――2020年9月30日水曜日


 誕生日だというのに残業になってしまったらしい。そんな連絡が入っていたスマホを見て苦笑いがこぼれた。まあ、わたしもちょっとだけ残業になっちゃったし、今日はささやかにお祝いして明日を本番にしようか。そうこっそり計画を練っておく。
 マンションのエレベーターを降りて部屋までまっすぐ歩く。とりあえず洗濯機を回して部屋干しして、晩ご飯はちょっとだけ贅沢にしておこう。お風呂もきれいに掃除しておかなくちゃ。そんなふうに考えつつ鍵を開けて、真っ暗な部屋に入った。パチンと廊下の電気を付けてから靴を脱ぎ、一つあくびをこぼしながらリビングへ。ドアを開けて電気を付けようとした瞬間、勝手に部屋の電気がついた。その直後に、パンッ、と破裂音が響いた。びっくりして固まっていると、目の前をきらきらしたものが落ちていく。クラッカー、の、飾り? ぽかん、としてしまうわたしの目の前に、にこにこと満面の笑みを浮かべた秋紀がいた。

「ハッピーバースデ〜! 俺!」
「……びっ……くりした……」
「ごめんごめん、驚かせたくて」
「というか、ふふ、わたしが言う前に言っちゃだめでしょ」

 ハッピーバースデー俺、ってかなり浮かれポンチ発言じゃん。秋紀の脇腹を叩きつつそう笑ったら「浮かれてもいいだろ〜」と笑った。何年経っても、何歳になっても、秋紀は変わらない。それがなんだか嬉しかった。
 秋紀の誕生日だというのに、なぜだかもう晩ご飯も用意されていた。なんで? 不思議がっているわたしを「まあまあ」と宥めつつ椅子に座らせてきた。これ、全部秋紀が作ったの? 料理得意じゃなかったよね? そう聞いたら「全部テイクアウトです、すみません」と恥ずかしそうに笑った。わたし、作るつもりだったのに。用意されているのは嬉しいけれど、見渡す限りわたしの好きな物ばかりだし、そもそも今日は秋紀の誕生日だ。主役は秋紀なんだから秋紀の好きな物でこのテーブルをいっぱいにしたかったのにな。

「これ、覚えてる?」

 そう言って秋紀がポケットから取り出したのは、修正テープだった。それを見て思わず「あ」と声が出た。その修正テープは、高校生のときに秋紀が使っていたものだったから。わたしのものを壊してしまった代わりに秋紀が買ったもの。わたしが色を選んだものだった。ところどころ汚れがついているけれど、まだ現役で使っているらしい。もう十年前のものだというのに、まだまだきれいなままだった。
 覚えてるよ。当たり前じゃん。そう笑って修正テープを思わず手に取る。懐かしい。木葉≠ナ秋°Iだからって黄色を選んだんだっけ。秋が誕生日だし、ぴったりの色だと思ったのだ。今でもそう思っている。今聞かれても同じ色を答えるだろうから。

「十年前、の修正テープを踏ん付けたときは、本当にめちゃくちゃ申し訳ない気持ちでいっぱいだったんだけどさ」

 あのときの秋紀の顔は傑作級に青ざめていた。この世の終わり、くらいに悲壮感の漂う表情だったし、そのあとの対応もとても焦りが見えるものだった。わたしはというと、あのときは人と関わるのが面倒で仕方ない時期だったから、それを鬱陶しいなんて思ってしまっていたっけ。我ながらあの頃は子どもだったな、と今更反省する。

「今は、あのとき俺の足下に転がってきたのが、もしかして運命だったんじゃないかな、とか、ね、恥ずかしいことを考えていまして」

 照れくさそうに笑った。確かに、それは、口にするのは恥ずかしい。わたしなら素直に言えない。思っていても。でも、秋紀は、照れながらも言ってくれるんだなあ。
 わたしの手から修正テープを取っていく。秋紀はそれをじっと見つめて「でも、本当に運命だったんだなって、思ってる」とはにかみながら言った。

「絶対に運命だったんだよ。十年前の今日が、今日この日のための」

 妙に台詞っぽいそれに首を傾げてしまう。今日の秋紀、なんか変だな。どうしたんだろう。でも、なんだか幸せそう。いいことでもあったのかな。あ、そりゃあ誕生日なんだから良い日だよね。わたしもそうにこにこしてしまった。

「と、いうわけで、あの、足下をご覧ください」
「足下?」
「どうしよう、今更めちゃくちゃ恥ずかしくなってきた」
「何が? ……ん? 何か落ちてるけど?」

 テーブルの脚辺りに何かが落ちていた。手を伸ばして拾い上げると、あまりの懐かしさに「これ!」と笑ってしまった。十年前の今日、秋紀が踏ん付けて壊した修正テープだったのだ。コンパクトで軽量の。ちょっとデザインは変わっているけれど間違いない。大手メーカーのものだしまだまだ現役で学生人気が高いのだろう。新品らしくてきっちり箱に入ったままだ。どうして急にこれを? 十年越しに同じもので返してくれるの? そんなふうに笑っていると、ふと、ちょっと変な感じを覚えた。確かに軽量が売りの商品だけれど、それにしても軽い。ちょっと箱を振ると中から物音がする。

「どうしよう、ミスったかも。めちゃくちゃ急に自信がなくなってきた」
「だから何が? これくれるの?」
「あげる。もらってください。あと今開けて」
「え、うん?」
「どうしよう、普通に渡せばよかった。めちゃくちゃ恥ずかしい」

 さっきから何を一人で照れまくっているのか。不思議に思いながら箱を開けてみると、中は空っぽのように見えた。修正テープ本体がどこにもない。どういうことだろうか。よく分からないまま箱を傾けてみると、ころりと、きらきらの指輪が出てきた。

「結婚してください」
「…………嘘?」
「いや、本当」
「これプロポーズ?」
「そうだよ! あーやっぱミスった!」

 床に突っ伏して「普通にリングケースに入れて渡せば良かった……」と嘆いている。まあ、そのほうがロマンチックだよね、普通は。というかそれ以外にあんまり想像したことがなかった。秋紀なら王道で来るかな、って一応、想像をしていたから。
 修正テープの空き箱に婚約指輪を入れる人って、この世にいるかな? 笑ってしまう。いや、絶対、今この世界中の男で秋紀ただ一人だよ。こんなきらきらの石が付いた指輪をこれに入れて、しかも床に置くなんて普通できない。そして、これに笑って喜んでしまう女もわたしただ一人。普通ならロマンチックに花束と一緒に渡してよ、なんて言うところだろう。まあ、つまり、運命の二人ってわけだ。そうに違いない。

「秋紀」
「はい……本当すみません……調子に乗りました……」
「誕生日おめでとう。これからもよろしくね」
「…………え、あの、それは、つまり?」
「絶対幸せにしてね」

 修正テープの箱は机に置いて、左手の薬指に指輪をはめてみる。サイズぴったりだ。いつの間に測ったんだろう。きっと寝ているときだろうな。その光景を想像したらちょっとおかしくて笑ってしまう。
 幸せにしてね、なんて、本来はわたしが言う台詞じゃないけどね。こっそりそう思う。一度秋紀を振って、連絡を勝手に絶ったわけだし。どの口が、と言われてもおかしくない。どこまでも甘えてしまう。秋紀にだけは。
 そんな情けなさを隠すように、秋紀に左手を見せてみる。「似合う?」なんて苦笑いをこぼした。こんなきらきらの指輪、ちょっとわたしには荷が重いかも。そんなふうに思っていると、秋紀が優しく笑った。

「うん」

 どれに対しての相槌だったのか分からない。でも、きっと全部に対する返事だったのだろう。そう思ったら、ちょっと泣いてしまった。


戻る