※前作「どうあがいても特別」の続き。
※捏造過多です。




「あ、さん! お久しぶりです!」
「五色久しぶり〜! 懐かしいその呼び方〜」
「アッ、そ、そうですよね、え、えっと、牛島さん……?」
「それだと若利と被るね」

 けらけら笑って五色をからかっていると、後ろから若利が歩いて来た足音が聞こえる。それに気付いた五色が「お疲れ様です!」と声をかけた。短く「ああ」とだけ答えた若利がわたしの隣に来ると、ぐるりと個室の中を見渡した。中にはすでに人が集まってきていて、一部はすでに飲み会を開始しているところだ。
 今日は前に若利が言っていた有志の飲み会の日だ。なんやかんやでついてきてしまったのだけど、先ほどから少し肩身が狭いというか。何人か見知った顔がいることが救いだけれど、あまり知らない人からの視線が少し痛い。あの牛島若利の妻らしい、みたいな感じがグサグサと視線として刺さってくる。結婚当初も興味本位の記者が突然家を訪ねてきたり、二人で買い物をしているところを隠し撮りされたりしたっけ。懐かしい感覚だ。あまり好きじゃないから少し困ってしまう。
 五色が他の人に挨拶に行ったので、若利と二人で空いている席に腰を下ろした。緊張する。本当に。今すぐに逃げ出したい。そんなふうに思いながら隣に座っている人とぽつぽつ会話をしている。気になりすぎる。気にしたくないのに。向かい側の席、一番端にいる。佐久早選手。うわあ、今日もかっこいい。そんなふうについつい思ってしまう。どうにか見ないように目を逸らし続けている。
 やっぱり来なければよかったな、なんて思っている自分がいる。若利はわたしが喜ぶと思って連れてきているのだけれど、残念なほどに若利はファン心理を理解していない。ただただ恐縮してしまうだけなのだ。下心で近付いていると思われるんじゃないか、と不安にも思うし。
 ウンウン一人で苦しんでいると、視界の隅っこにいるその人が立ち上がったのが見えた。誰に話しかけに行くんだろう。それともお手洗いとかかな。ファンなので一挙一動がどうしても気になっててしまう。それを申し訳なく思っていると、佐久早選手がぐるりとテーブルを沿って歩き、こちらの列に入ってきた。え、まさか、もしかして。そうド緊張していると、佐久早選手がわたしの後ろを通って、思った通り若利のところで立ち止まった。

「若利くん」
「久しぶりだな」

 マスク越しでも分かる。佐久早選手がほんの少しだけ笑ったのだ。うわ、推しの笑顔。胸が苦しい。そんなことを噛みしめながらひたすらアルコールを摂取することだけを考えた。耐えきれない。斜め後ろに佐久早選手が腰を下ろしたこの状況、わたしはとても正気ではいられない。意識を保つので精一杯だった。
 その場で二人が話し始める、前に、佐久早選手が「この前はありがとうございました」と早口で言った。明らかに声がこちらに投げかけられている。慌てて振り返って「いえ、あの、こちらこそ、ありがとうございます」と早口で答える。汗が止まらない。認識されている。最悪だ。そんなことを考えつつ泣きそうになってしまった。
 若利がじっとわたしのことを見ている。やめろ、余計なことはするな。何も言わなくていい。それを視線で訴えかける。若利は真顔でじっと見つめてから、小さく笑った。どうやら分かってくれたらしい。安心した。

は佐久早の大ファンで、いつも試合を観に行っているそうだ」
「え、ああ、どうも……」
「ちょっと待て若利、ちょっとこっち来い」

 全然分かっていなかった。佐久早選手がいる手前、そう手荒なことはできずに満面の笑みを浮かべて手招きをするしかできない。若利は不思議そうにしつつ「ああ」と言って軽くわたしに近付いてきた。

「言わないでってば、それ! 恥ずかしいって言ってるじゃん!」
「ファンならファンだと言うべきだ」
「この場面でそういうかっこいいことは言わなくていいの!」

 よく分からん、というような顔をされてしまう。若利にファン心理を理解させるのは難しかったらしい。考えに考えた結果、とりあえず佐久早選手にわたしの話題を振るな、という注意に留めておく。若利は心底理解できないという顔をしつつも「分かった」と言ってくれた。
 二人での密談を終えて若利を解放すると、佐久早選手が不思議そうな顔をしてわたしを見た。それから心底分からんという顔をしながら「若利くんがそばにいるのに、なんで俺なんですか」と聞いてきた。話しかけられた上に質問された。もうそれだけで大ダメージを受けてしまう。でも、推しに質問されているのに無視はできない。

「いや、あの、なんでって、言われると、あれなんですけど……」
「負ける気はしないですけど、若利くんもすごい選手だし……そんな応援してもらえる要素が分かんないんですけど……」
「そ、それは、その……」
「……」
「……」
「インハイで見てファンになったと言っていなかったか?」
「若利黙ってて」

 佐久早選手はどうやら分からないことを分からないまま放っておけないタイプらしい。何となく気まずそうにわたしを見たまま黙りこくっている。これは、理由を話さないと、永遠にこの顔をされるやつだ。推しの気まずそうな顔なんて見ていられないに決まっている。それにしても近くで見る佐久早選手、かっこいいな〜!
 逃げ出したいんだか嬉しいんだか分からない状況に感覚が麻痺してきた。少しの沈黙を経てから、そうっと佐久早選手から目を逸らした。

「……な、なんと言いますか……」
「あ、はい」
「すごく繊細で無駄がなくて、それでいて、力強いところが、好きですね……」
「……どうも」
「はい……」

 死にたい。でも生きててよかった。それを噛みしめながら、そっと佐久早選手の顔を見てみる。すると、意外にも佐久早選手は、こんなよく分からないファンに言われただけなのに、照れてくれている様子だった。なにそれ、かわいい。好き。そんな気持ちが溢れそうになるのをぐっと堪えながら、振り絞るように「すごく好きなので、応援してます」と伝えた。もちろん今後若利を利用して会おうとしたり何かしようとしたりはしないです、とも伝えて。佐久早選手は「いやそれは別にそこまで気にしてないですけど」と言って、そっと目を逸らした。耳が少し赤い。かわいい。あとやっぱり瞳がすごくきれいだ。もっとちゃんと見ておけばよかった。
 そんな照れくさい雰囲気を、近くに座っていた古森選手が「お見合いか何かなの?」と笑った。それに佐久早選手が「うるさい。違う。黙れ」と言って立ち上がる。わたしに「ありがとうございます」と早口で言ってから、若利に「じゃあ、また」と言って古森選手のほうへ歩いて行った。
 緊張した〜。そんなふうに一気に体の力が抜けた。思わず床に手をついて一つ息を吐く。でも、若利の言う通り。好きだって伝えられてよかった。思い返してみれば人にそういうことを言った経験はないし、なんだか告白したみたいだったな。あんなふうにどきどきするものなんだなあ。そう苦笑いで呟く。でも、待てど暮らせど若利からの反応がない。「聞いてる?」と声をかけつつ若利を見て、驚いた。

「え、なんでそんなに不満げなの?」
「……別に不満はない」
「どう見ても不満げだよ。何?」

 伝えたほうがいいと嗾けてきたのは若利なのに。わたしがそんなふうに苦笑いをこぼすと、若利は少し考えるように視線を俯かせた。え、やっぱり他の男性選手にキャーキャー言ったの、あんまり良くなかったかなあ。元々この場に連れてきたのは若利だし、言ったほうがいいと言ったのも若利だけれど。無理させたのかな。ちょっと不安に思ってしまう。若利がようやく視線を上げてわたしを見ると、なんだか、珍しい表情を見た気がした。

「……ファンならファンだと言ったほうがいい、とは言った」
「うん、そうだよね?」
「好き≠ニ言ったほうがいい、とは言っていない」
「…………え、一緒じゃない?」
「違う」

 子どもみたいな顔だった。思い通りにならなくて拗ねた子ども。そんな顔はあまり見たことがなくてちょっと固まってしまう。それに言っていることもよく分からないし。だって、好きだからファンなのに。好きだと言うのとファンだと言うのは同じことなのではないだろうか。わたしが首を傾げると、若利はなんだか気恥ずかしそうに目を逸らした。それ以上言葉を出すつもりはないらしい。よく意味は分からないままだったけれど、若利がこんなふうにするのははじめてだ。素直に「ごめんね」と言ったら「いや」と気まずそうな声が返ってきた。

「誰のファンでも構わない」
「あ、ハイ」
「誰のファンでも構わないが、好きだと言うのは、俺だけにしてほしい」

 若利の隣に座っていた宮侑選手が突然「ちょお待って、牛島若利の口からものっそいハズイ台詞聞こえたんやけど!」と顔を真っ赤にして立ち上がった。どうやら聞き耳を立てていたらしい。お酒のせいもあるだろうけれど、それよりも聞いていて恥ずかしさに耐えられなかったようだ。なんか、若利がすみません。そんな気恥ずかしい気持ちになっていると、若利が宮選手に「騒ぎ立てるな」と珍しく注意していた。
 そんなふうに思っていたのか。はじめて知った。佐久早選手のファンだということに嫌そうな感じがなかったから何も気にしていないのだとばかり思っていた。
 若利にとって好き≠ニファンであること≠ヘ違うんだなあ。自分にはない感覚に少し驚いたけれど、それほどわたしからの好き≠特別視してくれていたんだな、と分かって少し照れてしまう。そういえば、わたしも若利からの好き≠ヘなんだか特別に思える。もしかすると、その言葉をわたし以外の人に言っている姿は見たことがないかもしれない。きっと若利は特別だと思う瞬間にだけその言葉を口にするのだろう。そう分かったら、これまで言ってくれた好き≠思い出せることを実感した。全部記憶に残っている。そういうときにしか言われたことがなかったかも、そういえば。
 白い制服のブレザーを思い出した。あの日、まさか告白されるなんて夢にも思っていなかったな、わたし。だって相手があの牛島≠セ。バレーにしか興味がなくて、いつもバレーばかりの人。マネージャーとしてその姿を近くで見てきたから、そんな牛島≠ェ恋をする相手というのはどういう子なのだろう、と気になったこともある。他の部活仲間もそうだったに違いない。だから、まさか、それが自分だなんて思うわけがなくて。部活終わりに声をかけられたときは、きっと部活のことで何かあるのだろうと疑いもしなかった。まだ人がまばらに残っている体育館の隅で「好きだ」と言われたときは、意味が分からなさすぎて固まってしまったことをよく覚えている。思えば、あの好き≠ゥら全部、わたしの中に若利からの好き≠ェ残っているなあ。
 いつから好きだったの、と聞いたことがある。若利はそれには「覚えていない」と言ったけれど、きっと確かに覚えているのだろうと感じた。そのときはどうして教えてくれないの、と少し拗ねてしまった。好かれるようなことをしたり言ったりした記憶がなくて、本当に不思議だったから。何度も聞いてみたけれど、若利はいつも「覚えていない」とはぐらかしてきた。それがムカついてわたしも若利に聞かれたことに何も答えない、という意地悪をしたこともあったっけ。
 でも、今なら分かる。若利にとってその好き≠フ瞬間は、わたしにも教えたくないくらい、特別だったのだろう。だから教えてくれないのだ。この先の人生のどこかで教えてくれるタイミングはあるかもしれない。でも、それはきっと、また特別な瞬間なのだ。だから、きっと当分は来ない。
 それでもいいや、と思える自分がいた。知りたいけれど、若利にとって大事で特別なのなら仕方がない。宝箱の鍵はしっかり閉めたいものだ。わたしだってそう。若利に言いたくないくらい好きなところがいくつかある。言うのがもったいなくて。そういうことなんだな。そう分かることができたこの瞬間も、若利に教えたくないくらい、わたしにはとても幸せなものになった。


どうあがいても幸福

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