白鳥沢学園には寮があって、運動部に入っている生徒はほとんど寮に入るらしい。わたしのような一般生徒の中にも寮に入っている人は稀にいるそうだ。運動部の人たちは寮で生活をしながら毎日練習とトレーニング第一の生活を送っている。その上で勉強までしなくちゃいけないとなると、毎日大変そうだなあ、と白布くんの横顔を見てぼんやり思った。
 わたしが白布くんの立場だったら、絶対心が折れる。勉強は好きだから毎日やっても苦じゃないけれど、運動をしたあとでとなると話は変わる。とてもじゃないけどできない。それをやっている白布くんの毎日はどんなスケジュールなのだろう。何時くらいに練習が終わって、そこからどれくらい勉強するのだろう。

、聞いてるか」
「……あっ、ごめん!」
「説明むずかしいんだよ、これ。悪いな、うまく説明できなくて」
「そ、そうじゃないです! 大丈夫! 分かりやすいよ!」

 白布くんは「そうか?」と言いつつシャーペンで教科書を指す。さっきの授業で分からなかったところを教えてもらっていたのだ。いつもなら先生に聞きに行くのだけど、白布くんと隣の席になってからはいつも教えてもらっている。逆に白布くんが聞いてくれることも多くて、授業終わりは二人で話すことがふつうになってきている。
 白布くんの説明は、要点が分かりやすくコンパクトにまとまっている。頭から丁寧に説明しなくちゃうまく言葉にできないわたしと違って、わたしが分かっていないであろうところだけを的確に教えてくれる。きっとそんな白布くんからすればわたしの説明はまどろっこしいだろう。もっとうまく説明できればいいのだけど。なかなかそう簡単にはうまくならない。白布くんの説明を聞いてこっそり勉強しているつもり、だけど。説明が上手だからつい自分の疑問を解消することに意識が向いてしまう。

「白布くん、学校の先生とか向いてそうだね」
「そうか? 自分ではそんなふうに思えないけど」
「将来何になりたいとかあるの?」
「医者」
「……も、ものすごく向いてそう!」
「それならよかった」

 あ、少しだけ嬉しそうな顔をした。その顔がなんだか子どもっぽく見えて、普段落ち着いている白布くんの隠れた顔を見られた気がして少し喜んでしまう。
 もう将来の夢がしっかり決まっているなんて、白布くんはやっぱりすごいな。ぼんやり毎日を過ごしているわたしとは違う。まるで違う世界を生きている人みたい。わたしも白布くんと同じ世界を生きられたら良いのに。そんなふうに思ってしまった。ないものねだり。子どもの駄々っ子だ。わたしのほうがよっぽど子どもっぽい。内心で少し反省した。

は?」
「え」
「どこの大学行きたいとか、何かなりたいものとか」
「……と、特にない、かなあ」

 面白くない答えをしてしまった。白布くんはせっかく教えてくれたのに。わたしは何も白布くんに応えられないんだなあ、と少し落ち込んでしまう。わたしとこうして話すことで白布くんが得られるものは何もない。

「進路なんてまだ決まってないのがふつうだよな」

 はた、と固まってしまう。まさかそんなふうに言われると思わなかった。目標がないことは悪いことだとよく言われる。両親もそうだ。早く行きたい大学は決めたほうがいいと、責めるような口調ではないけれどよく言う。担任の先生も、塾の先生も。大人はほとんどが「将来何になりたいのか決めなさい」と必ず言ってくる。決まっていることが正しくて、決まっていないことは間違っている、悪なのだとずっと思っていた。それなのに、わたしの世界を、白布くんは一瞬で変えてしまった。たった一言で。
 いや、違う。そう思い直した。白布くんはわたしの世界を変えたわけじゃない。わたしの世界を肯定してくれたのだ。これまでが間違っていたとも、これからが正しいともなく。白黒でしかなかったわたしの世界に、色を加えてくれたような。すべてを書き換えるわけではない。けれど、確実に前とは違う。ささやかで大きな違い。

「まあ、なら何にでもなれそうだしな」

 カチ、カチ、とシャーペンの芯を出す。白布くんはわたしのノートに丁寧な字で薄く公式を書きながら「で、この式が」と説明を再開した。「あ、うん」と返事をしつつも、気持ちがそわそわする。どうしよう。ぽつりと心の中で呟く。
 白布くんの指先をじっと見つめて、話を聞いているふりをしてしまう。きれいな爪。たぶん手入れをまめにしているのだと分かる。もしかしてバレーボールが関係しているのかな。爪が長かったらボール、触りにくそうだもんなあ。でももしかしたら部活は関係ないのかもしれない。どっちなんだろう。そういうの、まめに手入れしててもおかしくない気もするなあ。

「あ」
「どうしたの?」
「説明してるうちにこんがらがってきた。ちょっと待って」

 自分のノートを開きながら白布くんはぶつぶつ何かを呟いている。眉間にしわを寄せている横顔。何かを素早くノートの端に書きつつ、どう説明しようか考えてくれているようだった。
 どうしよう。また、心の中で呟いた。白布くんの瞳が、白布くんの指が、白布くんの髪が。何かが動くたび、わたしの瞳に映るたび。どうしようもなく気になって気になって、そればかりに意識が向いてしまう。
 わたし、きっと、白布くんを好きになってしまったのだ。それが分かってしまうとそわそわして仕方がない。白布くんからすればただたまたま隣になっただけのクラスメイト。それなのにわたしは。そう思うと恥ずかしくてたまらない。わたしなんて、白布くんからすれば、なんてことはないクラスメイト。それを理解しているからこそ、なんだか居たたまれなくて。心の中でごめんね、と白布くんに謝ってしまう。
 人と話すことがうまくない、根暗なやつ。ほとんどの人がわたしをそう言っていることを知っている。わたしに話しかけるときものすごく気を遣ってくれている子がいることも知っている。そんなわたしに好きになられるなんて、なあ。とか。自分で自分を笑ってしまった。

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