※前作「「スマホ忘れた」」の続き。




 付き合い始めた堅治は、基本的に前より優しくなった。わたしのことを前みたいにブス≠ニ言わなくなった。相変わらずノロマとか馬鹿とかそういうことは言われるけれど。でも、明らかに付き合う前と違っていて未だに慣れずにいる。
 堅治の鞄にはわたしが忘れたときのためのものがいくつか入っている。春はマスク、夏は日焼け止め、秋はハンドクリーム、冬はカイロ。そんなふうに。わたしに貸すためだけのものが入っていると気付いたときは、ちょっと、照れくさかったけど嬉しかった。素直に堅治にそれを伝えたら「いや、そもそも忘れてくんな」と呆れられたけれど。だって、堅治がいるから余計にうっかりしちゃって。そう言ったら「お前急に恥ずかしいこと言うのやめろ」と頭を叩かれたっけ。
 今日も今日とて。すっかり寒くなったというのにうっかりマフラーをしてくるのを忘れてしまった。大慌てで家を出たせいだ。クローゼットから出していたのに巻いてくるのを忘れてしまって。家から出て少ししたところで待ち合わせた堅治が渋い顔をして、「おいマフラー」と言ってきてはじめて気付いた。お前寒がりなんだからマフラーしてこいよ、と事前に言われていたのに、だ。まだ取りに戻れる距離だったけど、戻るのも面倒だしいいや。そう堅治に言ったらため息を吐かれた。すると、自分が巻いていたマフラーを取ってわたしに渡してきた。

「いや、そこまではいいって。今日そんなに寒くないし」
「後で絶対寒い寒いって喚くから巻け。そもそも俺は別に寒くて巻いてきたわけじゃねえし」
「え、じゃあなんで?」
「お前が忘れるならマフラーだと思ったから」

 そろそろ予想を裏切れ、と言いながら勝手にマフラーを巻いてきた。ぐるぐる巻かれたマフラーから顔を出しつつ「ごめん」と言ったら、マフラーを巻き終わってからぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。もう慣れた、と笑って。
 二人でバス停に向かって歩きながら、いろいろ近況の報告をする。報告といっても普段から連絡を取り合っているし、そこまで目新しいものはなかったけれど。それでも直接顔を見て話を聞くと、文字では見えてこなかったものもあって面白い。堅治は部活の話、わたしは学校の友達の話。そんな話題に偏りつつお互いの話をした。
 どこに行きたいか、と聞かれて「どこでもいいよ」と答えるのは悪手だと友達に教えられて、青ざめたのは二日前のこと。その前日に堅治から「日曜日どこ行く?」と聞かれて、そう答えたばかりだったからだ。わたしが行きたいところよりも、部活で普段遊べない堅治が行きたいところのほうがいいなって思ったから。あと、堅治とならどこに行っても楽しいと思って。でも、それを面倒くさいと感じる男の人が多いらしい、と友達が言っていて、やってしまった、と反省している。友達からは「どこでもいい理由を教えてあげなきゃ」とアドバイスをもらったので、次はやらかさないように頭の中に書き留めてある。
 今日は堅治がどこに行くかを考えてくれた結果、水族館に行くことになった。堅治って水族館とか好きなんだ。意外。そうこっそり思っている。バスで駅まで行って、そこから電車で三駅。地元では有名な水族館なので、きっと今日も人が多いだろう。ぼんやりそう思っていると、バスの座席に座ってから、堅治が手を繋いできた。まだこれ、慣れないなあ。付き合っていると意識すると余計に。堅治はそれに気付いているのか分からないけれど、いつも何も言わずに繋いでくる。繋いだ後も別に様子は変わらず普通に話を続けるから、一人だけどぎまぎしているのが恥ずかしい。気にしないようにわたしも平常心を装って話をしているけれど、いつバレるかとどきどきしている。
 バスを降りて、今度は電車。改札をくぐるとき以外は手を繋いだままの堅治に引っ張られて、人波を切ってホームに到着。電車がすぐにやってきたのでそれに乗り込んだ。もしかして、時間の計算もしてくれてあったのかな。あまりにもナイスタイミングで電車が来たけれど。堅治はそういうことを教えてくれない。いつも威張って自分の成績とか褒められたところとかは教えてくれるのに。

「昼どうする? 水族館の中でいい?」
「いいよ〜」

 堅治がスマホで水族館のホームページを見はじめる。飲食店がどんな感じか見てくれているのだろう。行き当たりばったりなデートをしそうなのに、結構計画を練るタイプなんだよね。時間もそうだし、ルートとか、そこに何があるか、とか。そういうのをちゃんと事前に見ておくタイプだとようやく最近気付いた。今までもずっとそうだったのだろう。今更少し嬉しく思ってしまった。
 電車に揺られて三駅。水族館前の駅で降りて、そこから徒歩五分。思った通り人が多い入り口に向かって歩いて行くと、冷たい風が頬を掠めた。マフラー、借りてよかった。やっぱり寒い。堅治は寒くないのかな。そうちらりと顔を見上げるけれど、全然へっちゃらというような顔をしていた。スポーツをやっていると寒さに強くなるのだろうか。でも堅治って、背は高いけどそこまでスポーツマンって感じじゃないんだけどなあ。
 そんな失礼なことを考えていると、チケット売り場に到着。堅治がさっさと大人二人分のお金を出したものだから慌ててしまった。チケットを受け取ってから「いくら? 見てなかった」と聞くと、堅治が「俺も覚えてない」と意地悪な笑顔を浮かべて言う。絶対覚えてるじゃん。水族館のチケットはそこそこお値段がするから、さすがに出してもらうのは悪い。そう何度言っても「はいはい」としか返してくれない。なんでかっこつけんのさ。別にそんなことしなくていいのに。ふて腐れていると、堅治が余計に笑った。
 あとで絶対返すから、と宣言してとりあえずは財布を鞄にしまう。二人分のチケットを堅治が係の人に渡すと、にこやかに対応されていた。わたしが堅治のことを好きだからそう思うのかもしれないけど、堅治ってかっこいいから店員さんが優しいんだよね。特に女性店員さんは。ちょっとだけ、やきもちを焼いてしまう。堅治も堅治で外面がとんでもなくいいから店員さんには優しくにこやかだし。わたしに向ける笑顔と違う爽やかな笑顔だから、なんか、ずるいって思うことがたまにある。
 入ってすぐ、大きな水槽が目の前に見えてきた。悠々と泳ぐ魚が照明をきらきら反射させている。きれいだね、と堅治に言ったら「うん」とだけ返ってきた。小さい子どもがたくさんいるからあんまり前には行けないけど、離れていても十分きれいだ。渦のように泳ぐ魚や、ダンスをしているように泳ぐ魚。青色の光の中で楽しそうにしているように見える。優しい光がとても気持ちを落ち着かせてくれて、自然とお互い無言になってしまった。
 前にいた人たちが移動していった。堅治がわたしの手を引っ張って少し前に行く。わたしは子どもか。まるで親が「ほら、前で見てごらん」というような感じだったから、おかしくて。一人で笑っていると堅治が「水族館好きだっけ?」と的外れなことを聞いてきた。そうじゃない、けどそういうことにしておきます。こっそりそう思っていると、堅治が不思議そうな顔をしていた。
 大きな水槽の前にはやっぱりたくさん人が集まってくる。わたしたちもしばらく見てから順序に沿って移動していくことにした。小さな水槽がたくさんあるところ、ちょっと変わった生き物が集まっているところ、カピバラやカワウソがいるところ、などなど。順番に見て回って、途中にあった段差が座るところになっている水槽の前で休憩することにした。
 目の前の水槽でイルカが泳いでいる。それがかわいくて写真を撮っていると、堅治のほうからもパシャッとシャッター音が聞こえた。ここまで一枚も写真を撮っていなかったのに、イルカ好きなのかな。そう思って「かわいいね」と声をかけつつ顔を向けると、カメラのレンズがこっちを向いていた。

「イルカ撮りなよ! なんでわたし?!」
「別に何撮ってもいいだろ」
「いいけど! 撮っても面白くないじゃん!」
「うるせーよ、静かにしろ」

 堅治がスマホを自分とわたしの間に置いた。またタイミングを見て撮ろうとしてる。絶対油断してやらないからな。内心でそう思いつつも、やっぱりイルカがかわいくて。じっと見ていると、堅治がまたスマホをこっちに向けてきたのが分かった。先回りして手で顔を隠してやる。それでもシャッター音がパシャリと聞こえた。なんでそれでも撮るの。顔を向けないままにそう思っていると「ほら、きれいに撮れた」と得意げにスマホの画面を見せてくる。見てやると、顔をこっちに向けているイルカの写真が上手に撮れていた。

「自分のこと撮られてると思っただろ。だっせ〜」
「……意地悪なんですけど」
「お前が撮らせないのが悪い」

 またスマホを置いて、組んだ足で頬杖をついた。イルカをぼうっと見つつ、堅治が「腹減ったら言えよ」と言った。もう頭の中に飲食店の場所は入っているらしい。頼もしいじゃん。ちょっと見直しつつ「うん」とだけ返す。
 二人で黙ってイルカの水槽を見つめながら、しばしの沈黙。堅治はいつもやかましいし、わたしもうるさいほうだけど、不思議と黙っていても気まずい雰囲気にはならない。なんか、呼吸が合う、というか。なんと言い表せばいいのか分からない心地よさが昔からあるのだ。堅治にだけ。だから、こっそり好きだった。もしかしたら、好きだからそう感じるのかもしれないけれど。どちらが先かなんて話はナンセンスだと思うのだ。どちらも結果は同じなのだから。

「お前さ」
「……なに?」
「俺のどこが好きなわけ」
「へ?」
「だから、俺のどこを好きになったんだよって聞いてんだよ」

 顔をこっちに向けないまま、そうぽつりと聞かれて驚く。固まってるわたしに堅治が「お前には結構きつい言い方すんだろ、俺」と言ったものだから、余計に驚いてしまった。自覚あったんだ! そんなリアクションを取ったら堅治に軽く頭を叩かれた。
 堅治のどこが好き、か。考え出してみると、自分でも笑ってしまう。基本的にわたしのことを馬鹿にしてくるし、付き合ってから言われないけどブスだのデブだの言われたし、意地悪ばかりされてきた。なんでそんな堅治のことが好きなのか。言われてみれば難しい問題だ。
 けれど、わたしのことをものすごくよく見ていて、わたしの癖や好きなものを覚えていてくれて、わたしの行動をいつも先読みしてくれる。そういうのがとても、優しいなと思うのだ。堅治は嫌々やっているのかもしれないけれど。ドジをしてもヘマをしても、堅治だけはそれを予想してくれて、対処もしてくれるというか。本当の意味では馬鹿にしていないと思うのだ。だって、本当に馬鹿だと思っていたら、もうとっくに見放しているに違いないから。
 堅治だけがわたしの世話をしてくれるから、なんて理由ではない。堅治だけが、わたしの、そういう情けないところを、笑いつつも受け入れてくれたのだ。忘れるといけないからこうしろ、どうせ忘れてくるから俺が持ってく、みたいに。見捨てるんじゃなくて寄り添ってくれるというか。なんて言えばいいのかやっぱり分からないけれど。直せ、とは言う。でも、そのままでもまあ仕方ない、と思っていてくれているのが分かる、というか。
 それをまとめて一言にしようと思うと、難しい。難題だ。ウンウン悩んで、結局思いついた言葉は、とてもありきたりなものだった。

「優しいところが一番好き」
「……ドMかよ」

 そう呟いた堅治がそっぽを向いた。あ、耳が赤い。ありきたりな答えなのに照れてるの? そんなふうにからかってやったら「うるせえよ馬鹿」とちょっと弱々しい声で返ってきた。それを余計にからかうと、堅治が急いで立ち上がる。「もう次行くぞ」と早口で乱暴に言った。照れてる照れてる。ずんずん歩き始めた堅治の背中を見て一人で笑う。「早く来いよ」と少し振り返った堅治に「はいはい」と返して、座っている段差に置いていた自分のスマホを手に取った、ら。わたしのスマホの隣に、見慣れたスマホ。それをじっと見つめていると、堅治が「おい、置いてくぞ」と声をかけてきた。まさか、これをわたしが言うときが来るなんて。きっと笑っているであろう顔を上げて、見覚えのあるスマホを持ち上げる。それを見せながら「堅治」と声をかけた。


「スマホ忘れてる!」

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