※前作「うわさのアキノリくん」の続き。
※捏造ばかり。




 春高バレー。稲荷崎高校、敗退。シード校として試合を迎え、相手は宮城の強豪校白鳥沢学園を倒した学校とはいえ、春高には久しく出ていないところだった。驕りはなかった。でも、負けるとは思っていなかった。ボールが落ちたその瞬間、わたしは体が動かなかった。それほど、衝撃的なことだった。
 最終日、男子決勝。この試合が終わったらすぐに会場を出ることになっている。それまでは好きに過ごしていいと言われた。わたしはみんなが集まっている場所を離れて一人、自由席になっているエリアの後ろのほうに座っている。
 センターコート。光り輝くそこは、なんだか遠くに見えた。不思議な気分だった。あそこに秋紀、いるんだよなあ。目の前にいるのになんだかぼんやりそう思い続けている。秋紀が所属している梟谷学園高校は五本の指に入るエースである木兎光太郎。会場の誰もが木兎光太郎に注目していて、周りからこそこそとその名前が聞こえてくるほどだった。確かにすごい選手だ。素直にそう思う。見ているこちらが楽しくなるようなプレーは気持ちが良い。きっと彼のプレーを観てバレーボールに興味を持つ人がたくさんいるだろう。
 それでも、わたしの視線の先には、背番号七番の木葉秋紀だけが映る。ああ、なんてかっこいいのだろうか。盲目的だと言われても構わない。贔屓目だと言われても構わない。それでも、わたしにとって木葉秋紀という選手は、誰よりもかっこいいバレーボールをする人だった。
 高校三年間、わたしは秋紀のプレーをあまり観る機会が得られなかった。同じ学校だったならば。別の学校でも東京都内だったならば。いつもそう思う。稲荷崎高校が嫌なわけじゃない。大好きな学校だし、大好きな仲間がいるバレー部だ。それでも、思ってしまう。引っ越しをしたくなかった。秋紀のことを全力で応援する三年間であってほしかった。
 でも、今いくらそれを嘆いたって、もう取り戻すことはできない。泣いたって戻ってこないし、怒ったってどうにもならない。だから、せめて、今この瞬間は。あの光り輝くコートで、三年間のすべてをぶつける秋紀を応援することだけに集中したかった。その姿を目に焼き付けることだけにすべてを注ぎたかった。きっとわたしは今日この日のためだけに、頑張ってきたのだ。そう思うほどに眩しい光景だったから。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「試合、観られたんか?」

 帰りの新幹線の中、隣の席になった北がそう話しかけてきた。びっくりして固まっていると「なんやねん」と笑われる。北がそういう話を振ってくるイメージが未だになくていちいち驚いてしまう。「ごめん」と苦笑いをこぼしてから「ちゃんと目に焼き付けました」と返しておいた。
 梟谷学園高校、準優勝。試合が終わったコートの中で秋紀は俯いていた。その近くにいた木兎光太郎と何か話しているのが見えたけれど、表情は見えなかった。でも、しばらくすると丸まっていた背中が伸びた。まっすぐになった背番号七番。ああ、きれいだな。七という数字がとても愛しく見えたのは人生ではじめてだった。

「観なきゃよかったってくらい、いい試合だったよ」
「……どういう意味や?」
「秘密」

 北は首を傾げてしばらく意味を考えていたようだけれど、最終的には「ええ試合なんやったらええか」と考えることを諦めていた。わたしが答えを言うつもりがないと分かったのだろう。無理に聞き出そうとしない北のそういうところによく救われている。こっそりお礼を呟いた。
 窓の外に流れる風景をぼんやり見つめる。稲荷崎で過ごした三年間の思い出たち。その中に当然、秋紀の姿はあまり出てこない。当然のことだ。こんなこと言うのはあまり良くないと分かっている。それでも、秋紀との思い出があまりないことに、胸が痛かった。

「お通夜みたいな顔すんなや。トランプしようや」
「なんでお前トランプ持ってきとんねん」
「アランが持ってこいって」
「俺言うたか?!」
「ちゅうか通路挟んでできへんやろ」

 けらけらと三年生たちが笑う。それにつられて笑うと少し気持ちが軽くなった気がした。引っ越しはしたくなかった。でも、引っ越してきて入学したのが稲荷崎でよかったな。心の底からそう思える。
 梟谷学園高校のベンチに置かれていた、かわいい柄のタオル。それを思い出して少し笑ってしまう。あのタオルだけやたらと浮いていた。チームメイトに馬鹿にされなかったのだろうか。わたしが心配になるほどに目立っていたけれど、秋紀は当たり前のようにあれで汗を拭っていた。嬉しかったな。
 ああ、きれいだったな。そうしみじみ思う。中学のときの秋紀の涙を思い出した。引退試合、思うようなプレーができずに悔しさが瞳の端っこを流れていた。その涙と同じくらいきらきら光る汗が、やけに眩しかった。
 これからわたしたち三年生はそれぞれ受験や就活で忙しくなる。青春の店じまいをするように淡々とタスクをこなすだけの日々になる。わたしは進学を選んだけれど、進学先はこのまま関西を選んだ。本当は関東のほうにしたかったけれど、家族のことやお金のことを考えたら、関西で進学するのが現実的だった。だから、また、秋紀がいない四年間を迎えるだけ。そう思うと自然と気持ちが沈んでしまう。
 アランたちがトランプでいかに時間を潰そうか考えている。それを笑いながら見ていると、スマホが震えた。ポケットから出して見てみると、あ、と思わず声が出た。慌てて立ち上がって、北の前を通らせてもらう。赤木が「先はじめとんでー」と声をかけてくれたので「はーい」と笑って返しておいた。
 デッキに出てから通話ボタンを押す。「もしもし、どうしたの、何かあった?」と言うと電話の向こうから小さく笑った声が聞こえた。

『なんだよ、用事がなかったらかけちゃだめですか〜?』
「いや、そうじゃないけど」

 秋紀が表情が思い浮かべられるような声で「今新幹線?」と言った。秋紀は今学校にいて、ちょうど他の部員の目を盗んで電話をかけているのだとか。試合後もみんな自主的に集まって練習をしているのだとか。バレー馬鹿だねえ。そんなふうに笑ったら「うるせ」と秋紀も笑った。

『声が聞きたくなっただけ』
「……なにそれ、かわいいじゃん」
『かわいい木葉秋紀なもので』

 タオルを交換したときの台詞を思い出す。かわいいスパイクがなんとか、って言ってたっけ。そういえば。わたしが渡したかわいい柄のタオル。あげるのはいいのだけど、あれ、秋紀これからも使うつもりなの? さすがにかわいすぎて変な目で見られない? そんなふうに心配してやりつつ笑う。どうやらあのタオル、妹さんが結構気に入ってくれたらしい。「自分のものにしようとしてきて困る」と秋紀がため息を吐いた。木葉家でわたしと秋紀が付き合っていることを知っているのは妹さんだけだ。タオルを見て一目でわたしのものだと言い当てたのだとか。妹さんとも仲良くしていたからちょっと嬉しい。「あげればいいのに」と言ったら秋紀が「なんでだよ、俺のなのに」と言った。

「秋紀」
『うん?』
「かっこよかったよ」
『……一番?』
「う〜ん」
『悩むなよ!』

 大笑いした秋紀にわたしも大笑いで返す。秋紀はかっこいいキャラじゃないんだからいいでしょ。そう言ったら「彼氏に対してひどいな?!」と怒られてしまった。でも、昔からそうなのだ。秋紀はかっこいいキャラじゃない。情けなくて、へたれで、損ばかりしている。そういう人なのだからかっこいいとは無縁なのだ。わたしは今まで秋紀のことをかっこいい、と言っている子を見たことがない。いや、それはちょっと言いづらかったから秋紀に言ったことはないけれど。
 でも。情けなくて、へたれで、損ばかりしていても、秋紀はいつでも優しいし笑っている。どんなにくだらないことでも付き合ってくれるし、それを馬鹿にしたりしない。それが自分の損になることだったとしてもいつも変わらないのだ。
 かっこいいから好きなわけじゃない。だから、かっこよくなくてもいいのだ。別にかっこいい人が好きなわけでもない。誰から見てもかっこいい人なんて、正直胃もたれしてしまう。一緒にいてしんどくなると思う。だから、わたしだけがかっこいいと知っている秋紀が、好きなのだ。

「一番かは分からないけど、わたしはかっこいいと思うよ」
『……ま、それならいいか。一番じゃなくても』

 言葉が足りないわたしのことを全部分かってくれる。これも秋紀だけ。秋紀だから分かってくれるのだ。それが、嬉しくて、つい意地悪をしてしまう。そんなこともお見通しなのだろう。無自覚なのかもしれないけれど。
 三年間の全部を知ることはできない。けれど、こうやって電話で話すたび、変わらずにいてくれるということは分かる。わたしが好きになった秋紀のままでいてくれる。きっとそれはこれからも変わらないのだと信じている。
 部活の話をひとしきりした後、秋紀から進路のことを聞かれた。ちょっと言いづらかったけど「こっちでそのまま進学するよ」と伝えたら、秋紀は「そっか」と小さく笑いをこぼす。できることならそっちに戻りたかった。そう言おうと思ったけど、言うとまた寂しい気持ちがぶり返しそうだったから言わないようにした。
 秋紀は東京で進学するそうで、志望大学ももう決まっているとのことだった。また四年間、離れ離れだね。思わずそう呟いてしまう。秋紀もそれに「そうだな」と穏やかに呟く。

『俺、この三年間で分かったんだけどさ』
「何を?」
『遠距離恋愛だろ、俺たちって。世間的には』
「どう見てもそうでしょ。東京と兵庫だよ、遠距離じゃん」
『でも、遠距離って、ただそれだけだよな、って』
「は?」

 思わずまぬけな声がもれた。遠距離って、ただそれだけだよな。どういう意味なのかよく分からない。だって、遠距離恋愛の最大のネックこそが遠距離なのに。ただそれだけって。

『物理的に離れてて簡単には会えないけど、でも、だからって好きじゃなくなるわけじゃないし』

 だから、ただ距離が離れているだけ。秋紀はそう言った。それから「そりゃ寂しいときはあるけど」と照れくさそうに付け足す。

「……でも、他の子のこと好きになっちゃう可能性が高くなるじゃん」
『え、なんで?』
「な、なんでって……」
『なんで離れてたら他の子を好きになるんだよ』

 心底不思議そうにそう言った。なんで、って。遠距離恋愛をしていたカップルが別れる理由でよく挙げられてるじゃん。どっちかが目移りしちゃった、ってやつ。遠距離じゃなくても別れる理由の上位に入ってくるんだから、遠距離だったら余計にその可能性は高くなる。それくらい、普通、分かるでしょ。そんなふうにぼそぼそ言ったら秋紀は「え、じゃあさ」と怪訝そうな声で言った。

は今、気になるやつとかいんの?』
「……いない」
『ちょっといいな〜って思った人は?』
「……それもいない」
『これからできそうな感じは?』
「……ない」
『びっくりしたわ。めちゃくちゃ心臓ばくばくしてるんだけど、今』

 ほっと息を吐いたのが聞こえた。どうやらわたしが他の男の人を意識しているのではないか、と一瞬頭によぎったらしい。そんなわけないじゃん、と言いかけた口が止まる。それならば、何を不安に思う必要があるのか。秋紀が言いたいのはきっと、それなのだろう。

『確かに寂しいし会いたいなっていつも思うけど、俺はが好きだしもそうなら、そこまで大きな問題じゃないだろって、秋紀くんは思うわけ、ですが』

 どうでしょうか、とおどけて言った。わざと楽しい感じで言っているけれど、少しの強がりが隠されているのが分かる。だって、会いたいに決まっている。そんなの当たり前だ。お互い好きなのだから。でも、だからと言って簡単にどちらかが引っ越せるわけじゃない。わたしたちにはそれぞれ生活がある。それを自分でがらりと変える力はまだ持っていない。ないものねだりをしたって現状は変わらない。だから、今あるものを噛みしめるしかできない。その今あるものが、秋紀の気持ちなのなら、それは、悲観すべきことではない。そう思えた。

「自分のこと秋紀くんって言うのやめたほうがいいよ」
『今触れるべきはそこじゃないだろ?!』
「秋紀くん」
『……はい、秋紀くんです』
「受験終わったら、会いに行っていい? そのためにずっとお小遣い貯めてたんだ」
『……いや、俺が会いに行く。俺も同じなので』
「じゃあ、じゃんけんで決めよ。先にどっちが会いに行くか」
『電話でじゃんけんかよ。新しいな』

 くすくす笑っていると、客室に続くドアが開いた。思わず視線を向けると、大耳がいて「あ」と声を上げてすぐに戻っていく。どうやらわたしを呼びに来てくれたらしい。悪いことしちゃったな。そう少し照れ笑いをこぼすと、秋紀が「え、何?」と楽しげに聞いてきた。なんでもない、と誤魔化すと「えー」と楽しそうにぶーぶークレームをつけられてしまった。

『まあとりあえず。じゃんけんな。最初はグー、じゃんけん』
「パー」
『チョキ』
「後出ししてない?」
『してないわ! 人聞き悪いな!』

 まあ、負けは負けということで。仕方がない。勝負は勝負だ。それに言い出したのはわたしだし。渋々「じゃあお先ドウゾ」と言ったら「嬉しそうにしろ!」と笑いながら怒られてしまった。
 窓の外の景色が、ずいぶん変わってしまったように見える。あーあ、もうこんなに遠くまで来ちゃった。いつまで経ってもこの感覚にはなれずにいる。秋紀、会いたいよ。こうして電話している今もそう思う。
 でも、秋紀の言葉が頭の中で再生される。遠距離って、ただそれだけだよな。うん。そうだね。離れていて、目の前にいなくても、秋紀がちゃんとわたしの中にはいる。好きだなあ、と姿を見ていなくても思える。たしかに、距離が離れているだけだね。やっとそう納得できた気がする。
 そろそろ席に戻らないと。そう呟いたら秋紀が「ん、了解」と優しく言った。また家についたら連絡して、と言われたので「うん」と返しておく。秋紀はそれに優しく笑って「気を付けて」と言った。ただ帰るだけだよ。そうそう事件も事故も起こらないと思うよ。そんなふうに笑う。気休めの言葉じゃなくて、心から言ってくれているのが分かるから。心配してくれて嬉しいのに、ついそんなふうに返してしまう。かわいくないやつだな。
 それでも秋紀は「何があるか分からないから。とにかく気を付けてな」と言ってくれる。疲れてるだろうから転ぶかもしれないとか、荷物が重くて大変だろうからとか。口うるさい人。だけど、そういうところがとても、分かりやすく愛情を感じる。まっすぐな人なのだ、いつだって。
 またね、とお互い言って電話が切れる。切れちゃった。寂しい。さっきまで耳元で聞こえていた声がもうどこにもない。この切なさはいつまで経っても胸に痛い。でも、少しだけ、和らいだ。
 デッキから客室に戻ると、同輩たちが通路を挟んでババ抜きを始めていた。端と端の人のカードは遠くから指を差して、見ないように間の人が運搬しているらしい。なんて不便なババ抜きなのか。そこまでしてやらなくても。そう笑いを堪えているとアランが「なんやっけ、コミヤくんやっけ? 元気やったか?」と茶化す気満々で声をかけてきた。コミヤくんじゃない、コノハくんです。そう返しつつ自分の席に座った。

大学こっちにするんやろ? また遠距離やん。ええんか?」
「そうは言ってもね。仕方ないよ。でも」
「でも?」
「遠距離ってだけだから、大丈夫」
「…………ん? どういう意味や?」
「深イイやつか?」
「違います〜。内緒です〜」

 得意げに笑いながら北の手持ちのカードを覗き込んでみる。あと三枚か。北が一番に上がりそうだね。そんなふうに思っていると「えらいご機嫌やな」と北に真顔で言われた。浮かれているように見えただろうか。まあ、そりゃそうか。浮かれているのだから。


うわさのアキノリくんパート2

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