「ただいま」
「あ、お、おかえりなさい」

 白布がちょっと怪訝そうな顔をした。じっとわたしの顔を見てくるから慌てて「何?」と笑顔を見せる。その顔を細目でじいっと観察してきたけれど、最終的に「いや」と言って鞄を置いた。続けて何もなかったを聞かれたので、白布に言われた通り毎日していたし、変なこともなかったと報告。それに満足げにしつつも「今後も気を付けろよ」と困ったように薄ら笑った。
 もう夜の十時を回っている。夕飯は新幹線で食べたらしいのでお風呂だろう。背広を受け取りつつもう沸かしてあると言えば「じゃあ入る」と言って、ほんの少し疲れた顔をしつつお風呂場へ歩いて行った。
 ひかりが変なことを言うから妙に緊張してしまう。絶対、なんて言われたら破ってはいけない約束のように思えて仕方がない。でも、伝えるって、いつ? どういうタイミングで、どういうふうに切り出したらいいの? まともに恋愛なんかしたことがないわたしにその答えが分かるわけもない。お手上げ状態だった。急に言っても変に思われそうだし、自然に言えるような流れに持って行く技量もない。リビングを訳もなくぐるぐる歩いて考えてみても、とんと良い方法は思い浮かばない。言葉じゃなくて行動で示そうにも、何をすれば喜んでくれるかも分からない。白布と一緒に暮らしてそれなりに経つのに、白布のことを何も知らないんだなあ。そう少しだけへこんでしまった。
 とりあえず落ち着こう。慌てても何もいいことはない。ソファに腰を下ろして頭を抱える。たった二文字を伝えることがこんなにも難しいなんて思わなかった。学生じゃあるまいし。その上、相手はもう、夫になっている人なのに。情けないにも程がある。
 お風呂場のドアが開いた音がした。それからすぐにしまる音。白布はいつもお風呂からあがるのが早い。すぐに足音がこっちに向かってくると、それに合わせて心臓がドキドキとうるさくなる。言葉がまだ見つかっていないのに、どうしよう。そう内心呟いた瞬間にリビングのドアが開いた。

「ひかり帰って来たのか?」
「えっ?」
「洗面所のごみ箱にひかりが好きな入浴剤の袋があったから」
「う、うん、土日に帰って来たの」
「なんだ、そうだったのか。タイミング悪かったな」

 わたしとしてはグッドタイミングだったけれど、もちろん白布には言わない。「会いたがってたよ」と笑ったら白布は少し照れくさそうに「あっそ」とだけ言った。
 わたしの隣に座りながら白布が足を見てきた。捻ったところをまだ気にしている。もう一週間以上経ったから違和感もなくなっているのに。「大丈夫だよ」と先回りして言ったら「ならいいけど」と言いつつもじっとまだ見ている。腫れてもいないし赤くもない。心配性というよりは職業病なのだろうか。面白くて笑うしかできなかった。
 白布が帰ってくる前にお風呂はもういただいている。時間も時間だし、白布はそろそろ部屋に戻って眠るだろう。そう思っていると「明日、どこか行くか?」と声をかけられた。出張から帰ってきたばかりなんだから休んだほうがいいんじゃないだろうか。そのままそう伝えたら白布は「まあ、じゃあ」と言って目をそらした。
 もう寝る、とわたしが立ち上がると白布も立ち上がった。同じく寝ることにしたらしい。テレビを消して、リビングの電気を消す。廊下に出たら「おやすみ」と声をかけてくれた。わたしも「おやすみ」と言ってから、そそくさと階段をあがった。なんか、恥ずかしくて顔が見られない。困ったな。そんなふうに思いながらあがり切って部屋のドアを開けようとした瞬間「あっ」と思わず声が出た。いや、ここ、白布の部屋だった。あまりの恥ずかしさに階段の下に目を向けると、白布がこちらを見上げて笑いを堪えていた。

「……ま、間違えました」
「いや、別にいいけど」

 くつくつ笑いながら階段をあがってくる。退きつつわたしは階段を下りようとしたら白布が「寝ていっても良いぞ」とからかってきた。恥ずかしい。一週間きっちりここで寝ていた証明になってしまった。ちなみに、ひかりが泊まりに来た日も白布の部屋で寝た。なんか、自分の部屋の布団が落ち着かなくて。ひかりにバレないようにこっそり夜中に移動してここで寝たのだ。不思議だけれど。
 からかってくる白布に早口で謝って階段を下りる。逃げるように自分の部屋に入ってから、畳の上に崩れ落ちてしまう。恥ずかしすぎる。なんで間違えたかな。これまで一度も間違えたことなんてなかったのに。恥ずかしさをかき消すように立ち上がって、自分の布団に入る。ひんやり冷たい布団は夏の終わりの夜には心地よいはずなのに、なぜだかそんなふうに思えない。やっぱり、なんだか、落ち着かない。
 結局、好きって言えなかったな。頭の中でひかりに謝りつつ目を瞑る。明日言えばいい。今日じゃなくても、明日がある。そんなふうに頭の中で呟いたら、怒った顔のひかりが一緒に浮かんできた。ほっぺをつねられた感覚を思い出して、また目が開いてしまう。
 もぞもぞと布団の中で何度か寝返りを打つけれど、一向に眠たい感覚が落ちて来ない。むしろ目が冴えて仕方なかった。おかしいな、白布のベッドで眠った初日とはまた違う落ち着かない感じ。何か物足りないというか、なんとなく寂しいというか。何とも言いがたい感覚が気持ち悪くて余計に目が冴えてしまう。
 人の布団なら眠れるのかな。そう思ってこっそり部屋を出た。足音を立てないように階段をあがって、ひかりの部屋に入る。ひかりの布団にそうっと入って目を瞑るけれど、やっぱり落ち着かない。おかしいな、こんなこと今までなかったのに。しばらくじっとしていたけれどやっぱり眠気は落ちてこなくて、仕方なくひかりの布団から出る。今度は隣の翔太の部屋に移動。でも、ひかりの部屋と同じで眠れる感じはなかった。
 困った。なんでだろう。そうため息を吐きつつ翔太の部屋を出る。子どもじゃあるまいし、誰かの布団じゃなきゃ眠れないなんてわけはない。今日はまだ眠くないのかな。そう思いつつ翔太の部屋から離れて階段を下りようとして、思わず見てしまう。白布の部屋のドア。もう物音一つ聞こえない。出張で疲れているだろうし、すぐに眠ってしまったのだろう。聞き耳を立ててももちろん寝息が聞こえてくるわけがない。寝ちゃったかな、白布。そう思った瞬間に、いやいや、と一人で首を横に振ってしまう。起きてたら何になるというのだろうか。まさか、眠れないからベッドを貸してなんて言えるわけでもあるまいし。
 横になっていればいつかは眠くなる。今は目が冴えているだけだ。大丈夫大丈夫。自分にそう言い聞かせて階段を下りようとした瞬間、ガチャ、とドアが開いた音がした。

「何してんださっきから。何かあったか?」

 音には敏感らしい。白布は「翔太とひかりの部屋に入っただろ」と言い当ててきた。地獄耳。高校生のときもたまに先輩に言われていたけれど、本当に耳が良くて怖い。どうにか口を開いて「寝てなかったんだ」と言ったら「寝ようとしたけど物音が気になって起きてた」と言われてしまう。わたしのせいか。申し訳ない。謝ったら「いや、それは別にいい」と言って、じっと顔を覗き込んでくる。

「何? とりあえず言ってみろよ」

 多分なのだけど、なんで眠れないのかが分かってしまっている。あまりにも恥ずかしくて言えるわけがないそれをどう誤魔化そうか悩んでしまう。それこそ子どもみたいな理由だし、言われても白布が困るのは目に見えている。
 安心してしまったのだ。白布のベッドで眠ったときに。なんとなく白布の温かい感じとか、落ち着く匂いが残っている気がして、ほっとして眠れていたのだ。好きな人の体温や匂いは本能的に落ち着くものだと何かで聞いたことがある。きっとそれなのだろうと分かっているけれど、ちょっと、言うにはハードルが高すぎる。
 今日は退散だ。さすがにちょっと言えない。月に雲がかかっている暗い廊下で助かった。赤くなっている顔に白布は気付いていないだろうから。「大丈夫、何でもない」ととりあえず笑って言っておく。「おやすみ」と言って逃げるように階段を下りようとした。
 けれど、そんなわたしの手を白布が掴んできた。ぐっと、やけに強い力で。びっくりして振り返ると、雲が晴れて月明かりがまっすぐ廊下に差し込んできた。

「言ってくれたほうが、嬉しいんだけど」

 白布のその言葉にほんの少し違和感を覚えていると、ぼそりと「なんか、大事な話があるらしいって、言われてるんだけど」と言われた。ひかりだ。すぐに分かった。わたしの逃げ場をしっかり潰してくれていたのだ。きっと白布も物音が気になって起きていたわけではない。わたしが何も言ってこなかったから、気になって眠れなかったのだ。
 お膳立てされないとろくに自分の気持ちも伝えられない。きっと、ひかりが白布に事前にそう伝えておいてくれなかったら、このシーンは絶対に生まれなかった。白布が気にしてくれなかったら、この状況は絶対に作れなかった。一人では生きていけないことを思い知らされたけれど、それはとても、幸せなことなのだと心から思えた。情けないことなんかじゃなくて、それだけ自分を思ってくれる人がいるからなのだと、心から祝福できた。

「あのね」

 まだ夜空は晴れている。月明かりが眩しく廊下を照らしてくれているおかげで、白布の顔がよく見えた。緊張している。はっきりしているけれど、どこか優しい月明かり。その光に白布の肌がつるりと陶器のように艶やかに見えた。髪も優しく光を反射して、やっぱり凪いでいく波みたいに静かにきらめている。瞳は、今にも泣き出しそうなほど、瑞々しくて。白布がわたしに何かを求めてくれていることがあるのだろうと、まっすぐに伝わってきた。

「わたし、白布のことが、好きだよ」

 きっともう、今日の夜空に雲はかからない。月はずっと優しく輝くし、星は静かにきらめき続ける。今日だけじゃなくこれからの夜はずっと。そんな夢みたいなことを思った。
 今更すぎるそれがやっぱり申し訳なくて、照れ笑いをしつつ「ごめんね」と謝ってしまう。白布はわたしの顔を真ん丸な目で見つめたまま瞬きもしなかった。けれど、ただただ見つめ続けている瞳が、ぐらりと揺れたように見えた。それを食い入るように見つめてしまう。そんなわたしをぐいっと白布が引き寄せると、あっという間に抱きしめられてしまう。固まっているわたしを余所に白布が、小さく鼻をすすった音が廊下に響いた。

のことが好きだ、ずっと」

 ちょっとだけ笑っている声だった。喜びが伝わってくる声の温度がじんわりと広がって、わたしにまで熱を分けてくれる。それがあまりにも優しい熱だったから、瞳の奥が痛くなるほど熱くなってしまった。


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