この恋は叶わないのだろうと子どものころから思っていた。 よくある話だ。 初恋は叶わない。 どれだけ仲が良くても、どれだけ想っていても無駄。 子どものころからずっと続くこの初恋は、きっと叶わないのだ。

ちゃん、ごめんなあ」
「ええっておばちゃん、任しとき」

 「助かるわあ」と笑うおばちゃんに笑い返す。 受け取った手提げを自転車の前カゴに入れた。 おばちゃんに手を振ってから自転車をこぎ始める。 うだるような暑さの夏風はとても清々しいものではない。 ひとつ息を吐いてほんの少しだけ視線を下に向ける。 前カゴに入った手提げ。 忘れ物なんて珍しい。 いつも隙がないくらいしっかりしているのに。 そりゃあおばちゃんも焦るやろうなあ。 内心そう思いつつまた視線を前へ戻した。
 こんな暑さの中、スポーツやろうなんてどうかしとんで、信くん。 苦笑いがこぼれる。 私だったらクーラーが効いた部屋でごろごろしていたい。 わざわざ外に出て、しかもスポーツをやろうとは思わない。 昔からだから今更なのだけど、毎年この季節が来ると思ってしまうのだ。 アホなやつ、なんて。


▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 学校に着くと運動部の賑やかな声がそこら中から聞こえてくる。 サッカー部、野球部、陸上部。 自転車を駐輪場に停めながらその声に耳を傾ける。 おばちゃんから預かった手提げを前カゴから取り出して、自転車に鍵をかける。 時計を見ると十一時五十分。 たしか大体十二時ころにお昼休憩が入るとかなんとか言っていたっけ。 図らずもちょうどいい時間に到着できたようだった。 額に浮かぶ汗を引っ張った袖で拭いてから駐輪場を後にする。 グラウンドを通り過ぎて、向かう先は体育館だ。
 影を歩いても暑い。 当たり前だけど体育館だって室内だけど空調がついているわけじゃない。 外と同じくらい暑いはずだ。 その中でバレーボールをやるなんて私には信じられない。 想像するだけで余計に暑くなってきて少しげんなりするほどだ。
 一人で勝手にげんなりしていると、ちょうど体育館が見えてきた。 バレー部の人にあまり知り合いはいない。 しかも、届け物の相手である信くん、いや、北くんとだって学校内ではあまり話をしないようにしている。 まあ、私が勝手にそうしているだけだから、北くんがそれに気付いているかは知らない。 校内で話しかけるのは久しぶりだ。 深呼吸をしていると、賑やかな声が聞こえてくる。 今日は売店や食堂は休みだということで部員がそれぞれ昼食を持ち寄るということだったのだが、あろうことか北くんはそれを家に忘れていったのだという。 忘れ物なんて滅多にしないのに。 おばちゃんはこれから家を出なきゃいけなかったらしく困っていたのだ。 そこにたまたま私が通りかかって、届け役を頼まれたという流れだ。
 体育館の脇にある影になっている階段に部員らしき男子がわらわらと集まっている。 それぞれがかばんから昼食を取り出しつつ談笑し始めた。 その中に、かばんをぼうっと覗き込んでいるその姿を見つけた。

「どないしてん、信介」
「……飯忘れた」
「…………は?! お前が?!」
「なんやねんその反応」

 ぴしゃっと言い放ちつつ用意されているらしい飲み物を飲む。 そんな北くんに数人が「恵んだろか」と言いつつ自分の弁当や買ったパンを見せている。 北くんが何かを言いかけたところで、ようやく声を出せた。

「しん、ちゃう、北くん!」
「……、何しとんねん。 お前帰宅部やろ」
「おばちゃんにこれ頼まれただけや」

 でかい男子の群れにそろそろと近寄りつつ手提げを差し出す。 北くんはなぜだか少し不満そうな顔をしてじっとそれを見つめている。 何が不満やねん、持ってきたったんやぞこっちは。 内心そう思いつつも、バレー部主将だという北くんに対してこの場でそんなことは言わないでおく。
 と、いうか。 北くん、私のこと名前で呼ぶんやなあ。 私は名字で呼ぶようにしているのに。 学校で話すことが少ないから気が付かなかった。


「……なんやねん」
「なんで俺んこと北くんて呼ぶんや?」
「……なっ、なんで、って言われて、も」
「わざわざ呼び方変えるんやでそれ相応の理由があるんやろ」

 ごもっとも。 立ち上がった北くんが私に近寄りつつ手を伸ばす。 北くんはそれに一瞬だけ視線を向けたけれど、すぐに視線は私に戻ってきた。

「じゃ、部活がんばってな」
「質問に答えてへんやろ」
「……ええやん、なんでも」
「答えになってへん」

 無表情なままそう言われると圧倒的に劣勢だと感じるからやめてほしい。 そうっと北くんから視線を外す。 じいじいうるさい蝉の声にほんの少しだけ気持ちが焦った。
 この恋は叶わないのだろうと子どものころから思っていた。 初恋。 誰が言い出したのかは知らないけれど、それは実らないものなのだという。 子どものころから私にとってのいちばんは信くんだった。 スポーツも運動も、私にとっては信くんがいちばんだった。 厳しいけれどその分優しくて、思いやりがあって、頼れる男の子。 当たり前のように私にとっての初恋は信くんだった。 だから、この恋は叶わない。 そう諦めようとしてもう数年が経ってしまった。 なんとか信くんのことを好きじゃなくなろうとしても難しくて、学校では北くんと呼んで距離を持つようにしてみた。 あまり話しかけないようにしたり、一緒の時間帯に下校が被らないようにしたり。 とにかく信くんのことを忘れられるように、いっしょにいる時間が少なくなるように努力した。
 でも、だめだった。 いっしょにいる時間が短くなればなるほど、私は初恋をこじらせていたように思う。 諦めるためには思い切って告白して玉砕するしかない。 そう思ったけれど、できなかった。 フラれるとわかっているのに告白なんてできるわけがなかった。 信くんは私をただの幼馴染としか見ていない。 そんなこと、分かっているのに。

「……か、かのじょ、でもないのに、呼ばれへん」
「はあ?」
「真顔で言うんやめて」

 心底意味不明、という表情を向けられた。 北くんは眉間にしわを寄せつつ何かを考えているらしいけれど、昔から考えていることが分かりづらいのでさっぱり分からない。 早くこの場から立ち去りたい。 バレー部の人たちの視線がちらちらこちらに向けられるのが微妙に居心地が悪い。

「よう分からへん。 どういうことや?」
「せやから、なんちゅーか、私は彼女でもなんでもないただの同級生やんか」
「ちゃうやろ」
「えっ」
は子どもんころからの幼馴染やから、ただの同級生とはちゃうやろ」

 なに言うとんねん、とため息をつかれる。 言われて喜ぶはずのところなのになぜだか胸が痛い。 子どものころからの幼馴染。 ただの同級生よりは特別扱いされているみたいだけど、所詮はただの幼馴染。 私がなりたいポジションとはちがう。 苦笑いしつつ「それでも呼ばれへんよ」と言ったら北くんはあからさまに不満げな顔をする。

「何をごちゃごちゃ考えとんのかは知らんけど」
「ごちゃごちゃって、失礼やな」
「せやったらなったらええやん、彼女」
「…………は?」
「彼女になったらええやん、俺の」

 北くんの後ろからうるさい声が聞こえてきた。 そんなことには構わずに北くんはじっと私の顔を見続けている。 びゅうっと吹いてきた生ぬるい風に髪が揺れて瞬きをしてしまう。 薄く汗をかいている顔に絡みつくような髪を手で払いつつ、黙って北くんのほうを見ているだけになってしまっている。
 ちょっと意味がよく分からなかった。 北くんの言葉を何度か頭で繰り返したけど、やっぱり意味がよく分からない。 からかわれているのだろうか。 そう一瞬思ったけど、すぐに自分で否定した。 北くんは人をからかったりばかにしたりしない人だ。 そういうところが、好きなんだ。

「な、なに言うとんの」

 苦笑いをこぼしておく。 北くんはほんの少しだけ呆れたような顔をした。

「俺の彼女になるんかならんのか、どっちがええねん」

 外野がうるさい。 それが少し気になったけれど、北くんが「」と私のことを呼ぶからどうでもよくなってしまう。

「な、なる……」

 絞り出したような声だったのに、外野にはしっかり聞こえていたようで。 背の高い人が何人か北くんの背後にやってきて冷やかそうとしている。 それを北くんがぴしゃっと言葉で追い返して、また私をじっと見つめた。

「ほならそういうことでええな」
「えっ、そ、そういう、こと?」
「そういうことはそういうことやろ」

 そこでようやく気が付いた。 北くん、ちょっとだけ顔が赤い。 それに私までつられてしまう。 すると北くんが「なに赤くなっとんねん」と言うから少しカチンと来て、「北くんのせいや」と言い返す。 北くんはじっと黙って自分のほっぺを右手で触る。 その手を戻してから「うるさいわ」と言うものだからちょっとだけ面白くなってしまった。
 外野から再びヤジが飛ぶ。 「北さん告白せなあかんで! 告白しとらんで北さん!」という声に続いて「ほんまや! 告白しとらんやんけ信介!」という声が響く。 振り返った北くんが「うるさいわお前ら」と言うけれど、耳まで赤くなりつつあるそれにいつもの迫力はない。

「五時に練習終わる」
「えっ、あ、うん?」
「家おれよ」
「……う、うん」

 背を向けて未だに少し騒がしいバレー部の仲間たちの中へ帰っていく。 茶化されているようで、それを次々言葉ではねのけつつ自分が座っていた場所へたどり着けたようだ。 ちらりと私のことを見て思い出したように私が持ってきた手提げを少しだけ上に持ち上げる。 「これ、ありがとうな」と言った顔は、いつの間にかいつも通りに戻っていた。 いつも通り、なはずなのに、それが私には新鮮なものに見えてたまらなかった。
 初恋は実らない。 それをもしかしたら、北くんが、信くんが書き換えてくれるかもしれない。 物語の続きが気になってどきどきするような軽やかな心臓の高鳴りを潜ませたまま、どうそのときまでを過ごそうか。 それを考えるだけで胸がきゅっと締め付けられた。 思わず唇を噛んでしまうくらいのそれが私が消そうとしていた恋心なのかもしれない。 そう思った瞬間、自分でびっくりするくらいの勢いで今までに起こったことすべてがぶわっと頭の中にめぐって。 たぶん信くんなんてかわいいものだっただろうくらい、顔だけじゃなくて体中が熱くなってきた。
 逃げるように駐輪場まで走った。 前髪が張り付くほどの額の汗を振り払うように急いで自転車に乗って正門を出る。 ちょうど通りがかった生徒指導の先生が「おいこらそない急ぐなや!」と注意してきたので一応謝っておいた。 なんとか落ち着かせていつも通り自転車をこぐ。 何度も何度も深呼吸をするけれど、もちろん汗は止まらないし心臓のうるさい音も静かにならない。 それと同じくらいうるさい蝉の鳴き声に紛れるように大きな声を出しながら自転車をこいでいく。 すれ違った小学生の子たちに「うるさいねん!」とツッコまれて、これまた大きな笑い声がこぼれていった。


おとぎ話を書きかえてよ
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