「隣とプリント交換して、それぞれ採点していけよ〜。終わったところから自習でいいぞ」

 先生の声が教室に響くと「はーい」と数人が返事をする。解答が書かれた紙を前の席の人から受け取り、紙の束を後ろに回す。それから自分の答案用紙を持って、右側を見る。

「ん」

 わたしの視線に気がついて答案用紙を渡してくれた。二年生にあがってはじめて登校した日、わたしが席を間違えてしまった相手。白布くんというらしい。あの日以来ちゃんと会話をしていないけれど、他の人と話しているのを横で聞いて名前を知った。口数は少ないけどはっきり物を言う人だから、ちょっと怖くて。自分から話しかけたことはもちろんない。でも、白布くんのところにはよく人が来ている。会話の内容からしてどうやら運動部に入っているみたいだ。一年生のときに同じクラスだった川西くんがよく来ているから、たぶんバレー部なんだと思う。ちょっと意外だ。
 白布くんの解答用紙を一つ一つ採点していく。名前の欄をちらりと見て、はじめて下の名前を知った。賢二郎≠チていうんだ。兄弟いるのかな。次男なのかな。ちょっとしか白布くんのことは知らないけど、名前、イメージにぴったり。そう思って少し笑ってしまった。
 あ、この問題。ひっかけなんだよね。しかもひっかけが二つもあってかなり意地悪な問題だった。この先生ひっかけ問題を作るのが上手いんだよなあ。白布くん、ひっかけにひっかかっちゃってる。この公式じゃない公式を使わなきゃだめなんだよね。教科書の隅っこに小さく書かれてるやつ。先生ちゃんと説明しなかったし、ちょっとずるいよね。


「あ、はい」
「不定方程式の問題ってどうやって解いた?」
「へっ」
「あの教師、解答例書かないだろ。というかこれ難関入試レベルの問題だろ、解き方解説しろよ……」

 うんざりした顔をして、白布くんは小さな声でそう言った。白布くん、運動部だろうに。ちゃんと解くんだ。運動部の人の多くはスポーツ推薦で入学しているらしい。だからなのか、あまりテストの点数を気にしているイメージはなかった。大会が近付くと赤点を取るとまずいから、と慌てて勉強している姿をよく見たし、勉強が好きじゃない人が多いのだろうと勝手に決めつけてしまっていたのだ。失礼ながら白布くんもそうなのかと思っていたから意外だった。

「え、えっと、ここまで合ってるよ。あとαの二乗足すβの二乗が5の倍数になることを証明して、」
「ああ、なるほど。3辺とも整数だから1辺は5の倍数の長さになるってことか」
「そ、そう。合ってる」
「こっちは? その次の意味不明なやつ」

 ぐいっと上半身をわたしの机に寄せてプリントを覗き込む。わたしが採点したばかりの白布くんの答案用紙。それを見た白布くんが「これ」と指を差した。わたしが付けた赤色の三角。白布くんはそれを見ると「いや、数学に三角ねえだろ」と目を細めた。

「で、でも途中まで合ってたから」
「最終的に間違えてんだからバツだろ」
「これ、まだ習ってないやつだよ。途中まで合ってるだけですごいよ」
「お前は合ってた。だから俺のはバツだろ」
「……は、はい」

 真面目だ。そう少し面食らってしまう。そんなわたしを置き去りに、白布くんは体勢がしんどかったのか机を少し動かした。体を横に向けてわたしのほうを向くと「で、どうやって解くんだよ」と答案用紙を覗き込む。それからわたしの赤ペンを手に取って自分の解答用紙にバツをつけ直した。
 真顔で解答用紙を見つめる白布くんは、無言で「早く解説しろ」と言わんばかりの圧がある。やっぱりちょっと怖い。少しどぎまぎしながら恐る恐る途中式を書きながら拙い解説をする。人に説明するのって、わたしにとってもすごくいい復習になるんだよなあ。そう思いながらできるだけ丁寧に。

「あー、教科書の端に書いてあった式、ここで使うのか」
「う、うん」
「ひっかけかよ。ちゃんと見とけば良かった」

 わたしの説明はたどたどしくて下手だろうに、白布くんは急かすこともイライラした様子を見せることもなかった。一回聞いただけですぐに理解してくれる。まるで自分が説明上手になったみたいに錯覚してしまうくらいだ。
 白布くんは自分の解答用紙を手に取って、代わりにわたしの解答用紙を返してくれる。「助かった」と言うと答案用紙の端にわたしが説明した式をもう一度書き始めた。真面目だ。二回目のそれに面食らいつつ、少し、勇気を出してみた。

「白布くん、あの」
「何?」
「こ、これ、教えてもらえません、か」
「ああ、それややこしいよな」

 白布くんは何でもないように顔をあげてわたしの顔を見る。それから視線を解答用紙に落とすと「ここの置き換えが間違ってる」と言ってわたしが書いた途中式を差しながら説明してくれる。分かりやすくて要点を押さえた説明。すんなり頭に解き方が入ってくるから、つい聞き入ってしまった。

って中学から白鳥沢?」
「ううん。西春中だよ」
「じゃあ結構近いな。俺は豊黒」
「えっと、白布くんって、スポーツ推薦なの?」
「いや一般入試だけど。なんで?」
「え、あ、運動部っぽい人がよく来てたから運動部だろうし、そうなのかなあ、と」
「まあ、俺以外ほとんどスポーツ推薦だな。入試組は入っても大体辞めてくし」

 白布くんはくるくるとシャーペンを回しながらそう呟く。辞めてっちゃうんだ。せっかく入ったのに? そう思っていると白布くんが「うちの練習、吐くくらいきついから」と言った。吐く、って。ちょっとびっくりしていると、白布くんは小さく笑って「は一日で倒れる」と言った。

「勉強もできてスポーツもできるって、すごいね。わたし、運動できないから……」
「でもその分勉強めちゃくちゃできるならいいだろ。そのほうがよっぽどすごいと思うけど」
「そんなことないよ……わたし、その……く、暗い、し」
「は? どこが?」
「え」
「別に暗くないだろ。多少大人しいってくらいで」

 目を丸くして白布くんはそう言った。それからなんてことはないみたいに「受験のときどれくらい勉強した?」と当たり前に会話を続ける。白布くん、って、結構しゃべる人なんだなあ。そう思いつつ、やけに心臓がうるさかった。

「あ、あの、白布くん」
「何」
「は、はじめてしゃべったとき、わたしの名前知ってたけど……なんで?」
「いや、一年のとき毎回成績上位者で名前張り出されてただろ。あと太一と同じクラスだったし」
「たいち?」
「川西太一。何回かあいつの教室行ってたし、名前と顔くらいふつうに知ってるだろ」

 言われてみればそうか、と合点がいく。逆に白布くんの名前、まったく知らなかった自分が少し恥ずかしい。そう反省していると白布くんが「、俺の名前知らなかったんだろ」と言い当ててきた。

「ご、ごめん……あんまり、その、男子の知り合いとかいないから……」
「別にいい。というか、聞きたかったんだけどって英語の参考書どこの使ってる?」
「え、あ」
「この前のテスト、英語が良くなかったから」

 真面目だなあ。三回目。ついにちょっとだけ吹き出してしまった。

「なんだよ」
「な、なんでもない……英語は三冊くらい使ってるけど、一冊貸そうか?」
「借りて良いなら。というか三冊も? 英語苦手なのか?」
「え、えーっと……」
「何?」
「……え、英語できると、なんか、かっこよくない……?」

 ちょっと恥ずかしい。でも、中学生のときからそれは変わっていない。やけに英語ばかり勉強するわたしを見た母が英会話教室に通わせてくれたり、英語が得意な父がやる気満々で教えてくれたりしたから、なんとなく習慣付いていて。高校にあがってからも英語には力を入れているのだ。
 白布くんはしばらく目を丸くして固まっていたけれど、少し俯いて左手を口元に当てる。それから、少し肩を震わせて「なんだそれ」と笑いをこらえながら呟いた。
 わ、笑った。ちょっと驚いてしまう。白布くんはいつも真顔というか、あまり表情を変えないから。こんなふうに笑っているところは見たことがないかもしれない。くつくつこみ上げてくる笑いをこらえる白布くんは「笑わすなよ」と言って、ようやく顔を上げた。
 笑った顔、ちょっと、かわいい。そう思った瞬間、チカッと一瞬だけ、目の前が色付いたように見えた。

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