≪注意事項≫
※「神様の涙を君は見たことがあるか」の続編です。本丸時代の話です。
※主人公設定が割としっかりしているので苦手な方はご注意ください。
※刀剣破壊、死ネタがあります。苦手な方はお気を付けください。




 夜のうちに降り積もった雪が、庭を真っ白に染め上げている。恐らく足を下ろせば膝下くらいまで雪に埋もれてしまうだろう。それくらい積もった雪を見るのは生まれて初めてで、言葉を失ってしまった。今日は朝から雪かきか……と頭を抱えていると、真っ白な世界のどこかに違和感を覚える。ん? と思ってじっと目を凝らして見てみる。庭に咲いている寒椿の赤色がぽつんと佇んでいるほどに白い庭。池も凍ってしまっているだろう。相模国の冬はこんなにすごいものなのかと驚きつつ、池の近くに違和感の正体を見つけた。鶴丸国永さん。一昨日顕現したばかりの刀剣男士なのだけれど、この刀の第一印象が「とにかく白い」だ。肌も髪も、服までも真っ白な彼が雪の白に紛れていたのだ。何をしているのだろうとぼんやり見ていて気が付く。鶴丸さんは普段着の薄っぺらい着物のまま、なぜか腕まくりをした状態でぼけっとそこに立っていたのだ。

「ちょ、あの、鶴丸さん! 何をしているんですか!」
「ん? ああ、主か! おはよう!」
「おはようございます……ってそうじゃなくて! そんな恰好でいたら体が冷えますよ!」

 鶴丸さんは私の言葉に不思議そうな顔をする。真っ赤になった指先がほんの少し震えている。鼻の頭まで真っ赤になっている姿は見ているこっちが凍えそうだ。縁側から裸足のまま雪の中に降りてずんずん鶴丸さんの方へ歩み寄る。袴が水を吸ってずっしり重くなってうまく進めない。こんなに積もった雪を見る機会も少なかったので余計だ。四苦八苦している私を鶴丸さんはぼけっと見つめつつ「大丈夫か?」ととても他人事のように呟く。なんとか鶴丸さんの元へたどり着き、その頭を軽くチョップしてやる。驚いている鶴丸さんの腕を問答無用でつかんで引っ張り、なんとか縁側に上らせた。つかんだ腕は当たり前だけれど恐ろしく冷えている。いつからあそこに立っていたのかは怖くて聞けない。「何してるんですか」と呆れて呟いても鶴丸さんはなんだか不思議そうな顔のままだ。なんでそんな顔をするのか。その答えはすぐに分かった。鶴丸さんが自分の手をじっと見つめて、「人間の身体は冷やしちゃいけないのか」と呟いたのだ。一昨日顕現したばかりの鶴丸さんはまだよく人間の身体のことがよく分からないのだろう。今朝も朝食を食べるのを少し怖がっていたのを思い出す。

「そうです。冷やすと体に悪いので、外に出るときは温かい恰好で出てください」
「そうか。次からは気を付ける」

 鶴丸さんは笑いながら「雪に触ると指先がじんじんするのが面白くてな」と言う。子どもみたいな笑顔を見せられるとなんだか変な気持ちになる。とにもかくにも鶴丸さんも私も溶けた雪で足元が濡れてしまっている。鶴丸さんは全身が冷えてしまっていてがたがたと震えているので、とにかく体を温めないと。ただ濡れた足で本丸を歩き回ったら光忠さんに怒られるし……。途方にどうしようか迷っていると、ちょうど稽古に向かうらしい山姥切国広がやってきた。声をかけると私たち二人を見て「何してるんだ」と怪訝そうな顔をされてしまう。二人で雪遊びをしていたとでも思われているのだろう。諸々の事情を説明すると渋々ではあったけど引き返してタオルを取りに行ってくれた。
 山姥切を待っている間も鶴丸さんの体ががたがた震えているのがなんだか可哀想で。手だけでもと思ってきゅっと握ってみる。鶴丸さんは少し驚いたようだったけれどなんだかまた不思議そうな顔をした。

「君の体温がちゃんと分かる」

 不思議だなあ、と笑う。その顔は妙に満足気にも見えて私まで不思議な気持ちになる。私の手が温かいことが不思議なのだろうか。それとも人間の手が温かいことが不思議なのだろうか。よく分からなかったけれど手を握られることは嫌ではないようで安心した。
 タオルを持った山姥切が帰ってきてくれ、受け取ったそれで足を拭く。山姥切はそれを見て「風呂、湧いているぞ」と言ってから道場に向かって歩いて行った。鶴丸さんの足もちゃんと拭いてからとりあえずお風呂に連れて行くことにした。鶴丸さんが顕現してまだ一日しか日が経っていないので政府からの支給品が届いていない。その上この雪だからしばらくは鶴丸さんの生活用品は届かないだろう。予備があるのだけど、この本丸は太刀の顕現が早かったから残っている予備が脇差と短刀の子たちのものしかない。着替えは誰かに借りるしかなさそうだ。まだ不思議そうな表情のままの鶴丸さんを連れて歩いていると、ちょうどいい人に会う。一期一振さんだ。背丈も見た感じ鶴丸さんと同じくらいだし、思った通りお願いしたら快く服を貸してくれることになった。鶴丸さんを咎めつつも心配はしているようで「風呂には私が付き添います」とまで言ってくれた。鶴丸さんはまだお風呂の感覚は苦手のようで少し嫌がられたけれど、ここはもう仕方がない。「我慢してください」と言ったら渋々ではあったけれど一期一振さんと一緒に風呂場へ向かっていった。
 鶴丸さんがお風呂に入っている間に、台所にいた歌仙さんにお願いして温かいお茶を淹れてもらって出てくるのを待つ。歌仙さんには私も風呂に入ってこいと言われたけど、残念なことに今私が専用で使っている小さいお風呂が故障しているのだ。入るとしたら鶴丸さんのあとになる。それをそのまま伝えたら歌仙さんはため息をついて「君はねえ……」と頭を抱えていた。
 思っていたよりも早く鶴丸さんと一期一振さんが戻ってくる。鶴丸さんはなんだかうんざりしたような顔をしていて、「もう懲り懲りだ」と呟きながら私の隣の椅子に座った。

「どうしたんですか?」
「あれは良くない。あれは好きじゃないぞ、主……」
「お湯に入るのが怖いのだそうです」
「あー……最初はそう言う人が多いね」
「こう、じゅくじゅくとして刀身が溶けるような感覚がする……」
「溶けないと何度言ったら分かるのですか」
「と言いつつ一期さんも最初は怖がってましたよね」
「今は言わんでください……」

 歌仙さんが淹れた温かいお茶を一期さんがそれぞれに配る。歌仙さんは昼食の支度があるとかなんとか言いつつ、「憂鬱だけど畑を見てくる」と言い残して台所から出て行った。今日の畑当番は鶯丸さんと蛍丸くんの二人だったか。まあ、歌仙さんが渋々でも率先して様子見に行く理由は分かる。今頃畑は大変なことになっているだろうし。まさか鶯丸さんが率先して雪かきをするとも思えないし、蛍丸くんはいい子だけど鶯丸さんに感化されてだらだらとコタツにいる可能性大だ。たぶん愛染くんや平野くんに言われて渋々動き出した頃だろうか。そうだとしても後で私も手伝いに行った方がいいかもしれない。今日の昼食には間に合っても畑が全滅してしまうと今後食べるのに苦労することになる。きっと燭台切光忠さんも歌仙さんと同じように畑に向かっていると簡単に予想ができた。
 そんなことを考えていると鶴丸さんが突然私の手を握った。ぎょっとしつつも振り払うほどの理由がなかったので好きにさせておく。鶴丸さんは私の手の平や甲、指の一本一本をとても興味深そうに触って観察をする。一期さんが口を挟もうとしたのが見えたけど、静かに止めておいた。

「君の手はなんだか柔らかいな。俺の手とは違う」

 まじまじと私の手を見てそう呟く。つねったり握ったり。いろんな触り方をしているその目がきらきらしていて、なんだかかわいいと思ってしまった。鶴丸さんの手は細いけどしっかり硬くて、なんというか骨っぽい。他の太刀の刀剣男士に比べると全体的に華奢な印象だけどちゃんと男性の手をしている。女の私よりも肌が白いしなんだか絹のように滑らかでちょっと悔しいけど。

「俺は君の手が好きだなあ」

 そう笑ったあと、私の手を離して今度は一期さんの手を取る。一期さんは「なんですか」と避けたけど鶴丸さんが「まあまあ」と言えば黙って手を触らせた。少しだけ一期さんの手を触って鶴丸さんはすぐに離す。また私の手を触ってマッサージするみたいに揉み始めると、なんだか嬉しそうな顔をした。

「うん。君の手はずっと触っていたくなる」

 はは、と笑って鶴丸さんが私を見る。すると見る見るうちに鶴丸さんはまた不思議そうな顔に戻って、私の手を触り続けつつ首をかしげる。「どうしてそんな顔をしているんだ?」と。自分の顔が赤くなっていることに気付いたのはその数秒後だった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 朝から本丸周辺の雪かきをし続け、なんとか畑や馬小屋周辺はきれいに雪をかくことができた。他の箇所も必要な範囲はそれなりにかけたが如何せん今年の雪は量が多すぎる。雪を退けたそばから降ってきた雪がまた積もるほどだ。畑には簡易的な屋根をつけて馬小屋には政府から去年支給されていた暖房器具を設置しておいた。
 今日は通常であれば第四部隊が遠征、第三部隊が出陣、第二部隊が演練、第一部隊が周辺調査というスケジュールだったが急遽変更して全員非番にした。内番がある刀剣男士以外はみんな非番とはいえ雪かき要員となる。一部から不満の声が上がったけれどなんとかそれを治めて全員で雪かきという一日になってしまった。昼食後も雪かきは続いたが、二時過ぎに降雪が激しさを増したため一時中断。その後再開したときには振り出し、という感じだった。長い一日だった。どうせまた積もるだろうということで結局必要最低限しかしていないし、今日は時間を棒に振った気がする。そう落ち込みながら自室へ向かうために廊下を歩いていると、突然背後から腕を掴まれた。

「わ?!」
「驚いたかい?」
「つ、鶴丸さん、びっくりするじゃないですか!」
「いい顔してたぜ、主」

 鶴丸さんは腕から手を離しながらけらけらと笑う。雪かきの一番に雪玉を作り始めたのが鶴丸さんだったので、きっと子どもっぽい人なのだろう。心臓に悪い。ばくばくする心臓をなだめながら「どうしたんですか」と問いかけると鶴丸さんは笑ったまま「君が見えたから追いかけてきたんだ」と言った。先ほどまで今日は雪かきをたくさんしてくれた短刀たちにご褒美としていろいろ遊んでいたのだ。鶴丸さんはそのときまたしても一期さんによってお風呂に入れられていたらしく、髪の毛がぺたっとしている。ぽたりと髪の毛から落ちる水を見ているとこっちが冷えてくる。鶴丸さんをそのまま引っ張るように方向転換する。

「どうした?」
「鶴丸さん、お風呂から上がったら髪の毛を乾かしましょう。出歩くのはその後にしてください」
「ん、ああ、すまない、床が濡れたのか」
「いえ、そうではなく。湯冷めしちゃいますから」

 鶴丸さんの手を引いて歩き始める。さっきお風呂に入っただろうにもう冷えてきている。冷え性なのだろうか。今度生姜湯でも飲んでもらおうかと考えていると、鶴丸さんが「君は」と突然立ち止まる。ぐんっと私も引っかかったみたいに立ち止まってしまう。

「君はずいぶんと、冷えることを嫌うんだな」

 ぽつりと、とても不思議そうに。鶴丸さんが呟いた言葉に胸の奥がどきっとなんだか隠し事が暴かれたときみたいに揺れた。
 冷えるということにいい印象がない。もちろん体に悪いし、寒い場所にいるのが好きという人は少ないだろう。突き刺さるような冬の風は嫌い。じんわりと体の奥まで冷やすような雪の冷たさは嫌い。冬はなんだか薄暗くて気味が悪いし、雪が積もるとどこにも行けなくなる。それがあえて好きだという人に私は出会ったことがない。いるとは思うのだけど、私は嫌いだ。それに冷える、冷たいというようなものは、なんだか死を連想させるのだ。冬はとても寂しくて悲しいイメージがあって、雪も同じようにそういうイメージがある。

「……冷たいものを、怖くは思いませんか」
「怖い?」
「それに触れると自分の体が冷えて、どこかへ連れて行かれそうで」

 私が審神者に就任したのは約二年前の冬のことだった。就任したとき私は十六になったばかりで、まだあまり生死について深く考えたことなどなかった。審神者になったばかりのときはいまいち仕事についてもよく分からないかったし、戦いのこともよく分からなかった。ただ初期刀として最初からいてくれた山姥切国広、そして初めて鍛刀した薬研藤四郎の二人がとても頼もしくて。深く考えずとも順調に仲間を増やし、時間遡行軍を倒し、新しい戦場を治めてきた。気が付けば一年が経っていて本丸はとても賑やかになっていた。はじめは正真正銘の人間は私一人だったし女の子もいないので不安も寂しさもあった。でもそれ以上に刀剣男士のみんなは私をとてもよく支えてくれたし、とてもよく見ていてくれたと思う。家族のような存在だった。誰一人欠けることなく審神者としてそれなりの成果を収めてきた。政府から評価されて私の本当の家族にもそれなりの報酬金が支払われたらしい。両親からは感謝の連絡が届いたし、それと同時に「命は大切に扱うのよ」と何度も言われてきた言葉をまた言われた。それ「うん、分かってる」と答えた、その、五日後だった。
 ――薬研藤四郎、江戸城下にて破壊。
 帰還した第一部隊隊長、山姥切がその折れた短刀を大事に抱えていた。薬研は私の本丸で一番練度が高かった。その出陣の少し前に修行から帰ってきて、政府から極の認定を受けたばかりだった。お守りも持っていた。刀装もずっと薬研につけていた一番いいものをその日も渡していた。足りなかったのは、私の死への恐怖心だけだった。薬研が中傷を受けたのはちょうど敵本陣の目の前だった。山姥切からその連絡を受けたときはいつも通り撤退を指示するつもりだった。けれど、薬研が言ったのだ。
「大将、俺っちは大丈夫だ。ここはずいぶん手を焼いてる戦場だろ? 今行かずしていつ行くんだよ」
 そう、いつもの頼もしい声で。そんなの今なら分かる。強がりだ。なかなかその戦場の時間遡行軍を倒せず苛立っていた私を薬研は知っていた。薬研の言葉に私は、「必ず帰ってきてね」、そう言った。「ああ、もちろんだ」、そう言った声が今でも、忘れられない。私はあのとき審神者として最大の過ちを犯した。戦場がどれだけ死に近い場所かを理解していなかった。それが審神者としてどれだけ愚かなことか、今なら分かる。
 山姥切が欠片の一つも残さず持ち帰った刀の冷たさが忘れらず、私は今でもその冷たさに囚われている。
 薬研藤四郎はその後、日課の鍛刀で顕現した。でも私が知っている薬研とは違う。個体差があると別本丸の審神者から聞いたことがあったけど本当にその通りだった。今度の薬研は頼もしいことに変わりはなかったけれど、前の薬研と比べるといたずら好きでよく私や兄弟刀たちをおどかす子だった。前の薬研と比べてしまうことへの罪悪感。この子だって薬研なのに。そう思えば思うほど、あの刃の冷たさが指に刺さって取れなくなっていく。指が斬り落とされたと錯覚するほど冷えると、薬研が自分を恨んでいるのではないかと恐ろしくなるのだ。

「君は雪を見てどう思う?」
「……はい?」
「俺ははじめて雪を見たとき、嗚呼なんてきれいなんだ、と感動したよ」
「えっと……?」
「君は雪をどう思う?」
「きれい、だとは思いますけど……」
「雪だって冷たいものだ。それに昨日は俺を助けるために体を冷やしてまで雪に突っ込んでくれたじゃないか」
「それはそうですけど」
「君は冷たいのが怖いんじゃないのさ。何かに別のものに怯えているんだよ」

 どきり、とした。顕現したばかりの鶴丸さんは薬研の話を知らない。きっと他の刀剣男士だって話していない。それなのに。心を見透かされたような気がした。言葉が出せずに黙り込んでいると、急に鶴丸さんの指が私の頬に触れた。冷たいそれに驚いて思わず身を引いてしまう。鶴丸さんは面白そうに笑いつつ、ひらひらと冷たい手を振る。

「君は俺の手が怖いかい」

 自分の手をすり合わせながら鶴丸さんは不満気な顔をする。「一期一振のやつに聞いたんだが、俺はひえしょうというやつらしい」と。どんなに温めても指先が冷たいのだと鶴丸さんは自分の指先を睨んだ。何度も何度もすり合わせてからもう一度私の頬に鶴丸さんの指が触れる。ほんの少し先ほどよりも温かいけど、やっぱり冷たい。華奢で細身な人だから冷えやすいのかもしれない。それとも人間ではなく刀の付喪神様だからなのだろうか。冷たい指先。あの日の冷たい刃を思い出す。でも。

「いいえ、怖くありません」

 優しかった。冷たいけれど、優しい。あの日触れた刃もそうだった。冷たいけれどそこに殺意や憎悪はない。ただただ鋭く強い優しさがそこにはあった。同じ刃だからなのか、はたまた別の理由があるのか。鶴丸さんの冷たい指先が私にそれを教えてくれた。知らない間にぽろぽろと頬に涙が伝っていて、鶴丸さんはそれを見てぎょっとした顔をしている。それでも涙は止まらない。
 その現場を目撃した平野くんから伝え聞いた一期さんが飛んできて、鶴丸さんは光忠さんや他の刀剣男士から総叩きに遭ったという。誤解はなんとか解いて鶴丸さんにはお礼を言った。そうして私はようやく、死というものを受け入れることができたのだった。薬研とは雪が解けたころ二人きりで万事屋へ出掛けた。「どうして俺と二人なんだ?」と薬研は少し不思議そうだったけれど、嫌そうな顔はしなかった。「薬研とお話したかったの」と言えばなんだか照れくさそうに「そうか」と笑ってくれた。買い物が終わると荷物を全部自分で持つと言って、あまり大きくない体に見合わないだけの荷物を持って「大将、帰るぞ」と得意げな顔をする。一振目の薬研はたぶんそんなことをしなかった。自分が持てるだけ持って、極力私に重いものは回さないけど「悪いな大将、それだけ持ってくれ」と言う。でも、違うんだ。その子も薬研で、この子も薬研。たった一人の、かけがえのない私の家族。それに変わりはなかった。
 いつだって生はそばにいて、でも死もすぐそこにいる。この一瞬を、永遠に思える一瞬を大切に過ごしていかなければいけないのだ。刀剣男士は不死ではない。刀剣という意味では不死なのかもしれないけれど。けれど、この本丸にいる誰もが、死と隣り合わせなのだ。そういう意味では私とおんなじ。まるで人間みたい。不思議な感覚を覚えるけれど、それは紛れもない事実だった。

「雪は解けたがまだ風が冷たいから気を付けろ」

 夜更けにぼうっと縁側に座って月を見上げていたら山姥切にそう声をかけられる。どうやらついさっきお風呂に入ったばかりらしい。こんな遅くまで何をしていたの。私がそう訊くより前に山姥切が「薬研が稽古をつけろとうるさくて」と言った。この本丸で最高練度を誇る山姥切には稽古の予約がすぐに入る。非番のほとんどを他の刀剣男士の稽古に費やしているようだったから、たまにはお休みしてねと言っても山姥切はやめない。というかやめられないといった方がいいか。初期刀で第一部隊隊長が人気なことは嬉しいけれど、なんだか疲れた顔をしているのが少しだけ気になる。今日までずっと近侍をお願いしていたし。

「考え事か」
「明日の新年会どうしようかなって考えてたんだよ」
「ああ……挨拶と配置発表か」

 うちの本丸は一年経つと新年会をすることになっている。まだ一回しかしたことがないけど。去年も冬にやって近侍、各部隊の隊長、各役職者発表をしたのを思い出す。今年も同じようにやるつもりなのだけど。

「山姥切」
「なんだ」
「……あの、ですね」
「近侍を変えるんだろう」
「なっ、なんで分かったの?!」

 山姥切は私の隣に立ってため息をつく。「あんたは分かりやすいからな」と少し呆れたような顔をして言った。そう、山姥切の言う通り今年度から近侍を変えてみようと思っていたのだ。山姥切には審神者就任当時から今までずっと近侍をお願いしていた。けれど、第一部隊隊長も兼ねているし先ほど言ったように他の刀剣男士の稽古を付けることも多いので、かなり多忙になっているのだ。山姥切の仕事量の軽減と、あと近侍を別の人にさせてみるのもたまにはいいか、という軽い気持ちもある。近侍を変えると言ったら山姥切はどう思うだろうか。それだけが不安の種だったが案外あっさりしたものだった。

「俺は構わない。あんたの決めることだ」
「そ、そっか。てっきり拗ねたりするかと思った」
「鶴丸か」
「へっ?!」
「近侍を鶴丸国永にするんだろう」
「……山姥切ってエスパーなの?」
「えす……? 何のことだか知らんが、あいつならうまくやれると俺は思うぞ」
「本当?」
「あんたは見る目がある」

 山姥切は自信満々にそう言うと、月を見上げる。月明かりにきらきらと髪の毛と瞳が光るのがたまらなくきれいだったけど、言ったら怒るので黙っておく。見る目がある、って。くすくす笑っていると山姥切は「なんだ」と少し怒った。

「そうだよ、私は見る目があるの。山姥切国広を初期刀に選ぶくらい見る目があるんだよ」
「……何を言っているんだか」

 笑った。山姥切の笑った顔に少し嬉しくなってしまって思わず口走る。「きれいだね」と。怒ると分かっていてもやっぱりきれいなものはきれいなのだ。きらきらと光る黄金色の髪に緑色の瞳。月明かりよりもずっときれいに光るそれはまるで魔法のようにも思えるほどだ。
 いつもだったらすぐに「きれいとか言うな」と怒る山姥切なのに今日は静かだ。じっと私を見つめたあとに目を伏せて、少しだけ笑う。「そうか」と呟いた言葉がたまらなく優しくて私まで笑ってしまった。
 翌日の新年会にて、近侍が変更になることと同時に他の役職も責任者を一新したことを伝える。今まで役職者であった者は肩の荷が下りたような顔をし、他の者は少し色めきだった。中でも近侍が変更になることは全員にとって意外だったようで発表をどきどきして待っている様子がこちらから見ても分かるほどだ。まだ顕現して日が浅い鶴丸さんを除いて、だけど。

「以上が各役職の新責任者です。最後になりましたが、近侍は、」
「……主?」
「い、いや、ごめん、みんなの視線が痛くて」
「皆、主のお役に立ちたいのです」
「ありがとう……」

 短刀から薙刀まで、全員が刺すように鋭い視線をぶつけてくる。山姥切はその様子に少し呆れていたけど咎めることはしない。刀剣男士にとって近侍を務めるというのはそれだけ誇りなのだろう。私がみんなの誇りに見合う主なのかは置いておくけれど。
 すうっと息を吸う。ゆっくり息を吐いて、一人だけなんだか別世界にいるように間抜けな顔をしたその人をまっすぐ見つめる。

「鶴丸国永」
「……え?」
「近侍は鶴丸さんにお願いします」
「……俺か? いや、主、俺以外にやりたいと言うやつがたくさんいるだろう?」
「鶴丸さんがやりたくないと言うなら考え直しますけど……」
「……やりたく、ない、というわけではないが……新入りでもいいのか?」
「もちろん。もし異論のある者がいればこの場でどうぞ。善処します」

 全員の視線が和らぐ。中にはふうっと息をついた者までいて、何人かは笑っていた。「やっぱり」と。

「なんとなくそんな気はしておりました」

 一期さんがそう言うと他のみんなも「だよね」と同意する。鶴丸さんだけは驚いたような顔をしていたけど。山姥切も鶴丸さんだと言い当てたし、私はどこかで鶴丸さんを特別視してしまっていたのだろうか。自分の行いを思い出してみるけど特に鶴丸さんを特別扱いした覚えはない。私がそんなことを思い起こしていると山姥切が私の横から離れて行く。あ、なんか変な感じ。今までずっと隣に山姥切がいたから、少し離れた場所にいると変な感じがする。そう少しだけ寂しい気持ちになっていると他の刀剣男士に言われて鶴丸さんが一番遠い場所から私の元へ歩いてくる。なんだか慣れない様子で私の隣に立つと、照れくさそうに笑った。

「なんだか胸の奥の方が、くすぐったいな」

 頭を少しかきながら鶴丸さんは全員に「よろしく」と言って小さく頭を下げた。全員が拍手を送ると顔を赤くして隠してしまった。意外とかわいらしい人だ。丸まった背中をわざと思いっきり痛いくらいばしっと叩いてやる。鶴丸さんは「痛?!」と言って背中をさすって背筋を伸ばした。

「鶴丸さん、今日からよろしくお願いしますね」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ちょっと鶴丸さん、早く早く! 遅刻する!」
「待ってくれ、この紐はどう結べば?!」
「山姥切ー! 鶴丸さんのネクタイ結んであげて!」

 呆れ顔で非番の山姥切が部屋に入ってくる。鶴丸さんのネクタイを結びつつ「なんですーつで行くんだ?」と私に聞いてくる。今日は相模国本丸の審神者が一堂に会する会議の日だ。一ヶ月に一回行われているこの会議、今まで山姥切はスーツは着ずにいつも通りの服装だった。けれど、なぜか今回に限って政府のお偉いさんも交えての立食パーティーがあるというのだ。今までそんなことはなかったので不思議だったけど、本部がやるというので何か目的があるのだろうとは思うけど。それと一緒に通達書には「刀剣男士も正装すること」とあったのだ。項目には細かく指定が書かれており、刀剣男士は全員例外なく黒のスーツ。そして、政府からの支給品として送られてきたネクタイをつけることとのことだった。帯刀はもちろんしてくるようにとのことだったので、鶴丸さんの腰にはいつも通り本体がそこにはいるのだけど。昨日は鶴丸さんにスーツの着方を教えるので大変だったし、一度着せたら「動きにくい」と顔を顰めて嫌がるので本当に困ったものだった。結局朝も手間取ってこうして遅れかけているのだけど。

「動きづらい……」
「文句言わないでください。行きますよ」
「こんな恰好じゃ君に何かあったら不安なんだが……まあお上の命令には逆らえないか」

 観念したように鶴丸さんは慣れない革靴を履いた。それにしてもここまで細かい服装の指定をしてくるなんて今までになかった。全本丸に同じ指定が言っているのなら、もし別本丸の審神者が連れてきた近侍が鶴丸国永だったら見分けがつかなくなりそうだ。いつも通りの服装ならばなんとなく見分けがつくので不思議なのだけど。こう、新鮮な恰好をされるとそもそも別人に見えてしまって仕方ない。本部からの指定には「指定のもの以外を身につけないこと」とあったので何か目印をつけるわけにもいかない。とはいえ、さすがに自分の近侍の見分けがつかないというのも情けない。本部に行くまでの道中いろいろ考え、本部の建物に入る前に立ち止まる。

「どうした?」
「鶴丸さん、嫌かもしれませんけどこれ、刀につけてもらえませんか?」

 いつも持ち歩いているポーチを開ける。そこに入れてあった飾り紐を取り出して鶴丸さんに差し出す。何かのときのために石切丸さんにお願いして作ってもらったものだ。今までお守り代わりにポーチに入れておいただけなのだけど、どうやらようやく役立てることができるかもしれない。鶴丸さんの刀についているのとちょうど似た色をしているのでこれならよく見ないと分からないだろう。

「いや別に構わんが……急にどうしたんだ?」
「何かあるといけないのでお守りです」

 はじめての会議にはじめての立食パーティーだ。鶴丸さんはそれなりにしっかりしているけどまだまだ近侍としては新人なので。そう付け加えると鶴丸さんは少し苦笑いをこぼしたが、「有難くもらうぜ」といって刀についている小さな飾りに潜ませてつけてくれた。
 本部に入ると、なかなか驚いた。本当に連れてこられている近侍全振が鶴丸さんと同じような恰好をしている。ネクタイは全員同じものなので余計に圧巻の光景だ。鶴丸国永を近侍にしている審神者はそれなりに多く、全員本当に見分けがつかない。私の前に何人か受付で並んでいたので立ち止まり、またその光景をじっと見る。しばらくその光景に言葉を失ってしまう。鶴丸さんもそれは同じらしく「これは何の意味があるんだ?」と私に聞いてくるが、私だってこんな光景を見るのははじめてだ。「分からない」と答えたところで私たちの受付となる。

「相模国七番本丸です」
「はい、確認しました。ではこちらを審神者様は手首につけてください」
「あ、はい」
「近侍は太刀鶴丸国永ですね。ではK列へどうぞ」

 受付の女性に組紐のようなものを渡された。そんなものを配られたのもはじめてだし、座る席を指定されたのもはじめてだ。少し戸惑いながら組紐を左手首につけて固定してから言われた席へ向かう。K列とだけ指定を受けたのでその列の空いている場所に座れということだろう。そう思ってA、B、C、と列を辿っていき、K列を見つけて空いている席を探そうと顔を上げて、驚いた。K列に座っている審神者の全員が、近侍に鶴丸国永を連れていたのだ。よく見れば他の列も同じだ。一番近くのL列には小狐丸を連れた審神者が集まっていて、その近くには一期一振。一番前の方の席には今剣を連れた審神者が集められていた。

「……主、一体なんだ、これは」
「私もこんな会議ははじめてです……なんだか不気味ですね」

 ざわざわと落ち着きのない部屋に、鈴の音が響き渡る。これは会議がはじまるいつもの合図だ。審神者も近侍たちも一斉に口を閉じ静かになると会議室は静けさに包まれる。壇上にいつもの相模国本丸の担当者が立ち、いつもどおりの会議がはじまった。ここ最近発見されたばかりの刀剣男士についての報告をすでに顕現した審神者が報告したり、異常現象についての報告、検非違使調査を担当している本丸からの報告など、いつも通りの報告を淡々と聞く。政府から来ている役人の人からの資源に関する報告や今後の支給に関することも特に変わった報告はない。相模国における異常現象も解決に向かっており、特に変わったことはないようだった。このまま会議が終わる、かと思われたときだった。政府から来ている役人を残して本部の人間が全員部屋から出ていく。残った役人が壇上に立つと、新たな議題が持ち上げられた。

「我々は時間遡行軍の調査を第一と考えてきたが、そもそも味方である刀剣男士についての調査が進んでいない状況です」

 政府からの役人は淡々と今分かっている刀剣男士に関する情報を並べ始める。まず刀剣男士は審神者の力によってでしか人の容を成せない。刀解する際も審神者の力がなければうまく刀解ができないという実験データが出たとの話だった。鍛刀は審神者以外の人間が行えばその者は焼け死んだらしい。審神者にとっても刀剣男士にとってもあまり聞きたくない話が続く。

「何事にも実験してみなければ分からないのです」

 私の隣に座っていたまだ幼い審神者がこそっと話しかけてくる。「あの、相模国第二番の審神者さんご存知ですか?」と。相模国第二番の審神者といえば相模国において最も優れた本丸としていつも報告書に名前が挙がる本丸だ。何度も演練でお世話になったし、前任の審神者同士は交流が深かった。「知ってるよ」と返すとその審神者が周囲を少し見渡して「今日、いらっしゃってないですよね……?」と不安そうな声を出した。言われてみれば辺りを見渡してもその審神者はいない。いつも近侍に加州清光を連れていたけど、近侍が加州清光の審神者が集められた席にいない。それどころか二番手と言われている相模国第五番の審神者もいないし、戦績の良い本丸の審神者は誰一人として来ていないようだった。相模国の審神者が一堂に会するというには審神者の人数が少ない。それなのに会場はいつも通りの広い部屋。

「今日は皆さんに我々の実験台になっていただきます」

 役人のその言葉に場内がざわついた瞬間だった。突然室内が暗闇に包まれた。驚いて椅子から立ち上がったその瞬間、また周囲が一瞬にして装いを変える。まるで池田屋の合戦場だった。たしか審神者に就任して間もないころ、本部で研修を受けたときに見た。仮想空間。でも、何か雰囲気が違った。隣にいるはずの鶴丸さんはいなくて、私の近くには同じ列に座っていた審神者たちしかいない。遠くの方で別の列に座っていたと思われる審神者の声が聞こえる。そして、次の瞬間だった。別の空間にいると思われる審神者の一人が、聞いたこともないような悲鳴を上げた。それと同時に突然時間遡行軍と、全く同じスーツを着た鶴丸国永たちが姿を現した。

「審神者は己の刀剣男士を見分けられるのか。それを実験させていただきます。先に申し上げますが皆さんの目の前にいるのは本物の時間遡行軍です。斬られれば審神者の皆さんは死にます。そして刀剣男士にはあなた方の姿は見えません。自分の近侍を見つけてそのネクタイを解いてください。そうすれば刀剣男士にあなた方の姿が見えます。ただし、」

 遠くで、断末魔が聞こえる。

「己の近侍でない刀剣男士のネクタイを解いてしまうと、その刀剣男士に時間遡行軍と認識され斬られますのでお気を付けください。ルールを最後まで聞かなかった第四十七番本丸の審神者が今しがた斬られましたので。あなた方がつけている組紐は刀剣男士から気配を悟られないように特別な術がかけてあるものです。ちなみに勝手に外すと時間遡行軍として彼らに認識されるようになってますのでご注意くださいね」

 審神者の姿を探して鶴丸国永はそれぞれ手分けして部屋を彷徨い始めた。私の近くにいた幼い審神者は泣きはじめ、他の審神者も戸惑いと恐怖からか体が動けずにいる。ルール、と役人は言った。まるでそんなの、ゲームみたいじゃない。遠くの方でまた断末魔が聞こえる。時間遡行軍が私たちを見つけ一斉に向かってくると、ようやく全員その場から駆けて逃げ出した。まとまって行動すればすぐに時間遡行軍に狙われる。生き残るためにはばらばらに逃げた方がいい。そう全員が判断したようだった。
 そうか、そういうことだったのか。何もかもが結びついて唇を噛んでしまう。近侍として連れてくる刀剣男士の服装を指定したのも、ネクタイを支給したのも、会議での席を指定したのも。この馬鹿げた実験という名のゲームのためだったのだ。そして戦績が良く、霊力が強いと言われる本丸の審神者たちがいないのは、こんな馬鹿げた実験で死なれては困るから。つまり今日集められた私たちは政府にとって取るに足らない程度の力しかない審神者なのだ。
 物陰に隠れて様子を窺う。夜戦の仮想空間になっているここでは太刀は能力が全体的に下がる。鶴丸さんの身にも危機が迫っているのだ。なんとか、鶴丸さんと合流しなければ。基本的に審神者は時間遡行軍に攻撃はできない。霊力の高い審神者は簡単な術をかけたりできると聞くけど、私にはそんな霊力はない。目を凝らした先に鶴丸国永が敵と交戦しているのを見つける。あまり練度が高くないらしくすでに中傷を負っている。鶴丸さんも練度はまだ高くない。もしかしたら。そう思って近寄ろうとしたのだが、時間遡行軍に見つかってしまい近寄れない。また隠れ場所を探すために逃げ回っている途中、見つけてしまった。斬られた幼い審神者。目も当てられないその惨状にまた唇を噛んでしまう。どうしてこんなひどいことを。悔しくて、苦しくて、怖くて。立ち止まりそうになる脚を必死に動かして、隣の部屋に移動する。
 鶴丸さんの刀につけてもらった飾り紐。あれさえ見つけられれば。でも暗い室内で鶴丸さんは恐らく刀を振るっている。あんなに小さい飾り紐を私は見つけられるだろうか。それに鶴丸さんの刀には同じ色の飾りがついているのだ。他の鶴丸国永の刀にだって同じ飾りはついている。目を凝らしてじっと見ないと分からないだろう。
 考え事をしていると背後に気配を感じた。はっとして思いっきり体を右に避けると、恐らく短刀乙が勢いよく床に突き刺さっていた。避けられていなかったら。それを考えて全身が冷える。何かあったときのためにと一期さんがたまに稽古をつけてくれていたのが功を奏したようだ。でもたぶん今のはほとんど本能的に避けただけだから二度目はないだろう。あんなおよそ人間の動きをしないものをただの素人の私が意図的に避けられるわけがない。今はただなんとか逃げるしかできない。こんなに恐ろしいものとみんなは戦っているのだ。短刀乙をなんとか振り切ってまた物陰に隠れると、鶴丸国永が二人息を切らして話している姿を見つけた。

「おいおいこりゃどういうことだ……さっきまで俺が何振りもいたのに」
「残ってるのはお前さんと俺だけか?」
「そうらしい……まさか折れたわけじゃないだろうな」
「大体の敵は斬ったが……主はどこだ?」

 その言葉に背筋が冷える。それは恐らく、審神者二人を残して他は死亡したということなのだろう。もしくはこの実験でいうところのクリアをしてもう元の世界に戻っているか。
 敵が周りにいないのを確認して少し鶴丸国永に近寄る。じっと目を凝らすが、どちらの鶴丸国永も刀に私が私は飾り紐はついていなかった。つまり、どちらも鶴丸さんではない。どういうこと? どんなに見つめても二人とも鶴丸さんではない。なんだか話し方も違うように思えてきたし、立ち振る舞いも少し違う。どう見ても違う。鶴丸さんがいない。まさか、折れ、?
 不安が顔を出した。それを振り払ってその場から駆けだす。まさかそんなわけない。鶴丸さんはたしかに練度が低かった。夜戦に出したこともない。でも、そうだとしても。鶴丸さんが折れるわけがない! 走って走って、恐らく仮想空間の端っこと思われる場所に来る。どうやら池田屋室内からは出られない設定になっているらしい。扉を引いてみてもびくともしない。また反対側へ向かうために歩き始めると、頭上から物音がした。逃げようと走り出したときには遅かった。天井が崩れて目の前に何かが降り立つ。この至近距離では避けられない。もう、だめなんだ。そう覚悟を決めたのに。

「おかしいな、予測が外れたか」

 降りてきた、というより落ちてきたのは鶴丸国永だった。驚いていると鶴丸国永は首をかしげて「あの子なら真っ先に屋根裏に逃げると思ったんだが」と呟いている。なんとなくそれが鶴丸さんっぽくて、刀に目を向ける。そのとき。背後に敵短刀が現れ、その刃がほんの少し腕をかすめた。感じたことのない痛みが走り、その場にしゃがんでしまう。目の前にいる鶴丸国永の方へは行かず、また私を狙っている。逃げなくちゃ。そう思ってなんとか立ち上がろうとしたときだった。

「主、いるんだな」

 その声がたしかにまっすぐ、私の耳に届いた。迷いなく刀が振るわれ一瞬にして敵短刀が姿を消す。どうやら審神者から流れた血は見えるらしい。鶴丸国永は少しだけ畳の上に落ちた血をたどり、ついに私のことをじっと見た。
 ――鶴丸さんだ。
 つけた飾り紐など確認しなくても確信を持った。あれは鶴丸さんで間違いない。血が流れる腕に力が入らないまま立ち上がり、鶴丸さんに近付く。まったく気配も感じ取れていないらしい鶴丸さんは「いるんだろう?」と不思議そうな声を上げている。返事をしても聞こえない鶴丸さんのネクタイをつかんで、思いっきり解いた。

「わっ?!」
「鶴丸さん!」
「お、驚いた、まさか本当にいるとは……」

 鶴丸さんは安心したように笑う。中傷の手前、といったところだろうか。所々怪我をしている姿に胸が痛くなる。私がもっとちゃんと違和感の正体を考えていれば。ぎゅっと握った拳を、鶴丸さんはなぜだか握った。

「無事でよかった」

 冷たい手。それはいつもと変わらないのだけど、ただ、鶴丸さんの手は小さく震えていた。その手を包み込むように斬られた方の手をなんとか持ち上げて握ると、震えが治まったように思えた。鶴丸さんはスーツを破いて私の腕を止血すると「どうする?」とあたりを見回した。何があったのかを説明すると鶴丸さんは明らかに不愉快そうに顔を歪めて「良い趣味とは言えないな」と呟く。この実験とやらの終了がいつか分からないのでそれまではなんとかしのがなければいけないし、残っている鶴丸国永二振りも気がかりだ。先にそちらの様子を見に行くことにして二人で歩き始める。だいぶ時間遡行軍は倒されていて、数はどうやらもう多くないようだった。それでもまだ油断はできない。鶴丸さんは「偵察は得意じゃないんでな」と苦笑いした。短刀や脇差の子に比べるとたしかに太刀は偵察が得意ではない。隠密行動も苦手だ。だから分かってしまった。鶴丸さんが、自分の身を捨ててでも私を守ろうとしていることが。

「何があっても俺の傍を離れるなよ。いいな?」
「……はい」

 鶴丸さんは笑って私の頭を撫でて「君はいい子だな」と言った。その声がとても優しくて、こんな状況なのにどうしようもなく、私の胸はいっぱいだった。鶴丸さんが考えているのと同じように、私も思った。何を擲ってでもこの人を守ろう。そう、心に決めた。
 しばらく室内をうろついていると残っていた鶴丸国永二振りと合流する。私の姿が見えているらしい二振りは自分の審神者の行方を訊いてきた。残念なことにもう他の審神者がどこにいるのだかさっぱり分からない。ただこの二振りが顕現したまま姿を成しているということは生き残っているということだ。審神者の姿を見ることができる私が姿を見つけることができれば、きっと助けることができる。生き残っている審神者の二人を探そうと四人で進み始めた瞬間だった。突然、辺りが明るくなる。今までずっと暗いところにいたせいで目が痛いが、なんとか目を開けるとそこは元の会議室に戻っていた。

「皆さまご無事ですか?!」

 そう声を荒げているのは研修で何度も姿を見たことがある政府の役人だった。私たちをこんな実験に巻き込んだ役人はその隣で捕らえられていて、いま壇上に立っている役人に暴言を吐いている。元の空間に戻った私たちは思わず顔を見合わせてしまう。二人の鶴丸国永も審神者の姿を遠くで見つけて駆け寄っていった。周囲から歓声や泣き声が聞こえる中、私もあまりの安堵感から涙をこぼしてしまう。鶴丸さんはそれを指ですくって私の背中を優しく撫でた。
 この実験は先の役人の独断で行われた上、この役人は政府の尋問で歴史修正主義者側についていたことが判明する。このときの実験における被害は審神者六十三名が死亡、刀剣破壊は五十二振りという大規模なものとなった。審神者死亡により五十七の本丸は解体され、残りの本丸は元々決まっていた後任の審神者に引き継がれることとなった。生き残った審神者のほとんども怪我を負い、今回の件が政府への不信感を助長し引退する人も何人か出たという。裏切り者の役人はこの実験が成功したら今度は霊力の高い審神者を集めてやるつもりだったと言っているらしい。

「主様、ご無事で本当によかった……!」
「今度戦に出してよ。短刀ぶっ殺してくるから」

 本丸へ戻ったのは騒動がなんとか終息した三日後だった。政府の失態ということもあって対処がやけに早かった上、相模国に籍を置く本丸のすべてにかなりの量の資源が支給された。また今度の検非違使調査への参加が免除されたとのことだった。各本丸には騒動が起こったその日に事情がこんのすけによって伝えられ、なかなかの騒ぎになったと山姥切から教えられて苦笑いがもれた。なんでも一期さんが鬼の形相でこんのすけに掴みかかったり、へし切長谷部さんが勝手に一人で出陣しようとしたり、歌仙さんが謝罪行脚にきた役人に嫌味を言いまくって泣かせたりしたとのこと。ちょっと見たかった気もしてしまう。
 私の体を気遣って近侍の鶴丸さん以外のみんなが部屋から出ていくと、部屋の中は急に静かになる。鶴丸さんは本丸に戻ってからはどこか口数か少なくて元気がない様子だった。それが心配だったのだけど、あんなことがあったのだから心身が疲れているのかもしれないとも思い、特に触れないようにしている。

「にしても君、どうして俺だと分かったんだ?」

 鶴丸さんが私の腕の包帯を変えながら聞いてくる。「俺ですら正直鏡かと思うほど混乱したのに」と呟いた言葉に頷いてしまう。でも本当にあのとき鶴丸さんだと分かったのはなんとなくなのだ。なんとなく、というほど不確実なものではないけど。飾り紐なんて確認しなくても鶴丸さんだと分かったのだ。確信を持ってしまったそれを説明しようにも言葉が浮かばない。まあ、適当に飾り紐で分かったことにしておこう。そう思って「飾り紐ですよ」と笑ったのだけど、鶴丸さんは不思議そうな顔のままだった。

「あれなら一体目の時間遡行軍と戦ったときに切れて落としたぞ」
「えっ」
「だから不思議だったんだ」

 鶴丸さんは私から視線を外す。「なんだ、勘か」と残念そうな声で呟かれると、なんだか心が痛い。でもあんまりにも嫌味ったらしく「俺の主は俺のことをちゃんと見分けられないんだな〜」と言ってくるものだから、ちょっとむかついてしまう。

「鶴丸さんはどうして私があそこにいたって分かったんですか」
「どうしてだか知りたいか?」
「はい」
「それはな」
「……」
「なんとなく、だ」

 けらけら笑う。そうして自分の刀をゆっくり撫でながら「君もだろう?」と優しく言う。なんだ、分かってたんだ。「意地悪しないでください」と言ったら鶴丸さんは「すまんすまん」と言いつつ包帯をしっかり結んだ。

「でも本当になんとなく、君がいるように思えたんだ」
「……私も、なんとなく鶴丸さんだって分かりました」
「運命の赤い糸ってやつだな?! 君が見せてくれたてれびどらまで観たぞ!」
「ちょ、ちょっと違いますけど……」

 それ、恋仲の人に言うやつですよ。そう思いつつ苦笑いを返しておく。鶴丸さんは目を輝かせて「あれは本当なんだな」と呟き自分の小指を見ている。そういえばこの前「君が生まれた時代のことを知りたい」と言われたので、昔はやっていたテレビドラマのDVDを見せたのだ。その題材が運命の赤い糸だったのでなかなか印象深く残ってしまったのだろう。鶴丸さんに見せるならもっとアクション系の激しいものの方がよかったか、と思ったけど、まあ楽しんでくれたようだったのでそこは良しとしておく。
 ――何があっても俺の傍を離れるなよ。鶴丸さんがあのとき言った言葉が急に耳の奥で聴こえる。とても、強くてまっすぐな、それでいてやっぱり優しい声だった。思い出したら胸の奥がどきっとしてその瞬間からばくばくと突然うるさくなる。目の前で鶴丸さんはなんだかご機嫌な様子でにこにこしたまま今度は自分の腕の傷を少しいじっている。ばくばくうるさい心臓になんだか不思議な恥ずかしさを覚えつつ、鶴丸さんを手入れ部屋に連れて行こうと立ち上がる。あんまりにも突然立ち上がったのがいけなかったのか、頭がぐわっと揺れて少し平衡感覚が鈍る。そのまま倒れ込みそうになった私の体を、鶴丸さんはいとも簡単に支えてくれた。

「おいおい、危ないだろう」
「あ、ご、ごめんなさい」
「まだ疲れが残っているんだろう。しばらく休むんだな」
「で、でも鶴丸さん、手入れ、」
「こんなのかすり傷だ、気にしないでくれ。まずは君の体が最優先だ」

 そう言いながら鶴丸さんは私の体を急に抱き上げ、「君はずいぶんと軽いなあ」と笑ってからゆっくり布団に下ろした。あ、まただ。ばくばくと余計に心臓がうるさくなる。びっくりしたにもほどがある。なんだかそれとは違う気もしたけど、きっと突然のことに驚いたんだろう。

「主」
「は、はい」
「君さえ良ければ、今日はずっとここにいてもいいかい?」
「えっ?」
「なぜだろうな。なんとなく、離れがたくて」

 人間はこの感情をなんと呼ぶんだ? 鶴丸さんはなんだか照れくさそうに言う。それに答えられずにいると鶴丸さんは余計に照れくさそうになって「いや、忘れてくれ」と顔を伏せた。耳まで赤くなっている。手を伸ばせばすぐ届く。手を伸ばして鶴丸さんの頬に少し触れると、とても熱かった。とても熱くて、とても心地よくて、とても愛しかった。
 その瞬間に私は気付いてしまった。私は鶴丸さんのことを特別視しているのだと。他の子たちを大切に思うよりも特別な意味で鶴丸さんを大切に思ってしまっている。恐らく恋と呼ばれるその感情は、余計に私の心臓をばくばくとうるさくさせる。審神者と刀剣男士は特に恋愛を禁止されているわけではない。中には刀剣男士と祝言を挙げた審神者もいると聞いたことがあるし、たしか近くの本丸が最近近侍と祝言を挙げたと挨拶に来たばかりだ。別に悪いことではない。でも、なんだか、悪いことのように思ってしまったのだ。鶴丸さんのことだけ特別に思うなんて。ここにいるみんなのことが好きなのに、鶴丸さんだけもっと好きなんて。そんなこと、私は思ってもいいのだろうか。

「やっぱり部屋に戻る。ちゃんと休むんだぞ」
「鶴丸さん」
「……なんだい?」
「もしよかったら、私が眠るまで、いてくれませんか」

 ほんの少しだけ、幸せを噛みしめるくらいなら許されるでしょう? そう誰にともなく問いかける。誰からの返事はないままに、鶴丸さんは照れ笑いをして「分かった」と言ってくれた。ゆっくりと私の近くに座り直すと鶴丸さんはじっと私を見つめ始める。布団に横になったはいいが、あんまりにもじっと見られるので気になって仕方がない。しばらくは寝ようと努力をしていたのだけど。目を閉じていても感じる視線の鋭さに「あの、」と目を開ける。それと、同時だった。

「……え」
「あ、いや、え? すまん?」
「……い、いえ……?」

 目を開けた瞬間に一瞬だけ唇が、なにか柔らかいものに当たったような? 目の前には鶴丸さんがなんだか驚いたような不思議なような顔をして、私をまだじっと見ていた。いまの、って。唇に残っている柔らかくて温かい感触。キスされた? なんだかよく分からなかったけど、状況からしてそうなのだろう。ほんの一瞬だったし、目を開けた瞬間にはもう離れていたけれど。困惑している私よりさらに困惑している鶴丸さんを見ると、そうなのか疑わしくなってしまう。

「い、いや、すまん、よく分からない、君を見ていたら体が勝手に、」
「落ち着いてください、鶴丸さん、えっと、大丈夫ですから」

 真っ赤な顔を両手で覆って、鶴丸さんは俯いてしまった。「すまん」とまた小さな声で呟いて、それっきり黙ってしまうので困ってしまう。それよりもどきどきとうるさい心臓が鶴丸さんに聞こえてしまわないか。それが気になって気になって。私まで顔が赤くなっている気がする。
 鶴丸さんはきっと今の行為がなんなのかよく分かっていないのだろう。体が勝手に、と言った鶴丸さんを思い出してまた心臓がうるさくなる。それって、そういうことなんだろうか。勝手に体が動いて、キスしてしまった、って。考えれば考えるほどぶわっと体中が熱くなっていく。なんと説明すればいいのか、むしろ説明した方がいいのかどうか。いろいろ考えている私の視界の隅に、ひらりと、ピンク色が見えた。少し視線を上げる。はらはらと、鶴丸さんから桜の花びらが舞っている。とても嬉しいことがあると刀剣男士は桜の花びらを舞わせるのだと政府から説明を受けたのを思い出す。滅多に出ないもので、審神者人生で一度も見ない人も多いのだそうだ。桜の花びらは畳の上に少し留まるととても言葉では言い表せない匂いを漂わせてどんどん消えていく。それに負けないくらい鶴丸さんから舞う花びらが多くて、部屋中はあっという間にその匂いで充満した。薄暗いはずの部屋はなんだか明るくなったように思えるし、なんだか良い気がどんどん部屋を満たしていくようだ。

「鶴丸さん、あの、顔を上げてくれませんか」

 少し間をあけてから鶴丸さんがほんの少しだけ顔を上げてくれる。目元だけこちらに向けた顔はとても情けなくて。笑ってしまった。鶴丸さんはいじけた様子で「君のせいだ」と呟く。何が、と問えば情けない声で「胸のあたりが痛い」と言う。私がまた笑ったら余計にいじけてしまう。でも、舞う花びらの量はどんどん増えていく。

「鶴丸さん」
「……なんだ」
「もう一度、してくれませんか」
「……いいのか?」
「はい」
「あれはどういう行為なんだ? 人間はどういうときにあれをしたくなるんだ?」

 自分がしたことは悪いものではなかったと分かったらしく、顔の半分を隠していた手を離す。鶴丸さんはずいっと私に顔を近付けて興味津々に質問を投げかけてきた。どう答えれば良いのか、答えたところで私の自惚れのようで恥ずかしいような。いろいろ考えたけれど、鶴丸さんがあまりにも嬉しそうというか無邪気な顔をするので、すんなりと口から言葉が出た。

「好いている相手にする愛情表現です」
「そうなのか! じゃあ君はみんなとあれをするのか?」
「いいえ、鶴丸さんとしかしたことないです」

 鶴丸さんは不思議そうな顔をする。その眼差しはどうやら「じゃあ他のみんなは君を好いていないのか?」とでも言いたげな疑いの物だ。ちゃんと意味を分かっていない。まだ顕現して一ヶ月と少しくらい。ずいぶんお風呂に入るのは慣れたらしいし、ご飯を食べて過剰に感動することもなくなってきた。どうすれば怪我をして、相手はどれくらいで痛いと感じるか。何をすれば相手が喜んで、何をしてしまうと相手が悲しむか。それが分かり始めてきたばかりの鶴丸さんはまだ、愛情というものが分からないのだろう。大きなくくりでの、たとえば家族愛とか兄弟愛とか、友人への親愛などは分かっているだろうけれど。特別な愛情はまだ分からないのだ。
 沈黙のあと、鶴丸さんは私から視線を外す。何か考え事をして上を見て、下を見る。思いついたように目を少し大きく開けたあと、私の方をまた見てくれた。

「俺だけか」

 そう、とても、嬉しそうに言う。
 はらはらと部屋中に舞い散らかるかと思うほどの桜の花びら。その温かな明るさと美しい香りに包まれながら、鶴丸さんはそっと私の頬に手を添える。やっぱり冷たいその手が好きだ。怖くなんかない。

「君は俺の手が冷たいのを心配するが」
「……はい?」

 私の頬を両手で挟んで、少し指を動かす。冷たい指が動くたびに少し驚いていたけど、次第に慣れていくと心地よいものになった。鶴丸さんは私の顔をふにゃふにゃとして遊んでいたけど、ぴたりと急に動きを止めた。

「俺は自分がひえしょうとやらでよかったと思うんだ」
「なぜですか?」

 ぐいっと弱くではあるけれど顔が引き寄せられる。顔を寄せてきた鶴丸さんの唇が私の唇に当たる。なんだか不格好なものだったけれど、たぶんどんな口付けよりも愛おしかった。

「君の体温がよく分かるからだ」

 鶴丸さんの両手が頬から離れる。離れたかと思ったら今度は両腕が私の体を、まるで閉じこめるようにすっぽりと抱きしめた。「君は温かいなあ」とか「君は小さいなあ」とか、鶴丸さんはたくさん呟いてはなぜだか私の肩にぽつぽつと水滴を落とした。子どものように泣きじゃくる鶴丸さんの大きいけれど華奢な体を抱きしめ返したら、私まで涙が溢れた。

「体中がなんだかくすぐったくてどうしようもないんだ。君のことで頭がいっぱいなのに君のことを考えると胸のあたりが痛い。この感情はなんなんだ、なんと言えばいいんだ、君が教えてくれないか」

 笑って泣いて、また笑って。人間みたい。真っ白な雪みたいに何も知らない、とてもきれいな心。目が眩むほどに美しいそれは恐らくゆっくりと鶴丸さんの何もかもを包み込んでいくことになるんだろう。まだ冷たい体を温めるようにもっとぎゅうっと抱きしめたら、鶴丸さんもぎゅうっと温もりを求めるように強く抱きしめてくれる。どんなにくっついても一緒にはなれない。どんなに人間のようでも鶴丸さんは人間ではない。それでも、そうだとしても。今だけは私たちはおなじものになれたような気がした。

「あなたのことが好きです。愛しています。お慕いしています。どんな言葉にしても、表しきれないんです。どうしましょうか」

 鶴丸さんは少し顔を上げ、腕は私に回したままほんの少し涙を拭いたらしい。笑いながら「君が分からないんじゃあどうしようもないなあ」とおかしそうに呟くと、静かに腕を解く。私の両肩を掴んだままじっと瞳を覗き込むように見つめ、しばらくお互いの呼吸の音だけを聴いた。そうして時間が経っていく。ゆっくり、ゆっくりと。舞い続ける花びらが二人を包み込んでは消えていく。それを繰り返しているだけでよかった。言葉なんていらなかったのだ。どうせ見えないものなのだから。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 雪が解け、穏やかな暖かさに包まれる春が訪れる。本丸の庭に植えてある桜が咲き、色とりどりの昆虫や鳥たちがどこからともなく庭に遊びに来るようになった。短刀たちが楽しそうに外で遊んでいる姿はやっぱり見ていて嬉しくなる。今年の冬は厳しいものだったからあまり外に出られなくて寂しそうだったから余計に。短刀以上に嫌そうにしていたの歌仙さんは暖かくなってきた途端に本丸の掃除を始めたくらい元気になった。夏は苦手だという子が多いけど、春はみんな好きらしく外に出てのんびりする子がかなり増えた気がする。

「私も短刀ちゃんたちに混ざろうかな〜」
「やめておきなさい。あなたさっき転んで鶴丸に怒られたばかりでしょう」
「えー」

 宗三さんがため息をつきながら私の隣に腰を下ろす。今日は鶴丸さんが「久しぶりに遠征に行きたい!」と突然言い出したので、臨時に近侍をお願いしている。鶴丸さんがさっき出て行ったばかりなので宗三さんの近侍歴はまだ数分だ。最初は山姥切にしようかとも思ったのだけど、山姥切は「せっかくだから他のやつにやらせてやれ」と断ってきた。ちょっとショックだったけど山姥切の言う通りいろんな子にいろんなことをやらせてみたい気持ちはあったので、その場にいた宗三さんを指名したという流れだ。とてつもなく嫌そうな顔はされたけど、なんだかんだこうやって傍にいてくれるので憎めない。

「鶴丸と祝言を挙げるんですか」
「はい?!」
「恋仲なのでしょう」
「……な、なんで、そう、思うんですか」
「見ていれば分かります」

 宗三さんの言う通り、鶴丸さんと私は恋仲というものになった。あえてみんなに言うことでもないので言っていないけれど。宗三さん曰く「みんな知ってますよ」とのことだったので、二人とも顔に出ていたのかもしれない。

「……その、やっぱり、良くないことだと、思いますか」
「はあ? あなた何言ってるんですか」
「だ、だって」
「良くないことならとっくの昔にあなたか鶴丸を斬ってますよ」
「恐ろしいこと言いますね……」
「それにあなた、鶴丸と恋仲になってから明るくなりましたからね。小夜が喜んでいるので僕は構いません」

 宗三さんがそう鼻で笑う。どうでもいいです、とでも言いたげに。不思議とそれが嬉しくて笑っていると「気味悪いですね」と顔を顰められてしまった。そんな宗三さんの元に小夜くんが寄ってきて、ごく自然に隣に腰を下ろす。宗三さんは私などいないかのように小夜くんと話し始めてしまうが、それでいいから見守るだけに留める。仲の良い兄弟だ。早く一番上のお兄さんも見つけてあげたいな。宗三さんは冷たい人だけれどとても優しい人だ。一番上のお兄さんが来なくてきっと心の奥で自分も寂しいだろうに、それを一切におわせない。小夜くんが会いたがっているからといって急かしては来るけれど。小夜くんは私にプレッシャーをかけてはいけないと思っているのか言ってこないので、きっと宗三さんが代わりに発破をかけてくるのだろう。憎まれ役を自ら買って出るところがなんだかとても宗三さんらしい。

「ああ、ところで」
「はい?」
「鶴丸は何の遠征に?」
「甲州勝沼です」
「……もう帰って来るじゃないですか。僕が臨時をする意味ありますか?」
「わ、私に言われても……鶴丸さんが短めのやつに一人で行かせてくれって……」

 その少しの時間でも心配だから誰かを近侍につけるように言ったのも鶴丸さんだ。宗三さんがため息をついて呆れている横で小夜くんが何か少し考え事をしている。しばらくして「たぶん道中に、」と言いかけたその口を宗三さんが手でふさいだ。

「あなたは執務室に戻って仕事でもしていなさい」
「じゃあ近侍も一緒に、」
「僕は鶴丸ではないのでべったりはしません」

 シッシッとまるで虫でも払うようにされる。相変わらずの対応にちょっと苦笑いをもらしつつ、短刀の子たちが「主様、おいかけっこしましょう!」と誘ってくれるが名残惜しい気持ちで執務室へ戻ることにする。今週中に提出する予定の書類がいくつかたまっているのだ。審神者としての業務報告や異常現象などの報告、出陣報告はもちろんのこと、最近では政府の査定が厳しくなっていて遠征や演練の報告も求められるようになった。毎月一度他の本丸へ視察に行くのだけど、その報告書もまだ提出していなかったのでそれもだ。山積みになった報告書のことを考えてげんなりしつつ執務室へ入る。
 机の前に座って筆を手に取ったはいいのだけど、あまりにも部屋が寒くて体が震える。春とはいえまだ部屋によってはこんなにも寒いのか。そうちょっと驚きつつ、いつも通り石油ストーブをつけることにする。大広間や私の自室には文明の利器であるエアコンがつけられているのだけど、なぜかこの執務室にはついていない。本部に要望書を出せばつけてもらえるとのことだったがそれを書くのが面倒なので放ったらかしにしている。この部屋での暖房器具として唯一の石油ストーブ。これは蔵にあったのでそれを引っ張り出してきたものだ。このぼんやりとした暖かさが好きで気に入ってはいるのだけど、冬を越すのはなかなか大変だった。そろそろ要望書を出そうかと考えていたところだった。ついでに書こうか、と考えていたとき。突然目の前が真っ赤になった。というよりは顔を赤い何かで覆われたというか。

「驚いたかい?」
「鶴丸さん?」

 赤い何かを手でどけて顔を上げると、鶴丸さんが私を覗き込むように立っていた。手でどけたのは赤いマフラーだろうか。鶴丸さんは私の手からそれをしゅるっと取り上げると、「土産だ」と言って首に巻いた。もう春なのに。少し笑って「ありがとうございます」とお礼を言うと鶴丸さんは満足そうに笑って隣に座った。もう宗三さんと近侍を交代してきたらしく、ぶつぶつと「宗三に文句を言われた」と言う。

「ところでどうしてマフラーを?」
「ん? ああ、いや、なんでもよかったんだが君には赤色が似合うと思ったんだ」

 立ち寄った店にある鶴丸さんの思う赤色のものがマフラーだったのだという。いや、マフラーにしては少し薄手で軽いからストールと言った方がいいだろうか。鶴丸さんはマフラーだと思っているらしいので今はマフラーということにしておこう。私のために選んでくれたと思ったら嬉しくてくすくすと笑いがもれていく。
 私が書類を作る横で鶴丸さんは静かに座って私のことを見ていたり、部屋から出て行ったかと思えばお茶を持ってきてくれたり。みんなの前ではとても騒がしくする人なのにこうして二人でいると案外静かで大人しい人なのだと最初は驚いた。今は少し慣れてきたけれど。私の仕事を邪魔しないようにというのももちろんあると思うけど、本来は騒がしい子どものような人ではなくて静かな大人なのかもしれない。まだまだ鶴丸さんのことを知らないのだと思うとこの先が少し楽しみになる。そんなことを考えているとは知らず鶴丸さんは不思議そうな顔をしていた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「君とずっと居られればいいのになあ」

 ある日、鶴丸さんがぽつりとそんなことを呟いた。あまりにも突然だったので言葉を失っていると、鶴丸さんははっとして「いや、神隠しをするつもりはないぞ?」と焦った様子で弁解しはじめる。何も責めていないのに。鶴丸さんは一通り弁解を言い尽くしたようで押し黙ってからなぜだか笑った。

「毎日ほとんど一緒にいるじゃないですか」
「……そういう意味ではないんだが」
「どういう意味ですか?」

 鶴丸さんは困ったように頬を少し掻いてから視線を逸らす。鶴丸さんの瞳には恐らく土砂降りの雨が降っている庭が映っているだろう。梅雨入りをしたばかりのこの辺りはこの頃ずっと空気が重い。湿気でじめじめするし、髪がまとまらないと嘆く人も多い。除湿器でも買おうかと考えていたけど山姥切に無駄遣いをするなと怒られたっけ。
 そんなどうでもいいことを考えていた私の方をいつの間にか鶴丸さんが向きなおっていた。鶴丸さんはへらりと笑っていた。

「君とずっと、永遠に一緒にいられたらいいのにと思っただけだ」

 その言葉はとても甘美な響きに聞こえるけれど、とんでもない切なさを忍ばせていた。突然思い出した。私は人間で、鶴丸さんは人間じゃない。どうやったって同じにはなれない。よほどのことがない限り先に死ぬのは絶対に私。私は鶴丸さんを置いて死んでいく。きっと鶴丸さんはそのことを言っているのだろう。解決のしようがないことだ。運命、と言ってしまえばそれまでで途方もないほどどうしようもないことなのだ。寿命というものが明確にない鶴丸さんは刀剣破壊、もしくは本霊が消滅しない限り刀として存在し続ける。本丸という特殊な空間でなければもともと出会えない者同士なのだ。出会えたことが恐らく最大の奇跡だったのだ。どうやったって私は神様にはなれないし、鶴丸さんは人間になれない。祝言を挙げることはできても本当の、現実世界での結婚はできないし夫婦にも家族にもなれない。そんな、幻のような関係なのだ。
 いつかは終わってしまう。けれど、私の寿命が尽きるまではまだ何年もある。それまでにたくさん二人で一緒にいればいいじゃないですか。そう、明るく言ったのに。鶴丸さんはとても複雑そうな、悲しそうな顔をして「そうだな」と言うだけだった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あなた馬鹿ですね」
「え、ええ……」

 そのことを内緒で宗三さんに相談したら、そうばっさり言われてしまった。あんまりにもきれいにばっさり言われたので少し落ち込みつつ俯くと、宗三さんの盛大なため息が降ってきた。相変わらずの塩対応っぷりに清々しさすら覚えてしまう。
 宗三さんは今日食事係だったので台所でひたすら野菜を切っているところを突撃したのだけど、ちゃんと話は聞いてくれている。一緒に係をしている歌仙さんと小夜くんがこっそり聞き耳を立てているのはあえて気付かないふりをしておく。宗三さんは追加で二、三ため息をまたついてから「あなたは」と口を開く。

「僕たちと人間の時間が同じだと思っているんですか」
「違うとは理解していますよ……」
「あなたが死んだあと、鶴丸がどれくらい時間を過ごすと思っているんですか」
「宗三、あまり縁起でもないことは言わないでくれ」
「歌仙、なんだかんだしっかりと聞いていたんですね」

 歌仙さんの苦言を軽く流してから宗三さんは話を続ける。

「あなたにとっては一生という長い時間でしょうけど、僕たちにとっては米粒一つにも満たない時間です。あなたと過ごした時間の何倍、何十倍、それ以上の途方もないほどに長い時間を鶴丸は一人で過ごしていくんですよ」

 刀剣男士とは曖昧な存在でもあり、本霊がどうのこうの分霊がどうのこうのとややこしい存在でもある。宗三さん曰く前の本丸に顕現していたときの記憶を持っている人とそうでない人、審神者の記憶はないが生活していた記憶はある人、いろいろなケースがあるらしい。宗三さんは今までの本丸の記憶がすべて残っているし、小夜くんは今までの記憶がない。でも、たとえ記憶がなくても心の奥底、脳の奥底に何かしらは必ず残るらしい。記憶がない小夜くんも何か引っかかるものが残っていてたまに無性に寂しくなることがあると言った。
 宗三さんにはっきりと言われて、はじめてちゃんと分かった。きゅうっと手を握りしめる。無性に鶴丸さんに会いたくなったけど、この気持ちをなんと表現したらいいか分からない。唇を噛んでいろいろぐちゃぐちゃ考えてしまう。そんな私の頭を宗三さんが軽く叩いた。頭をさすりながら顔を上げると、「あなたいくつでしたっけ」と訊かれる。十八だと伝えれば宗三さんは鼻で笑って「赤ん坊みたいなものですね」と言った。

「難しいことは考えなくていいんですよ。刀の僕が言うのも変ですが、今を生きればいいんです。あなたも鶴丸も」

 宗三さんは今まで見たことがないくらい優しい顔をした。小夜くんがそれを見てぼそりと「宗三もね」と呟くと、もっと優しい顔をして「お小夜もですよ」と笑う。宗三さんは以前に言ってくれたことがあった。「割とここが気に入っています」と。顕現したばかりはなんだかたくさん文句を言っていたけれど、ここ最近はそこまで言わないしどこか本丸での生活を楽しんでいるように思えた。人間として容を得たこと、何より小夜くんという兄弟を得たこと。宗三さんにとってそれはとてつもない幸福だったのかもしれない。

「僕たちとあなたが過ごしていく時間の長さは違いますが、今過ごしている時間はたしかに同じなのですから」
「……はい」
「せいぜい長生きすることですね」
「はい」
「相談に乗りましたからこれ切るの手伝っていってください」
「宗三さん」
「なんですか」
「必ず、お兄さん顕現しますね」
「なんですか急に気色悪い……黙って人参切ってください」

 優しく笑った宗三さんは珍しく優しくて、あまり料理が得意ではない私に嫌味を言わなかった。歪な形に切った人参をボウルに入れていく。ちゃんと料理できるようにしておけばよかった、と呟いたら歌仙さんがすぐに「じゃあ今度から君も料理係にいれようか」と言い出す。それもいいかもしれない。できないよりできた方がいい。上手になったら鶴丸さんの好きなものを作ってあげよう。そう思ったら、時間が経つことも愛しく思えた。
 切った人参は宗三さんが切ったジャガイモや玉ねぎと一緒にカレーになるようだ。光忠さんと大倶利伽羅さんがいろいろ研究して様々な種類のスパイスを調合してできたカレー粉が準備されている。「究極のカレーができた!」と興奮していた光忠さんの表情は記憶に新しい。大倶利伽羅さんは普段は物静かで一人が好きなようだったけどそのときばかりは少し嬉しそうというか誇らしげな顔をしていたっけ。歌仙さんが手慣れた様子で野菜や肉を軽く炒めているのを小夜くんと見ていると、宗三さんがため息をつく。「あなたは仕事に戻りなさい」と言われてはっとする。私の本丸は今、最近見つかった新しい刀剣男士の捜索班に入れられている。その報告書を出さなければいけないのだ。手を洗ってから台所を出ようとしたとき、ちょうど鶴丸さんが迎えに来た。

「今日はカレーか!」
「あなたの皿には歪な人参を山盛り入れておきます」
「え? なんでだ?」
「その子、料理できないんですよ。人参もろくに切れなくて呆れていたところです」
「ちょっと宗三さん! さっきまで優しかったじゃないですか! それに料理はいつかできるようになるんです!」
「はいはい。いつか鶴丸に作ってあげなさい」

 またいつかと同じようにシッシッと虫を払うように追い出される。鶴丸さんはにんまりと笑って「君、料理できないのか」と私の顔を覗き込む。あんまりにも面白がっているように見えたからムッとしてしまう。鶴丸さんの頭をばしっと叩いてやったら「歪な人参が楽しみだ」となお笑い続ける。こういうとき鶴丸さんは意地悪だ。鶴丸さんのことは放っておいて廊下を進んでいくと「まあまあ怒るなよ」とようやく鶴丸さんがいつも通りの顔に戻った。「いつか食わせてくれるんだろう?」と鶴丸さんは笑うけれど、もう絶対ものすごく上手くなるまで作ってやるもんか。もう一発鶴丸さんの頭を叩いてやると、ようやく「悪かった、俺が悪かった」と焦り始めた。
 結局夕飯まで事務的なことしか口を利いてやらなかった。それもそのあと鶴丸さんが自分のお皿を見たときに笑ってしまい、結局それ以降は一言も口を利いてやらないまま、鶴丸さんは枕を抱えて泣きながら寝ていた。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 ――幾度となく季節を通り過ぎ、もう何度目か分からない冬。
 あまりの寒さに目が覚めてしまった。まだ暗い早朝。ほんの少しだけ襖を開けると庭が真っ白に染まっていた。庭に降りたら恐らく膝下くらいまでは雪に埋もれてしまうだろう。この年の冬の雪の凄まじさに少し懐かしい気持ちになる。あれはもう何年前のことだっただろうか。雪と同じくらい白くて、どこか儚くて、なんだか美しかった。そんな光景を思い出しつつ笑ってしまう。指がじんじんするのが面白いとかなんとかいって、体が冷え切るまで雪に佇んでいたっけ。思い出し笑いが止まらなくなって思わず笑い声がもれたときだった。背後からぬっと手が伸びてきて引っ張られたかと思ったら抱き留められた。

「寒いだろ……体が冷えるぞ……」
「おはようございます、鶴丸さん」

 鶴丸さんは眠たそうに目をこすって「おはよう」とまだ寝ぼけた声で言う。私を抱き留めたまま襖を閉めようとするが、それを止める。庭を指さして「鶴丸さん、雪ですよ」と言うと鶴丸さんはぼんやりと顔を上げた。ぼけっとしばらく眺めてから鶴丸さんは横顔だけでも分かるくらいへにゃりと口元を緩ませて、「懐かしいなあ」と呟く。私の肩に顎を乗せてふにゃふにゃと寝ぼけた声のままで「あのときの君の必死さはいつ思い出しても面白い」とかなんとか言う。それに反論しようと思ったら、鶴丸さんはぎゅうっと腕の力を強めた。

「君は温かいなあ」

 まるでなにかを羨むような声色だった。子どもがほしいおもちゃをねだるような。とても冷たい指が私の肌に混ざり合おうとしてもがいているようにも思えた。
 私と鶴丸さんは、同じになれない。鶴丸さんと出会ったころからずいぶん伸びた髪。顔のしわが少しずつ気になる年齢になってしまった。穏やかで豊かな日々を送っている。けれど、着実に、終わりに向かっている。いつか私の時間は鶴丸さんの時間の中で途切れて、もう二度と続かない。鶴丸さんはそれを通り過ぎるしかできない。だって同じじゃないから。でも今を楽しまなくちゃ。鶴丸さんが寂しい思いをしないほどに、楽しい時間を二人で作りたいんだ。私の一生をかけて、鶴丸さんの一生を埋めたいんだ。鶴丸さんは簡単に言えば神様だから、ただの人間の私が到底どうにもしてあげられないのだけど。到底無理だとは分かっているのだけど、だとしてもなんとか埋めたいんだ。どうしても。どんな形でも。この冷たい手を一人残して逝ってしまうのが、とても、とても、私は。

「鶴丸さん、お腹空いてませんか?」
「ん? 朝餉はまだだぞ」
「内緒で食べちゃいませんか」

 不思議そうな顔をする鶴丸さんの腕から抜き出て、物入れになっている襖に向かう。開けて奥の方に手を伸ばせば、火鉢がすぐに見つかる。それを部屋に出したら鶴丸さんは何もかも分かったらしくにやりと笑って「俺はあれを持ってくる」と言って部屋を出て行った。
 火がついたそれを見つめていると鶴丸さんが静かに帰ってくる。手には網と白いもの、しょうゆ、のり、お皿と箸。私の考えていたことを正確に理解している。ふふ、と笑ってしまうと鶴丸さんがしーっと指を立てた。もう起きている人が何人かいるらしい。私の部屋の近くには鶴丸さん以外あまり来ないので見つかることはないだろうけれど。道場が近いので朝稽古組に声を聞かれると見つかるかもしれない。私も鶴丸さんも静かに笑いながら火鉢を縁側に置く。寒いけど、鶴丸さんがそこでやりたいと指をさしたので仕方ない。
 空からひらひらと綿雪が降っている。懐かしい景色よりも深く積もった真っ白な雪を見つめて、鶴丸さんは「懐かしいなあ」とまた呟いた。真っ白な世界は寒くて冷たくて、とても寂し気にも見えた。けれど、温かくて優しい何かが潜んでいるようにも見える。それを探すようにじっと見つめていると横から鶴丸さんが私の顔を覗き込んできた。「まだか」と笑う顔はとても人間らしくて、どうしようもなく幸せだった。
 ゆっくりと太陽が大地を照らし始める。雪片がきらきらとその光を反射して輝く光景をぼんやり眺め、遠くから聞こえるほんの少しの風の声を聞く。恐ろしいほどに静かな一日の幕開け。今日も鶴丸さんや本丸のみんなと過ごす一日がはじまる。みんなが通り過ぎていく中にこっそりある、たった数十年の中の、たった一日。ふと頬に冷たい体温が伝わってきた。鶴丸さんの手が私の頬を包み込んでいる。じわじわと冷たいその手が私の体温と混ざろうとしているのがよく分かる。いつか混じり合って同じになれたらいいのに。真っ白な世界に佇む鶴丸さんを思い浮かべて目を閉じれば、怖いくらいの愛しさに目が眩みそうになった。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







「なあ、君はこんな話を知っているかい」

 幾度目かの冬。穏やかに、静かに降る牡丹雪を見上げて君は笑う。薄っすらと、まるで、何かに満足したように。けれど不思議なのは顔は満足しているのに、君の手はとても不満足そうなんだ。俺の手を握る手。はじめて握ったときよりずいぶん弱弱しくなった。温かかった体温は少しずつ冷たくなっていき、今では俺と変わらないくらいになってしまった。人間というものは、どうしてこうも、早く。頭の中で言いかけた言葉を飲み込む。彼女は俺に人生のすべてをくれた。もうそれだけで十分じゃないか。健康で、いつも笑って、ずっと隣にいてくれた。君が生きた数十年間をすべて、俺にくれた。それだけで十分だと、喉の奥で何度も呟いては粉々に砕ける。

「強い愛情や強い憎しみの想いを強く持ったまま死ぬと、別の時代に生まれ変われるんだそうだ」

 転生輪廻。刀の付喪神として生きている俺にそんなものがあるかは分からないけれど。その考え方はとても魅力的でたまらない。少しずつ力を失っていく君の手を握っているだけで、もう、しまい込もうと思っていた想いが溢れそうになる。嫌だ。そう言いそうになる口をぐっと堪えてへらりと笑ってみせる。君の好きな顔だ。最期はこれで見送ってやりたいんだ。

「もし」

 笑っているのに。なんとか堪えて笑っているのに、どうしてだろうな。ぽたぽたと俺の頬を伝って、君の寝ている布団にしみを作っていく。どうして俺は泣いているんだろうか。こんなにも大事にされて、こんなにも愛されて、こんなにもいろんなものをもらったのに。まだ俺は、君から、何かをもらおうとしているんだ。欲張りだと咎めてくれ。君が、俺を、欲張りだと笑って怒ってほしいのに。

「また俺と出会ったら」

 ぎゅうっと手を握る。俺の方が温かくなってしまった。小さな小さな君の手。消えてしまいそうなほど冷たくて、もう二度と動かないそれをほどけないまま。
 君に出会ったあの雪の白さと、今日見る雪の白さが違うんだ。君には分かるだろうか。君に出会ったあの雪の白さはとんでもなく色鮮やかでものすごく温かかったんだ。色とはこんなにも感情に左右されるものなのだと君が教えてくれたんだ。君でなければもう、あの白は出せないんだろう。俺が一番好きな色はもう二度とこの世に現れない。何度冬を迎えても、何度雪が降っても。もう二度と、あの日の雪は降らないのだ。

「そのときは、君の人生を、また、俺にくれと言ったら、驚くかい?」

 廊下で待っていた山姥切が顔を出して、とても苦しそうな声で俺の名を呼んだ。もう時間だ、と言葉が続く。顔を上げて涙をすべて注ぎ落し、一つ息を吐く。君の手を離すのがつらくてたまらなくて。離したあとの俺の手はとんでもなく温かくて。君が最後に、まるで、自分の体温を俺に、分けてくれたみたいで。唇を噛みしめて立ち上がる。刀を鞘から抜く。目を瞑れば今も君の笑顔がすぐに思い出せる。大丈夫。忘れない。俺は絶対君のことを忘れない。いつか君を探し当てるその日まで。毎夜夢に見るほど、君を忘れないだろう。もしもどこかでまた会えたならばそのときは俺の人生をすべて君に捧げよう。君が俺にそうしてくれたように。
 振り下ろした刀はあっけなく、愛しい君の心の臓に突き刺さった。静かで、寒くて、冷たくて、色のない雪の降る。そんな日のことだった。


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