わたしが早とちりして白布の病院に行ってしまった日から三日。激務が続く白布の帰宅は大抵夜中で、ご飯を食べてお風呂に入ったらリビングで寝落ちしてしまう日々だった。起こすのも可哀想で、とりあえず風邪を引かないようにタオルケットを掛けて、静かに近くで様子を見守るようにしている。あんまりにも起きなかったら起こしてベッドに行くように誘導するけれど、大抵は二時間ほどで自分で起きる。「俺のことはいいから寝ろ」といつも言われるけれど、あえて無視するようにしている。
 今日も、目の前で眠りこけている白布をじっと見ている。座ったまま横を向いて寝ているせいでソファの背もたれに顔が半分埋まってしまっている。今日も大変だったみたいだ。ご飯を食べているときにすでにうとうとしていたからちょっと心配していたけど、もう少しゆっくり休める日はないのだろうか。もちろん、それだけ必要とされているのは分かるのだけど、一緒にいる身としては心配になってしまう。
 そうっと顔を覗き込む。くすぐったそうに見えた前髪を静かに払うと、ほんの少しだけ目元が動いた。起きるかと思ったけどどうやら気付かれなかったらしい。ほっとしつつ、そっと隣に座り直す。
 困っていることがある。ここ最近。眠りこけている白布を横目に見つつ、小さくため息を吐いてしまった。うまく言葉が出せないというか、どうしたらいいか分からないというか。「どうしよう」なんて心の中で呟いてる自分がいる。この期に及んで、今更、今になって。そんな言葉が頭をぐるぐる回って言葉が出てこなくなってしまった。
 好きかもしれない、なんて言ったら白布は、どう思うだろうか。今更そんなことを言われても信じてくれないかな。流されやすいやつだと思われるかな。そう思うと言葉が出てこない。本当に、今更過ぎる。自分でもそう思って、ちょっと笑ってしまった。結婚してるのにおかしな話だ。同じ指輪をつけているのに、同じ名字なのに、同じ家で暮らしているのに。なんとなく、踏み込めないまま。白布の手を触ることにさえ躊躇してしまう。夫婦なのに、そんなことさえ当たり前にできない。わたしのせいなのだけれど。



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「いった〜……」

 階段の電球が切れていることに気付いた。ちょっと高い位置だからどうしようかと思ったけど、物入れにしまわれている丸椅子に乗れば届きそうだったからチャレンジしてみた。まあ、結局このざまなんだけど。見事に椅子から落ちて思いっきり足がぐにゃっとなってしまった。痛かったけど電球は替えないといけないので痛いのを我慢して再チャレンジ。どうにか背伸びをして交換が完了した頃にはボロボロだった。足は痛いし首も変な方向に曲がって痛かったし。しくしくと情けない気持ちになりつつ椅子を片付けて、替えた電球はゴミ捨ての日まで分けて置いておくことにする。袋に入れてとりあえず机の上に忘れないように置いた。
 捻挫になったかなあ、これ。ソファに座って変な方向に曲がった右足首に視線を落とす。ちょっとだけ赤くなっている。がっくり肩を落としてしまった。なんで電球を替えるくらいで捻挫なんかするかなあ。自覚はないけれど、わたしは鈍くさいのだろうか。そう思って、これまで電球は翔太が替えてくれていたことを思い出した。中学生の頃にはもうわたしより背が高かったし、そもそもわたしより先に切れていることに気付いてくれることが多かった。思い出してちょっとだけ笑ってしまった。元気かな、翔太。慣れない関西での暮らしを最初は「馴染めないかも」と嘆いていたけれど、今となってはたまに友達と楽しそうに笑っている写真を送ってくれたりしているから何も心配はしていない。
 足はそのうち治るだろうから無視するとして、とりあえず晩ご飯を作らなくては。白布が帰ってくるまであと二時間ほど。明日はようやく休みだと昨日半分寝たまま言っていたし、白布の好きなものを作ろうかな。ソファから立ち上がったらピキッと足首が痛かったけれど、知らんふりしてキッチンに立った。
 実は料理が好きじゃなかった。どれだけ丁寧に作ってもお母さんの味には近付かなかったし、どんな料理本を読んでもいまいちおいしそうだと思えなくて。実際出来上がったものを自分で食べてもいまいちだな、としか思ったことがない。いろいろ試行錯誤をしてどうにかまあそれなりの味になったけれど、未だに自分の作ったものをおいしいと心からは言えない。記憶の中にあるお母さんの料理と比べてしまうからだ。翔太とひかりは「おいしい」と言って食べてくれたけれど、正直作るのが億劫に思ってしまうことも多々あった。もちろんそれを口にしたことはないのだけれど。
 白布はご飯を食べるとき、必ず「おいしい」と言ってくれる。どんな軽食にでもだ。静かに食事をする人だけれど、その一言がなかった日は一日たりともない。疲れている顔をしている日でも、眠そうな顔をしている日でも、必ず言ってくれる。変に真面目で律儀な人だといつも思う。けれど、そう言われると、不思議と料理をすることへのマイナスの感情が和らいだ気がした。最近では明日は何を作ろうかなとふと考える瞬間が増えた。スーパーで如何にお得にお安く買うかだけを考えていた昔とは違って、野菜はどういうものがおいしいのかをちゃんと調べるようになったし、新しく発売されたものを試してみることも増えた。こんなものを作ったら白布は喜ぶんじゃないかとか、疲れが少しでも和らぐんじゃないかとか、そういうことばかり考えて買い物をしている。その時間が割と好きで、楽しく思っている自分がなんだか不思議だった。
 高校生のときから変わらない。白布の言葉は不思議と、わたしの体にじわりと染み入るように響く。血を通わせてくれるように、呼吸を教えてくれるように、心臓を動かしてくれるように。とてもすんなりわたしの中へ入ってくるのだ。説得力があるとか話し上手だとか、そういうことではない。なんと表現すれば良いのか分からないままずいぶん時間が経ってしまった。わたしも白布みたいに上手く言葉にできればいいのに。そんなふうに笑ってしまう。
 凝った調味料を使った料理とかよく分からない横文字の料理より、ごく一般的な家庭料理のときのほうが好きなのだと思っている。なんとなく表情が綻んでいるように見えることが多いからだ。自画自賛もいいところなのだけれど。今日もごく一般的な煮物と照り焼き、お味噌汁にしたのだけど、このよくあるメニューがどうやら好きらしい。もっと手の込んだものやちょっと珍しいものを作っても「おいしい」と言ってくれるけれど、結局この組み合わせが一番いい反応をくれることが多い。おじいちゃんが好きだったメニューとほとんど一緒だからちょっと笑ってしまうけど、作り慣れているから有難いといつも思う。
 車の音が聞こえた。珍しい、今日は早かったな。そう思いつつ一旦中断してドアのほうへ歩いて行く。いつも白布が帰ってくるとそうするようにしている。ドアから顔を出して「おかえり」と言うだけなのだけど。今日も今日とて玄関のドアが開き、「おかえり」と声をかけると白布が「ただいま」と言いつつ深く息をついた。お疲れの様子だ。苦笑いをこぼしつつ「ごめん、ご飯まだできてない」と言ったら白布が「謝ることじゃないだろ」と言いながら靴を脱いだ。

「早かったね? あと一時間くらいは帰ってこないかと思ってた」
「そのつもりだったけど、最近残ってくことが多かったから先輩が気遣ってくれたんだよ」

 最近は休みの日に呼び出されたり、夜中に呼び出されたりと忙しそうにしていた。さすがに職場の人も心配しているらしい。病院で働くというのは本当に大変なことなのだな、と毎日思うのだけど白布が弱音を吐くことは滅多にない。それがすごいと思う半面、わたしじゃ頼りないのかと少しだけ不安に思う。
 先にお風呂を洗っておけばよかった。そう反省しつつ「あと十分くらいでご飯できるけど」と言ったら「先に食べる」と言った。それに了解してまたキッチンに戻っていくと、リビングに入ってきた白布が「おい」と少し怖い声で言った。

「ん?」
「足、何した」

 思わず固まってしまう。見ただけでそんなの、なんで分かるんだろうか。お医者さんだからなのか、白布がそういうのに敏感なのか。どっちにしろちょっとだけ怖いと思ってしまう。「ちょっと捻っただけ」と笑って言うのだけど「ちょっと≠フ説明をしろ」と睨まれる。素直に説明したら怒られそうだ。なんて誤魔化そうかな。そんなふうにわたしが少し口ごもっていると、白布が机に目を向けた。じっと観察して小さくため息を吐く。「電球替えただろ」と言い当てられて「う」と思わず苦笑いが漏れてしまった。理解が早すぎてびっくりしてしまう。
 大した怪我ではない。もうずいぶん痛みは引いて、痛いというよりは違和感があるというくらいなものだ。歩くと少し庇ってしまうけれど、もう明日にはそんなに気にならないほどになっているのではないだろうか。あまり足を捻った経験がないからピンと来ないけれど。白布にそう言ったら「痛くなくても下手に動くと長引くぞ」とまたため息をつく。そういえば、白布も高校一年生のときに足を捻ってしばらくランニングに参加していなかったことがあった。監督が結構長く休ませていたからなんだか意外だった覚えがある。それだけ白布も大事な選手の一人なのだろうとぼんやり思ったっけ。そんなことを思い出していると、白布が「お前前に自分が重度の捻挫したこと忘れてないか?」と呆れられてしまった。

「ご飯作り終わったらちゃんと大人しくするから。今だけ見逃して」
「下手に動くな。変に体重をかけるな。できる限り歩くな」
「そんな無茶な……」
「なら俺がやる」
「もっと無茶だよ」

 苦笑いをこぼすわたしの隣に白布が来た。すぐにしゃがむとじっと足首を見つめる。「病院に行くほどじゃなさそうだけど」と呟きつつもそこから動こうとしなかった。もう少しでできるから、と言うと不満げではあったけれど諦めてくれたらしい。ゆっくり立ち上がってその場で腕を組んだ。「あとどれくらい」と聞いてきたので、恐らく出来上がるまで見ていくつもりだろう。心配そうだなあ。こっそりそう呆れつつ「もうすぐだよ」と答えておく。
 今にも肩がぶつかりそうなほど近くにいられると、情けなくも、ドキドキしてしまう。これまでそんなことはほとんどなかったのに。今更だよなあ、と一人で笑ってしまった。それを白布が不思議そうに見ていたけれど、特に何も言ってこないまま。
 出来上がった夕飯は全部白布が運んでくれた。わたしには座って待ってろ、と言った上で無理やり椅子に座らされてしまい何もできなくなってしまって。仕事で疲れているだろうに。優しい人だ。とっくに知っていたはずなのに、それを思うたびに胸がきゅっとなる不思議な感覚があった。

「どうした?」
「えっ?」
「いや、なんかぼうっとしてたから」

 知らない間に全部運び終わっていた。白布はわたしのおでこに手を当てて「体調悪いのか?」と首を傾げる。思わず少し身を引いて避けてしまった。あ、と思ったときにはもう遅い。白布が目を丸くしてほんの少し驚いた顔をしてわたしを見ていた。数秒固まってから手を引いて「悪い」と言った。慌てて「ううん」と返したけれど、白布はもうわたしに近付いてこなかった。


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