※前作「この海はぼくと世界で続く」の続き。
※社会人設定です。前作は完結前に書いたものです。




 ぐず、と鼻をすする。もうやだ。仕事辞めたい。真っ暗な部屋の中で一人でそう呟いた。
 仕事でミスをしてしまった。自分で言うのもなんだけれど、普段わたしはあまりミスをしない。書類の誤字脱字はもちろん提出期限も破ったことがないし、発注ミスや日程ミスをしたこともない。やったことがあるものといえば、新入社員のときに得意先の名前を間違えてメールを送ってしまったことくらいだ。多くの人は笑って許してくれることだろうけど、送ってしまった相手が気難しい人でこっぴどく文句を言われたし、上司にもすごく怒られた記憶がある。それから絶対にメールを送る前に三回確認するようになった。それがトラウマで、絶対ミスはしない、と心に誓って二重三重にチェックをするようになったから、本当に入社してからしたミスは両手で数えられるくらいだと思う。
 それなのに。上司に頼まれて作った書類。それに差し込んだ資料が別の企画書で使うものだったのだ。言い訳だけれど、上司から渡された資料をそのまま差し込んだものだ。ちゃんと確認すれば関係がないものだと分かったけれど、上司から渡されたものだったから疑わずにそのまま差し込んでしまって。わたしから書類を受け取った上司が提出前に気付いて激高してきた、というわけだ。そもそも、資料を間違えてわたしに渡したのは上司なのに。明日の朝には必要だから、とわたしを怒鳴りつけて上司は退勤していった。それを見ていた先輩が「運が悪かったね」と励ましてくれた。でも、どうしても、納得できなくて。
 わたしが確認しなかったのはもちろんれっきとしたミスだ。ちゃんと資料が間違っていることを指摘すべきだった。でも、上司も間違えた資料を渡すミスをしているのだから、あそこまで激高されるのは、どうしても納得できない。あんなふうに怒鳴られるなんて理不尽だ。そう思う。でも、社会人というのはこういうとき、何も言えない。上司には何も言えないものなのだ。悲しいけれど。
 ミスばかりの社員ならまだしも、今までほとんどミスをしてこなかったのに。どうしてあそこまで言われなきゃいけないの。そんな子どもみたいなことを考えていたら、なんだか泣けてきて。これまでミスをしないようにしてきた努力が、今日一回のミスで全部無駄になってしまった気がした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「片付いてないけど、どうぞ〜……」

 なんとなく気恥ずかしそうに瀬見がそう言って、ドアを押さえてくれる。わたしもちょっと気恥ずかしく思いつつ「お邪魔します〜……」と言って中へ入ると、静かにドアがしまった。
 高校時代の同輩の瀬見と付き合い始めて、一ヶ月が経った。お互い社会人だし、そもそもわたしは残業続きのOLだ。付き合い始めてからは三回しか瀬見には会えていなかった。日曜日の今日はどうにか予定を合わせられた。どこか出かけるかと思ったら、瀬見が「うち来る?」と誘ってきた。そのワードを聞いて、正直、ちょっと。え、と思ったな。いや、理由は言わないけれど。
 正直なところ土曜日出勤が続いていて疲れていたし、出かけるよりはゆっくりできたほうが有難い。そう思って瀬見の提案に乗り、こうして瀬見の家にお邪魔しているという状況だ。一人暮らしの男の人にしては玄関に靴がある。好きなものが多い瀬見らしい玄関だな。そう微笑ましく思っていると「今なんか笑っただろ」と恥ずかしそうに言われた。
 片付いてない、なんて嘘ばっかり。本当は昨日ものすごく急いで掃除をしたに違いない。靴箱がほんの少しだけ空いている。慌ててものを詰めたからつっかえているに違いない。きっと部屋もそんな痕跡が残っているのだろう。かっこつけめ。高校のときから変わってないね。そんなふうにおかしかった。
 部屋に入ると、思った通りの部屋でついに笑ってしまった。瀬見がそれを「なんだよ?!」と恥ずかしそうにするものだから慌てて「いや、瀬見らしい部屋だなって」と言葉を付け足す。瀬見は「どんな部屋だよ」と言いつつ、飲み物を出してくれた。

「なんか食べたいとかある?」
「今のところ大丈夫。ありがとう」
「ん」

 ソファに座らせてもらうと、すぐ近くにギターが置いてあるのを見つけた。そういえば趣味でバンドをしていると聞いたことがある。インテリアではなくて現役で使っているものなのだろう。高校生のときから誰よりも音楽に詳しかったし、瀬見が好きだという曲やバンドは知らないものばかりだった。それでも楽しそうに話す瀬見を見ていたらこっちまで楽しくて、つまらない話だと思ったことはなかった。瀬見と話したらみんなそう思うだろう。それくらい楽しそうに話す人だから。

「瀬見ってSNSとかで歌ったりしてないの?」
「え、したことないけど……なんで?」
「してたら女の痕跡とか残しちゃだめだなと思って」
「いやなんでだよ」

 笑いながら隣に腰を下ろす。SNSは拡散力がすごいから女の子のファンがつくだろうし、今のバンドにだって女の子のファンがいるんじゃないの。そんなふうに聞いたら「いやいや、マジで趣味だからファンとかいないって」と恥ずかしそうに言った。

「それにSNSって一回投稿したらずっと残るだろ。なんだかんだどんな形であれ」
「そうだね?」
「さすがに特定されそうなことを投稿するのは避けたいというか……」
「……真面目なバンドマンだね?」
「バンドマンが真面目でもいいだろ」

 そういえば瀬見は妙に硬派で真面目なところがあるんだった。失礼しました。茶化すようにそう謝ったら「うるさい」と恥ずかしがられた。今後バンドだけでやっていくなら話は違うけど、今は趣味でやっているからネットに出すつもりはない、と笑いつつ教えてくれた。
 わたし、瀬見の歌は聴いたことがないな、そういえば。ぽつりとこぼす。瀬見はそれに一瞬固まってから「いや、さすがにここで歌わないからな?」と先手を打ってきた。ちょっとだけ、とお願いしてみると瀬見が「いやいや」とギターを見つつ首を横に振った。

「…………え、言っとくけど、そんなに上手くないからな?」
「別に上手くなくていいよ。瀬見声かっこいいし」
「……」
「なんで照れるの」

 わたしまで照れるじゃん。そう肩を小突くと、瀬見が「本当にちょっとな」と言いつつ、ギターを手に取った。よく音楽ができる男の人はモテる、と言うけれどはじめてその意味が分かった。ギターを持つと本当にかっこよく見える。元々瀬見はイケメンだといろんな人から言われていたし、実際高校時代はモテていたほうだ。それでも、ギターを持つと余計に、というか。もしかしたらこんなことを考えているのはわたしが浮かれているからかもしれないけど。
 何が聴きたいか、と聞かれた。最近の音楽はあまり知らない。だから、高校時代に好きだった歌をリクエストしてみた。瀬見は「うわ、懐かしい」と笑ってからギターを軽く弾いた。

「え、何も見ないの?」
「その曲なら知ってるし、自己流でならそれなりに」
「……瀬見、今ものすごくかっこいいよ」
「なんだよ急に! 嬉しいけど!」

 笑いつつイントロを弾いている。不思議だ。ギターを弾いているだけなのに、指がとてもきれいに見える。じっと見ていると瀬見が小さく笑った気がした。優しいギターの音を聴きつつ瀬見の指を見つめる。わたしって単純な女だったんだな。かっこいい、なんて思ってしまっている。
 近所迷惑にならない程度のギターの音に合わせて、静かな瀬見の歌がわたしにだけ聞こえる。確かに、わたしよりは絶対上手だけど、すごく歌が上手というわけではないのだろう。それでも、優しい声は十二分にかっこいいと思えるものだった。それに、なんだか最近ずっと重たかった心が、ちょっと軽くなった気がした。
 この歌は失恋ソングだ。相手の嫌いなところを挙げていって、だから別れよう、という歌。その嫌いなところがとても細かくて、相手のことをよく見ていると伝わってくる。きっと好きなところだっただろうに、いつしか嫌いなところになってしまったのだ、と分かる歌になっている。嫌いなところがたくさんできて別れたけれど、それはすべて大好きだったもの。そういう切ない歌だ。
 瀬見がサビに差し掛かる手前で止まった。「どうしたの?」と顔を覗き込むと、少し難しい顔をして「これさ、失恋ソングだろ」と大真面目な顔をして言う。

「なんか……今歌うの、縁起悪くないか……?」
「え? そうかな?」
「言霊になりそう……」

 難しい顔をしてそう呟いてから、瀬見が「ああ、じゃあ」とひらめいた顔をした。何か別の歌にしてくれるのだろうか。そう首を傾げていると、また同じ曲のイントロを弾き始めた。一緒の曲じゃん。何が違うの? 余計にわけが分からないまま聴いていると、Aメロがはじまった。歌の主人公である女性が男性の嫌いなところを一つ一つエピソードと一緒に挙げていくのだけど。
 瀬見が歌詞を間違えた、と思ったら「ん?」と思わず声が出た。歌詞が全部違う。というか、これ、替え歌なのでは。主人公が女性でもない。男性が女性の嫌いなところ、ではなく、好きなところをエピソードと一緒に挙げていく、ラブソングに変わっていた。しかも、そのエピソードが、身に覚えのあるものばかりで。

「ちょ、ちょっと、それ! 替え歌! やめて恥ずかしいから! 絶対黒歴史になるから!」

 瀬見は笑いながらもやめない。しっかりリズムに合わせてわたしの好きな細かいところを挙げていく。本当に恥ずかしい、そんなつもりでリクエストしてないから! そう瀬見の肩を揺さぶるけどなかなかやめてくれないままだった。
 サビに入ってしまった。もう! そんなふうに怒っていると、瀬見がサビの一番いいところで「でも、人に頼れないところだけは好きじゃない」と歌った。そこで曲が終わって、ギターの音も止まる。瀬見は笑いながら「黒歴史って。ひでーな」とギターを元の位置に戻す。

「なんですか、今のは」
「怒んなって。失恋ソングだと嫌だったからちょっと変えただけだろ」
「ちょっとどころか全部違ったけど?!」

 上機嫌に笑いながら瀬見がわたしを宥めるように背中を軽く叩いた。それに拗ねつつ「最後だけ好きじゃないところだったんですけど」と文句を付けておく。あの場面は全部好きなところを教えてくれるものじゃないの。なんで最後だけ好きじゃないところなの。そんなふうにぶつくさ文句を言うと、瀬見が一つ息を吐いた。

「だって、すぐ我慢するだろ。何かあっても自分からは言わないし」
「……何もないから言わない、とは思わないの?」
「何もなかったらこの前電話したとき、あんな暗い声にならないだろ」

 今日の約束を取り付けた日のことを言っているのだろう。あの日はまだミスをして上司に怒鳴られたことを引きずっていて、なかなか一人では元気を出せなかったから。わたし、今まで何頑張ってきたんだろう。そんなふうな思いが消えてくれなくて毎日暗い気持ちで過ごしていたから。
 瀬見は声だけでそれが分かったのだろう。まだ付き合って一ヶ月しか経っていないのに。もしかして、高校時代からそういうのを敏感に感じ取ってくれていたのだろうか。思い起こせば困っていると瀬見が声をかけてくれることが多かったっけ。よく見ている聡い人、と思ったことは何度もある。

「疲れる感じもあったし、家でゆっくりしたほうがいいかとも思ったけど」
「……うん」
「まあ、その、俺が会いたかったから、中間を取って家に呼んでみた、って感じ」

 照れながらそう言った瀬見は、目を逸らして「別に何があったとは無理に聞かないけど」と呟く。一ヶ月前、二人でドライブをしたときもそうだった。瀬見は無理にわたしのことを聞き出そうとはしてこなかった。大丈夫か、と声をかけてくれるだけ。それでもわたしは十分嬉しかったし、見ていてくれる人がいるのだと心強かった。
 付き合い始めてまだ三回しか会っていないから、もちろん恋人らしいことはまだまだ何もしていない。だから、今日家に呼んでくれたのは、なんというか。下心があるのかとちょっと疑ってしまっていた。別に嫌というわけじゃないけど、ちょっと早いなあ、なんて不安に思っていたのだ。恥ずかしい勘違いをしてしまった。瀬見はただ、わたしのことを思ってくれていたのに。早とちりしてしまった自分が恥ずかしい。
 恋人らしいことをしたのは、手を繋いだのが最後だ。あのときは二人で照れまくってしまって、しばらくは上手く話せなかった。でも、温かい手だった。大きくて優しくて。好きだな、と思った。

「瀬見」
「ん?」
「ちょっと、一回、抱きしめてもらっていいですか」
「……い、いいです、よ」

 お互い照れてぎこちない敬語になってしまう。それだけ友達期間が長かったから仕方がないのだ。瀬見が「はい」と照れくさそうに両腕を広げた。わたしも照れつつ、そっとその腕の中に収まってみる。思った通り、温かい。いや、ちょっと熱いくらいかも。でも、やっぱり好きな体温だった。
 仕事の愚痴は、正直二人で会っているときは言いたくない。せっかくなら楽しい話がしたいし、これからいくらでも愚痴がこぼれてしまう瞬間なんてあるだろうから。言わなくても我慢できる間は、言わずにいたい。そう瀬見には伝えなかったけれど、たぶん瀬見は分かってくれているのだろうと思う。だから無理に聞かずにいてくれるのだ。

「……あのさ」
「……なんでしょう」
「これから、じゃなくて、って呼んでいいか?」
「……お好きにどうぞ、英太さん」

 わたしを抱きしめたまま笑った瀬見、改め英太は「なんか変な感じ」と満足そうに言った。恥ずかしい。ちょっと顔が熱くなりながらも腕の力は緩めない。落ち着く。今までの嫌なことが全部、この瞬間はどうでもよくなるくらい。不思議な力があるんだよなあ、昔から。
 ぽつりと「またさっきの歌、いつか歌って」と言ってみる。恥ずかしかったけれど、正直嬉しかった。細かいところまでわたしのことを見ていてくれてて。好きじゃないところも愛を感じたから。本当に恥ずかしいから、たまにでいいけれど。そんなふうに言ったら「え、何なら今からもう一回歌おうか?」と片手でわたしを抱いたままギターを手に取ろうとするものだから全力で止めた。
 きっと、歌って、とお願いしたらいつでも歌ってくれるのだろう。いつも違う歌詞で、一つも同じ歌詞はない替え歌を。そういう人だから。そういう人だから好きになったのだ。わたしは。
 英太の奏でるギターも、歌声も。世間一般的には上手いとみんなが言うものじゃないかもしれない。好きじゃないと言う人もいるかもしれない。それでも、わたしは、英太が聴かせてくれる音楽が好きだよ。ちょっと恥ずかしかったけど。恥ずかしげもなく堂々と、愛を歌う英太の声が、好きだよ。聴いているのがわたし一人だとしても、きっとずっと、飽きずに聴かせてくれる。そんな英太が、好きだよ。本人には絶対言わないけれど、こっそりそれを伝えるように、少しだけ英太の髪を撫でるように触ってみた。それに対して英太は「あ、やっぱ切ったほうがいいよな」と苦笑いをこぼした。違うわ! そんなふうに全力でツッコミながら大笑いしたら、英太は首を傾げていた。


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