※前作「私たちは同罪である」同様に未来捏造、大学生設定。




「ふざけんな、勝手に逃げるな」

 ほんの少しだけ呼吸が乱れている。それを耳元で聞きながら、完全に体が固まってしまった。
 十秒前のわたしは、とにかく佐久早くんに追いつかれないように必死だった。運動神経にはそれなりに自信がある。階段をぐるぐると手すりを使いながら下りていき、あと一階下りれば外をダッシュで逃げられる、というところだった。エントランスの明かりが見えてほっとしそうになった瞬間、まず右手が捕まった。ぐいっと引っ張り上げられると、上手くバランスが取れなくて崩れ落ちそうになってしまう。それなのに、そんなものはお構いなしに、腰の辺りに腕が回ってきて、そのままぐいっと抱き寄せられて。掴んでいたわたしの右手を離した手は、わたしを閉じ込めるようにして、胸の前辺りを通って反対側の肩を掴んでいる。首にちくちくと髪の毛が当たっている。生温かい呼吸が首元に当たるたびに、心臓が止まりそうなほどうるさく鳴った。
 どうしてわたしは、佐久早くんに後ろから抱きしめられているのだろうか。嫌なことをしたからだろうか。それともまだ足りなかったのだろうか。どちらにせよ怒られてしまうことは明白で、ちょっと怖い。それなのに、この状況にどきどきしてしまうくらいには、脳天気だった。
 ぎゅうっと痛いほどに肩を掴まれている。大きな手。長い腕。それに、とても熱い体をしている。佐久早くんの体温だとは思えないほどのそれは、なんだかとても、毒のようにわたしをどきどきさせてしまう。これは夢だろうか。そう思ってしまうほど、なんだか信じがたい状況だった。
 半分足が浮いている状態だ。佐久早くんに体重のほとんどを預けてしまっている。さすがに申し訳なくて慌てて「あの、もう、離して、重いでしょ」と小さな声で呟く。それに佐久早くんは首を横に振って拒否してきた。

「…………俺のこと、どう思ってんの」
「えっ」
「どうなの。正直に言って」

 乱れた息が色っぽく思えるのは、わたしが馬鹿だからなのだと思う。涙が出そうだった。熱い熱い涙が。だって、こんなの、夢でしかない。絶対に夢だ。自分にそう言い聞かせている。
 佐久早くんは絶対にわたしなんかに興味を持たない。だって、わたしはどこにも特徴もなく長所もなく、本当に特記するところのない平凡な女だ。佐久早くんからすればただの高校の同級生、もしくは高校の部活の元マネージャー。それだけの存在だ。願っても叶わない。だから、諦めたのに。こんな往生際の悪い夢を見てしまうなんて恥ずかしいやつ。そう、思うのに。この痛いほどの腕の力と、首元にかかり続ける呼吸と、じんわり伝わってくる熱い体温が、それを否定する。
 でも、正直、それを聞きたいのはわたしのほうだ。わたしのこと、どう思っているの。酔っ払った勢いとはいえ呼び出して、部屋に連れ込んで、ベッドに上げて、キスしてきて。佐久早くんが女遊びの激しいタイプだとは思えない。それに、何度確認してもわたしで合っている、と返してきた。どうして、わたしで合っているの。回答すべきは佐久早くんのはずだ。

「……さ、佐久早くんこそ、どういうつもりなの」
「は?」
「だって、そうでしょう。わたしはその、どちらかというと、巻き込まれた側というか……」

 声が小さくなってしまった。でも、わたしのほうが正論に違いない。そう思ったから絶対にわたしからは言わないでおこう、と心に決めた。佐久早くんは整ってきた落ち着いた呼吸を繰り返してしばらく黙りこくる。腕の力は緩まず、体温の熱さもそのままだ。
 そのときだった。近くから人の話し声が聞こえてくる。どうやらこのマンションの住人らしい。建物の中に声が響いている。慌てて佐久早くんがわたしから腕を離して、すぐ腕を掴んできた。そのままわたしの腕を引っ張って階段を上がる。一つ上の階に上がったところで、人の話し声がかすかに聞こえてきたけれど、すぐに遠ざかっていく。どうやらエレベーターに乗ったようだ。階段で鉢合わせなくてよかった、とほっとしてしまった。
 ほっとしたのも束の間。佐久早くんはそのまま歩き始めた。どこに行くのかと思ったらエレベーターだった。先ほどの人たちが下りたのを階数ランプで確認してから、上のボタンを押すと無言で動かなくなる。外だと話しづらいから部屋に行くつもりなのだろうか。それは、ちょっと、心臓に悪いから遠慮したいけどなあ。そんなふうに思いつつも黙ってしまう。だって、これが夢じゃないのなら。そう思ってしまって。
 エレベーターが到着してドアが開く。佐久早くんに引っ張られて乗り込むと、思った通り佐久早くんの部屋があった階数ボタンを肘で押した。酔っ払っていたときも肘で押していたけど、やっぱり素面のときからそうなんだ。こっそり笑ってしまった。
 佐久早くんの部屋がある階で下りると、また腕を引っ張られて部屋に連れ込まれた。さっきと状況はほとんど同じだ。どうしていればいいのかよく分からなくて突っ立っていると「靴」と佐久早くんが言った。脱げ、ということなのだろう、けど。

「あ、あの」
「……何」
「今更、と思うだろうけど……」
「だから何」
「その……付き合ってない男の人の部屋に、夜、上がるのはちょっと、抵抗がある、というか」
「……」
「ご、ごめん、佐久早くんがそういう人だとは思ってないけど! 状況が状況だから、あの、はい……」

 自意識過剰なやつだと思われたかもしれない。でも、本心だから仕方がない。友達数人が一緒、とかそういう状況なら今までもあったけれど、夜に一人で男の人の部屋に上がるなんて経験がないから、どうしても気になってしまった。相手は佐久早くんだから、と思う気持ちがこれまでなら強かっただろう。でも、やっぱり、あんなことがあったあとだから、どうしてもちょっと。ぼそぼそとそんなふうに言ったら、佐久早くんがわたしの腕を掴んでいないほうの手で頭をかいた。

は俺のことどう思ってんの」
「さ、さっきも言ったけど、佐久早くんは……?」
「今は俺が聞いてる。答えろ」
「……あの、ね、佐久早くん」
「うん」
「わたし、佐久早くんに呼び出されて、部屋に連れ込まれて、キスされた側の、人なんです、よ」
「…………悪かった」
「そう思うなら、どういうつもりなのか、教えてほしいな、って」

 ちょっとした抵抗だ。だって、諦めたはずの想いを叩き起こされて、酔っ払い相手にどきどきさせられて、挙げ句の果てには怒られて、呆れられて、俯かれて。そんなのあんまりじゃないか。佐久早くんに悪気がなかったとしても、わたしの閉じ込めていた恋心は結構ぐちゃぐちゃにされたのだ。その上に想いをぶちまけろ、と言われたら抵抗しないわけにはいかない。
 佐久早くんがわたしから目を逸らした。でも腕はしっかり掴んだまま。離してくれてもさすがに逃げないのに。逃がさないように強い力で掴まれている。ちょっと痛い。でも、それが妙に、心臓の音を速めていた。

「…………嫌だ」
「えっ」
「嫌だ。言いたくない」

 唖然としてしまった。だって、この状況で、嫌だって。子どもが駄々をこねているみたいじゃないか。正直なところ悪いのは佐久早くんだ。わたしも言われるがままにのこのこやって来てしまったところはある。でも、絶対的に佐久早くんのせいな部分が多いのに。

「……お前、俺のこと変なやつだと思ってるだろ」
「変、とは思ってないけど……?」
「嘘つけ。大体のやつが変人扱いしてくる。もう慣れてるし、どうでもいいけど」

 佐久早くんは確かにちょっと変わっている。人のものに触りたがらないとか、自分のものを触られるのが好きじゃないとか、嫌なことが多い人だなとは思う。でも、変な人とは思ったことがなかった。個性的というかなんというか。そういう考え方の人なんだな、と思ったことはあるけれど。でも、これまでに変な人として扱われて不快な思いをしたのかもしれない。佐久早くんは思ったことを包み隠さずに言う人だから誤解されやすい。それは高校生のときから変わっていないのだろう。
 でも、そういう譲れないことがあるのって、わたしは芯が通っていていいなあと思う。もちろん言葉がきつすぎたり、人に迷惑ばかりかけたりしているのであれば別だ。佐久早くんに対してもそれは良くないんじゃないかな、と思ったことが何度かある。でも、佐久早くんの性格や考え方を、変だと思ったことはなかった。まあ、だから、好きになったわけ、だし。こっそりそう思う。

「…………だろ」
「え?」
「……お前、絶対、振るだろ」

 言葉の意味が理解できなかった。上手く変換ができなくて間抜けに「何を?」と聞いてしまう。ふる、とは。そんなふうに。そんなわたしに対して佐久早くんは「馬鹿かよ」とちょっと乱暴に吐き捨てた。
 逸らされていた視線がこちらに戻ってきた。佐久早くんはじっとわたしのことを憎らしそうに見つめて、小さく息を吐く。それから秘密の話をするような小さな声で「俺のことを絶対振るだろ、って言ってんだよ」と言った。おれのこと、ぜったいふるだろ。俺のこと、絶対振るだろ。ようやく変換できたそれを頭の中で繰り返して、また体温が一気に上がった。

「だから、嫌だ。言いたくない」

 それはもう、ほとんど、答えなのではないだろうか。しかも、わたしと同じ答えだった。驚いてしまって言葉が出せずにいると「ほらな」と佐久早くんが拗ねたような声で呟いた。それからまた視線を逸らして黙ってしまった。
 恋した瞬間に諦めた。だって、佐久早くんは恋愛なんて興味がなさそうだったし、きっとすごいバレー選手になるだろうから。わたしなんて相手にされないだろうと思った。だから、絶対に告白なんかするつもりはなかった。振られたくなかったから。だから、嫌だ。言いたくない。そう思っていた。

「佐久早くん」
「……なんだよ」
「わたしね、ちょっとした憧れがあるの」
「は?」
「わたしはあんまり自分に自信がないから……好きな人ができても、どうせ好きになってもらえないって思ってしまって」
「おい、何の話?」
「もし好きな人ができたら、その相手から好きだって言われたいな、って」

 わたしで間違いないと言われたとき。唇を重ねられたとき。追いかけてくれたとき。抱きしめられたとき。わたしは、期待した。もしかして佐久早くんはわたしのことが好きなのではないか、と。もしかしたらこのハプニングがきっかけとなって、告白してくれるのではないか、と。

「だから」

 もしかして、わたしの憧れが、本当に起こるのではないだろうか。そうどきどきした。それだけでいい夢だった。

「もし、佐久早くんが言ってくれたら」

 夢ではないのなら。わたしは、どんなふうに思うのだろうか。たぶん人生で二度と味わえないような、何かが弾けるような瞬間に違いない。そう確信した。

「憧れが、叶うんだけど、なあ、って……」

 自惚れすぎただろうか。佐久早くんはもしかして呆れてしまっているかもしれない。でも、これまでの言動を総括すると、間違いではないと、思いたい。どうしてわたしなんかを、とは思う。でも、佐久早くんは嘘は吐かない人だ。人をからかうこともしない。だから、きっと大丈夫。間違っていても笑ったりしない。そう思えばずいぶん気が楽になった。

「……おい」
「な、何?」
「俺が何を言っても、絶対にはい≠チて言え」

 俯いて、窮屈そうな顔をする人が言う台詞ではなかった。脅迫だよ、それ。小さく笑ったわたしの顔を見て、佐久早くんは少しだけ悔しそうな顔をした。こんなはずではなかった。まるでそう言い出しそうなほど。
 佐久早くんの黒目がきらりと光った。長い睫毛が空気をかき分けるように揺れる。この夜を印象付けるその黒色が、何もかも、スローモーションに見えてしまった。この瞬間が、永遠に続けばいいのに。そう願ったからだ。
 目が合った。ぴりっと静電気が走ったような感覚。見えるわけがないのに星がきらきらと飛んでいるように見える。なんてきれいなのだろうか。そんな、夢のような光景だった。

――佐久早が彼女の名前を口にするまで、あと十秒。


共犯者はかく語りき

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