そっと腕を離してまず「だから、賢二郎だって言ってんだろ」とツッコまれた。まさかそれをまず言われると思わなくて笑ってしまう。そんなこと言ったら、さっきわたしのこと「」って呼んだくせに。笑いながら言い返すと「俺のはわざとだからいいんだよ」と言われてしまった。
 とりあえず、伝えなくてはいけないことは伝えられた。それ以外はまだ言うのは恥ずかしいしやめておこう。そんなふうにただただ笑うしかできない。「じゃあ、おやすみなさい」と離れようとしたけれど、しっかり肩を掴まれている。賢二郎はじっとわたしを見つめたまま、少し目を細めた。何か疑ってくるときの目だ。もうさすがに分かる。

「まだ何かあるだろ」
「え、な、なんで?」
「その笑い方はそうとしか思えない」

 得意げに笑われてしまった。「言うまで離さない」としっかり肩を掴み直した。笑顔のまま言われてしまうと、わたしには上手く躱す方法が思い浮かばなくなる。口ごもっているわたしを賢二郎が楽しそうに見下ろしてくる。なんか、ちょっと悔しい。さっきまでちょっと泣いてたくせに。そう思ったけど、わたしのせいだと分かっているから言えなかった。

「いや、あの、大したことじゃなくて」
「なら言えるだろ。なんだよ」
「笑わない?」
「何かによる」
「……なら言わない」
「冗談だって」

 そんなに楽しそうにされると余計に悔しくなるから言いたくなくなる。そんな感じ、今まで見せたことないのに。突然間にあった壁がなくなったような、風通しの良さを感じた。くだけた雰囲気というか、なんというか。なんとも表現しがたい感覚だ。
 思わず笑ってしまう。あんまりにもまっすぐ見つめてくるから。今までもずっとわたしをまっすぐに見てくれる人だったけれど、これまでとは違う熱っぽいまっすぐさだった。そんな瞳の前では隠し事をするほうが恥ずかしく思えてしまうから、本当に不思議で。

「眠れなくて」
「眠れない? 何かあったか?」
「お、落ち着かなくて」

 首を傾げられた。「なんで?」とストレートに理由を求められる。それから少し考えて「熱があるとか体調が悪いとかじゃないだろうな」と顔を覗き込まれる。すぐにわたしの体調を気にするのはもう癖になっているのだろうか。何でもかんでもそれに結びつけるのはやめたほうがいいと思う。そんなふうに笑ってしまうわたしからちょっと恥ずかしそうに目をそらす。
 思い出してみると、翔太やひかりが眠るまで一緒に寝たり、おばあちゃんが不安にならないように一緒に寝たり、わたしは誰かに寄り添うように眠ることはあった。けれど、誰かに寄り添ってもらって眠ることはなかったな、と唐突に思い出した。記憶がないくらい幼い子どものころなら両親がそうしてくれたこともあったかもしれないけれど。もしかしてわたしはずっと、誰かに甘えたかったのだろうか。
 そんなことを考えたら余計に言いづらくなってしまった。もう今日はこれくらいで勘弁してほしいし、十分眠れそうな気がする。まあ、だからと言って逃げられる気もしないのだけれど。

「なんだよ、言わなきゃ分からないだろ」

 妙に、柔らかい言い方だった。これまでも優しいことには優しかったけれど、それでも聞き出そうとする圧が強くてちょっと怖いと思うときがたまにあった。でも、今の言い方はこれまで一度も思ったことがない、くすぐったい柔らかさがあった。胸の中に欠片だけ残っている、欲しいワンピースを見つめる女の子みたいな、引き出しの奥で転がるビー玉みたいな、今すぐにでもどこか遠くへ駆け出したくなるような衝動が一瞬で全身に走る。
 ああ、そうか。これが恋か。月明かりに映える髪のきらめきも、薄暗い中でも熱が伝わる肌も、触れなくてもぬくもりを感じる瞳も。わたしだからそう見えるのであって、賢二郎だからそう見えるのであって、誰でも良いものでもないし、誰にでも見えるものでもないのだ。そう分かったらすんなり納得できた。
 ごちゃごちゃと御託を並べる必要はなかった。わたしのこれまで歩んできた人生なんかこの場には何一つ関係はない。わたしはただ、今この瞬間にわたしを見つめてくれる賢二郎のことが好きなだけだった。
 黙ったままのわたしの前でひらひらと手を振った。「起きてるか?」と少し笑いつつ言った声は、さっきと同じ柔らかいものだ。少しからかうように「一人で寝るのが怖くなったのか?」とわたしのおでこを指で弾く。結構痛い。思わずおでこを右手で押さえる。機嫌が良い。こんなに機嫌が良い賢二郎を見たのは久しぶりかもしれない。

「怖いなら一緒に寝るか」

 明らかに茶化してくるような言い方だった。全然本気では言っていない言い方だったけれど、その隙を突くように「うん」とまっすぐ瞳を見つめて答えたら、丸い目がさらに真ん丸になった。しばらくそのまま固まっていたけれど、一つ瞬きをしたら目をそらされる。横顔がほんの少し照れているように見えて、ちょっと、かわいかった。

「好きな人がそばにいないと眠れなくなっちゃった」

 照れ隠しで笑いながら言ってしまった。それでも、賢二郎は馬鹿にしてこない。ずっとそっぽを向いていた。外は強い風が吹いているらしい。窓ガラスが小さくガタガタと音を立てている。それでも、月はきれいに光ったまま。何も隠させてはくれないままだ。
 ちらりと視線だけがこっちを見た。ぼそりと「急すぎるだろ」と恨み言を呟かれる。そうだね、わたしもそう思う。でも、急に自覚して開き直ってしまったから仕方がないのだ。

「やめたほうがいいならやめようか?」
「……いや、やめなくていい、けど、小出しにして」
「それ、久しぶりに会ってすぐ結婚を提案してきた賢二郎が言う?」
「耳が痛い、やめろ」

 すごくびっくりしたんだからね、と今更すぎる感想を伝えたら賢二郎も「まあ、そりゃそうだろ」と言った。驚かせるのは承知での提案だったし、そもそも受け入れられる可能性が低いと思っていたと教えてくれる。わたしが承諾したときはこっそり驚いていたのだという。それに続けて「断られてもしばらく粘るつもりだったけど」と小さく笑った。

「こっちは十年以上片思いしてんだぞ、少しは配慮しろ」

 咳払いをしつつ部屋のドアを開けてくれる。「どうぞ」とちょっと緊張気味に言った顔が珍しくてじっと見てしまう。そんなわたしを軽く睨みながら「追い出すぞ」と少し拗ねたような声で言った。「ごめん」と笑いながら謝ったら、ようやくいつもの顔に戻ってくれた。

「俺が引っ越してきたときにここ、空き部屋だって言ってたけど、あれ嘘だっただろ」

 唐突にそんなことを言われて面食らってしまう。確かに嘘は吐いたけれど、どうして嘘だと分かったのだろうか。何もものは残さなかったし、ほとんど使っていなかったからきれいだったはずだけれど。「どうして?」と聞き返すと、賢二郎は机の引き出しを開けた。手を突っ込んで奥のほうから何かを取り出すと、わたしにそれを広げて見せてきた。
 履歴書だった。はじめて勤めた会社を辞めたばかりのとき、手当たり次第にアルバイトの面接を受けたときのものだろう。写真は貼られておらず書きかけのものだ。しかもなぜかくしゃくしゃになっている。どうしてそんなものがここに? 不思議に思っていると「書き損じたものを捨て忘れたんだろ」と賢二郎が呟いて、略歴のところを指差した。中学卒業のあとに高校入学、そしてその後の行は「中途退学」と書かなければいけない。わたしはそれを「卒業」と書き間違えそうになったのだ。「卒」の字を途中まで書いてしまっている。全然覚えていない。けれど、恐らく書き損じたそれをくしゃくしゃに丸めてその辺に捨ててしまったのだろう。そうでなければこの部屋にこんなものが残っているわけがなかった。
 そんなもの、さっさと捨ててしまえばいいのに。賢二郎はくしゃくしゃの履歴書をきれいに折りたたんでまた引き出しにしまった。それからまた視線をわたしに戻して、困ったように笑う。「もう嘘吐くのなしな」と言われてしまった。そんなに、嘘を吐いたことはないと思うのだけど。どうやら賢二郎にはまだ心当たりがあるらしい。怖くて聞くのはやめておいたけれど。
 不思議と全然緊張していない。結婚式が終わった後、白布家の皆さんが用意してくれたホテルではあんなにドキドキしたのに。家だからなのかこれっぽっちもドキドキしていなかった。むしろちょっと眠気がむくむくと顔を出してきている。我ながら色気がない。そんなふうに呆れてしまった。

「……先に言っとくけど、何もしないし何かするための準備もないから安心して寝ろ」
「別に何も言ってないよ」
「俺が居たたまれないだけ。聞き流せ」

 そういうつもりだったわけじゃないけど、嫌ではないよ。そう笑って言ったら賢二郎がとんでもなく悔しそうに「お前、本当、俺を振り回すの好きだよな……」と眉間にしわを寄せて言う。振り回すなんてとんでもないし、全く心当たりがない。そんな反応をしたわたしに「やっぱり天然かよ。本当勘弁してくれ」とため息を吐かれた。
 いつまで経っても動かなそうな賢二郎をベッドに押し込んだ。「勘弁してくれ」とたじたじの様子だったけど知らんふりする。今日までたくさんたじたじさせられたお返しだ。横に入り込んだら、一気に眠たくなった。さっきまで眠れないと悩んでいたのに。不思議なものだ、恋というのは。


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