深いため息だった。あんまりにも深刻そうな顔をしているものだから声をかけていいのかさえ分からない。ソファに座ったまま手帳と睨めっこをしている白布は、明らかに何かに悩んでいる様子だった。仕事のことだろうか。それならわたしが首を突っ込むことではない。そう思って大人しくコーヒーを淹れているのだけれど、不意に白布がこちらを見た。「ん?」と笑顔で反応すると「ちょっと」と呼んでくる。慌ててコーヒーをコップに注いでから持っていこうとすると、慌てるなと怒られた。まだ捻った足は全快ではない。白布が立ち上がってコップを取りに来てくれた。本当、心配性なんだから。笑ってしまったわたしに「何?」と首を傾げたけど、教えてあげなかった。
 ソファに座ってから改めて何か聞いてみると、白布が嫌そうな顔をして手帳を睨み付ける。一つ間を開けてから「出張に行くことになった」と、とんでもなく嫌そうな声で呟く。出張。ここまで嫌がっているということは、泊まりがけなのだろうか。「そうなんだ?」と返したらすぐに「一週間」と言葉が返される。

「一週間? 長いね?」
「他院での研修と、ついでに偉いさんに顔出して来いって言われてな」
「そんなに嫌そうに言わなくても……期待されてるってことじゃないの?」
「まあ、良いように言えばそうだけど」

 悪いように言えば使いっ走り、と忌々しそうに呟いた。場所は大阪なのだという。翔太の大学の近くだからついでに様子を見てくる、と言ってくれたので「写真撮ってきてね」とお願いした。翔太、元気かな。そんなふうに思っていると白布がじっとこちらを見てくることに気が付く。「ん?」と聞いてみても「いや」としか言葉は返ってこなかった。
 それにしても、一週間か。翔太もひかりもいなくて、白布もいない一週間なんて、これまで一度もなかった。ちょっと寂しいかも。内心そう思ったけれど、仕事なのだから仕方がない。寂しいから行かないでなんて口が裂けても言えないし、言ったって無駄なのだ。子どもじゃあるまいし。知らんふりするしかできなくて口を噤んだ。

「戸締まりしっかりしろよ」
「子どもじゃないんだから分かってるよ」
「どうだか」

 小さく笑った白布が、何か言いかけてやめたのが分かった。なんだろう。聞いても多分教えてくれないから気付かなかったふりをしておくけれど。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 白布を玄関で見送るときに、気が向いたらでいいから部屋の空気の入れ換えをしてほしいと頼まれた。翔太とひかりの部屋も定期的に換気している。もちろん断る理由なんかなかったから「分かった」と返事をして手を出す。白布が不思議そうに「何?」と聞いてきたので、鍵を受け取るつもりだっただけにわたしも固まってしまった。白布が今使っている部屋は元々わたしが使っていた部屋だ。この家で唯一鍵をかけられる部屋になっている。白布にもそのことを説明してあるし鍵ももちろん渡している。わたしが「え、いや、鍵がないと入れないよ?」と困惑しつつ言ったら「引っ越してきてから一度も鍵をかけたことがない」と言った。ちょっとびっくりしつつ、一応触ってはいけないものがないかを聞いてみると「一つもない」と少し呆れていた。
 白布が帰ってくるのは来週の夜。出張帰りの次の日は休みだと言っていた。休みの日のご飯は何にしようかな、と考えてから、いやいや、まだ一日しか経ってないのに、と笑ってしまった。白布に言われた通り戸締まりをしっかりして大人しくしていなくちゃ。そう思っているとインターホンが鳴った。何かと見てみるとスーツを着た大柄の男性が一人、にこやかにカメラに映っている。セールスマンかな。「はい」とマイクで声をかけると、思った通りセールスマンだった。一生懸命働いているのだから本当は話くらい聞いてあげたいけれど、何にせよ買わないものの話を聞くのは気が引ける。丁重にお断りすると「旦那様はいらっしゃいますか?」と聞かれた。いない、と答えたら「興味を持っていただけると思うのでお話ししたいのですが」と言われる。「出張でしばらく帰らないのでお引き取りください」とできるだけ丁寧にお断りしたら、にこっと笑って「お時間いただいて申し訳ありません。出直します」と言って帰っていった。
 ……と、いう話を夜に電話をかけてきた白布にしたら、耳が吹き飛ぶかと思うくらいの勢いで怒られた。「なんで馬鹿正直に答えるんだよ」と言われて縮こまってしまう。白布が言うには、そうやって聞くことによってしばらくこの家には女一人なのだ、と悟られてしまうと。言われて見れば確かにそうだけど、相手はセールスマンだ。そこまで警戒しなくても、と苦笑いをこぼしたら「本当にセールスマンだったのか? 名刺は見たのか? 社章は?」と矢継ぎ早に聞かれてしまう。そうか、相手がわたしを騙している可能性もあるのか。思い至らなかったその可能性にちょっと恐怖を覚えてしまった。確かに何の商品なのかを一切説明してこなかったし、会社名もわたしが知っている限りは聞いたことのないところだった。名刺をカメラに向けてくることもなく、チラシをポストに入れていくこともしなかった。怪しいかも。なんであのとき疑わなかったかなあ。そう後悔した。
 白布に言われて夜はリビングと二階の部屋一室の電気を付けるようにした。夫がいないにしても一人ではないと思わせるためだ。日中に干す洗濯に男物を混ぜろとも言われた。「戸締まり絶対忘れるな、何かあったら何時でも電話しろ」とも言った。心配してくれているのがストレートに分かって、ちょっとだけ嬉しい自分がいる。いや、喜んでいる場合じゃないのだけれど。

『俺の部屋で寝ろ。鍵かかるんだろ?』
「えっ、でも、」
『いいからそうしろ。いいな?』

 そこまでしなくてもいいのに。そうこぼしたわたしの耳に「あ?」とドスの効いた声が突き刺さる。「何でもないです」と思わず返したら「絶対だぞ、いいな」と何度も念押しされた。
 いつも自分の部屋に行く時間。テレビを消して、リビングの電気を消した。廊下に出つつどうしようかちょっと迷う。白布の部屋は二階。わたしの部屋は一階。リビングのドアを閉めたままどうしようと一人で考えてしまう。白布の部屋に行かなくても白布には分からないし、このまま自分の部屋に行こうかな。そんなふうに思っていると、ガタッと玄関から物音がした。ビクッと思わず肩が震えてしまう。びっくりした。バクバクする心臓を押さえつつ玄関を見てしまう。たぶん、風で何かが揺れた音だろう。人がいるような気配なんかどこにもない。でも、たったの一瞬で怖くなっている自分がいた。
 そうっと足を階段のほうへ向ける。そそくさと二階へあがって、久しく見ていなかった昔の自室のドアを見つめる。二階の階段をあがってすぐのところにある部屋だ。リビングの真上になるところで、我が家では二番目に広い部屋である。翔太の部屋にしようとしたのだけど、まだ幼かった翔太が「広くて怖い」と言ったし、それより幼いひかりの部屋にするわけにもいかなくて、結局わたしの部屋になったんだっけ。白布もどうやらこんなに広い部屋が空き部屋なんて、と不思議そうにしていた。引っ越してきたとき怪訝そうな顔をして「お客様じゃないんだから気を遣うな」と言ってきた。それでもずっと空き部屋だったと嘘を吐いた。白布はそれに渋々納得してくれて今に至る。
 なんだか、悪いことをしている気持ちになる。静かにドアノブを握ってそうっと回してみると、白布が言った通り鍵なんてかかっていなかった。せっかく鍵があるんだからかければいいのに。ドアをゆっくり開けて電気を付ける。わたしが部屋にしていたときと違って、結構物が多い。本棚が二つ置かれていて、わたしにはよく分からないタイトルの本がぎっしりと並んでいた。机の上にも書類らしきものやノートが置かれている。勤勉家であることが伝わってくる部屋の様子だ。白鳥沢に通っていたときも、レギュラー唯一の一般入試組だった。きっと、昔から努力を惜しまない人なのだろう。そう思うと不思議と胸の奥が熱くなった。
 手に持ったままのスマホが震えた。見てみると白布からのメッセージ。一言だけ「おやすみ」と来ている。早く返さないと変に心配させてしまうかもしれない。慌てて開いて「おやすみ」と返した。すぐ既読がついたけれど返信はない。これで安心して眠ってくれるだろう。わたしがほっとしてしまった。
 恐る恐るベッドに入ると余計に落ち着かなくなってしまった。自分のものじゃない布団って、合宿所の布団くらいでしか寝たことがないけどこんなに落ち着かないものだっただろうか。やけにそわそわして目が冴える。そんなふうにして、夜が更けていった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 白布は連日、必ず一度は電話をかけてきた。メッセージも少なくとも二回は送ってくるものだから、ちょっと呆れてしまう。最初こそ少し不安だったわたしももうすっかり怖さは消えていて、白布ばかりが心配してくれている状態だ。大丈夫、と何度言っても聞かない。変な人だけど、やっぱり優しい。本当に変わっているけれど。
 翔太と会ったときの写真も送ってくれた。元気そうで安心したし、一人暮らしを結構満喫している様子だったと白布が言っていた。何でも翔太の家にあがったのだという。「洒落た部屋だった」と白布が笑っていたから、わたしも行きたかったなとこぼしてしまう。羨ましい。そんなふうに言ったら「いいだろ」と自慢げに言われたのでおかしくて笑ってしまった。
 白布のベッドで眠るのも慣れて、三日目くらいからそわそわすることはなくなった。むしろ落ち着くようになって、今朝もいつもより起きるのが遅かった。正しくは起きたのだけど、二度寝してしまったのだ。あまりにも居心地が良くて。そのせいで朝ご飯がずいぶん遅い時間になってしまったし、洗濯をするのが遅くなってしまった。気を引き締めなければ。そう気合いを入れて掃除機の電源を入れた。
 寂しい、と思っている自分がいる。一人分のご飯を準備するたび、誰も帰ってこない玄関を見るたび、ずっと玄関に揃ったままのスリッパを見るたび。虫のいい話だ。翔太とひかりがいなくなった途端、白布がいないから寂しいと思うなんて。白布しかいなくなった途端、好きだと思うようになったなんて。未だになかなか名前で呼べないくせに。情けなくて苦笑いしかこぼれない。わたしは本当、昔から誰かに頼らなくては生きていけない人間だったのだろう。こんなの、恥ずかしくて白布には言えないな、なんて。一人で笑ったら余計に寂しくなってしまった。


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