さん、本当に大丈夫?」
「一緒にいようか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと休憩したらわたしも行くから」

 情けない。なんとか笑って心配してくれる野中さんと吉浦さんにお礼を言う。二人は「本当? なら先に行くけど……」と行きづらそうにしていたけれど、「本当に大丈夫。ありがとう」と言えば「先生に言っておくね!」と言って走って行った。
 毎年恒例のマラソンの授業。わたしが一年で一番憂鬱な授業だ。マラソン大会の予行練習として一度まったく同じルートを授業で走らなくてはいけない。女子が先に出発して、男子はその少し後で出発。クラス二組ずつが授業で走って、大会では全クラス男女別で一斉にスタートする。上位三位までに入った生徒は表彰されるので、運動部の人は結構気合いが入っているらしい。基本的には陸上部の人が上位を独占してしまうことが毎年恒例だけれど。
 運動部の人にとっては少しお祭り感覚のある行事なのだろうけど、わたしのような運動が苦手な生徒にとっては本当に憂鬱でしかない。去年のマラソン大会では最下位争いに見事勝利してビリだった。今年はもう少しがんばりたい。そう思って、野中さんと吉浦さんについて行くことを目標に予行練習に臨んだのだけど。しっかり準備運動をしたのにわたしは中盤くらいで段差に足を取られて、挫いてしまって。
 野中さんと吉浦さんはわたしが動けるようになるまで一緒にいてくれると言ったけど、わたしのせいで二人に迷惑をかけることが心苦しくて。ひとまず通行人の邪魔にならないところまで足を引きずって歩いて行き、腰を下ろす。情けない。そう苦笑いをこぼしていると、足音が聞こえた。もしかして。そう思って顔を上げると、女子より後に出発した男子たちがもう中盤まで来ている。見つかったら恥ずかしいな。そう思って物陰に隠れることにした。
 先頭はやっぱり陸上部の人。「絶対勝つ!」と言い合いながら元気に走り去っていく。燃えてるなあ。そう少し笑いつつ呼吸を整える。わたしもそのうち走り出さなきゃ。あんまり遅いと野中さんと吉浦さんを心配させてしまう。それなのに、まだびりびりと痛い足。それにため息がこぼれた。

、どうしたんだ?」
「わっ」

 突然声をかけられて驚いてしまった。顔を上げると、白布くんと川西くんが「何してるんだ?」と首を傾げている。どうやら背が高い川西くんに頭が見えていたらしい。恥ずかしくなりつつ「きゅ、休憩中です」と頭をかく。体力ないやつだなって思われてるだろうな。本当に恥ずかしい。

「……なんか顔色悪くないか?」
「えっ、そうかな?」
「貧血か?」
「あ、ううん。そうじゃなくて、えーっと……あ、足を、挫いちゃって……」
「……左足か? ちょっと腫れてる」
「え? あ、本当だ。さっきまでなんともなかったんだけどな……」

 ほんのり赤くなった左足首。すぐにどうにかなると思ったのにな。情けない。足を摩りつつ苦笑いをこぼす。「そのうち行くから大丈夫」と白布くんと川西くんに言うのだけど、ここはマラソンコースの中間地点。戻るにしても進むにしてもそれなりに距離がある。まだ先に進んだほうが少しは近い、かな。歩いて行けば授業終わりまでには学校に着くだろうか。

「太一、お前先に行け」
「え」
「はいはーい」
「先生呼んでこい。ダッシュな」
「無茶言うなよ……俺スタミナタイプじゃないんだけど……」

 川西くんはそう言いつつ「できるだけ急ぎま〜す」と手を振って走って行った。白布くんは「ダッシュって言っただろ」とその背中に言いつつ、わたしの前にしゃがんだ。

「あの、白布くん、大丈夫だから。先行っていいよ」
「いや大丈夫じゃないだろ。捻った足を無理して動かすと悪化するぞ」

 そう言いつつこちらに背中を向けた。よく分からなくて様子を伺っていると、白布くんは「乗れ」とだけ言った。乗れ、とは。

「少しでも先に進んどいたほうがいいだろ」
「の……って、お、おぶってくれるってこと?!」
「それ以外ないだろ」
「む、無理! 無理無理! 大丈夫だから! あ、歩くよわたし!」
「は? 人の話聞いてないのかよ。悪化するって言ってんだろ」
「本当に無理です! 大丈夫です! わたし重いし! 無理!」
「運動部ナメんなよ……」

 睨まれてる! 怖い! でも本当に無理、無理すぎる。白布くんは怖い顔のままこちらに体の向きを変えると、小さく舌打ちをしたのが聞こえた。怖い。白布くん、めちゃくちゃ怖い。怒ってるのかな。そう身を少し縮めてしまう。

「本当に大丈夫! わたし本当に重いから! 夜めちゃくちゃお菓子とか食べてるし、勉強中も食べてるから! 最近ちょっと太ったし! 白布くんより絶対重いから! 本当に!」
「……ふ、あはは、なんだそれ」
「ほ、本当なんだって!」
「あはは、、キャラちげーし、必死かよ」

 わ、笑われてしまった。確かにちょっと必死すぎたかもしれない。恥ずかしくなりつつ「本当に大丈夫なので」とたじたじ言葉を返す。お腹を抱えて笑っている白布くんは「はー苦しい」と言いつつ目元を拭う。それから「分かったよ」と言って隣に腰を下ろした。どうやらわたしを抱えて移動することを諦めてくれたらしい。「ま、そのうち先生が来るだろ」と言って額に滲む汗を袖で拭った。
 静かに風が吹く。髪が揺れて頬に当たって少しくすぐったい。それを手で払うと、また風が吹く。気まずい。白布くん、真面目に走っていただろうに。申し訳ないな。そんなふうな視線をちらりと向けると、白布くんは「太一遅ぇよ」と小さな声で呟く。

「白布くん、あの、ごめんね。迷惑かけて」
「いや、別に。迷惑とか思ってないけど」
「でも真面目に授業受けてたのに」
「……」
「白布くん?」
「学校出てすぐ左側に小道あるだろ」
「え、あ、うん?」
「そこに入ってまっすぐ行った先にある林を突っ切ると、この道に出るんだよ」
「そうなんだ?」
「バレー部に代々受け継がれてる近道。俺と太一は天童さんって先輩に教えてもらった」
「……え、近道使ったの?!」
「誰にも言うなよ。バレー部門外不出の情報らしいから」

 得意げに笑う白布くんに、素直に驚く。真面目でいつも正論を言うイメージがあったから、その、ちょっとしたズルみたいなもの、するなんて思わなかったから。ちょっとおかしくて笑ってしまう。「分かった。内緒ね」と言うと白布くんも小さく笑ってくれた。
 ふと、白布くんの表情が変わった。何かとわたしが聞くより先に、白布くんが「なあ」と口を開く。

、中学のとき女子に無視されてたって本当?」
「……え」
「いや、ごめん。なんて聞けばいいか分からなくて。直球すぎたな。悪い」

 心臓が変な音を立てる。黙っているわたしに白布くんは「ごめん」と何度か言ってから、バレー部にわたしと同じ中学だった人がいることを教えてくれた。その人に少し、そういう話を聞いたから気になったとも。その人、どこまで知ってるんだろう。怖い。わたしがその子たちにとって嫌なことを言ってしまったかもしれない、ということも、白布くんに言ったのだろうか。白布くんはそれを聞いて、どう、思ったのだろう。きっと悪い印象を持ったに違いない。そうしたらもう、白布くんは話してくれなくなるのかな。
 嫌だな。そう思ったら、口が開いた。

「わ、わたしが、その……その子たちにとって嫌なことを、言ってしまったかもしれなくて……で、でも、今はすごく気を付けてて、白布くんにとって嫌なこと、言わないようにしてる、つもり、で……」
「いや、別に俺はいいけど。言ったかもしれないって、心当たりはないってことか?」
「うん……でもたぶんそうだと思う、から。理由が分からないからなんて謝ればいいかも分からなくて……そのまま……」
「別に気にしなくていいだろ、そんなこと」
「え」
がたとえそいつらにとって嫌なことを言ったとしても、無視するとか陰湿すぎるだろ。それでオアイコ、っていうか、のほうが割食ってるし」

 ため息をつく。白布くんは「もう時効だから忘れていいと思うぞ」と言ってくれた。忘れていい。そんなふうに思ったことなかった。毎日どこかにそのときの記憶があって、いつもなんとなくそのことが頭にあって。人と話すことが苦手になったし、怖くなった。またあんなふうになったらどうしよう、と。人を傷つけることは怖い。傷つけられることも怖い。そんな、縛りのようなものになっていて。忘れられるものではないと思っていた。
 忘れても、いいのかな。誰も話してくれなくなったことを。物を盗られたことを。ノートに水をかけられたことを。ただただ、口をつぐむだけの日々を、もう、忘れてもいいのだろうか。

「あ、やっと来た」
「おーい、大丈夫か」

 先生の声。車で来てくれたらしい。白布くんが立ち上がって「ここです」と手を挙げた。先生は道路の端に車を停めて降りてくると、「白布、悪いな」と言った。後部座席に川西くんが乗っているのを見つけると「太一、遅いぞ」と声をかける。

「どうした、そんなに痛むのか」

 心配そうにする先生のほうに顔を向けた瞬間、つうっと頬に何かが伝った。

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