衝撃だった。新曲のCDをもう十回は聴いて、歌詞カードを何度も読み返したところだった。ひらりがSNSで発言した通知があったから覗きに行ったら「新曲聴いてくれたかな?」と呟いた、そのわずか数秒後。「これまで三年間、応援してくださった皆さま、ありがとうございました。桜野ひらりはこの曲をもって引退します」と、直筆のメッセージが投稿された。引退理由は結婚だった。そのことをひらりは「とてもとても大切な人ができました。この人と一生を大切に生きていきたいと思いました」と綴っていた。新曲のタイトルは「花」。ジャケットでひらりはいろんな花に囲まれて笑っていた。
 ひらりの引退メッセージに、リプライがついている。それを見てみたら「CD発売してから発表とかずるいだろ」とか「結局ファンを金としか見てなかったクソアイドル」とか、そういうことばかり書かれていた。それを全部読んでいって、言ってやるのだ。そう言うお前らはひらりのことを性的対象や恋愛対象としてしか見てなかったくせに。ひらりがたとえお前たちをそういうふうに見ていたとしても、お前たちだって同じじゃないか。そう、悔しかった。
 ひらりが大切な人を見つけて幸せになることは、素直に嬉しい。歌詞が書けずに泣いて眠れなかったと言っていたから。振りが覚えられずに怒られて落ち込んでいると言っていたから。どんなにひらりが好きでも、わたしはそれを支えられないのだ。だから、そんなひらりに大切な人ができたことは、嬉しい。でも、なんで、結婚したら、引退しちゃうの。
 わたしは桜野ひらりの歌が好きだ。踊りが好きだ。アイドルとしての在り方が好きだ。だから、結婚していようがしていまいが、そんなことは関係ない。結婚しても歌ってよ。踊ってよ。わたしの光でいてよ。そんな思いがどっと流れ出て、止めどなく落ちていく。
――今も覚えているわ、貴方の笑顔。貴方の言葉。ずっと私の中にあるメロディー。
 今でも忘れない。はじめてひらりの曲を聴いた三年前のことを。わたしは変わっているんじゃなくて、わたしだけのものを持っているのだと思わせてくれた。それは変なことじゃないと思わせてくれた。わたしを救ってくれた。わたしの中にもずっと、桜野ひらりの笑顔も、歌も、何もかもが残り続けていく。だけど、桜野ひらりだけがいなくなる。それがどうしようもなくつらかった。
――私はいつでもここにいる。ここにいてもいいのだと貴方が教えてくれたの。だから貴方のために歌いたい。どうかいつまでも笑っていてね。
 ぼろぼろと涙が止まらなかった。最後までひらりはわたしを肯定してくれる。わたしなんかの応援でも、ひらりがそう思ってくれる一つだったんじゃないかって、思わせてくれる。やっぱり大好きだよ、桜野ひらりというアイドルが。
 桜野ひらりの引退ライブ。集まったのは三年前と変わりない数十人のファンだけ。小さな小さなステージで、ひらりは、これでもかというほど大輪の花を咲かせた。どんなに小さなステージでも、ひらりが笑うだけでわたしにとっては武道館よりも東京ドームよりも、輝くステージになる。ねえ、ひらり、いなくならないでよ。ずっとずっとここにいてよ。そう願うけれど時間は止まってくれない。わたしがひらりを好きになるきっかけの「桜の花がひらり」のイントロが聞こえてくる。それでもう終わりが近いのだと分かってしまった。
――ねえ、貴方は今どこを見て何を思うの。それは絶対無駄じゃない。だから貴方だけのフレーズを聴かせてよ。
 そのフレーズのとき、ひらりがわたしを見た気がした。ファン脳にも程がある。ひらりはウィンクをして大きく手を振ってくれた。もう三年行けるときはずっとライブに来ている。何度も握手をした。はじめてのイベントのときにも「女の子だ」とわたしを見て言ってくれた。覚えてくれているのかもしれない。けれど、そうだとしても、桜野ひらりは引退してしまう。わたしの中に、音楽だけを残して。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 毎日がつまらない。毎日が味気ない。もうなんだか、何もやる気が出ないままだ。
 ひらりが引退して一週間が経った。今月末にアカウントが削除されるというSNSのスクショを撮り続けている。ひらりから返ってきたリプライも全部。ひらりがここにいたという証を残したくて足掻いている。でももう力尽きそう。わたしが何をしたってひらりはいなくなるんだ。音楽だけを残して。そう思うと授業が頭に入ってこないし、何をしても何も感じない。
 夏期講習なんて受けたくないけど、受験生だから仕方ない。どうせ家にいたって何もしないんだから、と母親に無理やり夏期講習に参加するように仕向けられた。うんざりしながら学校で授業を受けて、お昼過ぎに解散。流れる汗を制服の裾で拭きながら歩いている。
 こんな暑い日にとっておきの歌がある。桜野ひらりのアルバム収録曲「太陽の歌」。夏の暑さに俯いてばかりいないで空を見よう、という明るい歌だ。夏になるといつも聴いている。暑い暑いとうんざりしていた夏が、この曲のおかげで少しだけ好きになった。太陽の光が降り注ぐこの街で、いつか出会えるかもね。歌詞のそのフレーズがとても好きだ。
 家に帰るとどうしても俯いてしまう。そう思って夏期講習が終わってからは昇降口を出て左に曲がった。右に曲がると正門に行くのだけどその反対方向だ。体育館やグラウンドがある方向で、座れるところがたくさんあるのだ。確か体育館の近くにベンチがあったはず。そう思い出して歩いていく。普段学校内をふらふらしないから思い違いかもしれないけれど。
 開けっぱなしになっている体育館のドアの前を通過しようとしたときだった。「ギャー!」ととんでもない声が聞こえて思わず体育館の中を見てしまった。驚いて固まったわたしに向かって何かが飛んでくる。余計に体が固まっていると、思いっきり顔面に何かがぶつかった。

「アッ、マジかよ! 大丈夫か?!」

 この声、聞き覚えが。じんじん痛い左頬と鼻を押さえつつ、足下に落ちた何かに目を向ける。ボールだ。何のボールだっけ。バスケじゃなくて、バレーボール、か。ここバレー部が使ってる体育館なんだ。知らなかった。仕方なくボールを拾い上げて顔を上げたら、駆け寄ってくる夜久の姿が見えた。さっきの声、夜久の声だったんだ。道理で聞き覚えがあるはずだ。
 わたしの前まで駆け寄ってくると、ボールを受け取りつつ顔を覗き込んでくる。「ごめん、大丈夫か? どこに当たった?」と聞いてくるので左頬と鼻だと答えておく。別に鼻血が出たわけでもないし、問題ない。そんなふうに言うのだけど夜久は「後から出てくることもあるから」と言って、わたしの腕を掴んだ。え、何。思わず言葉を飲み込んでしまった。夜久はそんなわたしに気付かないまま引っ張って歩いて行く。「あ」と思い出したような声を上げてから「黒尾! リエーフシメとけ!」と体育館のほうに叫ぶと「オッケ〜」とのんきな返事が聞こえた。そのあと「ひどいッスよ!」と別の人の声が聞こえたけど、夜久はわたしを引っ張って歩いて行く。
 夜久がわたしの腕を離したのは、外にある水道の近くのベンチだった。わたしが行こうとしていたところだ。わたしのことを座らせると自分のタオルを手に水道に向かった。それを躊躇なく濡らして、ぎゅっと絞る。戻ってくると何も言わずにわたしの左頬にそれを当ててきた。一言くらいかけてほしい。まあ、別にいいけど。「どうも」と一応お礼を言ったら夜久は「いや、ごめんな。あんなきれいに当たると思わなかった」と言われた。あれくらい避けられるってことですか。どんくさくてすみませんね。

何してたんだ? もしかして夏期講習?」
「まあ……そういう感じ」

 夜久はそれに「うわ〜俺マジで無理だわ」と苦笑いをこぼした。わたしからしたらこんな暑い中スポーツするほうがマジで無理。口には出さなかったけど、心からそう思った。
 太陽の光で夜久の瞳がきらきらしている。それを見て素直に、きれいだなってぼんやり思う。人の瞳をこんなにちゃんと見たのは久しぶりだ。まん丸な大きな目。羨ましい。わたしもそんな瞳になりたかったな。そんなふうに思っていると、夜久が「え、何?」と少し照れくさそうに目をそらした。あ、やばい。生身の人間なんだった。画面や雑誌はいくら見つめても変に思われないけど、生身の人間はそうもいかない。観察したくてもできないんだから困るな。ぼんやり思いつつ「別に」とだけ返しておいた。
 立ち去ればいいのに夜久はわたしの隣に腰を下ろした。何がしたいのかよく分からなかったけど、はた、と思い至る。ああ、タオルか。返してもらわないと困るもんね。そう思ったから「別にいいから返すよ」と言ったけど、夜久は「いやまだ冷やしといたほうがいいって」と言うばかり。冷やすも何も、もうだいぶぬるくなってきてるんだけど。そう言うとまたタオルを濡らしに行ってくれそうだったから黙っておいた。なんか、やりにくいな。

「あ、そういえば大丈夫か?」
「……何が?」
「この前見てた子、引退しちゃったんだろ?」

 びっくりした。夜久がそのことを覚えていて気に留めていたこともそうだったし、メディアへの露出がほぼない桜野ひらりの引退を知っていて、それがわたしが見ていたアイドルだと分かったことに。SNSをフォローしているか、公式ホームページを見ているか、アイドルの情報を発信している何かしらを見ているか。そのどれかでないとひらりの引退は知らない、と思う。それなのになんで。わたしが驚いていることに気付いたらしい夜久が、なんでもないふうに言った。

が熱心に見てたからさ。どんなアイドルなのかなって思って調べたら引退って出てきてびっくりしたわ」

 その言葉にわたしがびっくりする。夜久が桜野ひらりをわざわざ調べたの? あんなちらっと見ただけで覚えてたの? 恐る恐る「よく、覚えてたね」と言ったら夜久は「PVっていうの? あれが特徴的だったからすぐ分かった」と言った。ひらりが一生懸命作った曲をイメージしたミュージックビデオ。わたしが大好きなもの。好きとかどうとかは置いておいて、アイドルなんて興味がないだろう夜久の意識に残るほどのものだったんだ。
 夜久は、そういう、自分が好きじゃないものを下に見たり笑ったりしないんだ。茶化して「引退して泣いた?」とかリプライを送ってくるアイドルアンチとかひらりを知らないアイドルオタクとは違う。知らないけど、馬鹿にしない。そっとしておいてくれる。そういうのは、とても、有難いなって思った。

「……全然、売れないアイドルだったけど、たくさんいい曲歌ってるよ」
「ライブとか行ってたのか?」
「うん。九割くらい行った」
「九割?! すげー愛だな?!」

 愛。夜久が何気なく言ったその言葉に、瞬きを忘れた。愛。そんな言葉で表現してくれるんだ。馬鹿にしてくる人が多いのに、愛なんて、ひらりが大事にしていた言葉で言ってくれた。
 アイドルに救われたとか、本気で言ってる? こそこそとそう言われたことがある。本気で言ってるよ。あなたにとってはくだらないものだったとしても、わたしにとっては本当に救いだったんだよ。それの何がいけないの。そう言いたかったけど言い返せなかった。悪意のある人にはひらりのことを語ってやるものか。一生ひらりを知らないまま生きていけばいいんだ。そう突っぱねた。わたしにとっては紛うことなき救いで光なのだから、他の人の意見なんてどうでもいい。そう思っていたのだけど、やっぱり、分かってもらえないことは悔しかった。

「うん、愛だったよ、全部」

 さすが夜久も引くな。絶対。ぼろぼろとこぼれた涙を隠すように俯く。愛だった。自分で言うのもなんだけど。売れないアイドルは露出が極端に少なくて情報を追うのも大変だった。お客の少ないライブ会場が寂しくないように大きな声で応援するのも大変だった。新しい曲が出るたびに歌詞を読み込んで、歌を聴き込んでファンレターを書くのも大変だった。SNSに悪口を書き込む人に負けないように応援メッセージを投稿するのも大変だった。全部、ひらりにやってと頼まれたわけじゃない。偏にわたしが桜野ひらりをどうにか応援したくて、どうにか笑っていてほしくてやっていたこと。そんなの、愛に決まってるじゃないか。こんなに好きで愛していたのに、なんで辞めちゃうの。そんな想いが痛いほど胸に刺さって取れない。ファンなんだからひらりの幸せを願わなきゃいけないのに。辞めないで、なんて言っちゃだめなのに。ファン失格だ。
 ずず、と鼻をすすって顔を上げる。涙は止まらないままだったけど、もうこれ以上醜態はさらしたくない。くるりと夜久のほうに顔を向けると、夜久がぽかんとしていた。やっぱり。引いてるじゃん。最悪なんだけど。でも、なんか、どうでも良かった。そう思ったら思わず笑ってしまった。

「引いたでしょ。アイドルが引退して号泣とか」
「いや、引いてはない、けど」
「けど何」
「……なんか、って人に興味なさそうだなって思ってたから、そんなにそこまで想われるアイドルってすげーな、と思ってる」

 夜久はそう言ってから大笑いして「後で曲聴いてみるわ」と言った。それ、最高の褒め言葉なんだけど。泣きながら笑うと夜久が「あとが笑ってるとこはじめて見たわ」と言った。そんな馬鹿な。三年間も笑わないなんてことないでしょ。反論したら「いやいや、見たことないってマジで」と言われてしまった。

「いいじゃん、笑顔のほうが。そのほうがアイドルの子も喜ぶって」

――私はいつでもここにいる。ここにいてもいいのだと貴方が教えてくれたの。だから貴方のために歌いたい。どうかいつまでも笑っていてね。
 ひらりの最後の曲「花」の歌詞を思い出した。どうか、いつまでも、笑っていてね。やっぱりあの曲はわたしのようなファンに向けたものだったんだ。ひらりはやっぱり、ファン想いで最高のアイドルだったんだ。誰がなんと言おうと、それに間違いはなかったのだ。それを証明するためにわたしは泣いていられない。そう思うのに、またぼろぼろと涙がこぼれた。


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▼title by アラスカ / material by NINA