九月、ついにスーパーでのアルバイトを辞めた。六年間勤めた職場との別れは寂しかったけれど、泣くことなく笑顔で去ることができた。ぼろぼろになった自分の手。少しでもきれいになるように気を遣ってみようかな。そんなふうにぼんやり思った。
 完全な無職になってしまった。そんなふうに夕飯のときに笑ったら翔太が「無職っていうか主婦じゃないの?」とおかしそうに言う。ひかりも「家事してるんだから無職じゃないよ」と言ってくれたから、情けない気持ちにはならなかった。その分これまで以上に掃除も料理も頑張らないとね。そんなふうに言ったら白布がお味噌汁を飲みながら「いや、これ以上頑張らなくていいだろ」と呆れたように言った。

「お姉ちゃんたちって新婚旅行行かないの?」
「あ〜……」
「賢二郎さんの顔色が悪くなった」
「行けないんだ、可哀想」
「やめろ、傷が抉られるから」

 その話にはわたしも苦笑いがもれる。白布はどうしても行きたかったらしいのだけど、どんなに頑張っても長期連休が取れなかったのだという。日帰りでいいんじゃないかとわたしは言ったのだけど「そんなのを新婚旅行にしたくない」と言って聞かなかった。変なこだわりがあるらしいのでそれ以上は何も言わなかったけれど。白布は未だにそのことをたまに謝ってくる。行きたいって一言も言ってないけどね。内心そう笑っている。
 旅行なんて行かなくても、ここにいるだけで十分楽しいのに。そう言ったらひかりが「お姉ちゃん欲なさすぎ〜」と笑う。それに翔太も頷いて「これがほしいとか、ここに行きたいとか聞いたことない」と言った。そうだっただろうか。必要なものは適宜買っているし、壊れたり使えなくなったものは買い換えているけれど。ほしいもの。そう言われて少し考えてしまった。ほしいもの、か。特に思い当たるものがなくて欲がないと言われても仕方がない気がした。

「かわいいワンピースがほしいとか、新しい化粧品がほしいとかないの?」
「うん、特に」
「なんで? お姉ちゃんもっとかわいくなるのにもったいないよ」
「かわいくならないし、そもそもかわいくなってもどうしようもないでしょ?」
「賢二郎さんとデートしたらいいじゃん、かわいい格好してさ」

 ひかりが嬉しそうに「あたしもこの前新しいワンピース買ったよ」と言った。それにいち早く反応した翔太が「拓也か」と言った。ひかりのはじめての彼氏、小学生からの同級生の拓也くんのことになるといつもこうだ。わたしも似たようなものだけれど。

「どこ行った? 変なところに連れてかれてないだろうな?」
「お兄ちゃん怖いんだけど。シスコンってやつ?」
「近所の公園とかでしょ? まだ中学生だもんね?」
「お姉ちゃん……中学生でも普通にデートするから……映画観に行ったよ」
「暗がりじゃん」
「お兄ちゃんちょっとキモイよ」

 翔太が静かにショックを受けているのを白布が小さく笑っていた。それにしてもひかり、ちゃんと勉強も部活も頑張っているのに、デートまでこなしているなんてタフだなあ。映画は今流行りの人気俳優が主演を務めている恋愛物を観たのだという。楽しそうに話すひかりの顔を見てほっとした。なんとなく軽い感じではじまったお付き合いのようだったけど、ちゃんと恋愛を楽しんでいるようだ。好きな人ができて、好きな人と結ばれたことはわたしも嬉しかった。

「お姉ちゃんたち、賢二郎さんが休みの日もずっと家にいるよね? どっか行かないの?」
「ええ? この前スーパーまで車出してもらったよ?」
「姉ちゃん、そういう意味じゃないから」

 呆れたように笑われた。白布も「どう考えてもそういう意味じゃない」とわたしを裏切ってひかりたちのほうについてしまう。いや、わたしもさすがに分かるけど。デートと二人で出かけることに違いって何なのかが曖昧じゃないのって話だ。白布とは二人で結婚式場に何度も行ったし、食品の買い出しにもついてきてくれるし、何度か外食をしたこともある。二人で出かけたことが結構あるのだ。休みの日は家にいることが多いけど、さっきも言ったように買い出しについてきてくれたり、少し距離がある郵便局などへ行くときは必ず車を出してくれる。

「おしゃれして、好きなところに行って、二人で楽しかったねーって言って帰るのがデートだよ」

 ね、とひかりが白布に笑顔を向ける。白布はちらりとわたしを見てから「姉ちゃんは俺といても楽しくないんだと」と鼻で笑った。なんでそうなる! 思わずちょっと怒ってしまう。翔太がけらけら笑って「姉ちゃんが怒った」とからかってきた。そりゃ怒るでしょうよ。そんなこと一度も言ったことがないのだから。白布は続けて「俺に見せるかわいい格好もないんだと」と言う。

「賢二郎さん可哀想、こんなにお姉ちゃんのこと好きなのにね〜」
「可哀想だろ。妹なんだからどうにかしてくれ」
「お姉ちゃん今度一緒に買い物行こうよ! 服選んであげる!」

 話の方向性がおかしくなってきた気がする。ちょっと違和感を覚えたけれど言われっぱなしはちょっとムカついたから「行こう行こう」と拗ねつつひかりに返した。というか、翔太とひかりと白布、いつもわたし一人だけ置き去りにして結託するからちょっと寂しい。わたしだけいつも怒られている気がするし。いつか何かで仕返ししてやろう。そんなふうに拗ねつつこっそり思った。
 全員でごちそうさまをしてから、それぞれが食器を片付けだす。机に置きっぱなしでいいといつも言うのに流しまでは必ずそれぞれが持って行くことがルール化されてしまっている。翔太にいたってはわたしがお風呂を掃除している間に洗い物を済ませてくれているときもある。いいからゆっくりしてほしいのにな。そう思いつつ「ありがとう」といつもお礼を言うしかできない。
 ひかりがダッシュでリビングから出て、一旦ドアのところで立ち止まる。「お風呂掃除するから好きな入浴剤入れていい?」と白布と翔太を見て聞いた。わたしは基本的に入浴剤に対して何も言わないから、一応男二人には聞いておこうということらしい。二人とも「別に何でもいい」と答えると、嬉しそうにまたダッシュでお風呂場に行ってしまった。元気で何より。笑っていると翔太がハッとしたように慌てて出て行きつつ「泡のやつはやめて! あれ落ち着かないから!」と言ってお風呂場についていった。

「今日も元気だな」
「あはは……騒がしくてすみません……」
「いや、見てて面白いからいいけど」

 ハッとしたときには白布が机を拭いてくれていた。なんで白布まで率先して家事をしてしまうんだろうか。有難いけど。わたしがいる意義が薄まるから大人しくしてくれたらいいのに。お礼を言ったら「何が?」と至極真面目に聞かれてしまっておかしかった。
 お風呂場から「好きなの入れていいって言ったじゃん!」、「泡だと思ってなかったんだよ!」という言い争いが聞こえてきた。翔太とひかりがあんなふうに言い争うの、なんだか懐かしく思えて笑ってしまう。白布も懐かしそうに「俺もよく弟と似たような喧嘩した」と言った。お兄さんとはあまり喧嘩をしたことがないらしい。でも、弟さん二人とはよくお菓子の取り合いやチャンネル争奪戦なんかの喧嘩をしていたそうだ。弟さん二人とも、そんなふうに見えなかったけれど。そう言ったら「女の前では猫被るから」と言った。
 その話の流れで白布が小さくため息を吐いてから言った。三男くんがひかりのことをかわいいと言ってくれていたらしい。三男くんは女の子に弱いらしくて、ひかりが白布家にお邪魔している間もずっとにこにこ話しかけていた、とお兄さんから聞かされたとうんざり呟く。かわいがってもらえるのは有難いことだけど。そんなふうに苦笑いをこぼす。白布から絶対に手を出すな、と言ってあるとのことだ。まあ、ひかり、彼氏いるしね。年齢差もちょっとあるし。そう笑ったら「笑い事じゃねえよ」と頭を抱えていた。

「それで、いつ誘ったら行ってくれんの」
「え? 何が?」
「デート」

 バタバタと元気な足音。リビングのドアを開けたひかりが「お姉ちゃん! お兄ちゃんがいじわるしてくる!」とお風呂場のほうを指差す。ひかりが好きな泡風呂になるバスボムを取り上げられたらしい。翔太が「いじめてないだろ!」と言いつつこっちに戻ってきた。まあまあ落ち着いて。そう宥めてから「翔太が一番に入ってからそれ入れたら?」と言ったら二人とも「あ、なるほど」と言って一気に喧嘩が治まった。ひかりが「賢二郎さんは嫌じゃない?」と一応聞くと白布は「いや、何でもいいって言っただろ」と言う。ひかりが翔太からバスボムを奪い取って「一番風呂ど〜ぞ」と満面の笑みを浮かべる。翔太が「ごめんってば」と言いつつ、しゅんとしていた。かわいい妹と喧嘩するのは本意ではないだろうからね。あとでフォローを入れておこう。
 ひかりが部屋に戻っていくのを見送って笑ってしまう。いつまでも子どもなんだから。そんなふうに。そんなわたしに白布が「返事」と言ってきた。返事。ちょっと考えて、ああ、と思い出す。つい翔太とひかりの喧嘩が間に挟まったので忘れかけてしまった。

「わたしはいつでもいいけど……でもゆっくり休まなくていいの? 呼び出しもあるかもしれないのに」
「自宅に引きこもってろってわけじゃないし、俺はどこか行きたいけど」

 そうだったんだ。てっきり激務であることが多いし、休みは家にいたいのかと思っていた。でも、思い出せば休日でもいつもと同じ時間に起きてくることが多い。あまりだらけているところも見ないし、洗車をしたり急にお風呂掃除をしたりする姿をよく見たっけ。じっとしているよりは活動をしているほうが性に合っているタイプなのかもしれない。
 白布がカレンダーをじっと見る。今月の白布の休みはあと三回。うち一回は当直明けだからそのまま家で寝るだろうから、その日以外かな。そう予想していると、思った通り「来週の火曜か金曜でいいか」と言った。

「わたしはどっちでもいいから任せるよ。行ける日に声かけてくれれば」
「ひかりといつ買い物行くんだよ」
「え?」
「服。選んでもらうんだろ」
「え、えーっと……行くなら今週末、かな?」

 選んでもらった服を着ることが前提になっているらしい。ちょっとびっくりしたけど、あとでひかりに声をかけなきゃな、と素直に思っている自分がいた。


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