暑すぎる。死ぬ。冗談抜きで。そう真顔で呟いてしまうレベルの熱暑に項垂れながら歩いている。
 夏休み期間中、少し離れた学校に練習試合に出向くことになった。その学校はなかなか辺鄙なところにあって、なんと最寄り駅から二十分歩かなくてはいけないという苦行が必須。通常であればスクールバスが駅から出ているらしいのだけど、夏休み期間中は運休。とんでもなくタイミングが悪い。
 今日は元々天気予報でもかなり暑くなると言われていた。熱中症に注意、と監督からも言われていたほどだ。その中を歩かなければいけない、ということで、気を利かせてくれたコーチが「日傘でも持ってきたほうがいいかもな」と言ってくれていた。部活の移動中に日傘を差すって変じゃないかなあ。帽子とかのほうが良いのでは。そう思いつつ、普段からあまり帽子を被らないからいいものがなくて。母親の小さめの日傘を借りてきた。
 これは結構いいかもしれない。日傘を差して五分が経過してそう感じた。暑いことには暑いけど、痛い暑さはないというか。街中で日傘を差している人に対して邪魔じゃないのかな、と思っていたけど、これは確かに差したくなるかも。

「ねえ」
「うわっ、びっくりした」
「それ涼しい?」

 突然後ろから研磨が話しかけてきた。止まらない汗にうんざりしているらしい。じいっとわたしの日傘が作る影を見ている。「そこそこ。入る?」と聞いてみたら「うん」とすんなり中に入ってきた。

「いや、日傘で相合い傘ってある?」

 黒尾さんがけらけら笑うのを研磨が「いいじゃん別に」と言いながら追い払うようにする。他の人たちもそれを見て笑ったけど、特に研磨は気にしない様子だった。
 バレー部にマネージャーとして入って、一番困ったのが研磨との距離の詰め方だった。はじめの頃は全然目を合わせてくれないし、話しかけても反応が薄いし。人見知りというやつなのだろう、ということはよく分かった。まあ、研磨だけじゃなくて山本と福永もかなりの曲者だったけど。
 研磨と仲良くなれたのは半年が経った頃。ようやく普通に話してくれるようになり、何なら研磨から話しかけてくることも増えた。「研磨でいい」と言われたから下の名前で呼ぶようになったし、研磨もわたしを下の名前で呼ぶようになった。黒尾さん曰く、研磨がこんなふうに仲良くしている女子は見たことがない、とのことだった。ちょっと嬉しかった。

「結構涼しくない?」
「まあ、ないよりはマシかも」
「でしょ?」

 それにしても猫背がすごい。研磨の丸まった背中を見つつちょっと笑ってしまう。本当に、猫がそのまま人間になったみたいな人だな。こっそりそんなふうに思っていると、研磨が何を思ったのか日傘の柄を握った。持ってくれようとしているらしい。いいのに。それに、研磨ってそういうキャラじゃないじゃん。そんなふうにからかったら「交代で持つよ」と言った。
 まあ、ご厚意には甘えておこう。手を離して「じゃあ次の曲がり角で交代しよ」と言ったら「うん」と静かな返事があった。それからすぐ、猫背だった研磨の背中が、ぐっと伸びた。

「何?」
「研磨ってわたしより結構大きいんだなって」
「そりゃそうでしょ。一応男だし」
「一応なんだ」

 笑ってしまった。研磨は何でもない顔をして前を見たまま「でも、まあ確かに、って意外と小さいよね」と言う。小さいって。女子の平均身長なんですけども。
 研磨が持ってくれている日傘の向こう側、今日は雲が多めの空だ。水色でもなく青色でもなく。澄んでいるけど濁ってもいて、何となくどこまでも続く広さを感じるというか。それを貫くような眩しい太陽の光。うーん、夏の空って感じだ。そりゃあ暑いよなあ。汗が止まらないのも普通だし、暑さにうんざりするのも仕方がない。
 日傘に二人で入っていたら、当たり前だけど暑さが増す。それなのに、研磨が隣にいるのは別に嫌じゃない。人の体温をなんとなく感じるけど嫌な熱さじゃない。不思議だ。研磨は元々落ち着いていて、クールとはちょっと違うけど独特な静けさを持っている。妙に涼やかで、妙に穏やかで、妙に心地よい。そんな不思議な雰囲気を持っている人だとわたしは思う。

「あ、じゃあ交代ね」
「ん」

 研磨から日傘を受け取る。それと同時に研磨の背中がまた丸まった。ずっと伸ばしていればいいのに。そう研磨のリュック越しに背中を叩いてみる。研磨は「しんどい」と言うだけで伸ばそうとはしなかった。
 ちらりと研磨の視線がわたしのほうに向いたのが見えた。「ん?」とわたしも研磨の顔を見ると「別に」と目を逸らされてしまう。なんだったんだろう。研磨とはたまにこのやり取りをしている。でも、いつも「別に」とはぐらかされてしまう。
 日傘がひっくり返るかと思うほどの風が吹いた。思わず「わっ」と声を上げてしまいつつ顔を背ける。砂埃が結構飛んできた。他の人も「お」と思わず声を上げるくらいの突風だ。研磨も「うわ」と嫌そうな声を上げた。木に囲まれている道だから葉っぱも飛んでくる。髪の毛ぐしゃぐしゃだよ。そんなふうに小さくため息を吐いたとき、わたしの背中をそっと研磨が支えてくれた。

「ごめん、ありがとう。ちょっとびっくりしちゃった」
「飛んでくかと思った」
「……研磨もそういう冗談言うんだね?」
「そう言われると恥ずかしくなるからやめて」

 ちょっと顔が赤い。照れているようだ。あまり見ない表情。ちょっとかわいい、なんて思ってしまった。
 研磨の手が背中から離れていく。ぼんやり温かさが残る背中。暑い、とかそういう感じじゃない。温かい。嫌な温度じゃないというか。変なの。

「傘貸して」
「え、でもまだ代わるところじゃないよ?」
「いいから。もう代わらなくていい」
「なんで?」

 風で煽られちゃったから頼りなく思われちゃったかな。情けなく思っていると、また研磨がちらりとこっちを見ているのに気付いた。いつものように「何?」と聞いてみる。また、別に、って言われちゃうかな。そんなふうに笑いつつ。
 研磨は目を逸らさなかった。むしろじいっとわたしの顔を見つめてから、小さく笑った。

「なんでもない」

 そう言った声が、何となく機嫌が良いように聞こえた。その研磨の表情は、まさしく今日の空の色みたいに、不思議なもので。水色でも青色でもない空の色。何色とも表現できない、今日にだけ見られる色。そんな、とても、胸が痛くなるような大事な色に見えた。


忘れられないフィナーレ
空色 × 孤爪研磨 × 日傘

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