桜野ひらりのSNSアカウントが削除された。もうきれいさっぱり残っていない。残っているのは、わたしがひらりに送った宛先不明のリプライだけ。どれだけ宛先のアカウント名をタップしてもたどり着けない。ひらりはもう、わたしの前から消えてしまった。それでも世界は変わらない。桜野ひらりというマイナーアイドルが消えてしまっただけで何一つ、狂うこともずれることもなく。そんな中でわたしだけが置いてけぼりみたいな気持ちになる。寂しくはなるけど、もう俯きはしない。わたしが笑っている限り、ひらりはここにいるのだから。気持ち悪いと思われてもいい。もう肯定してくれる人がいなくても、自分で自分を肯定できるようになったから。
 夏休み明けの体育の授業。まだ暑い九月の風を鬱陶しく思いつつ、ぼうっと男子がサッカーをしているところ見ている。夜久ってサッカーもできるんだな。バレー部でもレギュラーだと聞いた。実は結構すごい人なのでは。勉強はあんまり得意じゃないみたいだったけど。
 夜久が入っているチームが勝って男子のサッカーが終了。次は何をするんだか、と思っていると汗を拭っている夜久と目が合った。目が合ったからってどうということはない。そのままそらそうとしたら、夜久がぶんぶん手を振った。え、わたし? そんなふうに自分を指差して怪訝な顔を向けておく。夜久は遠くでブハッと一人で吹き出してお腹を抱えて笑った。近くにいた背が高い男子がそれを見て驚いていた。「え、何、やっくんついにおかしくなった?」とからかわれている声が聞こえてくる。その人の背中を思いっきり叩いてから、夜久が二三何か言って、またわたしをくるりと見た。え、何。困惑気味にちょっと縮こまっていると、夜久が男子の輪から離れてこっちに走ってくる。「〜」と声をかけつつ手を振ってくるものだから、どう反応していいのか分からなかった。
 わたしの目の前で足を止めた夜久が「何してんの?」と言った。いや、どう見ても何もしてないでしょ。思わずそう返すと「なんかやんねーの? 女子あっちでテニスしてたぞ」と特別に解放されているテニスコートのほうを指差す。わたしが混ざると思う? そんなふうになぜか得意げに笑ったら、「いや、自慢するとこじゃねーだろ」と笑ってくれた。

「あ、そういえば。曲聴いた」
「どれ?」
「あの〜……なんだっけ、星がきれいなやつ」
「マニアックなとこいったね。『貴方がくれた星』でしょ」
「お前本当すげーな」

 なんで隣に座る? 他の男子たち、またサッカーはじめるみたいだけど。そう思ったけど言わなかった。
 夜久は好きでもないだろうに桜野ひらりのことを話した。大体頭に「よく分からないけど」とはついていたが、それでも茶化すわけでもなく馬鹿にするわけでもなく、単純な興味でひらりの話をしてくれている。それが嬉しくて、ついいろいろ話してしまう。きっと分からないことも分かりづらいこともあっただろうに、夜久は最後まで話を聞いてくれた。
 夜久がふと「はなんて曲が一番好きなんだ?」と聞いてきた。言っても分からないでしょ。そう言ったけど「いや、分かるかも」と言うから「桜の花がひらり」だと答える。やっぱり夜久は首を傾げて「どんな曲だっけ?」と聞いてきた。言わんこっちゃない。付き合ってくれるのは嬉しいけど無理しなくていいのに。そう思いつつ、スマホがないからどんな曲か言葉で伝えようとするけどうまく伝わらない。手っ取り早いのでワンフレーズ口ずさんでみた。一番好きなフレーズのところ。
――ねえ、貴方は今どこを見て何を思うの。それは絶対無駄じゃない。だから貴方だけのフレーズを聴かせてよ。
 って、曲ですけど。そんなふうに夜久の顔を見たらまん丸な目が太陽の光にきらりと光った。それからちょっと驚いたような顔をして、「、歌上手いな」と言った。

「いや、上手くないから」
「上手かったよ。上手かったっていうか、何? 声がきれいだからか?」
「きれいじゃないから。茶化すならあっち行って」
「褒めてんだろうが!」

 素直に受け取れよ、と夜久がけらけら笑った。調子が狂う。なにそれ、歌上手くないし。声も良くないし。別に普通でしょ。何をそんな大袈裟に。そんなふうに照れてしまう。
 声がきれい、って、夜久のことでしょ。こっそりそう思う。別に声の良し悪しが分かるわけじゃないけど、夜久の声はとても聞きやすくてきれいだと思う。透明感があって、突き抜ける空みたい。言葉も全部まっすぐで嘘がないって顔を見なくても分かる。そんな声をしていて、とても、きれいだと思う。でも、男の人に声がきれいだって褒めるの、変かも。それにわたしに言われても別に嬉しくないだろうし、むしろ気持ち悪いって思われたら嫌だな。そんなふうに思った。夜久の瞳がきらきら光るのも、まっすぐ透き通った声も、とてもきれいだけど。
――ねえ、貴方は今どこを見て何を思うの。それは絶対無駄じゃない。だから貴方だけのフレーズを聴かせてよ。
 ひらりの曲。わたしの背中を押してくれたフレーズ。そっか、わたしが夜久の瞳を見てきれいだと思うのも、声を聞いてきれいだと思うのも、変じゃない、のか。わたしがそう思ったんだからそれでいいのか。夜久に嘘でも声を褒められて嬉しかった。それなら、夜久も、嫌じゃないかな。

「わたしは」
「おう?」
「……夜久の声のほうが、きれい、だと思う。透き通っているというか、なんというか」

 伝え方が下手だな。そんなふうに落ち込む。ひらりのようにきれいなフレーズは紡げない。慣れないことはするもんじゃないな。そんなふうに小さく息を吐いてから、どうさっきの発言を誤魔化そうか考えつつ顔を上げる。
 夜久と目が合った。なんだか、頬が薄い赤色に染まっていた。それからすぐに視線をそらして「きれいじゃねーよ」と言われてしまった。いや、きれいだよ。言い返しても夜久はそっぽを向いたまま「きれいじゃないって」としか言わない。やっぱり嫌がられてるのかな。変なことを言っただろうか。

「……一応、褒めたつもり、なんだけど」
「分かってるっつーの! 照れるからもうそれ以上言うな!」

 ぐるっとこちらに顔が戻ってきた。夜久の赤い顔を見てきょとんとしてしまう。なんでそんなに照れるのだろうか。褒められて当然なくらいまっすぐできれいな声なのに。そう言おうと思ったけどこれ以上照れさせるのも悪い気がして黙っておいた。
 ひらり。ひらりの歌の通りだね。無駄じゃない。わたしが見てどう感じたのか。何を思ったのか。変だと思っていたことを口にしてみたら、こんなにくすぐったい気持ちになったよ。わたしだけのフレーズは無駄じゃなかったんだね。それを教えてくれたのは桜野ひらりであり、夜久でもあった。
 夜久の言葉もまた、わたしの中に歌詞のように残っていることに気が付く。声を褒めてくれた言葉。わたしの光を無意識に褒めてくれた言葉。わたしの気持ちを馬鹿にせず理解してくれた言葉。夜久にとってはなんてことはない言葉たちだっただろう。それでも、わたしにとっては美しい歌のように、耳に残っている。

「夜久って」
「ん?」
「バレー部なんでしょ。あんまりよく知らないけど」
「おう。俺はリベロってポジション」
「何するとこなの」

 夜久がぱっと明るい笑顔を浮かべてバレーの話をはじめた。全然分からない用語ばかりだったけど、楽しそうに話す夜久の顔や声を見て聞いているだけで十分だった。明るい歌を聴いているみたい。夜久の声で、夜久の言葉で紡がれていく。ここでしか聴けない歌みたいに思えた。
――夢に見るわ、貴方の声を。きっとずっと忘れられない歌声を私だけに聴かせてほしいの。
 桜野ひらりが歌ったラブソングを思い出す。今なら分かるかもしれない。夢に、見るかも。この時間をわたしだけが独り占めにしていたいと思った。楽しそうに話す声も、顔も、何もかも。わたしだけが知っている、忘れられないものになればいいのになって、一瞬でも思った自分がいた。
 わたしにもそう思える人が、いつか、現れるのかな。ひらりが答えてくれることのなかったその答えが出てしまった。いや、別に、夜久のことが好きとかそういうのじゃない、けど。ただ、そういう人がいたのだという答えにはなった。

「好きなんだね、バレー」

 わたしが桜野ひらりのことを好きなように。夜久の好きなものもとてもきらきらしていて、とても素敵だな。そう素直に思った。夜久もそう思ってくれていたら嬉しいな。おこがましくもそんなことを思う。
 夜久はわたしの言葉にちょっとだけ照れくさそうに笑った。

「好きだよ」

 まっすぐな声で言う。その言葉が歌詞になって、歌になって、曲になって、ど真ん中に刺さった。きっと忘れられない歌になった。わたししか知らない歌になれば、いいのに。さすがにその言葉は恥ずかしくて口に出せなかった。人を好きになるって、こういう感じなのかな。こっそり思ってしまったそれを、大好きな歌が肯定してくれた気がした。


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