※前作「ひとり勝ち」の続き。
※社会人設定。前作を完結前に書いたので捏造ばかりです。




――数年前、大学一年生、春直前

 あー、バイト行きたくない。そんなことをげんなりしながら内心で呟く。店長が嫌みったらしくて嫌な人だし、今日一緒に入る先輩も無駄話が多くて苦手なんだよなあ。あーあ、入るバイト先間違えたな。まあ、こんなことをぼやいてもう半年以上が経っているのだけど。
 高校を卒業して、大学生活をそれなりに謳歌している。嫌なこともありつつも高校より自由な日々を楽しんでいる。バレー部のマネージャーとして賑やかな日々を過ごすのも楽しかったけれど、今は今で別の楽しさがある。アルバイトに愚痴をこぼし、好きな学科授業を受け、レポートに愚痴をこぼし、好きな時間に友達とカフェ巡り。なんていい日々なんだろうか。
 駅についてICカードを改札にかざす。ホームに歩き始めたところで、手に持っていたスマホが震えた。友達からの連絡だろうか。そう思って画面を見た瞬間、思わず足が止まった。「え」という困惑の声が誰もいない改札前に響くと、自分がとても間抜けな声をしていることが嫌でも分かった。
 スマホに表示されていたのは、白布賢二郎、という名前。高校の一つ後輩で、バレー部部員でもある。しかも、電話だった。個人的に連絡なんか取ったことがない。そもそも、白布はどうやらわたしのことが嫌いらしかった。やたらと嫌味を言ってきたり、ことあるごとに突っかかってきたり。かわいくない後輩を通り越して正直あまり関わりたくない後輩、の域に入っていたと言っても過言ではない。
 そんな白布が、なぜわたしに電話をしてくるのか。間違い電話だろうか。いや、それ以前にわたしの番号を登録していたことに驚いている。わたしもどうやって白布の連絡先を登録したのかもう覚えていない。白布が入部したばかりのときに交換をした、ような気がしなくもないけれど。もうこの際それはどうでもいい。今はこの電話に出るかどうするか。そう少し悩んで、時間にまだ余裕があったから出てみることにした。どうせ間違い電話だ。絶対にからかってやる。そう意気込んで、通話ボタンをタップした。

「……もしもし」
『お疲れ様です。白布です』
「お疲れ……え、急に何? これからバイトなんだけど」
さん』
「何?」
『好きです。付き合ってください』

 ホームのほうから電車が到着した音が聞こえた。わたしが乗る電車じゃない。でも、なぜだかその音に急かされた気持ちになってしまう。しばらく黙っているわたしに白布が「聞こえてますか」とため息交じりに言う。それに余計急かされて「白布なんかと付き合うわけないじゃん」と答えて、思わず電話を切ってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――現在、春直前

 休日の今日は朝から戦いだった。連日雨ばかりだった中に突然の晴天。溜まりに溜まっていた洗濯物を一気に済ますチャンスだ。全部今日洗ってやる! 部屋中の洗濯物をかき集めながらそう意気込んで、最後の部屋のドアを開けた。

「ちょっと! もう九時だよ! シーツ洗いたいから起きて!」

 掛け布団を容赦なく剥ぎ取る。眠りこけていた塊がうめき声をあげつつ枕を抱えてガードしてきた。日頃の仕事が大変だと知っているから休日くらい好きに寝かしてあげた気持ちがないわけではない。好きなだけ寝ればいいとは思う。でも、洗濯問題は最優先事項だ。これだけは引けない。寝癖がついている頭をばしばし叩いて「ほら起きるよ!」と声をかけると、その手をがしっと掴まれた。

「起きてる……」
「この状態は起きてるとは言わない。早く起きて。シーツ剥ぐから」

 わたしの手を掴んでいるのを利用して体を引っ張り上げる。のそのそと起き上がった賢二郎はまだ目を瞑ったままだった。「髪の毛すごいよ。直してきなよ」と声をかけると、ようやくゆっくり目が開いた。ぼけっとしたままわたしを見上げると、また目を瞑りやがった。

「おい、こら、寝るな。手伝ってとは言わないから、寝るならソファで寝て」
さん」
「何。何でもいいから起きて」
「眠いです」
「それは見れば分かる。寝るならソファに移動してってば」

 ぽやぽやした声で子どもみたいな駄々をこねる。掴んだままのわたしの手を指先で撫でると、口元だけが小さく笑った。まだ夢でも見ているのだろうか。日頃がよっぽど忙しいらしい。帰りが遅い日が多いし、帰ってくるとすぐにソファに座ってそのまま寝る日もある。大変なんだな、とぼんやりは分かる。でも、まあ、わたしは職場での様子は分からない。家にいるときくらいはゆっくりできればいいな、とよく思う。
 まあ、それとこれとは別。ゆっくりしてほしいとは思うけど、家事全般をしているわたしに最低限の協力はしてもらわないとこっちも保たない。立ち上がる気配がない賢二郎の頭を自由なほうの手でバシンと叩いてやる。「起きろ。さもなくばそのシーツは一ヶ月洗わんぞ」と脅せば渋々ベッドから下りた。

「……起きました」
「はいはい偉いね賢いね。良い子だから大人しくソファで寝てて」
「子ども扱いしてません?」
「そうです。大きな子ども扱いしてます」

 笑ってやる。白布はちょっと不服そうにしつつも言い返す言葉がないらしい。勝った。最近たまに口で勝てるときがあるのが嬉しい。わたしも大人になったってことだな。そう少し得意げになってしまった。
 賢二郎が寝ていたベッドのシーツを剥がしていく。一緒に暮らし始めてから一番はじめにした喧嘩は、この寝室問題だった。わたしは別部屋希望、賢二郎は一緒の部屋を希望だった。それで大喧嘩したっけ。わたしの主張は、そもそも生活リズムが違うし一緒だと後から寝るほうが気を遣うのが目に見えているから別希望というもの。賢二郎の主張は、好きで一緒に住むんだから一緒の部屋希望というものだった。それを聞いたときに真顔で「子どもか」とツッコんでしまったことには未だに恨み言を言われる。大喧嘩の末、一切口を利かなくなったわたしに対して賢二郎が折れ、わたしの希望が通った、という結末になった。
 わたしの部屋のシーツはすでに洗濯機に放り込んである。正真正銘賢二郎の部屋のものが最後の洗濯物だ。これで洗濯物がリセットされる。そんなふうに達成感を覚えつつ掛け布団カバーも剥がしていく。未だに部屋から出て行かずに後ろにいる賢二郎を不思議に思いながらもとりあえず無視。今日はやる気があるし、カーテンも洗えるタイプだから洗ってしまおうか。そんなことを考えている。
 正直、自分がこんなふうに思う人間だとは知らなかった。家事を分担してくれないような男は絶対にろくなやつじゃない、と思っていたし、一緒に住むことになった賢二郎にもそんなようなことを宣言した。だから、いつも大変なんだからゆっくりしてほしい、なんて優しいことが言える人間だなんて思ってもみなかった。きっと内心は賢二郎もそう思っているに違いない。
 犬猿の仲だった後輩と付き合うなんて、高校生の自分が知ったら悲鳴を上げてひっくり返ると思う。だって、高校生のときのわたしの一番のストレス要因だったのは間違いないのだから。そんな相手から卒業後に突然告白されて、断ったのに粘り強く来られたら、頭が大混乱に陥るのは普通のことだ。気付いたら付き合うことになっていたし、一緒に住むことになっていたし、今月末には会社を辞めることになっていた。辞めるつもりはあまりなかったけれど、引っ越した家から職場へ通うのが少々不便なのと、「続けたかったら続ければいいし、そうじゃないなら俺が養う」と言われたから思い切って辞めることにしただけだ。好きな仕事だったら辞めなかったけどそういうわけでもない。何かいいところの話があれば、というくらいの気持ちで次の仕事はのんびり探している。なんて優雅な日々なのだろうか。いや、今は家事と仕事に追われて結構しんどいけれど。

さん」
「何? いいから寝てきなってば。できるだけ静かにするから安心して」
「抱きしめていいですか」
「は?! な、なんで?」

 思わず振り返ってしまった。賢二郎はじっとこっちを見つめたまま真顔。からかったわけでもなく、何の気なしに言ったわけでもないらしい。その視線に捕まってしまうと、逸らすことは難しくて。ぶわっと体温が上がってしまった。

「理由が要るならいくらでも作りますけど」

 寝癖がついたままの人が言うと、ちょっとまぬけに聞こえる。少し笑いそうになったおかげで体が動いた。「はいはい、後でね」と目を逸らす。今は洗濯で忙しいの。そんなふうに理由をつけておく。賢二郎はわたしの顔をじっと見たまま、ちょっと不満げな顔をした。あ、その顔。そんなふうに突然高校生のときのことを思い出した。
 わたしを見るとき、よく不満げな顔をしていた。余程わたしという存在が気に食わないのだろう。そう思って白布≠フ不満げな顔を見るとよくイライラしていたっけ。

「今がいいです」

 駄々をこねるな、いい大人が。そうツッコみつつ、懐かしい思い出をそっとしまい込む。自惚れているとは思う。でも、高校生のときのあの不満げな顔も、今と同じような理由だったのかな。そんなふうに思うとなんだか憎めなくなってしまった。

「十秒でいいんで」
「…………十秒ね。約束だからね」

 剥がしたシーツと掛け布団カバーを一旦置く。仕方なく「どうぞ」と言えば、正面からぎゅっと抱きしめられた。起きたばかりの賢二郎の体温は柔らかな温もりで、じんわり染みるようにこちらに熱を寄越してくる。気を抜くとやる気を眠気に変換されるような感じだ。気を付けなければ。そんなふうに思いながら恐る恐る背中に腕を回した。

「ちょっと。もう十秒経ってない?」
さん」
「今度は何」
「好きです」
「……だから何」
「あと五分いいですか」
「それはさすがに延ばしすぎ!」

 耳元でかすかに舌打ちの音が聞こえた。舌打ちするな。そう背中をつねってやる。賢二郎はわたしを抱きしめたまま「好きなのに」と拗ねたような声で呟いた。なにそれ。子どもみたいなことばかり言って。そもそも好きな人に構ってもらえないから拗ねるっていうのも子どもみたいだし。本当、そういうところ、好きじゃない。
 好きじゃないはずなのに、いざ目の前でそういう姿を見せられると、強く言えなくなる。高校生のときはただイライラしていただけだった。理由が分からなかったから。理不尽に嫌味を言われて反抗されていると思っていたから。でも、今は理由が分かるから、どうも流されてしまう。

さん」
「はいはい、何ですか。五分はだめですよ」
「好きです」
「……それはもう分かったから」
「好きです」
「分かったってば」
「好きです。もうしばらくこうさせてください」

 もう聞き飽きたほど聞いているはずなのに、いつも、この言葉に負けるのはわたしなのだ。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――数年前、大学二年生、冬

 全然諦めないんだけど! なんで?! アルバイト終わりに鳴り響くスマホを見て一人でそう頭を抱えてしまう。着信相手は白布賢二郎。月一でかかってくるようになった電話だった。
 三月に突然告白してきた白布を振ってから早半年以上。あと数ヶ月で一年が経とうとしているというのに、白布は月一で告白するためだけに電話をかけてきた。何度かわざと出ないこともあった。でも、そうすると毎日ことあるごとに着信を入れてくるものだから困ってしまって。今ではかかってきたら仕方なく出るようになっている。
 今日も今日とて。仕方なく電話に出る。駅に向かって歩きつつ「はいはい。お疲れ」とうんざりしながら言うと、電話の向こうで白布が「お疲れ様です。バイト終わりですか」と普通に会話をはじめる。もうそういうのいいから。サクッと言ってこい、サクッと。どうせこっちは振るだけだから。そんなふうに思っていると白布が不満げに「今ものすごく腹立つこと考えてません?」と言ってきた。考えてますよ。あんたと電話しているときはいつも。これからも未来永劫に。そう返してやると「今後も電話していいってことですね。ありがとうございます」と半笑いで言うものだからムカついて。「もう何なの。なんでわたしなわけ?」とため息交じりに言ってしまった。

『なんで、ですか』
「そりゃそうでしょ。わたしなんか別に普通のどこにでもいる女だし、そこまで言い寄られる要素がないんだけど」
『なんででしょうね、そういえば』
「振ってるわたしが言うのもなんだけど、ひどくない?」

 白布が笑った。「どの口が言うんですか」と楽しそうに。なんだ、楽しそうにもするじゃん。いつも不満げに告白してくるからムカついたけど、笑っている声は、まあ、別に嫌いじゃない。いつもそうしていればいいのに。眉間にしわを寄せるのが趣味レベルの白布には無理な話だろうけれど。
 少しの沈黙。どうやら理由を探しているらしい。なんだ、特に理由はないのか。こういうところが好きとかなんとか。ただ何となく目に付いたのがわたしだった、というだけの話なのだろう。それなら断り続けたらそのうち他の子に目が向くだろう。それでいい。だって、白布なんかと付き合うわけがない。わたしのことを嫌っているし、一緒にいるとイライラするし。

『理由が要るならいくらでも今作りますけど』
「はあ? なにそれ」
さんが理由を言えって言うからですよ』
「理由もなしに好きにならないでしょ、普通」
『でも、好きなんです。分からないんだからどうしようもないじゃないですか』

 白布がそう言った瞬間、思わず足が止まった。どうしようもない。あの理屈詰めで事あるごとに相手を言い負かしてきた白布が、そんなことを言う日がくるとは。ちょっとびっくりした。
 白布が息を吸った音が聞こえる。ああ、また言われる。まだ慣れない。そりゃ、こんなこと何度も言われる機会なんてそうそうない。しかも、嫌われていると思っていた後輩が相手だ。ちょっと体が固まるくらい普通だ。当たり前のことだ。別に、緊張しているわけではないけれど。

さん』

 冷たい風が吹く。あの日は春直前で、生温かい気候だったことを思い出す。それなのに妙に暑くて仕方なかったっけ。白布の声をはじめて耳元で聞いたら、意外と落ち着いた静かな声をしていてどきっとしてしまったのは永遠に秘密だ。別に、白布のことなんか、好きじゃないし。頭の中でそう繰り返しておく。まるで自分に言い聞かせるように。

『あなたのことが好きです。付き合ってください』


一本勝ち

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