――2021年9月30日木曜日


 二ヶ月前の七月、秋紀と高校時代に同じチームだった木兎光太郎がオリンピックに出た。わたしも一応同級生だけれど、正直あまり関わりがなくて、うわーすごいなー、くらいの感情でテレビ観戦をした。あのときの秋紀は子どもみたいにはしゃいでいてかわいかったな。
 どうしても、とお願いされて当時同じチームメイトだった猿杙と小見たちがうちに来たのだけど、会ってみれば割と普通に話せて安心したっけ。さすがに他の人はあまり知らないからなかなか話せなかったけど、みんな良い人で安心した。まあ、そもそも、秋紀の知り合いなのだから当たり前か。そんなふうに思うくらいには秋紀に信頼感がある。今更だけれど。
 今日は秋紀の誕生日だ。出会ってから今年で十一回目。あの修正テープ一つからはじまった繋がりが、こんなにも濃く強く残るなんて、思いもしなかった。プロポーズのときに秋紀が言ってくれたように、あれはやっぱり運命だったのだろう。たった三百円ほどのお安い運命。お値段以上とはこのことか、と笑ってしまう。値段になんて表せることはできないとは分かりつつも。
 玄関のドアが開いた音。顔を覗かせて「おかえり」と声をかけてから、驚いた。秋紀が大きな花束を持っていたのだ。誕生日だからと職場の人がくれたのだろうか。慌てて駆け寄って預かる。秋紀が笑って「びっくりした?」というものだから、首を傾げてしまう。

「これどうしたの? 誕生日だからもらったの?」
「いやいや、男の誕生日に花束くれる人いないって。俺が買ったんだよ」
「……え、なんで? 秋紀の誕生日なのに?」
「何言ってんですかさん。傷付くぞ〜」

 ちょん、と鼻の頭を触られる。よく分かっていないわたしの顔を優しい顔でじっと見つめると、花を避けつつ軽く唇を重ねてきた。びっくりして固まっているわたしを余所に、唇を離した秋紀が顔が近いまま「九月三十日ですよ、木葉さん」と照れくさそうに笑った。
 いろんな色の、いろんな種類の、花束。いろいろ詰め込みすぎてちょっと収集が付かないくらいにカラフルで鮮やかだ。両手いっぱいの花を飾れる花瓶なんてうちにあっただろうか。そんな心配をこっそりしてしまうほど、たくさんの花が両手の中にある。
 九月三十日、は、秋紀の誕生日だ。わたしの修正テープを秋紀が踏んでしまった日でもある。この十一年間、この日にはたくさんの思い出が詰まっている。修正テープからはじまり、二人で映画を観に行ったし、秋紀のジャージを着させられたこともあったし、会えなかったこともあったし、忘れられずに連絡を取ったこともあったし、何でもない日常の日でもあった。そして、プロポーズをされた日、でもあったっけ、そういえば。

「……記念日ですか、秋紀さん」
「遅いだろ、気付くの」
「そういう、のに、疎いもので」
「めちゃくちゃ知ってる」

 けらけら笑いつつ、また軽く唇を重ねてきた。離れてからわたしの頭を撫でつつ「ご飯楽しみ〜」とリビングへ歩いて行く。楽しみにされても、そんな豪勢なものは作れないので。ちょっと照れながらそう前置きをしておく。料理、もっと頑張ろ。こっそりそう思った。そんなわたしに秋紀は「が作るものなら何でもいいの」と言う。言ってほしい言葉を必ずくれる。甘やかし上手なのは相変わらずだ。未だに照れる。
 花束をどうしようか考えていると、秋紀が鞄と一緒に持っていた紙袋を机に置いてから開けだした。中には立派な花瓶。うちにこの花束を挿せるものがないとちゃんと分かっていたのだろう。用意周到。さすがは心配性の気にしいだ。素直にそう口に出すと「それ褒めてる?」と笑われた。
 秋紀が花瓶に水を入れてくれた。花束をそっとそのまま花瓶に挿してみると、一瞬でテーブルの上が夢みたいに華やかになった。秋紀はそれを見て「ちょっと欲張りすぎた」と少し反省している様子だった。でも、反省する必要なんてないのに。自分で言うのは恥ずかしいけれど、それだけ、わたしのことを想ってくれているのだと、分かるから。
 着替えてくる、と秋紀が寝室のほうへ歩いて行こうとする。その背中に思わず後ろからぎゅっと抱きついた。ぴしっと固まった秋紀が「え、どうした、何、かわいいんですけど」と照れつつ笑う。普段滅多にこんなことをしないから驚いているのだろう。本当はしてほしいと思ってくれていることは知っている。でも、なかなか恥ずかしくてできずじまいだった。

「秋紀、大好き、おめでとう」
「……何、え……泣きそう……俺も好き……ありがとう……」

 本当にちょっとぐずぐず言ってるじゃん。ぱっと手を離してからバシンと背中を叩いてやる。秋紀はこっちを振り返ってから「痛くも痒くもない」と微笑んだ。それから「前からもお願いしたいんですけど」と言って両腕を広げる。欲張りめ。でも、お誕生日様は絶対、なので。今日だけはずっと素直でいよう。そう思ったら、ぎゅっと抱きつけた。


戻る