はじめてお互いの気持ちを通わせてキスをした夜から、賢二郎は少しだけ態度を変えてきた。今まで指一本触れないように気を付けているのが分かるほど不用意に近付いて来なかったのに、ここ最近はやけに距離が近い。じっと顔を覗き込まれたり、わけもなく手を触られたり。ご飯を作っているとよく近くにきてじっと様子を見ていくようにもなった。なんでだろう。でも、嫌じゃないしやめてほしいとも思わない。どちらかと言うと遠慮がなくなったように思えて嬉しかったから、特に指摘をしたことはない。これが普通の夫婦なのかな。そんなふうに思っている。
 そう思っていても、すぐに慣れるわけじゃない。今もじっとこちらを見ている賢二郎の視線に気付かないふりをするので精一杯だ。家計簿を書いているところを見て何が面白いのだろうか。あんまりにもじっと見てくるからお金の使い方に何か気になるところがあるのかと思ったけれど、さっきから一言も言葉を発しないからそうではないらしい。なんで見てるんだろう。そんなに面白い顔をしているだろうか。そんなふうにどぎまぎしている。
 あまり気にしないように頑張っていたけど、気になって仕方なくなっている。何を考えているのか分からなかったのは今までと変わらない。でも、その視線が妙にくすぐったくてたまらないのは今までと少しだけ違う。不思議だな、なんて少し笑ってしまいそうになった。


「あ、はい」

 家計簿から顔を上げる。さっきからじっと見ていたのは話しかけようか悩んでいたからなのだろうか。こっそりそんな推測をしつつペンを机に置いた。食卓の椅子から立ち上がろうとしたら賢二郎が「いや、忙しいならいいけど」と言った。暇つぶしで家計簿をつけていただけだ。忙しくないよ。そんなふうに笑いながら席を立った。
 ソファに座っている賢二郎の隣に腰を下ろす。賢二郎はアイボリーのハイネックの襟を指で直しながら一つ息を吐いた。言葉を探しているらしい。何の話がしたいのかな。いくつか思い当たるものを頭に浮かべて身構えておく。賢二郎はソファの肘掛けで頬杖をついて、ぱらぱらと指を動かすばかりでまだ口を開かない。そんなに深刻な何かがあったのだろうか。また出張とか? でもそんなに何度も出張はないかな。それともお金のことでわたしが何かやってしまったのだろうか。あ、それとも賢二郎のご家族に何かあったとかかな?!
 悪い想像ばかりが巡るのは悪い癖だと分かっているのだけど、あんまりにも賢二郎が言い淀んでいるから軽く捉えられなくて。どきまぎして賢二郎の顔を見ていると、ようやくその唇が動いた。

「大したことじゃないんだけど」
「う、うん」
「……抱きしめてもいいか」

 座ったまま転ぶかと思った。思わず笑ってしまいそうになる。本当に大したことじゃなかった、けど、賢二郎にとっては大したことだったんだろう。なんだか決心して言った言葉だったみたいだからぐっと笑いは堪えておく。
 前に突然髪を触りたいと言ってきたときもそうだった。妙にわたしに触らないように気を付けているような、どこか怖がっているように見える。高校生のときから人にべたべた触る人ではなかったけれど、あまりにも露骨に気を付けていることが伝わってくるから少し気になってはいた。
 それにしても。聞いたら絶対に怒られるから言葉にはしないけれど、どうしてわたしを抱きしめたいのだろうか。不思議。最近いつも距離が近いのも不思議でたまらない。わたしの近くにいて何かいいことがあるのかな? そんなふうにいつも不思議なのだけれど、聞いたらまた微妙な顔をされるだろうから聞けずじまいだ。
 こつんと膝の辺りを人差し指の第二関節で軽く叩かれた。「聞いてんのか」と少しバツが悪そうな声で言われる。無視したみたいになっていた。申し訳ない。

「いいんだけど、わたしはじっとしてればいいの?」
「……いい」

 一つ咳払いしてから賢二郎がわたしに体を向けた。じっと顔を見つめてからゆっくりと、少しだけこちらに近付く。ちょっと照れるけど嫌じゃない。嫌じゃない、けど、どうしていればいいのかよく分からなくて。ちょっとだけ目を逸らしてしまう。じっとしていればいい。こっそり深呼吸をしてからまた視線を戻した。
 思えば深夜に病院に行った夜と、気持ちを伝えた夜。その二回だけだ。男の人に抱きしめられたのは。家族以外の人にあんなにしっかり触れ合ったのもそれ以外ではなかったかもしれない。そんな相手が白布≠セなんて、高校生のときのわたしは想像もしたことがなかった。人生何があるか分からないな、なんてこっそり感慨に浸ってしまった。
 なんでわたしなんだろう。未だにそう思っている。特別外見がいいわけでも、性格がいいわけでも、何か利益になるものを持っているわけでもない。きっとこの疑問は永遠に消えないだろうし、どんなに言葉を尽くされても納得できないと思う。けれど、何度そう首を傾げることになったとしても、今こうして目の前でまっすぐわたしを見つめるこの瞳がある限り、忘れられてしまうのだろうと思う。それくらいに熱を感じる視線だから。
 そっと右手が伸びてきた。するりとわたしの頬を滑る手がくすぐったい熱を持っている。横髪を撫でながらその手が後頭部に回ると、ほんの少し引き寄せられた。それとほぼ同時に左手が背中に回ってくると、ちょっとびっくりするくらい力強く閉じ込められる。本当に嫌ではないのだけど、そんなふうにされる経験があまりないから思わずちょっと身を引こうとしてしまったくらいの力強さだった。それでも賢二郎は右手も背中に回して、より力強くわたしを引き寄せると、一つ息を吐きながら首元に顔を埋めてきた。
 いまいち、どうしていればいいのか分からない。膝の上に置いたままの手をきゅっと握るだけで動けずにいる。病院に行ってしまったあの日は自然に抱きしめられたのになあ。そんなふうに情けなく思ってしまう。でも、それを口にしたらきっと馬鹿だって言われるんだろう。想像したら少し笑ってしまいそうだった。
 ほんのりわたしと同じシャンプーの匂いがする。首元や頬に当たる髪の毛がくすぐったい。けれど、嫌悪感は微塵にもない。ああ、家族になったんだなあ。そんなふうに思った。とっくに家族になっていたのだけど、なんだかこの瞬間、強烈にそう感じた。
 握りしめている手から力を抜く。そっと、気付かれないように動かして、腰の辺りに手を添えてみた。無反応。嫌がられなくてほっとしたけれど、何か間違えてしまったのかなと不安にもなる。もっとぐっと抱きしめ返したほうがよかったかな。そんなふうに考えていると、首元に当たっている賢二郎の毛先が動いた。そのまま顔を上げたらしいから離れるのかな、と様子を窺う。その数秒後、首元にまた顔を近付けた賢二郎が、しっかりと唇を当ててきた。びっくりして思わず離れつつ首に手を当てる。それと同時に賢二郎が腕の力を緩めてくれる。それでも腕は手は背中に回ったまま。睫毛の一本一本が美しく見えるほど近くに賢二郎の顔がある。びっくりした。どきどきしている心臓を落ち着かせるように呼吸をしていると、少し低い位置からわたしの顔を覗き込むようにしている賢二郎が、小さく笑っていることに気付いた。

「一応言っとくけど」
「うん?」
「俺以外にはこんなことさせるなよ」

 その言葉にきょとんとしてしまう。賢二郎以外にこんなことをしてくる人がいるかも微妙だし、何より、わたし、頼まれたからって抱きしめられたわけじゃないのに。そうされたいなって思ったから首を縦に振っただけなんだけど、うまく伝わらないものだ。きっと賢二郎の中でまだわたしを付き合わせている、みたいな感覚があるのだろうと悟った。こんなこと≠チて。とても、愛情を感じるものだったけどなあ。
 頭は良いのに結構鈍いのね、なんて一人で笑いそうだった。そんなわたしの顔をちょっと怪訝そうに見つめて「なんだよ」と拗ねたような声で言われる。ずっとわたしに立ち止まるなとか引き返すなとか、そういう意味の言葉を言っていたくせに。立ち止まっているのも引き返してしまいそうなのも賢二郎のほうなんじゃないかな。後悔とか罪悪感とか。そんなものはもう持っていなくてもいいのに。

「賢二郎だけにしかさせないよ、こんなこと=v

 好きな人だから、と照れつつ付け加えると、賢二郎の目が真ん丸になった。じっとわたしを見つめたまま呼吸だけして何も言わない。変なタイミングでストレートに言ってしまった自覚はある。ちょっと恥ずかしい。でも、そんなに驚かなくてもいいのに。
 賢二郎がゆっくり瞬きをした。瞼が開いたその瞳が、ぼんやりと潤んでいる。それがとても色っぽく見えてしまって、今度はわたしが驚く番だった。きれいな瞳だと思ったことはあるけれど、色っぽく見えたのははじめてだ。人の瞳がそんなふうに見えたのもはじめて。なんだか、不思議だ。魔法にかかったみたいに目が逸らせなくて呆けてしまう。
 瞬きをした一瞬で唇が重なったのが分かった。ちょっとびっくりした、けど、嫌じゃない。目を閉じなきゃと思うのだけど、目を開けたままの賢二郎の瞳から目が離せなくて、閉じることができないまま。なんでだろう。恥ずかしいと思っているのに、やめないでほしいとも思う。不思議だ。本当に、不思議。
 そっと唇が離れた、かと思ったらまた一瞬だけ唇が重なる。それから顔が離れていって、ようやくちゃんと呼吸ができた気がした。

「俺もう寝るけど」
「……わ、わたしも、寝ます」
「なんで敬語」

 ぱっと腕が離れる。立ち上がった賢二郎の右手がわたしの頭の上に置かれると、くしゃくしゃと優しく頭を撫でられた。満足げに笑った顔でさえもなんだか色っぽくて思わず目を逸らしてしまう。変なの。心の中でぽつりと呟く。よく分からないけれど、なんだか、とても大事にされていると自惚れてしまうほど、優しい手付きだった。


戻る