※未来捏造、大学生設定。




――回想 高校三年、春

 いつものジャージに着替えて体育館に入ると、古森くんが「だからごめんってば〜」と佐久早くんに手を合わせていた。何かあったのだろうか。そう少し気にしつつ「お疲れ様」と声をかけると、佐久早くんが「お疲れ」と返してくれる。古森くんも続けて「お疲れ〜」と手を振ってくれた。もうそろそろ後輩が来るから喧嘩しないでね、と言っておく。佐久早くんが「喧嘩じゃない」とため息を吐きつつ言うと、古森くんが「だからごめんってば」とまた手を合わせた。
 なんでも昨日の部活終わり、帰り道に古森くんが佐久早くんのスマホを間違えて持っていることに気が付いたのだという。部室で間違えてポケットにいれたらしかった。佐久早くんもスマホがないことには気付いたけれど、部室の机に置いたことを覚えていたからさして気にしていなかったのだとか。古森くんはまだ帰宅途中だったこともあり、佐久早くんの家に寄ったそうなのだけど、生憎そのとき佐久早くんはお風呂中。佐久早くんのお母さんにスマホを渡して帰ろうとしたら「よかったら上がっていったら?」と言われたのだとか。上がって佐久早くんの部屋に入り、古森くんはうっかりベッドに座ったそうで。そこへちょうど佐久早くんが登場。案の定「何してんの……正気?」と静かにキレられた、ということだった。
 まあ、佐久早くんはそういうタイプだよね。わたしは何とも思わないタイプだけど、万が一にも佐久早くんの部屋にお邪魔することがあるとしたら絶対地べたに座る。むしろ部屋に入ること自体を避けるかも。何をして怒らせるかわたしや古森くんのような人間には分からないから。それを面倒だとは思わない。佐久早くんはそういう考え方だから仕方ないのだ。育ってきた環境が違う、違う人間同士なのだから当然のこと。まあ、わたしが佐久早くんの部屋に入る日なんて、来るわけない。そんなことを心配に思わなくていい。そんなふうに思った。




▽ ▲ ▽ ▲ ▽





――三年後 大学三年生、冬

 家で録り溜めたドラマでも観ようとお風呂上がりにテレビを付けたときだった。机に置いたスマホが振動したので、リモコンを操作しながらスマホを手に取った。画面に目を向けてびっくりした。佐久早くんからの着信だったのだ。高校を卒業してから何度か部活の集まりでは会ったけど、個人的なやりとりをしたことはない。一体こんな夜更けに何の用だろう。そう恐る恐る出てみると、佐久早くんが「いまどこ。会いたい」と舌っ足らずな声で言った。
 その一言で酔っ払っていることが分かって、動揺した。もしかしてかけ間違えてるんじゃないだろうか。「どこいんの」とまた聞かれたので「あの、わたしだよ。間違えてるよ」と指摘した。彼女と間違えているんだろう。そう思ったらちょっと、切なかった。切ない気持ちに気付かないふりをして「あの、切るね?」と苦笑いをして言ったら、佐久早くんは「じゃん。合ってるんだけど」とむにゃむにゃと言う。いや、でも、間違えてるよね? 困惑しつつ「だけど……あの、自宅にいますが……」と思わず敬語で返した。すると佐久早くんが急に「東京都○○……」と住所を言い出したものだから余計に困惑してしまう。ちょ、ちょっと待って、メモとる、メモを取りますので! 大慌てで近くに置いてあった大学のレポートの端っこに佐久早くんが言った住所を書く。書き終わって冷静にその住所を見たら、佐久早くんが通う大学と近いことに気付いた。
 もしかして、佐久早くんの家の住所かな。そうぐるぐると困惑する頭をフル回転させていると、佐久早くんの声の向こうから車の音が聞こえてきた。え、もしかしてその状態で外にいるの?! びっくりしてそう聞くわたしを無視して、佐久早くんが「十分で来て」と言ってからブツッと電話が切れた。いや、あの、物理的に十分は無理なんだけど……? でも、たぶん本当に外で酔い潰れているみたいだったし、さすがにこのまま放っておけない。未来の日本バレー界を支える選手になるであろう佐久早くんだ。事件事故に巻き込まれたら悔やんでも悔やみきれない。そう思って適当にコートをひっつかんでスマホと財布だけ持って家を出た。
 駅前でタクシーを捕まえたので、佐久早くんに言われた住所を伝えた。違反にならない程度に急いでください、と言えば運転手のおじさんは笑いながら了承してくれた。
 雪がちらついている。明日には積もっているかもしれませんね、と運転手さんが笑うのを、わたしはハラハラしながら聞いていた。どうしよう、佐久早くん、さすがに服はちゃんと着てるよね? 酔うと脱いじゃう人もいるらしいから、こんな寒空の下で薄着になっていたりしないか心配でたまらなくなる。佐久早くんに限って酒に飲まれるなんてこと、ないと思っていたんだけどな。どんどん強くなっていく雪を不安げに見上げてしまう。
 渋滞に捕まることもなく、どうにか佐久早くんが教えてくれた住所の近くまで来た。運転手さんが「このあたりのマンションだねえ」と言うので注意深く外の様子を窺う。確かに周りにはマンションやアパートがある。この中のどれだろう。階数から見ると恐らくマンションでそこそこ高い建物のはず。そう思っていると、運転手さんが「あ、この先だね」と言った。どうやらカーナビにマンション名が出たらしい。ほっとしていると、一瞬、視界の隅っこに何かが映った。

「と、停めてください!」

 こんなドラマみたいな台詞を言う日が来るなんて思わなかった。内心恥ずかしくなりつつ料金を支払ってタクシーを降りた。建物の外、階段になっているところに、佐久早くんが座り込んでいた。スマホを片手に握っている。これ、相当酔っているのでは。どぎまぎしながら駆け寄って「佐久早くん!」と慌てて声をかける。風邪引いちゃうよ! そう言うのだけど無反応。そうっと顔を覗き込んでみると、思いっきり寝ていた。嘘でしょ、あの佐久早くんが酒に酔って外で寝てる……。にわかには信じがたい光景だった。
 そうっと肩を叩いてみる。「佐久早くん」ともう一度呼びかけると、もぞ、と少し手が動いた。そのままゆるゆると顔が持ち上がって、赤らんだ顔が見えた。佐久早くん、あの、マスクどうしたの。まさかしていかなかったってわけないだろうけど。そう思ってちょっと顔を横に向けたら、路上に落ちているマスクを発見。ど、どうしてあんなところに落ちてるんだろう。困惑しつつ放置しておくわけにはいかなくて拾っておいた。

「佐久早くん、家入ろう? 玄関まで送るから」
「……ん」

 眠そう。こんな佐久早くん貴重だなあ。そんなふうに思いつつ、佐久早くんの鞄をとりあえず回収しておく。わたしが立ち上がると佐久早くんも立ち上がって、きゅ、とわたしの服の裾を掴んだ。だ、大丈夫かな、本当に。誰がいつこんなになるまで飲ませたんだか知らないけれど、こんな状態の佐久早くんを一人で置いていくなんて正気なんだろうか。もし会う機会があったらぜひその辺りしっかり説明してほしい。
 マンションのオートロックをうつろな目で解除して、てくてくとおぼつかない足取りで歩いて行く。どうしよう、ついていくべきだよね? 玄関まで送るって言っちゃったし。歩幅の広い佐久早くんにちょこちょこと小走りでついていき、一緒にエレベーターに乗った。酔っていてもちゃんとこういう操作は身についてるんだなあ。しかも直接素手で触りたくないのか肘で階数ボタンを押していた。変わらないね、佐久早くん。ちょっと苦笑いがこぼれる。
 五階でエレベーターを降りてまた佐久早くんの後ろをついていく。佐久早くんは少し歩いた先のドアの前で止まると「ん」と手を伸ばしてきた。あ、はい、鞄ですね。慌てながら鞄を佐久早くんに渡す。
 わたしの役目はこれで終わったようなものだ。「じゃあこれからは気を付けてね」と言って背中を向けよう、と、したのに、ガシッと腕を掴まれた。びっくりして佐久早くんの顔を見るけど、ぽやっとした目で鞄の中を見ている。ごそごそと鍵を取り出して、ガチャン、と鍵を開けた。あの、わたしはどうすればいいのでしょうか。困惑している間にあれよあれよと玄関に引きずり込まれる。あの、部屋、入っちゃったけど。除菌スプレーとかしなくていいのかな。佐久早くんの怒りポイントに触れるとまずい。今は酔っているから気にしてないのかもしれないけど。
 そう思っている間に佐久早くんが鍵を閉めて、チェーンロックもかけた。あの、わたしはどうして家に上がっているんでしょうか。佐久早くんに聞いてみるけれど答えてくれない。ずるずると引きずられるので慌てて靴を脱いだ。あの、スリッパとか、いいでしょうか。というかわたし入っちゃっていいの? 彼女いるんじゃないの? いろんな疑問が湧きつつ、佐久早くんの力に敵うわけもなく。
 佐久早くん、部屋きれいだな。はじめて見た佐久早くんの部屋にちょっと驚いていると、ふわっと体が浮いて思わず呼吸が止まった。何事かと状況を把握する間もなく、ぼすん、とどこかに着地。大混乱で思考が停止するわたしに覆い被さるように佐久早くんが上にいた。わたしの首元に顔を埋めて呼吸をしている。
 ちょっと、どういうこと。完全に彼女と間違えられているのでは。こんなところもし見られたら誤解されかねない。慌てて佐久早くんを引き剥がそうとするけど当たり前にびくともしなかった。

「さ、佐久早くん、あの、わたし彼女じゃないよ。 、分かる? 高校の同級生だっただよ」

 佐久早くんの肩を叩いてようやく状況を理解した。ここ、佐久早くんのベッドの上なのでは。高校時代のエピソードを思い出す。ベッドに勝手に乗られて怒っていたっけ、佐久早くん。仲が良い古森くんに対しても怒るんだから、わたしなんて論外に違いない。佐久早くんに乗せられたわけだしノーカウントにしてほしいところだけど、佐久早くんが酔ってやったことだからなんとも言えない。後で怒られるかな、やっぱり。でも、下りたくても佐久早くんが退いてくれないと下りられないし、どうしようか。
 ぬらりと佐久早くんが顔を上げた。じっとわたしを見下ろしながらゆっくりと瞬きをする。まつげ、長い。呼吸がぶつかるほどの距離で見る佐久早くんは、頬が赤くて目がとろんとしていて、なんだか、色っぽく見えてしまった。
 どきどきしないほうがおかしいよ、こんな状況。そう必死で自分を励まし続けていると、佐久早くんがじいっと目を細めてわたしを見た。気付いたかな。彼女じゃないよ。そうもう一度言ってみると、佐久早くんの両手がわたしの頬を包み込む。むにむにと頬を揉まれて、次は髪の匂いを嗅がれた。な、なに、この状況。動けないし何も言えない。完全に硬直しているわたしの頬から手を離して、佐久早くんが小さく首を傾げた。

じゃん。合ってるんだけど。さっきから何?」

 さっきから何? ってこっちの台詞なんだけどなあ。でも、わたしで合ってるの? なんで?
 ずっと佐久早くんの息が肌に当たってくすぐったいし、知らないはずの体温がじわじわ体中を支配してくるし、潤んだ瞳に映る自分が見えるくらい近いし、もうどうしたらいいか分からない。佐久早くんの家に除菌スプレーをすることもお風呂に入ることもなく上がってしまったし、あろうことかベッドに寝転んでしまっている。半泣きだった。わたしにどうしろって言うの。正直ぜんぶ、佐久早くんのせいだよ。
 じいっと動きを制してくるような瞳から目が離せない。佐久早くんはまたゆっくり瞬きをしてから、左手でわたしの髪を撫でた。髪が指に絡まったままの左手でわたしの顔にそっと触れると、瞬きの間に唇を奪われた。
 硬直。そっと唇が離れて、佐久早くんが自分の唇を舐めた。その瞬間にボッと火が付いたみたいに顔が熱くなる。言葉を発することなくただただ顔を熱くして固まっていると、また顔が近付いてきて、また唇が重なる。目を瞑る暇もなかった。佐久早くんは目を瞑っていたけれどわたしの唇を舐めてから、そうっと瞳を開けた。それからほんの少し離れると、唇が少し触れたままの距離で口を開いた。

「口、開けて」
「……な、なんで……? あの、わたし、歯磨き、してない、し……」
「開けて」

 声にぞわっと全身が反応した。するりと右手で腰を撫でられると、無意識に口が少しだけ開いてしまう。それを見逃さない佐久早くんがすぐに唇を深く重ねて、わたしが大混乱を起こしている間に、舌を優しく舐められた。佐久早くんの服を掴む手が震える。こ、こんなの、だって。
 高校のときから佐久早くんのことが好きだった。でも、佐久早くんは恋愛なんて興味がなさそうだったし、きっとすごいバレー選手になるだろうから、わたしなんて相手にされないだろうなって、恋した瞬間に諦めた。絶対気付かれないようにしてきて、告白することもなく卒業できた、のに。勘違い、してしまう。間違いじゃなくて本当にわたしのことを呼んでくれたの? 彼女と間違えてキスしてるわけじゃないの? 会いたいって言ったのも、間違いじゃないの?
 呼吸の一瞬に声が漏れた瞬間だった。ぴたりと佐久早くんが動きを止めた。呼吸を整えながら瞬きをするといつの間にか溢れた涙が頬を伝って落ちていった。佐久早くんの顔を見上げると、目を丸くして固まっている。瞬きもしない。ど、どうしたんだろう。佐久早くんはぴくりとも動かずじっとわたしを見下ろしていたかと思えば、突然バシンッと自分の頬を左手で叩いた。びっくりして余計に硬直していると、ふと、佐久早くんの顔がもう赤くないことに気が付く。

「痛い……は……?」
「さ、佐久早くん、あの」
「……え、何……は? 家? ……は? なに、え、なんで、……?」

 緩やかにわたしの上から退くと、佐久早くんが床に座った。わたしも体を起こしてゆっくりベッドから下りて、佐久早くんの前に座る。佐久早くんは床に手をついて項垂れて、しばらく無言だった。
 ようやく佐久早くんが口を開くと「あの、どういう状況、これ」と明らかに顔色を悪くして呟いた。何も覚えてないよね、そりゃ。苦笑いをこぼして佐久早くんから急に電話があったこと、住所を言われたこと、佐久早くんが外で寝ていたこと、放っておけなくて玄関まで送ったこと、そのまま佐久早くんに引きずり込まれたことを説明した。余計に顔色が悪くなっている。そうだよね、佐久早くんにとって家の中は自分だけの領域なはずだ。わたしみたいなのを連れ込むなんて素面だったらしないはず。後で掃除するんだろうな。そう少しだけ切ない。でも、佐久早くんが黙りこくっていていたたまれなくて。大慌てで立ち上がった。

「あの、ごめん、ベッド乗っちゃって。えーっと部屋は玄関からここまでしか歩いてないよ。お手洗いは借りてないし、水場には一切行ってません」
「は? え、何?」
「あの、でも、その」
「何、え、本当、え?」
「は、歯磨き、まだしてなかった、から、ご、ごめん。本当にごめんね」

 涙が出てしまった。気持ち悪いって思われてる、絶対。歯磨きしてないやつとキスなんかして気持ち悪いよね、佐久早くんだもん。いや、キスしてきたの、佐久早くんだけど。
 これ以上ここにいると嫌がられる。「じゃあ、もうあんまり飲み過ぎちゃだめだよ」と無理やり笑って部屋から出て行こうとした。そのときだった。

「そうじゃねえだろ?!」

 本日何度目か分からない硬直。聞いたことのない大声だった。佐久早くんに視線を戻すと、いつの間にか立ち上がっていた佐久早くんが、真っ赤な顔をして片手で前髪をくしゃりとかき上げた。それからまた「そうじゃねえだろ……」と呟いて、深いため息を吐く。もしかして、佐久早くんのどこかに触ったんじゃないかと思われているのだろうか。慌てて「あの、肩と腕しか触ってないよ」と説明したら、ギロリと睨まれた。その視線にちょっと怯えていると佐久早くんが頭を抱えてベッドに座った。ギシ、とベッドが軋んだ音を聞いてから、「ご、ごめん」と謝る。

「違うだろうが。怒るとこだろ……」

 ぽつりと言われた言葉に、何も言葉を返せない。お、怒れ、って。それはそうなんだけど、さ。急に呼び出されて、彼女でもないのにキスされて。怒るのが普通なんだろう。でも、怒れないよ。嫌じゃなかったから。そう思ったらまた涙が出た。

「殴れ」
「えっ」
「俺が気絶するまで殴れ」
「い、嫌だよ、そんなことできないし……」
「じゃあ気が済むまで何かしろ。テレビ割ってもいいし冷蔵庫ひっくり返してもいいから」
「わたし、そんなパワータイプじゃないよ……?」

 苦笑い。わたし、どんなふうに思われてるんだろう。テレビを割ったり冷蔵庫をひっくり返したりするようなキャラじゃないんだけどな。そんなふうに思いつつ、きっと何かしない限り佐久早くんは変なままだろうから、何かしたほうがいいか、と一生懸命考える。佐久早くんが嫌がることをすればいいのだろうか。嫌がること。それをいろいろ考えてから、そうっと佐久早くんの顔を見た。
 項垂れている。そんなに、嫌だったんだ。そう思うとさすがにちょっと傷付いて、また鼻をすすってしまう。佐久早くんのせいなのに。そう内心思ったら、何か仕返ししたくなった。

「なにしても、怒らない……?」
「怒らない。好きにしろ。というかがもっと怒れ」

 項垂れている佐久早くんから視線を外して部屋を見渡す。何もないけど、どこかにあるはず。きょろきょろ見渡して、ようやく目的のものを見つけた。マスクケース。そそくさとそれに近付いてからハッとする。また辺りを見渡して第二の目的のものを見つけた。アルコール消毒液。それで手を消毒していると、佐久早くんが「何してんの……」と呆れたような声で言った。佐久早くんが嫌がることの準備だよ。返事はせず、きちんと消毒した手でマスクケースを開けた。一枚マスクを取り出してそれを佐久早くんに渡す。佐久早くんは心底意味が分からんという顔をしたけれど、わたしが「つけて」と言えば無言でマスクをつけてくれた。
 もうこんな機会は二度とない。そう欲張りな心が出た。何をしても怒らないって言った。嫌なことをすればいいって言った。だから、そうするだけだ。マスクをつけた佐久早くんの前に立って、じっと顔を見下ろす。佐久早くんはわたしの顔を見上げて「何」と眉間にしわを寄せる。早く帰ってほしいよね。分かってるよ。連れ込んだの、佐久早くんのくせに。また涙が出てしまう前に、佐久早くんの両手を握って、佐久早くんに顔を寄せる。「え」と声が聞こえたのを無視して、マスク越しに、キスをした。

「あの、これで、オアイコで」
「…………は?」
「な、なにしても怒らないって言ったから。嫌なことしなきゃ仕返しにならないしね」

 ぱっと佐久早くんの手を離す。恥ずかしい、絶対顔赤くなってる。見られちゃった。いつの間にか床に落ちていた自分の財布を拾ってから「それじゃあ」ともごもご言って今度こそ背中を向けた。それから逃げるように早歩き。佐久早くんの声が聞こえた気がしたけど無視した。玄関で素早く靴を履いてチェーンロックと鍵を外して駆け出すように外に出た。冷たい風が気持ちいい。顔が真っ赤だっただろうからちょうどいいんだろう。
 佐久早くんのばか。心の中で捨て台詞を吐いておく。あんなに嫌がらなくていいでしょ。呼び出したのも連れ込んだのもキスしたのも佐久早くんのくせに。せっかく忘れようとしていたわたしに思い出させたくせに! いくら誰かと間違えたからって、あんなに嫌がらなくてもいいのに!
 ガチャッとドアが開いた音がした。「おい待てふざけんな!」と佐久早くんの怒鳴り声が聞こえて、エレベーターを待っていたら捕まると悟る。階段を下りて逃げないと! というか好きなようにしろって言ったの佐久早くんでしょ。 嫌なことしていいって言ったからしたのに、なんで怒ってるの?! 半泣きで階段を駆け下りていくと、佐久早くんも階段を下りてくる音が聞こえた。 「クッソ、足速ぇな!」と言う声がやっぱり怒っている。 嘘吐き、怒らないって言ったのに! 半泣きで一心不乱に走り続ける。手すりをぐっと握って踊り場をぐるりと駆け抜けて、また階段を下りる。足音が近付いてきた。佐久早くんの声ももうすぐそこに来ている。捕まったらどうなるんだろう、それを考えると怖くて恥ずかしくて、絶対振り返らなかった。

――佐久早が追いついて彼女を抱きしめるまで、あと十秒。


私たちは同罪である
▼title by はたち