白布が出張に行って六日目、土曜日。突然ひかりが帰って来た。何でも珍しく土日がオフになったのだという。寮監に外出届を出したら快く見送ってくれたとのことで、今日は泊まっていくことになった。ひかりはソファに腰を下ろしながら「賢二郎さんは?」と首を傾げた。

「仕事でいないよ」
「え、でも車あったじゃん」
「出張で大阪に行ってるんだよ。明後日の夜に帰ってくるけど、何か用でもあった?」

 ひかりは「え、別に何も」と少し動揺したように見えた。怪しい。じいっと顔を見つめるわたしを見て、ひかりも怪しまれていると分かったのだろう。「ちょっと、相談したいことがあって」と照れくさそうに言った。白布に相談。同性にはしづらい相談だろうか。わたしは聞かないほうがいいことなのかもしれない。気になるけれど。
 言えないなら言わなくていいから、と前置きをして聞いてみた。わたしで良ければ聞くよ、と。ひかりは視線をあっちへ向けたりこっちへ向けたりしてから「絶対お姉ちゃん怒るもん」と恥ずかしそうに言った。わたしが怒るようなことを白布に相談しようとしていたのか。もしかしてお小遣いのこととか? そんなふうに言うと「違う……」とまたしても恥ずかしそうに呟く。ひかりがこんなに恥ずかしそうにするのは珍しい。余程のことなのだろうか。

「怒らないから言ってごらん」
「え、えー……絶対怒るもん……」
「怒らないってば」

 ひかりは良い子だ。わたしが怒るようなことはしないし、悪いことをする子でもない。そんなふうに軽い気持ちで言ったらひかりは「本当〜?」と言いつつも、わたしを手招きした。隣に座っているのにもっと近くに来てというのだ。なんで? 不思議に思いつつ顔を近付けると、ひかりも顔を近付けてきてこそっと耳元で内緒話をしてきた。その内容にびっくりして、思わず身を引いてしまうとひかりは「だからお姉ちゃんには言いたくなかったのに!」と、わたしが怒っていると勘違いしている様子だった。怒ってはいない、怒ってはいないのだけど、ただただびっくりしている。ひかりが耳打ちしてきたのは、彼氏とのそういうことに関する話だったからだ。

「そ、その話、し……賢二郎にしようとしてたの?!」
「だって、お姉ちゃんは怒るしお兄ちゃんも絶対答えてくれないじゃん!」
「まずは女の子の友達に相談するでしょう?!」
「仲良い子は大体彼氏いないし、いてもまだえっちしてないんだもん!」
「大きな声で言わないで!」

 だからって異性に聞くのは変でしょう! そこを怒ったら「だってお医者さんだから」と謎の理屈を言ってきた。よかった、白布がいないときに来てくれて。そうほっとするのと同時に困惑してしまう。まだ高校一年生なのにそういうことしちゃうの?! 拓也くん、本当にひかりのこと大事にしてくれてるの?! 思わずそうひかりに言ったら「高校生ではじめてする子多いよ」と言ってきた。そ、そうなんだ。怖気付きつつとりあえず落ち着くために深呼吸をしていると、ひかりが「話しちゃったし、お姉ちゃんがアドバイスしてよ」と珍しい赤い顔のまま聞いてきた。
 ものすごく困る。とても、とても困る。言葉を濁して時間稼ぎをしているけれど、いくら時間をかけても答えが出るわけがない。わたし、そういうこと、したことない、し。人生経験が少ないことを情けなく思いつつこの場の切り抜け方を考えている。そこに追撃するようにひかりが「いつから痛くなくなるの?」と肩を揺さぶってきた。そんなこと言われても、痛いということさえ知らないわたしに答えられるわけもなく。かといってそういう経験がないと正直に言うのも絶対に怪しまれる。
 苦し紛れに「そ、そのうち」と誤魔化したら、ひかりが一瞬だけきょとんとしたように見えた。な、何か変なリアクションをしてしまっただろうか。どぎまぎしながら様子を見守っていると、ひかりが小さく笑った。それからぽつりと「本当に何もしてないじゃん、怖」と呟く。その言葉の意味はよく分からなかったけれど、優しい声だったから怒っていたり悲しんでいたりするわけではなさそうだ。少しだけほっとした。

「と、とにかく、そういう話を賢二郎にはしちゃだめだからね」
「えーなんで? こんなに悩んでるのに……」
「拓也くんと二人で解決する問題だよ。正直に話してみたら?」
「……面倒くさいって思われないかな?」
「それを面倒くさいって言うような人と付き合っちゃだめ」

 いいね、とひかりに必死に言い聞かせたら、どうにか納得してくれた。「話してみる」と恥ずかしそうではあったけれど約束もしてくれた。内心ほっとする。そんなこと白布に話されたら困るし、白布も困るだろうから。どうにか阻止できた達成感に満ち溢れてしまった。
 そっか、そりゃあ、好きな人と両思いなんだからそういうことに興味も持つよね。テレビを付けて番組表を見ているひかりの横顔を見て感慨深く思ってしまう。あんなに小さくてかわいい天使みたいだったひかりももう大人の女性に近付いてるんだなあ。もちろんかわいいままだけれど。
 白布も結婚式の後に言っていたっけ。興味がないわけではない、と。これまで付き合った人とはそういうことをしたのだろうし、不思議なことではない。むしろわたしと白布の関係が異常なのだ。
 わたしが白布なら別にいい、と言っても、白布はそういうことを求めてこなかった。それどころかそういう提案をしたわたしに対して「悔しい」と言ってきた。興味があるならあのときにでも手を出してしまえば良かったのに。そんなふうに思ってしまって、ちょっと恥ずかしくなる。まるで自分がそういうことを求めているみたいに思えたからだ。白布ならいいと思ったのは本当だし、白布がそういうことを求めるなら応えたいとも思っているけれど。たぶん、白布が求めているものはもっと違うものなんだろう。
 じっとひかりがこっちを見ていることに気付いた。「何?」と笑い返したらひかりも小さく笑う。ぽつりと「お姉ちゃん」と呟くと、わたしの太腿をちょんっとつついた。

「賢二郎さんのこと、好き?」

 今までのわたしなら嘘を吐かなきゃ、と思って答えただろう。好きだよ、と。そうじゃないと不自然だから答えるだけ。今までのわたしなら迷わずにそうした。でも、彼氏を想って恥ずかしいのに相談をしたりして頑張っている、恋をしているひかりにまっすぐな目を向けられたら、なぜだか、曇っていた空が晴れたように心がクリアに見えた。

「うん、好きだよ」

 早とちりした夜からずっと、それに悩んでいるから。今更過ぎると笑われてしまいそうで怖くて言えずにいるけれど。単純なやつだと呆れられたくなくて、嫌われたくなくて。なんだかとても臆病になってしまった。
 ひかりがわたしをじっと観察してから「それ、賢二郎さんに言ったことある?」と聞いてきた。鋭い。女の勘って怖い。しみじみ感じつつ「あんまり」と苦笑いしたら「だめだよ!」と肩を叩いてくる。

「わ、わたしに言われても、あれかなって」
「は? じゃあお姉ちゃん以外に誰が言うの?」
「え」
「賢二郎さん可哀想。好きで結婚した人に好きって言ってもらえないんだ」

 その言葉がわたしの身を見事に真っ二つにする勢いで刺さってきた。ひかりは続けざまに「思い起こせばお姉ちゃん、あんまり賢二郎さんのこと好き〜って言わないよね」と冷たい目を向けてくる。それもグサッと思いっきり突き刺さってしまう。でも、だって。そう子どものように駄々をこねそうになる。わたしは別に美人でもないし、何か相手に得を与えられる存在でもない。ごにょごにょとそう言ったらひかりが鬼の形相で頭を叩いてきた。痛い。はじめてひかりに叩かれた。びっくりして固まっていると「ばか!」とほっぺをつねられてしまった。

「美人でお金持ちだったとしても、賢二郎さんにとってはお姉ちゃんじゃないから意味ないの! 分かる?!」

 ぽかん、と固まってしまうわたしのほっぺをさらにつねってくる。ひかりは「もう!」となぜだか半泣きで顔を真っ赤にして怒っている。な、なんでそんなに、白布の味方をするんだろう。呆気に取られているわたしを放ったらかしにしたまま、ひかりが「なら!」とずいっと顔を近付けて言った。

「お姉ちゃんは?」
「え」
「かっこよくてお金持ちだったら賢二郎さんじゃなくてもいいの?」

 白布じゃない人が相手だったら。そんなふうに考えたことがなかった。白布じゃない人に「お金は出すから結婚しよう」と言われたら。白布じゃない人に一緒の家に住むと言われたら。白布じゃない人と結婚式をすることになったら。
 想像してはじめて思った。全部、白布じゃなかったら、わたしは首を縦に振らなかった。承諾しなかった。いいと思わなかった。結婚の提案をされたときこそ、そうではなかったのかもしれない。でも、今のわたしは、白布なら≠「いんじゃなくて、白布が≠「いのだ。

「いい? 賢二郎さんが帰って来たら絶対好きって伝えなきゃだめだからね」

 絶対だからね、と言ってひかりがほっぺから手を離してくれた。それから弾けるような笑顔を向けて「喜ぶよ」と言った。


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