――2017年9月30日土曜日


 スマホのカレンダーの日付。それをぼんやり見つめて、ああ、今日誕生日だね、おめでとう、と喉の奥で呟く。
 去年の冬。大学四年生だったわたしは就活がうまくいかず、毎日とても焦っていた。周りの友達がみんな就職を決めているのに、わたしだけ決まっていない。面接に落ちて、落ちて、落ちて。卒業は確定していたのに、就職だけが決まらなかった。だから、とても、イライラしていて。
 些細なことから秋紀を強く責めてしまった。八つ当たりだ。普通なら怒鳴られてもおかしくないようなひどいことを言った。それなのに、秋紀はわたしを怒らなかった。それどころか優しくしてくれて、わたしは、あろうことか、余計にイライラしてしまった。その日は結局逃げるようにその場から走って家に帰り、一晩明けてから、秋紀に「別れたい」とラインを入れた。秋紀は聞き入れようとしなかったけれど、もう本当に無理で。自分の将来が何も見えていないのに、愛だの恋だのそういうものに割く心の余裕がこれっぽっちもなかった。だから、そのときはただただ、秋紀が鬱陶しくてたまらなくなっていた。本当に人でなしだけれど。
 学部が違う上にもうほとんど授業がないから大学で鉢合わせることはなかったし、就職が決まらないわたしを見かねて親が実家に呼び戻していたから家に来られることもない。ずっとスマホにはラインが届き続けたし、電話も鳴り続けていたけど、ある日わたしの中の糸がぷつりと切れた。その瞬間に秋紀の番号をすべて拒否。ラインもブロック。最低な幕引きだった。本当に。
 どうにかこうにか採用してもらった会社で働き始めてもうそろそろ半年が経つ。慣れないこともまだまだ多いし、先輩や上司に怒られることもしばしば。それでも、仕事に追われる日々は嫌いじゃなかった。一人でいるよりよっぽどマシ。学生のときはあんなに一人になりたがっていたのに、不思議なことだ。今は一人でいるのが苦手になっている。どうしても、思い出してしまうから。
 ベッドの上でごろごろ過ごして、もう夕方になっている。どこにも出かけずに家にずっといるわたしを両親が少し呆れていたけれど、社会人一年目で疲れているのだろう、と思ってくれているらしい。特に無理やり声をかけてくることはない。それに有難みを覚えつつも、内心で少しだけ、無理やりにでも引っ張り出してくれないだろうか、と思ってしまう。わたしは昔から我が儘なやつだ。本当に。呆れてしまう。
 最低な女だった、と今頃笑い話にされていることだろう。勝手に一人でイライラして、一方的に別れたいと言って、何も聞かないまま着信拒否。黒歴史以外の何でもない。秋紀にとってはそういう過去の女、という存在に違いない。なんて情けないことか。あんなに優しくしてもらったのに。
 今になって分かるのだ。就職がなかなか決まらなくてイライラしていたわたしに、優しくしてくれた秋紀のとんでもない優しさが。だって、イライラしている相手に優しくするなんて、かなり気力を使うことなのだ。社会人になって怒っている上司に愛想笑いで対応するようになって分かった。秋紀は嫌そうな感じをこれっぽっちも出さなかった。秋紀に対してひどいことを言っても、全く怒らなかったし、そればかりかいつも通り優しくしてくれた。なら絶対大丈夫だから、と励まして。その深い愛情が、今になって分かってしまった。
 本当に、申し訳ないことをしたな。ずいぶんと子どもだった自分を反省した、し、あんなふうに八つ当たりできたのは、秋紀がわたしのことを本当に好きでいてくれていると信頼していたからなのだろうと自覚した。好きだから、信用していたのだ。ああ、わたし、秋紀のこと、ちゃんと好きだったんだな。今更分かっても遅い。もう、どうしようもないことなのだけど、それでも、後悔として今もどこかに痛みが走る。
 秋紀もわたしを着信拒否しているかもしれない。ラインもブロックされているかもしれない。それでも、どうしても、一言だけ謝りたかった。恐る恐るスマホの設定画面を開き、秋紀の着信拒否設定を、削除。ラインのブロックも解除した。あの日を最後に止まっている日付。心臓が痛い。なんだか、泣きそうだった。
 秋紀にメッセージを打った。お久しぶりです。お誕生日おめでとうございます。一言謝りたくて連絡しました。あのときは本当にごめんなさい。どうかお幸せに。そんなメッセージを。わたしに幸せを祈られてもね。そう苦笑いをこぼしてしまった。
 どうせ送れない。そう苦笑いをこぼしながら送信ボタンを押した。ブロックされているであろう相手にメッセージを送ったことがないけど、きっと送れなくてもこちらには分からないようになっているのだろう。永遠に既読が付かないだけ。だから、届くことはない。そう笑ってしまう。自分に余裕がなかったから当たり散らして勝手に逃げた。それなのに、余裕ができたら反省して許しを求める。本当に情けないやつ。
 そのときだった。送ったメッセージの時刻表記の上に、既読が付いた。びっくりして固まっていると、すぐにスマホが震える。着信だった。画面には久しぶりに見た、木葉秋紀、の名前が表示されている。嘘だ。だって、そんな、勝手に別れて勝手にどっか行った女なんか、もうどうでもいいに決まっている、のに。唖然として固まっていると一旦電話が鳴り止んだ。それからすぐ、開いていたラインのトーク画面に「お願い。出てください」とメッセージが届いた。そうして、また着信。お誕生日様の言うことは、絶対。高校時代からふざけて言っていた言葉を思い出して、恐る恐る、通話ボタンを押す。

「……も、もしもし」
『もしもし?! ?!』
「そ、そうです」
『マジで、本当、よかった……』

 大きく息を吐いた。耳元でされるとちょっとうるさい。もちろん口には出さなかったけれど、それくらいの勢いだった。緊張で固まっていると、秋紀が、付き合っていた頃と変わらない話し方で「あの、ちょっと、話したいんだけど、会えない?」と聞いてくる。いや、なんで会おうとするの。わたしは勝手にいなくなった最低女なのですが。誕生日というめでたい日に会うべき人間ではない。

「い、今じゃだめ、でしょうか……ちょっと、出られる、状況じゃなくて……」
『あー……そっか、じゃあ、うん。仕方ないな』
「……ごめんなさい」
『格好付かないけど、今言うわ』
「え、あ、はい」

 咳払いをした。秋紀は一つ息を吐いてから「あのさ」とゆっくり言葉を出した。

『まだ、少しでも気持ちがあるなら』
「……え」
『俺と、もう一回、付き合ってください』

 言葉を失う。わたしが本当に言ってはいけない立場なのだけど、素直に、この人馬鹿なの、と頭の中で呟いてしまった。だって、わたしは自分勝手な理由で八つ当たりをした上に、話も聞かずに別れを告げた女だ。そんな我が儘で自分勝手なやつと、もう一回付き合いたいなんて、思うわけがない。それなのに。

『俺、ずっと、のことが好きなままだよ』

 照れくさそうに笑った声だった。馬鹿、だ。この人は、本当に、馬鹿なんだ。言っちゃいけない立場なのに、ぽろぽろこぼれる涙と一緒に思わず言ってしまう。「馬鹿なの」と。秋紀はそれに笑って「馬鹿です」と言った。

「馬鹿。本当馬鹿。ごめん」
『えー、俺フラれるやつ?』
「好きだ馬鹿。本当にごめん」
『ははは』

 大笑いするな。怒れ、馬鹿。


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