深夜二時。当直に入っている白布は家におらず、わたしは一人でもう眠りについていた。そんな静かな夜、枕元に置いたスマホが鳴った。眠たい目をこすりながらスマホを見てみると、知らない番号からの着信。無視しようかなと思ったけれど、携帯番号じゃなくて固定電話の番号というのが気になる。なかなか切れないそれに恐る恐る出るという選択肢をした。

「もしもし……?」
『あっ! 遅くに申し訳ありません! 白布先生の奥様の携帯でお間違いないですか?!』

 若い男性の声だった。少し焦っているような声に怖気付きつつ「はい」と答えると、相手が名乗って驚いた。白布の職場の人だったのだ。思わずベッドの上に正座すると、明らかに落ち着いていない声で「落ち着いて聞いてください」と言われる。落ち着けるわけがない。白布の職場から電話がかかってきたことなんて今まで一度もない。何か良くないことがあったに違いない。そうばくばくうるさい心臓を押さえながら話を聞いた。

『実は、運ばれて来た患者様が錯乱して、白布先生を刃物で刺……え、そうなんですか? あ、すみません、あの』

 そこまで聞いてすぐに「今すぐ行きます」と答えた。電話を耳に当てたまますぐ立ち上がって財布を鞄から取り出す。相手が慌てて何かを言おうとするのを遮って「病院に行ったら入れてもらえますか?!」と聞きながら部屋を出た。玄関で靴を履きながら男性に「二十分で行きます」と言ってすぐ電話を切った。
 心臓がうるさい。泣きそうになるのをぐっと堪えてタクシー会社に電話した。家の住所と行き先を伝えると、うちに来るまでに三十分かかると言われた。別のところにかけても同じようなことを言われてしまい、思わず一人なのに「ああもう!」と叫んでしまった。靴箱の上に置いてある、もう久しく触っていない自転車の鍵を手に取った。スマホと財布を適当な手提げに突っ込んで、玄関の戸を乱暴に開ける。
 ここから自転車だと四十分くらいはかかる。でも、何もせずにここで待っていられなかった。白布は職場まで大体車で十分でつけると言っていた。三十分タクシーを待ってから向かえば四十分かかるということだ。でも自転車なら近道も使えるし、この時間なら人も少ない。たぶん待っているより速いと判断した。
 胸が痛くてたまらない。街灯なんてろくにない田舎道を自転車で走りながら鼻をすする。どうか、どうか何もありませんように。そんなふうに祈りながら。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 近道を駆使して、病院についたのは家を出て二十五分後のことだった。息切れが激しい自転車女を見た警備の人がびっくりしていたけど、「しら、しらぶ、です」とどうにか言ったら状況を分かってくれたらしい。自転車は預かるから早く、と言ってくれた。
 走っている間にぼろぼろと涙が出た。どうしよう。白布、とんでもない大怪我をしていたらどうしよう。死んじゃったらどうしよう。お父さんや、お母さんや、おじいちゃんや、おばあちゃんみたいに、二度と会えなくなったらどうしよう。そんな不安がぐるぐるようやく全身に回る毒みたいに痛い。
 夜間通用口に駆け込んだら、あまりに慌てぶりに驚いた係の人が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。今はそれに答えるだけの余裕がない紙に書くとか書かないとかよく分からなくて「白布です、白布賢二郎の妻です」と息絶え絶えに言うだけになってしまう。
 そこにバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。目を向けると「あっ!」と男性の声。電話で聞いた声に間違いない。わたしが駆け寄ると「あの、白布さん、すみません」とのんきに話をしようとするものだからムカついた。夫が刺されたから来てるんですよ、夫はどこにいるんですか! 人生で出したことのない大声だった。ビリビリと喉が痛かったけど、構っていられなくて。わたしの怒鳴り声に怖気付く男性が「えっと、この先の東病棟の簡易医務室にいるんですけど、あの、」と言った。最後まで聞かずにダッシュで向かい出すと男性も慌てて追いかけてくる「あの、白布さんってば!」と声をかけてくるけど無視。悠長に話なんか聞いていられなかった。
 案内板を見上げながら走って行くわたしに男性が「あの、話、話を聞いてください〜!」と情けない声で言ってくる。ちょっと半泣きにも聞こえた。そんなの知らない、構ってられない。途中で手提げも捨ててしまいつつ東病棟と言われるフロアに入る。その先、長い一直線の廊下の行き止まりに数人の看護師さんが集まっているのが見えた。絶対あそこだ。一直線に走ってくるわたしを皆さんが見た。わたしの後ろから「あ〜! 本当ちょっとだけ話を聞いてください!」と先ほどの男性が半泣きで叫びながらついてくる。それとほぼ同時に一人の看護師さんが驚いたような顔をした。

「あれっ! さん……あ、今は白布さんですね。こんな時間にあの、どうしたんですか?」

 入院していたときに担当してくれていた看護師さんだった。どうしたもこうしたも。わたしが縋りつくように駆け寄ると腕を掴んでくれた。「どうしたんですか?!」と体を支えてくれる。

「あの、夫、賢二郎は、大丈夫なんですか?!」
「へっ?」
「患者さんに刃物で刺されたって聞いたんですけど! どこにいるんですか?!」

 ぽかん、とその場の人たちが固まる。「あ〜!」とわたしの後ろで人が崩れる音。さっきの男性だろうか。ぽつりと「絶対白布先生に怒られる……」と半泣きで呟く。この空気は、一体。
 看護師さんたちが覗き込んでいた簡易医務室の奥から物音が聞こえた。「ってぇなマジで」とうんざりした白布の声が聞こえてきて、思わず看護師さんの腕を振り払って中へ入ってしまった。誰も止めなかったからそのまま医務室の中に入ると、「は?」という間抜けな声がしっかりこっちに向けられた。

「……え、何してんだよ、というかその格好、何? いや、え? 何してんだ?」

 白衣をまくった左腕にガーゼが貼られている。腕を刺された、にしては範囲が狭いし簡易的な処置だ。どういうこと? ぽかんとしているわたしの後ろで女性看護師さんの「あんたは本当に馬鹿なんだから!」という怒った声が聞こえた。

「だ、だって! 僕も白布先生が刺されたんだと思って!」
「だからってなんであんたが家族の人に連絡するのよ! そういうのはちゃんと状況が分かってからって教えたでしょう?!」
「白布先生新婚だし急いで教えなきゃって思っちゃったんです! 電話しちゃった途中でちょっとした怪我だって知ったんですけど間に合わなくて! 申し訳ありませんでした!」

 半泣きで謝るその男性の言葉に、あ、と思った。電話の途中で男性が口ごもったことを。わたしは最後まで聞かずに慌てて電話を切ったから、男性も否定する暇がなかったのだろう。刺された、というのもわたしが刃物という情報から勝手にイメージしたことだ。移動中は自転車だし電話がかかってきても気付かない。要するに、早とちりだったというわけだ。
 聞いていた白布は大体のことを理解したらしい。呆れた声で「お前何回言ったらそのせっかち治んだよ」と言った。「すみません」とその人が半泣きで言ってから、わたしが走りながらかなぐり捨てた手提げを「これ、落としてたので」と渡してくれるようだったけど、体が動かなかった。白布が不思議そうにしつつ「そういうわけだから、全然大丈夫。向こうも酔っ払ってただけだから」とため息交じりに言う。それでも無反応なわたしに「聞いてるか?」と首を傾げて、目の前まで歩いてきて手を振る。
 ぼろっと大粒の涙がこぼれたのが分かる。ぎょっとした顔で白布が「別にかすり傷だから、大丈夫。ほら」と処置をしたところを見せてくる。白衣に血がついているのが見えた。それなりの怪我をしたと思われる血の跡だった。
 生きた心地がしなかった。わたしが入院したときに白布が言った言葉だ。そのときは「そんな大袈裟な」と内心思った。でも、今この瞬間、大袈裟なんかじゃないと分かった。わたしも、生きた心地がしなかった。白布がいなくなったらどうしようと思った。二度と会えなくなったらどうしようと思った。わたしはまだ白布に何のお礼も言えていなくて、何もできていなくて。まだ何も伝えられていないのに、と、思った。
 白布は、高校のときに周りの人が大きいせいでとても華奢で小さい人に見えていた。わたしと結婚してからも翔太は背が高いし、ひかりも女の子にしては背が高いほうだったから、白布を大きい人だと思ったことは一度もなかった。
 はじめて、白布を大きい人だと思った。わたしの体ではとてもじゃないけど包みきれないほど、大きい人だったのだ。ぎゅうっと両腕に力を込めても白布のことを閉じ込めることはできない。でも、はじめて抱きしめた体は、とても温かくて、とても、落ち着けるものだった。

「……なん、だよ、大した怪我じゃないって言ってるだろ、大丈夫だから」

 白布の腕がちょっと戸惑い気味に抱きしめ返してくれた。余計にこぼれる涙がどうしても止まらなくて、白布と再会した日と同じくらいわんわん泣いてしまう。それにも戸惑い気味に背中をさすってくれると、やっぱり白布は優しい人なのだと元からある線をなぞるように思った。
 怖かった。また、大事な人がわたしの前からいなくなってしまうんじゃないかと思ったら。突然また一人にされてしまうのではないかと思ったら、怖くてたまらなかった。だから、今目の前にいる白布の体温に安心して、涙が止まらなかった。

「というか、どうやってここまで来た? タクシーか?」
「……じてんしゃ」
「はあ?!」

 がばっと白布がわたしを引き剥がす。とんでもないものを見るような目でわたしを見ると「今、深夜二時だぞ?!」と恐ろしい形相で叫んだ。さすがにびっくりして涙が止まる。白布の顔を見上げて「知ってる」と返したら、わたしの両肩を浮かんだまま深いため息をつく。「こんな時間に危ないだろ、しかもそんな格好で。せめてタクシーだろ」と項垂れてから、また、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「本当、だから目が離せないって言ってんだよ」

 呆れてはいたけど少しだけ笑っていた。参った、とでも言い出しそうな声は、じんわりと耳の奥に響いてまた涙になって溢れてしまう。どうして白布はわたしと結婚してくれたのだろうか。どうして白布はわたしを好きでいてくれたのだろうか。特別な理由がないわけがない。そう思う自分はまだいる。まだいるけど、まっすぐにわたしを見てくれて、まっすぐな道にわたしを導いてくれて、まっすぐわたしに好きだと伝えてくれる白布のことを、まっすぐ受け止められた気がした。ああ、これが、好きってことなのかな、とも思った。
 酔っ払った男性が道端で倒れていたらしい。頭を打っていて血が出ていたから通行人が救急車を呼んだのだという。白布が処置をしようとしたらまだベロベロのおじさんが女性の看護師に触ろうとした。それを白布が庇ったら理不尽に激怒され、その人が持っていたカッターを出してきた、と言う流れらしかった。酔っ払いは迎えに来た家族にこっぴどく叱られ、白布に土下座で謝罪をしてきたから今回限りということで大事にはしなかったそうだ。それを女性看護師さんが「あんなジジイ、警察に突き出してやればよかったのに」と怒っていた。
 白布が怒っている看護師さんを宥めているのをほっとして見ていると、「あの」と声をかけられた。若い女性の声。振り返るとわたしより年下だと思われる女性の看護師さんが申し訳なさそうな顔をしていた。振り返ったわたしに突然頭を下げて「申し訳ありません」と言った。びっくりしていると白布が「いい、謝ることじゃない」と顔を上げさせた。なんでも、酔っ払いのおじさんに触られそうになったのは彼女なのだという。「私の不注意のせいで白布先生に怪我をさせてしまって」と、本当に心から申し訳なさそうに言うものだから、困ってしまった。この子のせいじゃないのは誰が聞いても分かることだ。わたしもこの子のせいで白布が怪我を、なんて微塵にも思っていない。何よりもこの子が怪我も、嫌な思いもしなくてよかった。白布はそのためにこの子を庇ったのだから。慌ててそう伝えるとその子はもう一度だけ頭を下げてから「白布先生、ありがとうございました」とようやく安堵の表情を浮かべた。
 自転車で帰る、と言ったら鬼の形相で白布に怒られた。わたしが「大丈夫」と言うのも聞かずにタクシーを呼び始めるから、自転車はどうするつもりなのかとツッコミを入れるけど「車に乗せて持って帰るから黙ってろ」と言われてしまう。黙っていろ、と言われると黙っているしかできない。タクシーが来るまで簡易医務室のソファに座らせてもらうことになった。白布は仕事があるから一緒にいられない、とわたしに謝ってから仕事に戻っていく。謝らなくてもいいのに。早とちりしたわたしが悪いんだから。そんなふうに見送る。
 タクシーが来るまで休憩中だという女性看護師さんが近くにいてくれることになった。迷惑をかけてしまってすみません、と謝るとその人は明るく笑って「白布先生には悪いけど、笑わせてもらったんで」と言う。確かに病院の人たち、みんな笑っていたっけ。内心恥ずかしさでいっぱいになっていると「白布先生があんなに動揺するところ、滅多に見られないですからねえ」と笑った。

「奥さんに抱きつかれたくらいであんな動揺するんですね、なんか意外でした」

 おかしそうに笑った看護師さんが「おうちでもあんな感じですか?」と聞いてきた。家にいるときに雰囲気が変わると思ったことはない。普段と何も変わらない、と答えると看護師さんがちょっと驚いた顔をした。「いつもさっきみたいな表情ですか?」と恐る恐る聞いてくるから首を傾げてしまう。さっきみたいな表情、とは。いつもと変わりないように見えたけれど。

「柔らかい表情なんか病院ではほとんど見ませんよ。愛されてますね」

 これまでのわたしならその言葉を笑って流すだけだっただろう。でも、今日は、それがとても照れくさくて、嬉しく思えた。


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