七月、梅雨が明けてすぐの頃。お手洗いに行った白布が置いていったスマホが机の上で震えた。ソファに座って本を読んでいたわたしのスマホも近くに置いてあったから、もしかしたら自分のものかと思って机を見た。自然に目に入ってきた白布のスマホの画面がついていて、わたしじゃないや、と視線を戻そうとしたとき。ラインのトーク通知がちらりと見えてしまった。表示されていた名前が「由貴子」という女性の名前で、思わず見てしまう。「ご飯また行きましょうね」という文章とハートの絵文字。ちょっと、驚いてしまった。
 見なかったことにしてそっと読書に戻る。ドキドキしている自分の心臓に気が付いた。白布、女の人とご飯に行ったのかな。二人きりでかな。ハートの絵文字は、どういう意味なんだろう。そんなことを考えていると本の内容が全然頭に入ってこなくなった。
 当たり前だ。だって、結婚したとはいえ、わたしには白布への気持ちがない。白布がいくらわたしを好きでいてくれたって、返ってくるものがなければ他の女性に目が向いてもおかしくないだろう。白布だって男の人だ。ちゃんと恋愛をしたいだろうし、もしかしたらわたしとの結婚がそれの妨げになっているのかもしれない。でも、この状況では言いづらいことこの上ないし、今更離婚なんてできない状態だし、と、悩みながら女性に会っているのだろうか。そう思うと申し訳なかった。
 ブブ、とまたスマホが震えた。見てもいいことはない。そう分かっているのに、そうっと白布のスマホを見てしまう。また通知が入っている。同じ女性からだ。「今度は二人で行きましょうね」と、ハートの絵文字がまたついていた。
 今度は、ということはまだ二人でご飯に行ったわけじゃないのだろう。そのことに少しほっとしている自分がいて驚く。白布が女性と二人で食事に行くのが嫌だったのか、わたし。そう気が付いた。なんでだろう。分かるような、分からないような。
 白布が戻ってきた足音が聞こえてきてスマホから目をそらす。知らんふりしているわたしの隣に白布が戻ってくると、座りつつ早速スマホを手に取った。なんて返すんだろう。断るのかな、それとも、誘いに乗るのかな。どっちかは見ているだけでは分からなくて。
 白布が小さく舌打ちをこぼしたのが聞こえた。びくっと肩が震えてしまう。白布はわたしの様子には気付かなかったようだけど、ちょっと機嫌が悪そうに膝に肘を置いて背中を丸める。スマホを机の上に置くと一つため息を吐いた。

「……ど、どうしたの?」
「いや、なんでもない」

 教えてくれない。さっきの女性からのラインのことで不機嫌なのか、それ以外のことで不機嫌なのか。どっちなのだろう。あの女性からの誘いにはなんて返信をしたのだろう。気になって気になって、仕方がなかった。でも知ったところで何になるのか。そう思うとはっきりは聞けなくて。
 白布のスマホがまた震えた。返事をしたものへ返信が来たのだろう。スマホをすぐ手に取るとじっと画面を見て、またため息を吐く。どんなやり取りをしているのか気になってたまらない。ちらちらと横目で見ていると、不意に白布がこっちを見た。

「何?」
「えっ?」
「こっち見てるから」

 その通りなので何も言えない。白布が「何?」と顔を覗き込んでくる。なんでもない、と言ったらたぶんそれ以上は聞いてこないと思う。いつもそうだから。白布は無理にわたしから話を聞こうとはしない。だから今日もそれで逃げようかと思ったけど、ここで知らんふりをしたらずっと気になってしかたなくなる気がした。
 ごくりと唾を飲み込む。聞いてもいいのかな。普通の妻だったら聞くのかもしれない、けど。そう思いつつ「あの」と怖々口を開いた。

「……え、えーっと」
「なんだよ」
「お、怒らないでほしいんだけどね」
「うん?」
「あの、先に謝るんだけど、あの、見ようと思って見たわけじゃなくて」
「何が?」
「ちょっと見えて気になっちゃって、その、見てしまったというか」
「いや、だから何だよ。怒らねえよ」

 至極不思議そうに白布が首を傾げる。わたしの顔をじっと見て「今まで怒ったこと、そんなにないだろ」と言う。確かにその通りだ。これまで白布に怒られたことはほとんどない。でも、今回のは、覗き見してしまったわけだし、わたしが悪い。それに恋愛結婚した夫婦ならまだしも、そうじゃないのに白布の交友関係に口を出そうとしているのが、なんだかとても申し訳なくなる。

「スマホの通知が、あの、見えちゃって」
「……待て、違う。これは本当に……いや違うわけじゃないけど……」
「いいの、あの、ごめん、見えちゃって気になっただけだから。口出してごめんなさい」
「だから違うって言ってんだろ。待て、見せるから」
「いい! いい! 見せなくていいから!」

 口を出してしまった。やっぱり言わなきゃよかった。ソファから立ち上がろうとするわたしの肩を白布が掴んで「俺が良くないから見ろ!」とスマホの画面をこっちに向けてくる。顔を背けるわたしを追いかけてまでスマホを見せてくるので、恐る恐る、白布のスマホに目を向ける。さっきの女性とのトーク画面だ。わたしが見た「今度は二人で行きましょうね」のあとに白布が「結婚しているので女性と二人では行けません」と返している。それに続けて相手の女性が「え〜ちょっとくらいいいじゃないですか。遊びましょうよ」と送ってきていて、白布が「そういうことを言う人だとは思いませんでした。妻に疑われたくないのでもう返信もしません」と返していた。

「この前、上司に連れて行かれた飲み会で会った人。連絡先を交換したいってうるさく言われて仕方なく交換しただけだし、二人でなんて会わないから。まあ、そういう誘いをされたっていうのは、事実だけど」

 飲み会でも鬱陶しく絡まれたのだそうだ。やけに体を近付けてきたり、お手洗いにもついてきたり。帰り際なんて露骨にホテルに誘われたとうんざりした顔で言った。冷たくあしらっていたつもりが、あとで知り合いから「その態度が逆にかっこよかったって言ってた」と聞きがっくりしていたところにこの連絡だった、と白布がため息交じりに言う。「こうなるから嫌だったんだよ」と頭を抱えた。お医者さんって、やっぱりモテるんだなあ。白布みたいに若いお医者さんは特に女性同士が取り合うのかもしれない。

「本当に何もない。全部見ていいから」
「いい、本当にいいってば、大丈夫、分かった」
「内心なんで誘いに乗らなかったのかな、とか思ってるだろ」

 呆れた顔をしている。もう恒例のやつになってしまっているからだ。白布はスマホをわたしに向けたままじっと様子を伺ってくる。
 そりゃあ、思うよ。だって、きっと相手の人は同業者だっただろうから、わたしとは違って立派に生きてきて働いている、白布にとってメリットの多い相手だろうから。わたしと結婚していなければその誘いに乗ったんじゃないかな、と思うと俯いてしまいそうになる。申し訳なくなる。でも、それと同時に、ちくりと胸が痛む自分が、ここにいてしまって。優しくされてずいぶん我が儘になってしまったなあ。そう情けなくなった。
 白布が誘いに乗っていたら、わたしはとてもとても傷付いたと思う。自分勝手な話だけど。白布が、他の女性と、恋をするのが、いつの間にか、とても嫌だと思ってしまっていた。

「ううん」

 そう返すので精一杯だった。白布はちょっとびっくりしたような顔をして固まってから、スマホを机に戻しつつ「なら、いいけど」と少し間抜けな声で呟く。これまでのわたしなら白布の言葉を、肯定まではしないけれど、否定はしなかっただろうから。白布の自由だから、とか、わたしはそれでもいいよ、と言っていただろうから。ちゃんと否定したのははじめてだったかもしれない。


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