※「おとぎ話を書きかえてよ」の続きです。


 家に帰ってすぐに自分の部屋に駆け込んだ。 それからベッドに飛び乗って枕を抱え、その状態のまま何時間が経ったか分からない。 どうやら知らない間に眠っていたようで窓から夕焼けのオレンジが部屋に広がっていた。 ぼうっとしつつスマホを手に取る。 時間を確認して一つ伸びをした瞬間、あ、と思い出した。 一気に心臓が大きな音を立て始める。 時間をもう一度確認したら余計にうるさくなった。 もう少しで六時。 練習は五時で終わると言っていた。 片付けも入れたらたぶん六時くらいに帰ってくるんじゃないだろうか。 そう頭の中であまりにもお粗末な計算をしただけなのに、余計に心臓はうるさくなる。 寝てる場合じゃない。 顔を洗って着替えなくちゃ。 そう上半身を起こしたら、ばちっ、と目が合った。

「…………」
「ずっと寝とったんか?」
「…………」
「右側、寝ぐせ」

 私のベッドのすぐ横に信くんが当たり前のように座っていた。 驚きすぎて言葉が出ない私を信くんは怪訝そうな顔で見ている。 「俺、家におれ言うたやんな?」と約束の確認をしてきた。 それになんとか首を振ると信くんは開いていた本を閉じる。 ちょうど十分前ほどにここに来たらしい。 チャイムを押したらお母さんが出たみたいで、私と約束があると言えば快く入れてくれたそうだ。 せめて私を起こしてからにしてよ……! 内心お母さんにそう文句を言いつつ乱れた髪と服を静かに直す。 その様子をじいっと信くんが見ているのが分かって妙に緊張してしまった。 ベッドに座ったままの私を相変わらず床に座ったままの信くんは見ている、というよりは凝視しているという感じだ。 その視線から逃れようにも逃げ場がない。 どうしようかとじっとしていたのだけど、信くんが自分の横をぽんぽん叩いて「ここ座れ」と言ったので何も考えずにとりあえず移動した。
 信くんの隣に少し間を空けて座る。 ジャージ姿のままなのでどうやら部活が終わってからまっすぐ来てくれたようだった。 なんて言おうか、どうしようか。 相変わらず心臓がどきどきとうるさいままで困ってしまう。


「……はい」
「なんで敬語やねん」

 きゅっとスカートの裾を握ってしまう。 信くんが私の部屋に来たのは久しぶりだ。 それだけでどきどきする要素は十分なのに、それだけじゃない要素まである。 もちろん顔なんてじっと見てられない。 どきどきする心臓の音を聞かれないようにしなきゃ。 そう思うからか無駄に口だけはよく動く。 もうちょい遅なると思っとったから掃除できへんかったやんか〜、なんてへらりと笑って言ってみた。 信くんは表情を変えないまま「部員らがはよ帰れ言うで甘えさせてもうた」と言う。 そんなこと、絶対しないじゃん、いつもの信くんなら。 部活に真面目で、部活が大事で、主将としての責任があって。 そんな信くんが、私のために時間を割いてくれている。 夢みたいな話だけど現実としてここにある。 それだけで胸がいっぱいだった。

「困らせたんちゃうかって、思うて」

 これまで私は学校の中では信くんに話しかけないようにしてきた。 クラスが離れていることも手伝って、この三年間で信くんと二人で話したのは本当に数えるほどしかないだろう。 私が話さないようにしていることに信くんが気付いているかは今まで考えないようにしていた。 いや、そもそも私と話す話さないなんてこと、信くんにとってはどうでもいいことだと思っていた。
 この恋は叶わない。 そう子どものころから自分に言い聞かせるように、ずっと思ってきた。 期待したらその分傷付く。 それが怖くてふたをしようとしてきた。
 それなのに。 私の目の前でほんの少しだけ照れているような顔をした信くんが、私のことを話している。 その口から私の名前が零れ落ちる。 やっぱり夢なんじゃないだろうか。 そう思うほど、夢にまで見た光景だった。

「彼女になってくれるん?」

 耳が赤い。 いつも表情があまり変わらない信くんの顔が、少しだけ崩れている。 視線が柔らかい。 夢かもしれない。 この恋は叶わないと言い聞かせ続けてきた私の、とんでもなく恥ずかしい妄想なのかもしれない。 そう思うくらい、ふわふわと気持ちが落ち着かないままだ。
 気付けばぼろぼろと涙がこぼれていて、ぐっと唇を噛んでしまっていた。 何か言葉を返さなくてはいけないのだけど、力を抜いた瞬間に嗚咽に変わってしまいそうだ。 スカートの裾を握る手がぎゅうっと余計に力む。 そんな私を信くんはなんだかぎょっとした顔で見ていた。 「ごめん」と咄嗟に謝ってしまったらしい信くんは、おろおろとどうしようか悩んでいる。
 夢にまで見た。 ずっと、夢見ていた。 いつかそんな日が来たら飛び上がってしまう、なんて想像したこともある。 ずっと、ずっと、子どものころから、信くんに言いたかった言葉を、声に出して言うこの瞬間を、夢見ていた。

「私、子どものときから、ずっと」
「……おん」
「信くんのこと、ずっと、ずっと、好きやった、いちばん、好きやった」

 現実だった。 苦しい喉の奥、熱い瞳の奥、何もかもがこれは夢じゃないと教えてくれた。 夢が叶った。 胸がいっぱいで、涙があふれて止まらない。
 ぎゅうっとスカートの裾を握る私の手にちょん、と信くんの指が触れた。 びっくりして変な声を出しつつ手を引いてしまう。 信くんはそれに驚いた顔を一瞬だけしたけれど、すぐにへにゃりと笑って「なんやその声」と言った。 耳がまだ赤い。 信くんは笑った顔のまま「俺の杞憂やったか」と独り言を呟く。

に嫌われとんのかと、思っとったから」
「……なんで?」
「なんでって、学校で俺に関わらんようにしとったやつがよう言うわ」

 ちょっとだけ恨めしそうな顔をされた。 「避けられるんて結構傷付くで」と言って、つつくくらいの軽い力ででこぴんされる。 額を抑えつつ「ごめん」と謝ると、信くんは「これでちゃらにしたるわ」と笑った。
 信くんは私が避けていることにすぐに気が付いたと言った。 理由は分からずじまいだったけれど、故意に避けている以上は何か理由があるのだろうと思って、極力話しかけないように気を付けていたとも。 廊下ですれ違っても、帰りの時間が被っても。 私が話しかけてこない限りは話しかけないようにしたと。 そして、それが少し寂しかったと、なんだか照れくさそうに呟いた。

「俺も」
「え」
「俺も好きや、のこと」

 くしゃ、と笑う。 その笑顔が子どものときそのままだ。 私が初恋という夢を見たときの笑顔のまま、その口から私の名前が零れ落ちる。 私と同じ気持ちだと零れ落ちる。 夢みたい。 けれど、夢と違ってこの手で触れられる場所にある。 零れ落ちていく涙をたどるように、信くんの指が私の頬を撫でた。


あと一歩で抱きしめられるね
▼title by 金星