とある日の夜。わたしは必死の思いで廊下を駆け抜けてリビングのドアを勢いよく開けていた。賢二郎がこちらを驚いた顔をして見ている。「何?」と聞いてきた賢二郎に急いで近寄ると、余計に驚いた顔をされた。

「け、賢二郎っ、ちょっと!」
「どうした……というか、その格好、」
「お、お風呂場に! アレが出た!」

 お風呂からあがって体を拭いていたら、足下からガサッと怪しい音がした。恐る恐る視線を落としたら、ヤツがいて。悲鳴も上げられないくらいびっくりした。パジャマにしているオーバーサイズのパーカーを慌てて着てからリビングに戻ってきたのが現在の状況。虫が全般的に触れない、というわけではないけれど、ヤツはちょっと。これまでは我慢してどうにか自分で退治していたけれど、前に賢二郎が何かの話の流れで「退治するくらいなら普通にできる」と話していたのを小耳に挟んだ覚えがあった。平気な人がいるなら我慢して立ち向かわなくていい。助けを求めに来た次第だった。
 ソファに座っていた賢二郎が立ち上がりつつ「とりあえず髪を拭け、服をちゃんと着ろ」とちょっと怒られた。滅多に出ないヤツとの遭遇で完全に大混乱している。逃げることに必死でズボンを穿くのを諦めてしまっている。ぎりぎり下が見えないくらいの長さだけど、さすがにちょっとだらしない格好だった。でも、わたしにとってはそんなことどうでも良くて。のんびり装備を整えている賢二郎の背中をばしばし叩いて「逃げちゃうでしょ! 早く!」と半泣きで急かしてしまう。こんなにも必死に助けを求めているのに賢二郎は面白そうに笑って「痛えよ」と言うだけ。全然急いでくれなかった。
 しっかり装備を整えた賢二郎がお風呂場のほうへ向かった。五分ほどで戻ってくると「仕留めた」と言って、あろうことかちりとりでお亡くなりになっている成果を見せてきた。半泣きでリビングの隅っこに走って逃げる。体を横に向けてしゃがみ込んでから「なんで見せるの!」と喚いたら余計に笑われてしまう。「はいはい、ごめんごめん」と大笑いしながら亡骸を処理しに行く。戻ってきてから「ほら、もういない」と両手を見せてきた。

「そんなんで結婚する前どうしてたんだよ。翔太もひかりもあんまり得意じゃないだろ」
「そ、それはまあ、わたしが頑張ってたけど! 今は賢二郎がいるから頑張らなくていいでしょ!」

 久しぶりに見た天敵にぞわぞわが止まらない。ようやくそうっと立ち上がって息を吐けた。「ありがとう」と言うと賢二郎はじっとわたしを見て満足そうに笑った。その笑顔、何? 賢二郎の思考回路は未だに分からないことが多い。聞いても教えてくれないだろうから聞きはしないけれど。
 ぽたりと髪から水滴が床に落ちた。慌ててしゃがんでタオルで拭く。大騒ぎしすぎた。ちょっと恥ずかしい。でも苦手なものは苦手だし。そう内心で言い訳をしていると、賢二郎がじっとこちらを見ていることに気が付いた。うるさくしてしまった。せっかく静かに休んでいたのに邪魔をしてしまった自覚はある。「騒いでごめん」と苦笑いしたら「いや」と言いつつ近付いてきた。
 わたしの目の前でしゃがむと、またじっと顔を見つめてくる。なんだろう。何かしたかな。不思議に思っていると手が伸びてきて、ちょっと乱暴に後頭部を掴まれる。そのあとすぐに唇を奪われたものだからびっくりして固まってしまった。急にどうしたんだろう。動けずにいるままのわたしを置き去りに唇が離れて、手も離れた。濡れたままの髪を乱暴に撫でながら立ち上がり、最後にぽんぽんと頭を軽く叩かれる。思わず賢二郎のことを見上げると、また満足そうな笑みを向けられた。機嫌が良い。家にヤツが出てなんでご機嫌になるのだろうか。さっぱり分からない。
 ハッとする。脱衣所にズボン忘れたままだ。恥ずかしい格好のままだった。まあこの際下着を見られたかもしれないことはいいとして、さすがに女として良くない。反省しながら「着替えてくる……」とちょっとへこんで言うと、賢二郎が「髪乾かして先に部屋行っといて」と言ってきた。そのままわたしを押しのけてお風呂に向かおうとするから「え、いや、ズボンだけ取らせて」と苦笑いを向ける。さすがにこのままはちょっと。そんなふうに呟いたらまっすぐわたしを見つめて、賢二郎が「どうせ」と言った。

「後で脱がせるつもりだから」

 じゃ、と言って何でもなかったようにさっさとリビングから出て行ってしまった。その言葉に固まっていると、賢二郎が戻ってきて顔だけ覗かせる。「嫌なら着といて」と付け足すために戻ってきたらしい。脱衣所に忘れたままだったズボンを持ってきてくれていた。ぽいっと投げられたので慌ててキャッチ。わたしがまたドアのほうに顔を向けたときには、もう賢二郎はいなかった。
 どうせ、後で脱がせるつもりだから。言われた言葉を頭の中で繰り返して、さすがに顔が熱くなった。意味が分からないほど子どもじゃない。意味は分かったけど、大丈夫かな。そんなふうに少し不安になってしまう。見てがっかりされたらどうしよう。色気も何もない体だし、これまでの人と比べられたら敵いっこない。これまでの人を見たわけではないけれど。自分に経験がないから余計にそんなことを思ってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「……嫌なのかいいのか、どっち?」

 苦笑いを向けられてしまう。そうっと目をそらして黙秘をしていると、賢二郎がそっと隣に座った。わたしの顔を覗き込んで「どっちだって聞いてんだけど」と拗ねたような声で言うと、頬を指でつんと突いた。
 賢二郎の部屋に行く前に自分の部屋に行った。タンスにしまわれているワンピースタイプの部屋着を引っ張り出してそれに着替えてからここに来たのだけど、どうやらそれがご不満らしい。それはそうだ、理解できる。でも、わたしの気持ちも、どうか理解してほしい。
 そうっと視線を賢二郎に向けると「ん?」と困ったように笑われる。言ったら馬鹿にされそうだったけれど、たぶん隠すのは良くないのだろう。恐る恐る「あの」と口を開いたら「うん」と優しい声で相槌を打ってくれた。

「賢二郎は、その、経験があるでしょう、女の子と」
「……その話題はあんまり、出してほしくないけど。まあ、そうだな」
「きれいな女の子だったでしょ、きっと」

 笑ってしまう。痩せていた体はずいぶん元に戻ったから大丈夫だけど、手や足にある傷は消えていない。これまで手入れをしてきたわけじゃないから、きっと同世代の子に比べたらきれいじゃないだろうし、見たらそういう気持ちにならないかもしれない。生きることに必死だったわたしの体が、男性から見て魅力的だとは思えない。だから、比べられるのが怖かった。賢二郎に経験がないならこんなことを思わなかったかもしれないし、経験がなくても怖いと思ってしまったかもしれない。情けないけれど、嫌われたくなくて。そんなふうに目をそらして呟く。

「馬鹿だな」
「……ひ、ひどくない?」
「怒らないだけ優しいと思え」

 そう言ってからわたしの髪に触る。じっと顔を見たまましばらく髪を撫でて、また静かに口を開く。「馬鹿だな」とまた言ってきたのでちょっと拗ねそうになったけれど、その顔があんまりにも優しい表情をしていたから口を少し開けたまま固まってしまった。わたしの顔をその表情のまま見て、小さく笑う。

「高校のときにフラれたのに、九年越しに結婚してくれって頼んだくらいだぞ。それくらい好きなやつの体にある傷の一つや二つ見たくらいで嫌いになるかよ」
「……一つや二つじゃないよ?」
「体中傷だらけでも変わんねえよ。心配はするけど」

 髪を撫でていた手が離れる。その手をそのままわたしに差し出すと「で、どっち?」と困ったように笑った。なんか、ちょっと、かわいい顔だなって思う。「変なの」と思わず笑ってしまったら「変じゃねえよ」と返された。変だよ、すごく。本当にずっと変な人。そう思いながら手を取った。
 ぐいっと手を引っ張られて、腰に腕が回ってきた。きゅっと抱きしめられるとほんの少し体が熱くなる。まだ慣れない体温が伝わってくる。好きだなあ。真っ白な紙にインクが滲むようにじんわり感じていると、そっと体がそのまま倒された。腰に回っていた腕がするりと抜かれて、お腹の上に置かれる。体の輪郭をなぞるような手つきにちょっとだけ困惑していると、そっと唇が重ねられた。あっちからもこっちからも、いろんなところから優しい体温が伝わってくるものだから、なんだか、目が回りそうで。どうすればいいのかよく分からなかったけれど、くすぐったい気持ちは不思議と心地よかった。


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