、苦笑いをこぼして返すしかできなかった。夕飯をしっかり食べて、お風呂にもゆったり入って、歯も磨いた。あとは眠るだけ、なのだけど。寝巻きに着替えて布団に入って見たものの、全く眠くなる気配がない。寝返りを打って横を向いても、反対側を向いても。何度も何度もため息はもれるけれど眠気は出てこない。きれいに出ていた月の明かりが眩しいのかもしれない。そう思って頭まですっぽり布団をかぶってみたけど、あまり効果はなさそうだ。目を瞑ってもぐるぐると闇が襲い掛かってきて恐怖を感じてしまう。目を開けていてもどんどん冴えていく一方だ。一期さんに握ってもらっていた手を握りしめて、ぬくもりを思い出す。ああ、ここに、本当に一期さんの手があれば。
 そう思った瞬間、薬研に言われたことを思い出した。触れたいと思えば、それはもう惚れているようなもの。私は今、一期さんに触れたいと思ったのだろうか。一期さんの手を握りたいと、一期さんに手を握ってほしいと思うのは、それと同義なのだろうか。恋なんかしたことがない私にはその答えを見つけることはできなかった。ただ分かるのは、一期さんのぬくもりがないと眠れない自分がいる、それだけだった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「主、今日はどうしたの? 元気ないじゃん」

 清光が煎餅を食べながらそう聞いてきた。第一部隊は出陣中で、不在の一期さんの代わりに清光が執務室で控えてくれているのだ。「顔色悪いよ」と付け加えた清光は、ぷに、と私の頬をつつく。
 結局眠れないまま朝を迎え、今日は今までどおり集中力は散漫になっているし、どこか上の空になりがちだ。朝に会った一期さんは何か言いたげな顔をしたけれど、結局何も言わないまま「出陣してまいります」と言って行ってしまった。眠れなかったことがバレていなければいいのだが、それはむずかしそうだ。思わずため息をついてしまうと清光が不満そうに「え、俺のことは無視?」と私の顔を覗き込む。それに謝りつつもう一度ため息をついてしまう。

「えー何かあるなら言ってよ、主。力になるよ」
「……清光は恋愛とか興味ある?」
「えっ、まさかの恋バナ? 主も大人になったね」
「からかうなら言わない……」
「ごめんごめん」

 清光はもう一枚煎餅を手に取りつつ「で、相手は?」とずばり聞いてきた。まさか直球で一期さんの名前をあげるわけにもいかず、とりあえずは内緒ということにしておく。不満そうにはされたけど、そこは譲れない。清光はなんとか内緒にしたまま話を続けてくれた。

「へえ、じゃあその人のこと好きかどうか分からないんだ?」
「うん……触れたいと思ったら恋だって聞いたんだけど、ちょっと違うんだよね」
「違うというと?」
「触れたいというよりは、触ってほしいというか……」
「…………主さあ」
「う、うん?」
「俺は刀だし、恋愛のことはよく分からないよ。でもね」
「うん」
「それ、たぶん触れたいと思うよりも情熱的なものだと思うけど」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ただいま帰還いたしました」
「あ、お、おかえり、なさい」
「戦果の報告にまいりました」

 「失礼します」と断りがあってから襖が開く。広げていた書類を少し片しながら「お疲れ様です」と一期さんに声をかける。一期さんは少し笑ってから「では、報告をいたします」と言って、戦果報告をはじめた。時間遡行軍は殲滅したが刀剣男士の出現はなかったこと、資源も見当たらなかったこと。それを淡々と報告していくその一期さんの声に、なぜだか心が落ち着いた。
 報告を終えると、一期さんはふと私の机を見た。まだ終わっていない報告書を見て苦笑いをこぼした。さぼっていたわけではないのだけど、結果的には終わっていないので恥ずかしい気持ちになりつつ「すみません」と呟く。一期さんは優しく笑ってまっすぐに私を見た。

「眠れなかったのではありませんか」
「……えっと」

 やはりバレている。それに恥を覚えつつも「眠れた」と嘘はつけない。黙りこくってしまった私に一期さんは苦笑いをこぼしつつ、自分の頭を軽くかいた。

「情けない話であり、主に対して失礼な話ではあるのですが」
「は、はい?」
「私にとっても、主と過ごすあの夜の時間は大変心落ち着くものだったのです」

 一期さんの顔がほんのり赤く染まっている。つられて私の顔も熱くなっていき、お互い照れてしまってしまいには俯いてしまった。一期さんはその先の言葉を言おうか迷っている。私は考えていることを言おうか迷っている。二人ともそんな感じで黙り込んでしまう。
 しばらくそんなふうに二人で向き合ったまま静かな空間にいると、自分の心臓の音がやけにうるさく聞こえてくる。どきどき、と動いている心臓が妙にうるさいのは、どうしてなのだろう。薬研や清光が変なことを言うから意識してしまっているだけだろうか。それとも、私、本当に一期さんのこと。

「一期さん」
「はい、なんでしょう」
「一期さんに手を握ってほしいと思うのは、私が一期さんに惚れているからなのでしょうか」
「…………それを本人に聞くのが主らしいですな」
「考えても分からなくて」

 一期さんはおかしそうに笑って「そうですか」と呟いた。次第にお腹を抱えて笑い始めたので「笑わないでください」と情けない声が出た。最終手段とはいえ、本人に聞く羽目になるとは。一期さんだって聞かれたところで分からないわけだし、結局は意味がない答えなのだけど。
 ようやく笑いが治まった一期さんはこほんと一つ咳払いをこぼす。そうして俯かせていた顔をゆっくりあげ、私の顔を見つめる。

「私には答えは分かりません」
「で、ですよね」
「ただ、そうであれば私は嬉しいです」
「…………えっ」
「それでは手入れ部屋の様子を見てまいります」

 一期さんは立ち上がって、襖の前で私に頭を下げると静かに出ていった。取り残された私は一人で一期さんの言葉の意味を考えるしかない。それって、どういうこと? 嬉しい、ってなんで?
 しばらくしてからはっとして、そういえばまだ手入れ部屋に顔を出していなかったことを思い出す。一期さんが様子を見に行っているとはいえ、審神者である自分が戦場から帰ってきた部隊を放ったらかしにするのはまずい。急いで立ち上がって部屋から出て、手入れ部屋に向かう。途中でも一期さんの言葉の意味を考えたけれど、やっぱり分からず仕舞いだ。何も答えが出せないまま手入れ部屋に到着すると、中から一期さんの声が聞こえてきた。どうやら中傷を負ったという鯰尾藤四郎に説教をしているらしい。そういえば無理に敵に突っ込んでいったと言っていたっけ。中に声をかけてから手入れ部屋に入ると、すでに手入れが終了した石切丸さんとにっかり青江さんが「ただいま」と声をかけてくれた。それに「おかえりなさい、お疲れ様です」と返すと「今回はなかなかの出陣だったよ」と石切丸さんは苦笑いをこぼす。説教されている鯰尾くんが隠れるように私の背後に回ると「主助けてくださいよ?」とすがってきた。一期さんはそれを見て「主に助けを乞うなど!」と余計に怒ってしまう。

「ま、まあまあ、一期さんも落ち着いて……」
「いいえ、ここはしっかり注意しておかねばならんのです」
「いち兄絶対なんかいいことあったでしょ! 機嫌が良いときに説教が長いの変わらないよね!」
「……そこに直りなさい」
「ごめんってば!」

 一期さんはなぜだか顔を赤くして鯰尾くんを引っ張って隣の手入れ部屋へ行ってしまった。それを見てにっかりさんが「あれは図星だね」と笑うと、隣の石切丸さんも「そのようだね」と笑った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 布団に入ってもぐるぐる考えてしまう。薬研の言葉、清光の言葉、そして一期さんの言葉。すべての意味をちゃんと理解できないままなのに心臓がうるさく動き続ける。何度も何度もため息をこぼしているうち、どんどん夜は更けていく。今日も朝まで眠れないのだろうか。そうしたらまた、明日も日中に響いてしまうなあ。
 ぼんやりと考えていると、襖がこんこんと叩かれた。突然の音にびくっと体が震えつつもなんとか「はい!」と返事をする。すると襖の向こうで小さな笑い声が聞こえたのち「やはり起きているのですね」と一期さんの声がした。それに口ごもっていると、助け船でも出すかのように「入ってもよろしいでしょうか」と声をかけられた。

「あ、は、はい」
「失礼します」
「すみません、ご心配をおかけしているようで……」
「いえ、そのようなことは」

 静かに部屋に入ってくると一期さんは私の横にゆっくり座った。優しい顔をして私の顔を見つめる瞳は、主に従者が向ける色ではないように思えた。それが自惚れなのかどうかは分からない。分からないけど、知りたいと思った。

「主、手を」
「いえ、あの、大丈夫ですから、一期さんは部屋に戻ってちゃんと寝てください」
「誉を取った褒美をいただきたいのですが、だめでしょうか」
「……そんなことでいいんですか?」
「はい」

 手を差し出す一期さんに、恐る恐る私も手を出す。そうして手が重なると、きゅっと一期さんのほうから手を握ってくれた。温かいそのぬくもりに驚くほど心が落ち着いていくと、自然と少しだけ瞼が重くなった気がする。一期さんは私の顔をじっと覗き込んだまま黙っている。顔をじっと見られるのはなんだか照れくさいけど、それでさえ心が落ち着くような気がするのだから変な感じだ。意味の分からない心地よさに包まれてうとうとしてきた。そんな私の頭を一期さんは穏やかに見つめたまま、反対の手でそっと撫でる。そうしてまた笑う。それが、とても、好きだなあ、と分かってしまった。ああ、私、そうだったんだなあ。一期さんのこと、好きになっていたんだなあ。そうだとすればきっと、一期さんが顕現したその日にすでに私は一期さんを好きになっていたのだろう。恐らく一目惚れというやつだ。もしそうなら、あのとき、弟たちに笑いかける一期さんに思った感情すら別のものになってくる。寂しくて、私も弟である薬研たちに混ざりたかったわけじゃない。一期さんを独り占めしたくて、主としてじゃなく一人の人間として、笑いかけてほしかったのだろう。そうだとしたらなんて欲深い主になってしまったのだろうか、私は。ほんの少しだけ一期さんの手を握り返す。この手しか私はきっと、握りたいと心から思える手はないのだろう。

「主」
「……はい?」
「お慕いしております」
「……え、っと」
「従者であり近侍を務める身で、言ってはならないと思っておりましたが……申し訳ありません」

 がばっと布団から起き上がる。眠気も吹っ飛んでしまった。一期さんはそんな私をぽかん、と一瞬だけ見つめたのちくすくすとおかしそうに笑った。「驚かせてしまいましたね」と言いつつも握っている手はそのままだ。

「……主」
「は、はい」
「主さえよろしければ、答えをお聞かせ願えませんか」
「答え……」
「はい」
「……わ、私は、その、恋がどのようなものか分かっていません」
「はい」
「一期さんに手を握ってほしい、触れてほしいと思うこの気持ちを、恋と呼んでもいいのでしょうか」

 救いを求めるように一期さんの瞳を見つめる。一期さんは瞬きを何度かしてから、ほんの少しだけ目を細めた。

「恋とは、それだけで十分なのではないでしょうか」






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 はっと目が覚めると、外はもう真っ暗になっていた。いま何時だろう、そう思って顔を上げて時計を探す。部屋を見渡して気が付いた。ここ、一期さんの部屋だ。結局あのまま一期さんの手を握ったまま私も眠ってしまったのだろう。一期さんはまだ眠っていて、規則正しい寝息が聞こえている。
 なんだか、とても幸せな夢を見た気がする。途中で終わってしまった気がしたけれど、内容はもう思い出せない。どんな夢だっただろうか。一期さんの手をきゅっと握り直して、少しだけ思い出そうと努力してみたけど、どうしても思い出せないままだ。
 スマートフォンで時間を確認するともう夜中の二時を回っていた。ずいぶん長い時間眠っていたようだ。一期さんもそれだけ長く眠れたということだろうか。そうだとすると喜ばしいことだ。ふふ、と少し笑いがもれてしまうと同時に、もぞっと一期さんが動いた。ゆっくり目が開くと、ぱちっと目が合ってしまった。苦笑いをこぼして「おはようございます」と言葉をかけると、一期さんは穏やかな顔をして「おはようございます」と返してくれた。

「もう夜中なんですね。私も寝ちゃいました」
「……すみません」
「えっ、一期さんが謝ることなんかないですよ」
「いえ、実は一度、目が覚めたんです」
「そうなんですか?」
「そのときに起こそうかとも思ったのですが……」
「あはは、ごめんなさい。ぐっすり寝てました?」
「いいえ、私が、離れがたかったのです」

 まっすぐな瞳を向けられる。どこかで、見たことがあるような。そんな気がしたけれどきっと気のせいだろう。一期さんのまっすぐな瞳とまっすぐな言葉から、なんとなく言いたいことが分かってしまった。きゅうっと強く握られた手がひどく温かい。ずっと握っていてほしいほどに。……もともとは一期さんが眠れるように握ったはずだったのに、いつの間にか私が握ってほしくなっている。不思議な話だ。本当に、不思議な話だ。

さん」
「……はい、なんでしょう」
「こんな私が、あなたをお慕いしてもいいでしょうか」

 心を病み、見えない何かと戦い、苦しめられている。そんな自分が、と一期さんは真面目な顔をして言った。けれど、一期さんが心配していることの何一つ、私にはどうでもいいことだった。一期さんが呼吸をして、生きている。それだけでとてつもない奇跡に思える。私の中の答えは、もうそれだけで十分すぎるほど、決まり切っていた。

「一期さん、私は一期さんに触れたいです。こうして手を握ってほしいと思っています。一期さんはどうですか」
「……私も、あなたに触れたいと、触れてほしいと思っています」
「答えは、それだけで十分なのではないでしょうか」

 一期さんが私の手を離す。けれど、すぐ指を絡めて握り直した。ぎゅうっと手を握りながら、一期さんが体を起こす。少し寝癖がついた髪を笑うと不思議そうな顔をされた。教えてしまうのはもったいない気がして黙っておく。一期さんはベッドに座ったまま、背中を丸める。瞬きをしたほんの一瞬、唇に温かい感覚があって、一期さんの顔が見えた。情けないほどにゆるんだ表情がかわいらしくて、私からも軽く唇を重ねてしまった。少し驚いた顔をされたけれどまたすぐにゆるんだ表情に戻っていく。またゆっくり顔が近付いたかと思えば、こつん、と額を額にくっつけられた。そのまま一期さんは小さく笑うと、何度も手を握り直す。

「まるで夢の続きを見ているようです」

 途切れてしまった夢。記憶から消えてしまった夢の続き。私もその続きがまるでここにあるかのように思えてならない。一期さんも私も、あまりにも夢見がちすぎるとは思うのだけど、本当にそう思えてしまうのだから仕方がない。誰にともなくそんな言い訳をしてから、「私もです」と答える。そうすればずっと欲していた夢がここに広がると同時に、探していた自分を見つけられた気がした。


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