騒がしい足音だった。珍しい。今日は休みだと言っていたはず。そんなに慌てることがあっただろうか。いつもより起きる時間は遅いけど、予定もないだろうに。ぼんやりそう思いながらコーヒーを淹れていると、乱暴にリビングのドアが開いた。ドアの向こうにはなんだか間抜けな顔をした賢二郎がいる。じっとわたしの顔を見て、なんだかまだ寝惚けているようにも見えた。寝癖付いてるけど大丈夫? そんなふうに笑いながら「おはよう」と声をかけたら、賢二郎がその場にしゃがんで「クソ、ムカつく」と呟いた。

「朝からカリカリしてどうしたの? とりあえずコーヒー飲む?」
「飲む。ムカつく。本当にムカつく」
「だから何が?」

 賢二郎のコップを出しつつ苦笑い。休日の朝からカリカリして疲れないんだろうか。わたしはむしろ、ぐっすり眠れて朝から良い気分だよ、と笑いながら言ったらよろよろと立ち上がった賢二郎が「それがムカつくんだよ……」と呟いた。ふらふらとソファに歩いていき、ぼすんっと勢いよく横になった。もしかしてよく眠れなかったのだろうか。わたしがいたせい? ベッドが狭かったせい? 何にせよ、わたしのせいだということはよく伝わってきた。
 コーヒーを机に置きつつ苦笑いをこぼす。人がいると落ち着かないタイプだったのだろうか。なんか申し訳ないことをしてしまった。ソファに腰を下ろすと賢二郎が体を起こす。コップを手に取りながら一つ息を吐くから、相当堪えたのだろう。「もうしないから、ごめんね」と謝ったら、バッと勢いよく賢二郎の顔がこっちを向いた。

「なんでそうなるんだよ」
「え、いや、寝不足で倒れちゃったら大変だし」
「いい。倒れない。気にするな」

 その自信はどこから。よく分からないけれど、あんまりにも真剣に言ってくるから「分かった」と笑いながら答えてしまう。なんか、賢二郎キャラ変わった? ちょっと子どもっぽくなった気がする。ムカつく≠ニかそういう言葉、ここ最近はあんまり聞いていなかった。これまでの賢二郎も特に取り作った感じはなかったけれど、今のほうがより自然な感じがある。

「なんでそんな余裕なんだよ。ムカつくんだけど、本当に」

 コップを机に置くと、じっとわたしを見てきた。余裕、とは。きょとんとしているわたしを細目で睨んで「無自覚かよ」と忌々しそうに言われてしまう。ぽつりともう少し照れろとか戸惑えとかなんとか、とにかくわたしの態度があまりにも変わらないことが不満らしい。そうは言われても。照れもあるし、どうしたらいいかなと思う瞬間もあるけれど、それよりも自分の気持ちを受け入れてもらえることが嬉しいという感情が勝ってしまうから仕方がない。開き直ってそのまま伝えたら「ふざけんな本当に」と頭を抱えられてしまった。
 さらりと揺れた髪が妙に目に付く。思わず手を伸ばして毛先を摘まんでしまったら、ガバッと顔を上げた賢二郎が目を丸くして見てきた。「あ、ごめん。なんとなく」と手を離して、もう触りませんよ、とポーズで示してみる。なんとなく気になることがあったからつい手を伸ばしてしまった。先に触っていいか聞くべきだった。

「いや、別にいいけど」
「いいの?」

 賢二郎が「ん」と少し下を向いた。許しをもらえたので遠慮なく髪を触らせてもらうと、見た印象より触り心地はふわふわしているとはじめて知った。まっすぐなきれいな髪だと思っていたけれど、実はふわふわの髪で軽いからよく風に揺れるのだ。それがきらきら光ってきれいなのは知っていたけれど。一緒に住んでそれなりに経つのに知らないことがまだあるんだな。そう不思議に思った。
 ぱっと手を離して「満足した」と笑って言ったらゆっくり目が開く。顔を上げるのと一緒に髪が揺れる。触った感触を知った今では少しその揺れ方が今までとは違って見える。さらり、というよりは、ふわり、と動いたように見えた。不思議。
 笑いながらふと思い出した。前に賢二郎がわたしの髪を触っていいかと聞いてきたことがあった。高校生のときからなんとなく触ってみたかった、と言って。今のわたしもなんとなく触ってみたかったから手を伸ばしてしまったなあ。なんとなくその共通点が嬉しかった。
 遅めの朝ご飯を一緒に食べてからは、特にどこかへ出かけることもなく二人でずっと話をした。これまでの休日も似たような過ごし方だったけれど、今までより少し距離が近くなった気がした。これまでも気を遣うとかそういうことはあまりしないように努めていたけれど、それを意識しなくてもお互い気を遣わずにいられる。そんな関係になれた気がして、嬉しかった。
 お昼ご飯も、晩ご飯も。二人だけで食べるご飯はわたしが今まで作ってきたものと何一つ変わりはないのに、いつもよりおいしくできた気がしてたまらなくて。自分で作ったものに言うのも変だけれど、素直においしいと思えた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 歯磨きを終えてそろそろ寝ようかと思っていたら、問答無用で腕を掴まれた。ずるずると引きずられるように連れて行かれたのは賢二郎の部屋。何かとハテナを飛ばしているわたしを放ったらかしにして、当たり前のように電気を消されて今に至る。寝ろ、ということだろうか。眠れないだろうから自分の部屋で寝ようと思っていたのに。

「明日は遅くなるから夕飯先食べてて」
「分かった。遅くてもうちで食べるんだよね?」
「できれば」

 そう言いつつベッドに入った賢二郎に置き去りにされてしまう。そんなわたしを見上げてきょとんとしている。「寝ないのか?」と聞かれたので「ああ、ううん、寝ます」とぼんやり答えて隣に入れてもらった。明日、仕事なのにいいのかな。眠れなかったらどうするつもりなんだろうか。
 もぞ、と寝返りを打ったのが分かる。やっぱり落ち着かないんじゃないの。そう思って顔を賢二郎のほうに向けたら、しっかり目が合った。びっくりして固まっていると賢二郎が「何もしないけど」と前置きをしてきた。

「本当に少しだけ、近付いてもいいか」

 近付いたら余計に狭くなるけどいいの? そう聞いたらじっと顔を睨まれてしまう。「いい」とだけ返ってきてから、わたしの返事を待たずに少し体が近寄った。やっぱり、思っていたよりもずっと、大きい体だ。病院に行ってしまった夜にも思ったけれど、高校生のときの記憶がなかなか薄れなくて驚いてしまう。高校のときももっと近くで見ていたら大きいと感じたのかもしれない。そんなことをぼんやり思った。
 気付かない間にじっと観察してしまっていたらしい。ぱっと目を手で隠されてしまった。それからなんとなく気まずそうな声が「あんまりじっと見るな」と密やかに呟く。なんで照れているんだろうか。変なの。そう笑いつつ「ごめん」と謝っておく。手が離れると、目の前に賢二郎の顔があった。ちょっとびっくりしていると、小さく笑ってわたしの頬を指で軽く撫でた。優しい顔。大事なものを見つめるような表情にようやく少しだけ照れてしまう。それに気付いたらしい賢二郎が、むに、とわたしの頬を軽くつねってきた。「照れんの遅いだろ」と笑ってから、頬をつねるのをやめてまた頬を撫でてくれる。ああ、そうか、わたしが全然照れないことが不満だったのか。

「一応、念のため確認するけど」
「あ、うん? 何?」
「好きっていうのは、友達としてじゃないほうの意味でいいんだな?」

 照れている中に若干の猜疑心を感じる。なるほど、またわたしが申し訳なさからそう言っているのではないか、と思っているのだろう。結婚式の後、ホテルでした会話のように。自分にできることはそれくらいだから、と言い出しているのではないかと思われている。わたしのせいでそう思わせてしまっているのが分かっているから苦笑いがこぼれてしまった。
 手を伸ばしてわたしも同じように頬に指を滑らせる。答えないわたしに拗ねている様子で「なんだよ」とは言われてしまったけれど避けられることはなかった。温かい肌。思わず顔が緩んだのが分かる。
 正直、これまで人を好きになったことがないから、わたしにも答えが分からない。賢二郎が前に言ったように生き急いできた人生だからそういうことに気持ちを割けなくて。これが恋だとか愛だとか、そういうものなのかと問われるとはっきりは答えられない。家族愛なのか恋愛感情なのか、それとも違う何かなのかは分からない。でも、はっきりとただ、答えられるとすれば、心から愛しいと感じている。それは友達に抱くものではないし、翔太とひかりに抱いてきたものとも少し違う。だからきっと、これが好きな人にだけ抱く感情なのだろうと思う、けど。正解なのかは分からない。そんな曖昧な回答しかわたしには用意できなかった。
 苦笑いをこぼして「こんなことしか言えなくてごめんね」と謝る。黙って聞いてくれていた賢二郎がゆっくりと瞬きをした。それから目を瞑るとそのまま「十分」と呟いて微笑んだ。その瞼が開いたとき、自分の心臓が跳ねるように大きく動いたのが分かった。
 手が離れた。それと同時に賢二郎が上半身を少し上げると、わたしを見下ろすような体制になる。片肘をついてわたしの顔をじっと見下ろしたまま、空いている右手で頬にかかる髪を払ってくれた。さすがのわたしでも何をされるか分かる。瞬きを忘れて賢二郎の顔を見つめていると密やかな声が「目」とだけ呟く。それと同時にわたしの肩を右手で掴んだ。結婚式のあのときと同じだ。あのときはすぐに目を瞑れたのに、今はドキドキして目が瞑れずにいる。怖いわけでも嫌なわけでもないけれど、不思議と体が動かなくなっていた。そんなわたしを見下ろしたままの賢二郎がくつくつと笑い始める。その瞬間、なるほど、と思った。悔しい≠チて、こういうことね。そんなふうに。

「そんな顔はじめて見た。いい気味だな」

 なんでそんな悪役みたいな言い方になっちゃうんだろう。もっと違う言い方があるだろうに。余計に悔しくなってきて思わず胸の辺りを叩いてしまう。余計に笑った賢二郎が「もっと叩いていいよ」と愉快そうに言った。
 そうっと顔が近付いてくると、笑ったまま「引き返すなら今だぞ」と言った。絶対、わたしが言ったことを根に持っている。これまでのわたしの言動の何もかもを忘れずに覚えているのだろう。先が思いやられる。いくつ恨まれているのか考えるだけで気が遠くなりそうだ。しばらくはこんなふうに立場が弱くなってしまうのだろう。
 鼻先が触れるほど近くに顔がある。そのうち額が触れ合うと賢二郎の髪が肌に当たった。シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。同じものを使っているのに不思議だ。特別なものに感じてしまう。そう思っているわたしがまさか、引き返すなんてことをするわけがない。
 ほんの少し呼吸が震えたのが自分でも分かった。きっとこの緊張が賢二郎にも伝わってしまっただろう。どうせまた笑われる。そう思ったけれど、同じように賢二郎の呼吸が震えたのを感じた。それに気付いたら強張っていた体がほぐれて、一つ息をつける。体が動く。ドキドキしているし緊張もしているけれど、さっきまでとは何かが変わった。そんな気がして、ようやく、ゆっくりと目を閉じられた。
 重なった唇はあのときと同じくらい熱くて柔らかくて、やっぱり少しだけ肩が震えてしまったのが分かる。でも、あのときと違ってすぐには離れていかない。掴まれたままの肩から少しずつ力が抜けた。息をしていないのに息をしているみたいな不思議な感覚。きっといつかこのまま溺れてしまいそうだと思うのに、それでも構わないと思っている自分がいた。
 唇が離れてゆっくり目を開けると、視界を遮るようにぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられた。びっくりして「ちょ、何」と手を退けようと掴むけれどびくともしない。何なの急に。ちょっと拗ねているとわたしの頭を掴んだまま賢二郎が「おやすみ」と言って、ぎゅっと抱きしめてきた。顔が見えない。どんな表情をしているんだろう。気になったけれど聞かないほうがいいみたいだから黙っておいてあげることにした。


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