翔太が関西の国立大学に合格し、ひかりは志望校にスポーツ推薦で合格した。合格はもちろん嬉しかったし、翔太が理学部を受験した人の中でトップ成績だったということで新入生代表挨拶に抜擢されたということが、一番嬉しかった。人見知りな翔太は嫌がったけれど、喜ぶわたしを見てか「頑張るよ」と言ってくれた。
 ただ、残念なことに入学式がひかりの高校と被っていた。どうしようか悩んでいたら翔太から「ひかりのほう行って」と言われた。白布も「翔太の大学レベルならネットの記事で見られるだろ」と笑う。雄姿は見られないけれど、翔太なら絶対大丈夫。そう胸を張って言えた。卒業式は行くからね、と言ったら白布が「首席卒業必須だな」と翔太をからかっていた。
 翔太が一人暮らしをする部屋も学生向けのところがしっかりあったからすぐに決まった。荷造りを手伝おうかと部屋を覗いてみたけど、気付かれないようにそっとドアを閉めた。わたしが手伝うこともなく着実に家を出る準備を進める姿は、もう、子どもじゃなかったから。
 ひかりも三年間の寮生活に入る。学費の免除があるとはいっても、家庭環境を学校の人には心配されてしまった。それでも、ちゃんと話をすれば「大丈夫」と分かってくれたし、ひかりの活躍を期待してくれた。認めてもらえた。ひかりがやりたいことをやれる時間を壊さずに済んだ。そう思うと嬉しかった。
 翔太が家を出る日、白布が車で駅へ送ってくれた。みんなで一緒に改札前まで見送るときに、白布が翔太に「餞別」と言って何かを渡した。わたしもひかりもそれの存在を知らなくて何かと覗き込んでしまう。翔太が恐る恐る開けた箱には腕時計が入っていた。それは白布が大学に合格した際、お祝いでお父さんが買ってくれたものだという。今は自分で買った物を付けているし、大事にしまってあるだけなのももったいないから、と言った。
 そう照れくさそうに言う白布の顔を翔太がじっと見て、嬉しそうにはにかんだ。「大事にする」と言ってそそくさと鞄にしまおうとするから「今付けなよ!」とひかりが笑う。恐る恐る付けたそれはまだ少し翔太には大人っぽすぎるけれど、きっとすぐに似合うようになる。そう思った。
 わたしたちには両親がいないし、翔太は男家族がいない。お古というものにちょっと憧れがあることはなんとなく察している。白布もなんとなくそれを察してくれたのかもしれない。嬉しそうに時計を見つめる翔太の肩を叩いて「ホームシックになったら帰って来いよ」とおかしそうに笑った。
 翔太の背中が見えなくなるまでみんなで見送って、その姿が見えなくなったらわたしだけ泣いてしまった。ひかりが大笑いして「お姉ちゃん、結婚してから泣き虫になったよね〜」と背中をさすってくれる。わたしが高校二年生のとき、まだ小学生だった翔太が保育園児だったひかりを連れて高校に来たことを思い出す。お父さんとお母さん、いつ帰ってくるの。そうわたしに縋って泣くために。たくさんたくさん我慢させて、たくさんたくさん嘘を吐いた。そんなわたしが姉でも翔太はとても立派に、誇らしい弟でいてくれた。きっともっとわたしにとっての誇りになる。そんな門出が嬉しくてたまらなかった。



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「あたしね、本当は最初、お姉ちゃんが賢二郎さんと結婚するの、嫌だったんだ」

 ひかりが家を出る日。はじめてひかりが助手席に座りたいと言った。これまでは必ず後部座席に座っていたのに、この日だけ。白布もわたしももちろん何も思わずその通りにしたのだけど、車が走り出して十分が経ったとき、突然ひかりがそう口を開いた。

「お姉ちゃんが毎日大変そうにしてたから、結婚したら友達の家のお母さんとかお姉さんみたいになれるのかなって思って、それならそのほうがいいじゃんって思った」

 わたしが入院していたとき、お見舞いに来てくれたひかりに、結婚すると言ったらどう思うかを聞いた。ひかりは即答で「嬉しい」と言ってくれた覚えがある。いいじゃん、楽しみ。そう明るく、いつものように言ってくれた。

「でもそれってさ、あたしとお兄ちゃんじゃ、お姉ちゃんの助けにならなかったってことになるのかなって思ったら、悔しくて、どこの誰かも知らない男の人に、お姉ちゃんを取られるのが嫌だったんだ」

 白布は喋らない。ただハンドルを握って、穏やかな運転を続けている。いつも安全運転を心がけてくれていると思っていたのだけど、白布のお兄さんにそれを言ったら「いや、あいつ運転荒いよ」と驚いていた。お兄さんがたまに乗るときは全然ブレーキも静かじゃないし、結構飛ばすときもあるし、何なら急ブレーキを踏んでも何も言わないのだという。それがどうしてなのかを聞いたことはない。聞いたことはないけれど、自分のお兄さんやご両親に向けるのとはまた違う形で、わたしたち家族を大事にしてくれているということは分かった。
 ひかりが俯いた。ぽとりと涙が一つ落ちたのが、後部座席からでも分かった。はじめて気付いた。ひかりが一番、わたしの結婚を喜んでくれたのと同時に、一番悩んでくれていたのだと。たぶんはじめてわたしがひかりに結婚のことを話したその日から、ずっと。ずっとひかりは悩んでくれていたのだろう。はじめて白布と会った日も、結婚式の準備をするときも、ずっと。楽しそうにしてくれていたのは、わたしを思ってのことだったのだと分かった。

「なんかね、賢二郎さんには悪いなって思うんだけど、お姉ちゃん、結婚するってなっても、全然嬉しそうじゃなかったのが、ずっと気になってて」

 ドキッとした。女の子は勘が鋭いというのはよく分かっていたけれど、そんなにしっかり見抜かれていたなんて。嬉しくなかったわけじゃない。楽しいことも喜んだこともたくさんあった。でも、暗い顔をしていた、かもしれない自覚はある。あのときは本当に、白布に申し訳ない気持ちが大きすぎてうまく笑えなかった。今ももしかしたらそうかもしれない。そのことをひかりはずっと気にしていたのだろう。

「でも、賢二郎さんと一緒に暮らして、お姉ちゃん結婚してよかったな、って思えたよ」

 ずっと黙って聞いていた白布が前を向いたまま「なんで?」と言った。ひかりが顔を上げると、涙を服の袖で拭く。いつもの明るい声で「ん〜とね」と言った。それからわたしのほうを振り返ると小さく笑った。あまり見せない少し大人っぽい笑みにびっくっりしてしまう。ひかりももう高校一年生。そんな大人の女性がするような表情をするんだなあ。抱っこして、と泣く子どもの頃のまま、わたしにとって何よりかわいい妹だから、なんだか少しだけ寂しくも思えた。

「賢二郎さんがお姉ちゃんのこと、本当に好きなんだなって分かったから!」

 弾けるように笑った。子どもみたいな満面の笑み。大好きな顔だ。その顔のままくるりと前に向き直ると白布の肩を小突いた。「でも、お姉ちゃんを取られたことは一生恨むけどね」といたずらっぽく言うと、白布が小さく笑って「そもそも取ってねえよ」とひかりの頭を小突き返していた。
 ひかりが三年間を過ごす寮の管理をしている人に挨拶をしてから、ひかりとはそこで別れた。白布と二人きりになった車内はとても静かで、少しだけ寂しい。でも居心地が悪いとは思わなかった。ひかりがさっきまで座っていた助手席に座って前だけを見ていたら、白布の指が顔に伸びてきた。びっくりしたけど、その指が頬を撫でると同時にまた泣いていたことに気付いてしまう。

「翔太のときもそうだったけど、泣くことじゃないだろ」
「だ、だって、すぐには会えなくなるんだから仕方ないでしょ」

 毎日会っていたのに急にいなくなったら寂しいでしょ。白布の手から逃げつつ自分で涙を拭くと、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。白布がたまにやる乱暴な手つき。照れ隠しのときだと分かったのは結構最近のことだ。

「まあ、これからは俺で我慢しろ」

 ぱっと手が離れた。その速さで相当照れていることが分かってしまって、笑いを堪えるので精一杯になってしまう。白布はそんなわたしに気付かないまま「なんか言えよ」と小突くくらいで怒らなかった。


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