、悪いな。頼んだよ」

 何度も手を合わせて苦笑いをこぼす先生。この後あるらしい教員会議のために慌ただしく「じゃあ、ごめんな」と言って会議室のほうへ行ってしまった。
 クラス委員の子に返却する全員分のノートを渡したつもりが、うっかり一人分渡し忘れていたらしい。気が付いたときには部活動がはじまっている時間で、先生は教員会議。返すのは明日になるか、と諦めていたところにわたしがやってきたというわけだった。別の先生と話し終わってからすぐさま話しかけてきた先生に「悪いんだけど、このノート、白布に返してきてくれないか」とすがるように言われた。特に断る理由もなかったので「分かりました」と返せば、先生はほっとしたように「助かるよ」と言ってくれて。そのくらいで役に立てるならなんてことはない。そう思い、白布くんのノートを受け取った。
 白布くん、は、この時間は部活をしているはず。バレー部だと思うからひとまず体育館へ行ってみよう。職員室を後にし、体育館に足を向ける。白鳥沢のバレー部は強豪校としてとても有名で、体育館も大きいところを使っていたり、遠征用のバスがあったりすると聞いたことがある。白布くんも練習がきついから辞めていく人が毎年いると言っていたし、もしかしてとても恐ろしいことを引き受けてしまったのではないだろうか。練習中、なんて白布くんに声をかけよう。一抹の不安を抱えつつ、一つ息を吐いた。
 昔はこんなの、へっちゃらだったのになあ。今では人にどんなふうに思われていて、わたしの知らないところでなんて言われているのかが気になって仕方がない。嫌われないようにしなきゃ。嫌な思いをさせないようにしなきゃ。そんなふうに思えば思うほど、息苦しくて。学校、楽しくないなあ。そんなことをぽつりと頭の中で呟いて、一人で笑った。
 ふと、白布くんのノートに視線を落とす。整っていて真面目そうな字。少し線が細い印象だけれど、不思議と意志の強さを感じる。しっかりした字だ。ふふ、と笑いがこぼれる。この前白布くんと話したとき、久しぶりに楽しいと心から思った自分がいる。あれ以来休み時間になるとたまに白布くんが話しかけてくれるようになった。自習をしていて分からなかった問題を見せてくれたり、授業のことで分からなかったことを共有したり。その時間だけが、今のわたしにとっては本当に楽しい時間になっている。
 ともだち、と言ったら白布くんは嫌がるだろうか。わたしとなんかともだちになるかよ、って言うだろうか。そんなこと言わない人だと知っているのに、言おうとすると口をつぐんでしまう。だって、この世界は簡単にわたしを見放すから。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 そうっと覗き込む、想像以上に広い体育館。気付かれないようにひっそり覗いているのだけれど、やっぱり話したことがあるのは白布くんと去年同じクラスだった川西くんだけだった。二人とも隅っこにしゃがんで喋っているけれど、休憩中なのかどうかも分からない。どうしよう。今話しかけたら邪魔に思われるだろうか。運動部に入ったこともなければ入ろうと思ったこともない。いまいちその辺りのルールが分からないのだ。
 おしゃべりだったころのわたしなら、そんなの構わず大声で白布くんを呼んだだろうに。そう思って苦笑いをこぼす。いわゆるKYというやつだったのかもしれない。今思えば。もう、気付いてもとっくに遅いのだけど。
 隅っこにしゃがんで白布くんと話していた川西くんがちらりとこちらを見た。どきっとして固まっていると、じっとわたしを見てから白布くんの顔を見る。何しに来てんだろって思われてるんだろうな。そう思われて当然なのだけれど、恥ずかしい。さっさと声をかけて用件を済ませば良いだけなのに。そう反省していると、しゃがんだまま白布くんがこっちを見た。

、誰に用?」

 ちょっと大きい声だった。わたしまでちゃんと聞こえるくらい。その声に数人反応してこっちを見た。部外者がすみません。そう思いつつ、もうこれを逃したらノートを渡せない。そう察してゆっくり息を吸った。ノートを見えるようにあげると、白布くんが少し驚いた顔をする。

「し、白布くんに、用です……!」
「俺かよ」
「白布かよ」
「賢二郎か〜い!」

 いろんなところからツッコミが聞こえてきて思わず肩が震える。体育館の中央あたりでストレッチをしていたらしい人。ぐるんっと勢いよくこちらを見ると「若利くんのファンかと思った」とげらげら笑う。わかとしくん、とは? どぎまぎしていると白布くんが立ち上がりつつ、「牛島さんのファンなら今頃正門ですよ」とため息をつく。それに別の人が「外周行ったもんな、若利」と苦笑いをこぼしている。何の話をしているかよく分からないけれど、どうやら休憩中だったらしい。話しかけても大丈夫、ということが分かってほっとした。
 白布くんが近付いてくると「俺のノート、なんでが持ってるんだ」と首を傾げた。こうなるに至った理由を簡単に説明すると白布くんは「あー」と小さく言って、「どうも」となんとなく照れくさそうにノートを受け取ってくれた。

「なんか悪かったな。こんなところまで持ってきてもらって」

 そう言うと薄ら汗がにじんでいる額を触る。その指にぐるぐるとテーピングが巻かれていて。怪我でもしているのかな。練習きついって言ってたし、怪我なんて珍しいものじゃないのかもしれないけど。そう少し心配になったけど、聞けない。バレーのことはよく分からないし、白布くんのこともまだよく知らない。よく知らないのに首を突っ込んでも嫌がられるかもしれない。そう、黙ってしまう。

「助かった。じゃあ」
「あ、うん。練習、がん……」
「……がん?」
「え、えーっと……」

 「がんばって」だと、偉そうに聞こえるかもしれない。一瞬そう思った瞬間言葉が出てこなくなった。何かの小説でそういうシーンを読んだことがある。女の子に「がんばって」と言われた主人公が「もうがんばってるのにあと何をがんばれと?」と言い返すシーン。それがやけに鮮明に思い出されてしまって。
 嫌な汗が背中を伝う。言葉が出てこない。何を言っても全部不正解に思えて。何を言っても全部、嫌な意味で捉えられてしまうんじゃないかと思えて。せっかく、少し話せる仲になれたのに。

「……練習がんばれ、ってことか?」
「え」
「いや、別に言えってわけじゃないけど。この状況で練習がん≠ワで言われたらそう思うだろ」
「ご、ごめん」
「なんで謝るんだよ」

 白布くんは不思議そうな顔をして首を傾げる。嫌がられた、わけではなかったらしい。よかった。そう思うと自然に表情が和らいだ気がした。

「練習、がんばってね」
「どうも」
「は、吐かない程度に……」
「もう吐かねえよ」

 白布くんは小さく笑ってそう言うと「じゃあ、また明日」と言って川西くんのほうへ戻っていった。ノートを自分のものらしいタオルの近くに置いて座った。渡せて良かった。そう思い、体育館に背中を向けた。

「賢二郎青春?」
「白布賢二郎くんは青春ですか?」
「違います。太一黙れ」

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