白布と出かける当日、ひかりが選んでくれた服に着替えたけど、やっぱり、なんかちょっと。恥ずかしく思いつつひかりに部屋まで来てもらって苦笑いをこぼしてしまった。

「ひかり、これやっぱり似合ってないと思うんだけど……」
「えー?! なんで?! こんなにかわいいのに?!」

 ひかりが選んでくれたワンピースとカーディガンは、確かにかわいいのだけど、わたしにはかわいすぎるというか。膝下くらいの丈なのはいいとして、かわいらしいリボンでウエストマークされているのがちょっと、かわいすぎる感じがある。ひかりはそれを「これくらい小さいリボンなら大丈夫だよ?!」と何度も言ってくれた。
 ワンピースとかスカート、白布の家に挨拶に行った日と結婚式のドレス以外であんまり着た覚えがないから落ち着かない。鞄は持っている中で一番色が合うものをひかりが選んでくれたし、靴も買ったし、化粧はこれまでで一番時間をかけた。服や小物はひかりが選んだから間違いないのだろうけど、着るのがわたしだし。そう苦笑いをこぼすとひかりにチョップされてしまった。
 絶対大丈夫だから行ってらっしゃい、と乱暴に部屋を放り出された。白布はリビングにいるから準備ができたら声かけて、と言っていた。やっぱり、ひかりには悪いけど着替えようかな。落ち着かないし、なんか恥ずかしいし。リビングのドアの前でちょっと迷っていると、それを見ていたらしいひかりが後ろから勝手にドアを開けた。

「賢二郎さんおまたせー!」
「あ、ちょ、ひかり!」
「どう? あたしが選んだんだよ! かわいいでしょ?」

 スマホをポケットに入れて白布がソファから立ち上がる。じっとわたしを見る。それからポケットから財布を取り出しつつ近付いてきた。なんで財布? 不思議に思っていると、一枚お札を取り出してひかりに「今日はこれで好きなもの食べろ。釣りはやる」と言った。え、ちょっと、渡しすぎなのでは? そのお札、わたしの目には福沢諭吉に見えたんだけど。びっくりしているとひかりがにこにこと笑って白布からお金を受け取る。

「言葉で言ったほうがいいと思うけどね」

 ひかりは「お兄ちゃんとお寿司取っていい?」と笑う。白布が若干照れつつ「好きにしろ」と返したら、嬉しそうにリビングから出て行って「お兄ちゃん今日お寿司にしよー!」と元気に言う声が響いた。

「甘やかしすぎじゃない……? 無駄遣いする子ではないけど……」
「……」
「白布……じゃなかった、ごめん。 賢二郎? どうしたの?」

 やけにじっと見てくるから恥ずかしくなってしまう。やっぱり変だったかな。ひかりの今時の感覚とわたしたちの感覚はちょっとずれていることがたまにあるし、服も同じことだよね。苦笑いをこぼしたら「せっかく選んでくれたから着替えるに着替えられなくて」と言い訳をしておく。
 じっと見られるのも恥ずかしくて、とりあえず白布の背中を押して玄関へ向かう。パンプスを履いている隣で白布も靴を履いているけど、まだ視線を感じる。なんでそんなに見てくるの。変なら変ってはっきり言ってくれれば今なら着替えられるのに。居心地悪くそう内心呟くと、先に靴を履いた白布がわたしの真正面に立ってじっと見下ろしてくる。

「さっきからどうしたの?」
「いや、はじめて見たけどそういう格好もかわいいなって思って」

 なんでそういうことをストレートに言うかな。照れつつ「それはどうも」と目をそらして苦し紛れに返しておく。白布は小さく笑って「照れるなよ」と言った。そんな無茶な。パンプスを履いて立ち上がると、白布が玄関のドアを開けてくれた。
 どこに行くつもりなんだろう。どこに行きたいとかどこに行くとかそういう話を一切していない。車の助手席に乗せてもらうと白布が 「とりあえず適当に走るから興味あるところあったら言って」とエンジンをかけた。意外だ、こういうの綿密に計画を練るタイプだと思っていた。ノープランらしい。びっくりしているわたしを見て白布が少し慌てて「いや、一応向かうところはあるけど、大したところじゃないから」と付け足した。

「どこに向かうの?」
「海」
「海? なんで?」
「子どものころ好きだったって翔太に聞いたから」

 車が走り出してから「まあ、ドライブって感じになるけど」と言った。そのほうがわたしは好きかもしれない。どこか行きたいところと言われてもピンとこないし、海なんて小学生に行ったのを最後に見てすらいない。ちょっと楽しみかも。そう笑ったら白布も笑った。
 子どものころに海が好きだった、なんて、どうして翔太は覚えていたのだろうか。両親に連れていってとねだった記憶などどこにもないけれど。でも、不思議ととても楽しかった記憶がある。打ち寄せる波をお父さんに抱っこされている翔太を見上げながら走ったり、荷物番をしつつ大きな声で話してくれるお母さんに貝殻を見せに行ったり。なぜだかよく覚えている。
 海が好きだったのだろうか。ぼんやりいろんな記憶を辿ってみる。自覚はなかった。けれど、思い至った。嬉しかったのだ、わたしは。どんな小さな貝殻でも、見せれば「すっごくきれいね」と笑ってくれる。そんな、二人目のお母さんの反応が。とても、嬉しかったのだ。
 わたしの生みの親である、もう今はどこにいるか分からない母は、何をやっても上手くいかない人だった。人に頼ることが下手で、焦る気持ちばかりが先走ってよく人に騙されてしまう。そんな人だった。それでもどうにか母として娘であるわたしの世話をしていた。でも、思い出してみると幼かったとはいえ、わたしは母の笑った顔を覚えていない。
 いつもいつも楽しくなさそうな顔をしていた。つらそうな顔をしていた。だから、母は、わたしを置いていったのだ。わたしのことが好きではなかったのだろう。でも、わたしは母が好きだった。どんなに楽しくなさそうでも、面倒くさそうでも、必ずご飯を作ってくれた。下手でも上手くいかなくても、わたしの持ち物にアップリケを縫ってくれた。全部母親だから≠ニ無理をしてやってくれていたことだろう。保育園児だったころに行った海でもそうだった。母は疲れた顔で海を眺めるだけで、わたしが拾ってきた貝殻にはほとんど興味なさそうにしていた。それでもわたしは、母が好きだった。
 でも、やっぱり、きれいだと思って拾った貝殻を「きれいね」と言ってくれる、二番目のお母さんの反応が嬉しかった。嬉しくてたくさん拾っていっても、必ず笑って一緒に見てくれた。一緒にきれいだと言ってくれた。眩しい笑顔で、優しくわたしの頭を撫でて。それが、とても、楽しい思い出として残っている。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 風が強い。久しぶりに感じる潮風が懐かしくて、深呼吸してしまう。砂浜に下りるのは危ないから、と白布が許してくれなかったので堤防から広い海を見渡している。白布はわたしの隣で同じように海を眺めて黙っている。
 結局、途中で寄り道をすることなくここまでまっすぐ来た。あとでお昼ご飯を食べるところくらいは探さないとね。そんなふうに言いつつ車を降りて、もうどれくらい経ったか分からない。
 輝きながら揺れる海。それを見て思い出した。白布が告白してくれた日、髪が凪いでいく波みたいに静かに光っていた。やっぱり、光を映した水面は白布のきれいな髪の光によく似ている。きれいだ。あの日から変わらず。
 知らない間に白布を見ていたらしい。こっちを見た白布が「なんだよ」と不思議そうに言った。なんだ、と聞かれてもわたしも分からない。曖昧に笑って誤魔化しておいた。

「ねえ、やっぱり下りてみようよ。ちょっと歩くだけ」
「危ないから却下。怪我させてひかりに怒られんの俺だぞ」
「子どもじゃないんだから転ばないよ」

 そんなに頼りなく見えるのだろうか。ちょっとショック。白布の前で転んだことなんてあっただろうか。わたしが覚えている限りないけれど、転びそうなお転婆のイメージをつけられてしまっているらしい。心外だ。これでもしっかり者だと言われて生きてきたのに。

「ちょっとだけ。だめ?」
「…………それ、天然でやってる?」
「何が?」
「いや、何でもない」

 白布はため息を吐きつつ堤防を歩いて行く。砂浜へ下りる階段に向かって。「ちょっとだけだからな」とわたしを振り返ると、なんだか満足げに笑ったように見えた。
 ヒールがないパンプスにして正解だった。岩を組んで作られているごつごつした階段を下りながらそう思う。思ったよりも歩きづらい。転ぶほどではないし、砂浜に下りてしまえばなんてことはない。靴の中に砂が入るのは少し気持ち悪かったけれど、それよりも、間近で見る海のきれいさが強烈に感じた。海の音、こんなに近くで聞いたのは本当に小学生ぶりだ。それ以降は海に来られるような余裕はなかった。時間も、お金も、心も。何もかもが切羽詰まっていて、何もかもに急いでいた。
 ぼけっと海を見ながら足を進めようとしたら「おい」と白布の声がした。「歩くなら足下を見ろ」と言って指を差す。足下を見てみると流れ着いたであろう木の枝が落ちている。面目ない。ちょっと照れ笑いしたら「だから言ったんだよ」と呆れたように呟かれてしまった。そんなに言わなくても。反省しつつもちょっとだけ悔しかった。
 白布が手を差し出してきた。思わずその手を見つめて「何?」と首を傾げるわたしに白布は、「転ばれたら本当にひかりが怖いから」と言った。ひかりってそんなに怖いのかな。もしかして何かで怒られたことがあるのだろうか。そのエピソード、ちょっと気になる。今度ひかりに聞いてみよう。そう思っているわたしに白布が「だから、手出せ」と言う。ああ、手を引っ張ってくれるつもりなのか。ようやく気が付いて、迷うことなく白布の手を取った。

「あ」
「何?」
「いや、ううん、大丈夫」

 ちょっと俯いたときにピンク色のきれいな貝殻が目に入った。きれい、と言いそうになったけどやめた。白布はそういうの興味なさそうだし、変に合わせてもらうのは申し訳ない。一人ではしゃいで恥ずかしい。子どもみたいに思われたら嫌だな。
 白布は「何?」とやけに何度も聞いてきた。わたしの足下に視線を落として「砂入ったか?」とか「何か踏んだのか?」とかいろいろ聞いてくる。なんだか心配をかけているようだったのが申し訳なかったし、そもそもわたしは誤魔化すのが得意ではない。変に曖昧な態度を取っていると白布が「気分悪いのか?」と顔を覗き込んできた。

「いや、違うの、本当に大したことじゃないからいいってば」
「大したことじゃないなら言えよ。何?」
「……か、貝殻が、きれいだなって思っただけ。ね、大したことじゃないでしょ」

 白布がきょとんとした顔でわたしを見る。ほら、そういう反応すると思った。だから言いたくなかったのに。恥ずかしく思っていると、白布が視線をまた足下に落とした。それから「どれ?」と言う。そもそも見つけてすらいなかったらしい。「これ」と指を差すと、白布がわたしの手を握ったまましゃがんでじっと見ると「ああ、これか」と呟く。わたしも隣にしゃがんだら、「きれいだな」と白布が言った。無理に言わせただろうか。そんなふうに思っていると白布が「俺はこういうの、自分で見つけられないから」と笑う。
 視野を広く持て、とお父さんによく言われていたのだという。狭く小さい範囲だけに目を向けているとその分たくさんのものを見落とすし、いろんな可能性に気付かずにいることになるから、と。その言葉に白布はとても納得して、いつでもどんなときでも、狭い範囲をよく観察するより、広い範囲を隈なく把握するように努めてきたと言った。

「全部を見ると逆に見落とすものが増えるかもって、高校生のときに思ってからは気を付けてたつもりなんだけどな」

 バレーの試合とか、と笑った。白布がセッターとして何かを見落としたことがあっただろうか。コートの全体を把握して、選手たちの調子を注意深く見ていた記憶しかないからピンとこなかった。

「これを見つけてきれいだって思えるのほうがよっぽど、いろんなものが見えてる」

 わたしの顔を優しい表情で見つめる。そのまましばらく二人で見つめ合って、波の音を聴いた。ざざ、ざざ、と穏やかな音は、わたしと白布の間にまだある溝とか壁とか、そういう見えない何かを壊そうとしてくれているように思えた。
 ぎゅっとわたしの手を握り直した。挙式のとき、牧師様に誓いを立てたときと同じくらいの力で。どうして、と言葉が出そうになった。何度だってわたしはこの疑問を思い浮かべずにはいられない。どうして、わたしと結婚してくれたの。どうして、わたしを好きでいてくれたの。どうして、わたしのために自分を犠牲にするの。わたしの疑問を白布はいつでもばっさり斬り捨てる。呆気なく、わたしが追撃する暇もないままに。特別な理由なんかない、と言うに決まっているのだ。なぜだかわたしはそれを嘘だと思わない。きっと本当のことを言っているに違いない。そう感じるのに、また決まって思い浮かべる。どうしてなの、と。
 不意に白布が「ごめん」と呟いた。わたしの顔を見つめたまま。突然の言葉にびっくりして目を丸くしてしまう。「何が?」と首を傾げたら、白布がわたしから目をそらした。海の遠くのほうを見るとゆっくりと瞬きをする。

「入院してきたとき、無責任なこと言って悪かった」

 少し俯いた。伸びた前髪が白布の目にかかって、表情が読み取りづらくなってしまう。白布の横顔を見つめて黙ってしまっていると白布が「ごめん」とまた呟いた。
 友達と別れたくないと駄々をこねたかった。高校を辞めたくないと喚きたかった。進学したいと我が儘を言いたかった。仕事がつらいから辞めたいと愚痴をこぼしたかった。誰かに抱きしめてほしいと泣きたかった。誰かに、助けて、と言ってしまいたかった。全部飲み込んできたそれを、あのときわたしは、白布がごみ箱にそのまま捨てようとしたように感じた。わたしのこれまでの全部が無駄なことだったと、やらなくてもいい苦労だったのだと、言われたように思えて苦しかった。どんなに痛い感情だったとしても、わたしが歩んできたこれまでの全てを捨てて行くつもりはなかった。だから、ないがしろにされた気がして、とても悲しかった。
 白布の顔を覗き込んだら、「なんだよ」と小さな声で呟きつつこっちを見てくれる。今の白布は、入院したときの白布と違うと目を見れば分かる。あのときもそんなつもりはなかったのだろうけど、今は明確に、わたしがこれまで飲み込んできたものをほどこうとしているように見えた。こぼれ落ちないようにゆっくりと。
 カモメの鳴き声が近付いてくる。高いその音に耳をくすぐられて思わず笑ってしまった。そんなわたしのおでこを白布がつついた。「笑うな」と言った声はとても優しかった。


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