※前作「忘れられないフィナーレ」の続き。




 夏の終わりの通り雨。涼しい風と少しのもの悲しさを感じながら、更衣室の前で一人途方に暮れてしまう。空は晴れているけれど、とんでもない土砂降りだ。
 どうして途方に暮れているのかというと、答えは簡単。傘を持っていないからだ。いつも鞄に折りたたみ傘を入れているのに今日に限って入れていなかった。置き傘もしていないし、夏休み期間中なので一緒に帰る友達もいない。ここで大人しく雨宿りをしているしかない、というわけだ。
 幸い、今日の部活は午前で終わっている。ちょっとくらい学校で雨宿りしても帰りが遅くなる心配はない。きらきら光る雨粒を眺めていればすぐに時間が経つだろう。そんなことを考えつつ、鞄からとあるものを取り出した。
 母が、自分はもう使わないから、と小さな香水をくれた。かわいい見た目のそれは母が数年前に買ったものだという。何でも限定品という言葉に釣られて買ったものの、かわいすぎて使えなかったらしい。「こういうのに興味が出てくる年頃でしょ」と言ってくれたのだ。あまりにかわいいから眺めているだけで楽しい気持ちになれる。こうして鞄に入れてたまに少しだけつけている。
 しゅっ、と着替えたばかりの服に吹きかけてみた。いい香り。ちょっと大人っぽくなれた気がして、何が起こるわけでもないのにわくわくする。軽やかな甘い香りをかすかに感じつつ空を見上げた。

「傘ないの」

 びくっと肩が震えてしまった。顔を左側に向けると、先ほどまで一緒だったバレー部の人が数人。その中の一人、研磨が声をかけてきたのだ。一緒にいる夜久さんが「誰かと待ち合わせ?」と聞いてきたので、素直に傘がないことを白状した。通り雨だししばらく雨宿りです、と笑って。
 夜久さんが「駅までだろ? 入ってく?」と言ってくれた。でも、かなり激しく降っているし、確実に夜久さんが雨に濡れてしまう。そう分かったから「大丈夫です。無理そうだったら友達の置き傘借りるので」と言ってみる。夜久さんは少し考えたのち「それならいいけど」と言った。
 夜久さんたちが「じゃあ、本当にいいんだな? 帰るからな?」と言いつつ歩いて行く。それに笑って大丈夫大丈夫、と伝えて、ようやくみんな背中を向けた、と思ったら。

「……研磨、帰らないの?」
「ゲームやってく」
「黒尾さんに怒られるよ〜」
「今いないからいいじゃん」
「あ、そういえば。なんでいないの?」
「まだ部室にいる。先に帰ってろって言われた」

 まだ数人部室に残って何かしているらしい。研磨はそそくさと帰る部員の輪に混ざってきたのだとか。その説明をしながら傘を畳み、適当に壁に立てかけると、わたしの隣に立つ。鞄からゲーム機を取り出すと当たり前のように電源を入れた。それを見た夜久さんたちは「じゃあ、気を付けてな」と言って帰っていった。

「何するの?」
「先週発売されたばっかりのやつ」
「へー。見ててもいい?」
「いいよ」

 横から研磨のゲーム機を覗き込む。普段あまりゲームをしないから、研磨がゲームをしているところを見るのが好きだ。自分の知らない世界がこの小さな画面に広がっていて、研磨はこれに夢中なんだなあと不思議な気持ちになるから。
 軽快なリズムの音楽。ザアザアうるさい雨音。不思議とそれを操っているように思える緩い研磨の雰囲気。不思議な感覚だ。研磨といるといつも不思議な感覚に陥る。なんだか、のほほん、としてしまうというか。これが俗に言う一緒にいると落ち着く、というやつなのだろうか。これまでの人生ではあまり感じたことがないものだ。
 研磨の華麗な指さばきでどんどん敵がなぎ倒されていく。たぶん研磨ってゲームがうまいんだろうな。あまりよく知らないわたしから見てもそれは明らかな気がする。将来これを仕事にしちゃったりして。さすがの研磨でもそれは無理か。そんなふうに一人で笑ってしまった。
 画面の中がとんでもない大荒れのサイケデリックカラーに包まれている。研磨、何か裏技とか使ってないよね? そんなことを考えながらぼうっと見ていると、どうやら一つの山を越えたらしい。研磨がキャラクターを移動させながら、ちらりとこちらを見た。

「ん? 何?」
「……なんか」
「なんか?」

 すん、と研磨が鼻を鳴らした。「何?」ともう一度聞いてみる。研磨はゲームを片手間に操作しながら、わたしの顔を覗き込むように少しだけ顔を近付けてきた。それからじいっと観察したのち、「何かつけてる?」と聞いてきた。何かつけてる、とは。特にアクセサリーは付けていないけど。そんなふうに首を傾げると「そうじゃなくて、匂い」と付け足してくれた。

「ああ! さっき香水つけたの。ちょっとだけね」
「ふーん……」
「え、臭い?!」
「いや、そういうわけじゃない」

 じいっと観察してくる。匂いが目に見えているのか、と思うほどの観察ぶりに少し照れてしまう。そんなに見なくても。たじたじしていると、研磨がまた鼻を鳴らした。変な匂いなのだろうか。わたしは好きだけど、男の人は香水の匂い好きじゃないって人結構いるもんなあ。
 猫背になっていた研磨の背中がぐっと伸びる。やっぱり、意外と、背が高く見える。いつも背筋を伸ばしていればいいのに。ものすごく背が高いわけじゃないけど、しゃんとしたほうが絶対かっこいいのになあ。やっぱりもったいない。
 そんなことを考えているわたしをまだ観察してくる。やっぱり臭いのでは? そんなふうに思わず苦笑いをこぼしてしまう。研磨はわたしの苦笑いなど何処吹く風、といった様子。これっぽっちも気にせずに見つめてくるものだからちょっと困ってしまう。
 一体わたしの何が気になっているのだろうか。いつもと違うのは香水をつけているところくらい。きつい匂いのものじゃないし、お父さんも良い匂いだって言っていたから男の人が嫌いな匂いというわけでもないだろうけどなあ。研磨はあまりお気に召さなかったのかな。
 研磨の瞳を覗き込みながらそんなことを考えていると、金色の髪が一本一本きらきら光った。きれいだな。単純にそう思いながら見つめていると、研磨の顔が少し近付いてきた。びっくりして後退りそうになった、けど、いつの間にか研磨に腕を掴まれていて。うまく逃げられない。どういうつもりなんだろう?! どぎまぎして「あの、研磨」と声をかけてみた。でも研磨は特に反応を示さない。どんどん顔が近付いてきて、ぶつかっちゃう、と思った瞬間にぎゅっと目を瞑ってしまった。

「こっちのほうが好き」

 研磨の穏やかな声に目を開ける。研磨の髪だけが見えていて、どうやらわたしの髪に鼻を近付けているらしいことが分かった。び、びっくりした。キスされるのかと、思ったよ。そうほっとしていると研磨が顔を上げて「え、なに?」と首を傾げていた。そんなふうに思っていたと気付かれるのが恥ずかしくて「ううん、別に」と慌てて笑っておいた。

「そっかあ、研磨はこの香水好きじゃないんだね」
「いや、好きじゃないとかじゃなくて」
「うん?」
の匂いのほうが好きってだけ。その香水? の匂いも嫌じゃないけど」

 びっくりして固まってしまう。そんなことを、研磨が言うなんて夢にも思わなかったから。研磨は小さく笑って「なんで驚くの」とおかしそうに呟く。そりゃ驚くよ。研磨、そういうのキャラじゃないもん。誰も予想していなかったよ、きっと。
 研磨は「そんなに驚かなくてもいいじゃん」と小さく笑う。ゆっくりわたしから少し離れた。それから、いつの間にか電源を落としたゲーム機をリュックに後ろ手でしまう。一つ伸びをしてあくびをこぼすと、瞬きをしてからまたこちらを見つめた。

って、一緒にいると落ち着く」
「……け、研磨って、わたしのこと、結構好きだったりする……?」
「今更気付いた?」

 研磨が壁に立てかけた傘を手に取る。「だから一緒に帰ろ」とまたあくびをこぼしつつ言う。ばさっと傘を広げるとぽたぽた水滴が落ちた。ちらりとわたしに視線を向けて「ほら」と言う。その言葉に誘われるようにおずおずと研磨の傘に入る。そんなわたしを見て研磨は満足そうに笑い、ゆっくりとまだ雨が降っている空の下を歩き始める。その歩幅はわたしが違和感なくついていけるもので、どうにも、気恥ずかしくて仕方がなかった。


忘れたくないプレリュード

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