結婚式をして三ヶ月後、六月。翔太が志望校を決めた。関西の国立大学で白布のお父さんが勧めてくれた大学だ。通っている高校からは「合格してくれたら快挙ですよ」と言われてちょっとプレッシャーを感じているようだったけど、きっと翔太なら大丈夫だろう。そんなふうに思っている。
 高校受験を控えているひかりも志望校を決めた。ひかりが選んだのは白浜女子学園という、女子バスケットボールの強豪である私立の女子校。運動部は部員全員が寮に入ることが義務づけられているところだ。スポーツ推薦で受けると中学の部活顧問に話したら「ひかりなら絶対大丈夫」と太鼓判を押されたらしい。嬉しそうにしているひかりを見つつ、高校には家から通うだろうと思っていたわたしは間抜けな反応をしてしまった。
 翔太は大学に合格したら一人暮らしが確定している。ひかりも受かったら寮に入る。つまり、白布と二人きりになる。別に嫌じゃないしいいんだけど、ちょっと、想像より早い展開にびっくりしてしまう。一緒に聞いていた白布は真面目に二人が選んだ進学先をじっくり吟味してから「いい選択だと思う。自分のことがちゃんと見えてる」と高評価だった。白布に褒められて二人は嬉しそうにしていたけど、わたしだけなんとなく、置いてけぼりだ。
 ずっと三人で一緒に暮らしてきた。翔太とひかりがいなかったら、きっとわたしはここまで頑張れなかったし、もしかしたら生きてこられなかったかもしれない。ずっとずっと、翔太とひかりのことだけを考えて生きてきた。だから、そんな二人が、もう来年いないかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうなほど寂しかった。

「今生の別れじゃあるまいし、そんな顔するなよ」

 呆れたように白布がそう呟く。ハッとして慌てて「いや、あの、わたしもすごく、いいと思うよ」と笑顔を作った。二人が好きなようにしてほしいと祈ってきたのだ。今更二人の選択に口を出すなんてことはしたくない。
 白布がわたしの頬を軽く指で突いた。「無理やり笑えとは言ってない」と言って。額を押さえつつ白布の顔を見たら「言いたいことはそのまま言え」と言って、わたしの顔を翔太とひかりのほうに向けさせた。言いたいことをそのまま。

「……本当は二人が、この家から出て行っちゃうことが、すごく、寂しい」

 高校生のときから何度も思った。翔太とひかりにはわたしみたいな思いをしてほしくない、と。その思いでここまでやってこられた。最終的に白布の手を借りてしまったけれど、今もその思いは変わっていない。高校に三年間通いたかった。部活にも最後まで参加したかった。進学したかった。やりたいことを何も気にせず思いっきりやってみたかった。そんな取り返しが付かないかもしれない後悔だけはしてほしくなかった。この家に生まれたから、お父さんとお母さんの子どもに産まれたから、わたしが姉だったから、そんなふうに思わせたくなかった。姉としての意地だ。ほとんど押しつけだったかもしれない。

「でも、二人が、やりたいことをやりたいって言ってくれて、嬉しいから、応援するよ」

 いつからこんなに自分の気持ちを話すことが下手になったのだろうか。情けない。照れくさくて思わず笑ってしまった。そんなわたしの横顔を見てから白布が「死ぬ気で勉強すればどこにでも受かる。絶対受かれよ」と物騒なエールを送った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 勉強をしている二人に夜食を持って行ってからリビングに戻ってきた。白布のエールがあまりにも物騒だったせいか二人とも見たことがないくらい必死な顔で勉強をしていた。それが少しおかしかったけど、頑張れ、とこっそりエールを送った。
 翔太は淡々と問題集をこなしていく姿が、何にでも真剣に取り組むお母さんの背中によく似ていた。何でも真摯に取り組めば結果はついてくる、と言うタイプの人だった。自然とそんなお母さんに似た翔太を、きっと天国からお母さんは見守っているだろう。
 ひかりがあんなふうに問題集に向かっている姿ははじめて見たかもしれない。スポーツ推薦とはいえしっかり筆記試験もあるらしく、どうせなら良い点数を取りたいと言っていた。のほほんとしているように見えるけど負けず嫌いで闘争心が強い。負けても相手を賞賛するけれど、裏でこっそり悔しがる。お父さんの現役時代によく似ている。そういう子だからスポーツ選手に向いているかもしれない。お父さんが天国からきっと旗を振って応援しているだろうな。
 トレーをいつもの位置に戻すと白布に呼ばれた。振り返ると、二人に夜食を持って行く前に貸してほしいと言われた通帳が机に広がっている。もしかして何かまずいことでもあっただろうか。節約を心がけていたし、白布に言われた通りに管理していたつもりなのだけど。慌てて白布の隣に腰を下ろすと、白布は「お前、俺、これ知らなかったんだけど」と若干呆れた顔をしていた。指差したのはわたしの通帳二冊。白布に見せたのは今日がはじめてだ。見せようとしても見たがらなかったし、極力そこからは何も出すなと言われていた。申し訳なく思いつつ放置していた状態に近い。一冊はわたしが自分で貯めたもの、もう一冊は両親と祖父母の遺産がそのまま置いてあるものだ。

「ご、ごめん、あんまりなくて」
「馬鹿かよ、あんまりないって遠回しに俺のことディスるなよ」
「そんなつもりはないよ?!」

 白布はもう一冊の通帳も見ながら「こっちも働き出してからほとんど手つかずのままだろ、これ」と言った。電気代とか水道代とか、そういうものはその通帳から落ちるようにしているから毎月いくらか入れているのだけど、白布からすると手つかずという状態に思えるらしい。
 今後のお金について考えていたらしい。翔太が国公立に受かったときの学費、ひかりが私立高校に受かったときの学費。それらを加味して計算をしていたようだ。「ひかりはスポ薦だから学費半額免除になるし、思ったよりかからない」と言った。いや、十分、かかってると思うんですが。

「思ったより余裕があってびっくりしてる。これだけ貯めてて何に生き急いでたんだよ。普通に働くくらいで足りただろ」
「そ、そうかな」
「なあ」
「うん?」
「働きたいなら止めないけど、仕事辞める気ないか」
「え、なんで?」

 余裕ないと思うけどなあ。白布がたとえこれから給料が上がるにしても、貯めておくことに間違いはないと思うけれど。白布にはどんな未来が見えているのだろうか。わたしもそれが見えればいいのに。ちょっとだけ悔しい気持ちになった。

「元からできれば辞めてほしかった」
「えっ、そうなの? 配達はそう言われた覚えがあるけど……」
「帰ってきたときにいてくれたほうが嬉しいから」

 ストレートな言葉にちょっと固まる。まだ慣れないな、白布のこういう感じ。帰ってきたときにいてくれたほうが嬉しい、か。それはわたしも、身に覚えがある。お父さんが離婚して二人暮らしになったとき、バレーの練習で忙しかったお父さんはなかなか家にいなかった。代わりに近所の人が家に呼んでくれたり友達が遊んでくれたりしたけど、やっぱり、一緒にいてほしいのはお父さんだった。翔太が生まれる少し前もそうだ。お母さんもお父さんも病院や仕事でなかなか家にいなくて、学校から帰っても誰もいないことが多かった。寂しかった。今更、本音を言うと。

「分かった。でも来月のシフトは提出しちゃったから、それ以降で店長に相談してみる」
「別に無理に辞めてほしいって言うわけじゃないけど、いいんだな?」
「うん。危なそうだなって思ったらまた働くけどね」
「もっと稼いでこいってことか。いい気概だな。嫌いじゃない」
「そうじゃないってば!」

 冗談めいた言い方が面白くて思わず白布の肩を叩いてしまった。たまに面白いことを言うからツボに入ってしまう。白布も笑いつつ「まあ、辞めてくれるってことで」と言って通帳を片付けた。
 通帳をいつものところにしまってくれた白布が戻ってくると「体調どう」と聞いてきた。もう入院したのは半年前だし、体力も体重もそれなりに戻ってきている。心配してもらうところなんてないのに。そう笑ってしまいながら「すごくいいよ」と答えた。いつも白布はわたしのその答えを聞くと、ほっとしたような顔をする。不調があるように見えているのかと不思議に思うのだけどそういうわけではないらしい。よく分からないことが未だに多い人だ。
 じっと白布がわたしのことを見ている。よくあることなのだけど気になってしまって、いつも「何?」と聞いてしまう。そのたび白布は「なんでもない」とはぐらかすことが多かった。今日もきっとそうだろうな。そう思いつついつも通り「何?」と聞いてしまった。

「……あのさ」

 珍しいと思った。いつもなら何なのか教えてくれないのに、今日は教えてくれるつもりがあるらしい。ちょっとドキドキしてしまう。「うん?」と首を傾げると、白布の視線が一瞬どこか違うところを見た。なんとなく、後ろめたいことがあるように。どうしたのだろう。いつも先走って良くない方向に考えてしまいがちだからそうならないように気を付ける。大人しく白布の言葉を待っていると、「嫌なら嫌って言ってくれればいいんだけど」と前置きをした。

「……髪」
「髪?」
「ちょっとだけ、触ってもいいか」

 拍子抜けしてしまう。なんだそんなことか、と。嫌がる要素なんてどこにもないのに、何に気を遣ったのだろうか。「別にいいよ」と答えたら白布は少し固まってから「じゃあ」と手を伸ばしてきた。
 さらりと白布の指が髪に滑る。そうきれいな髪ではないし、結婚式の前にカットしてからは放ったらかしになっている。触って何が面白いんだろうか。少しだけ摘まんだ束を持ち上げたり撫でたりしている白布は一言も喋らない。あんまり毛先をじっと見られると枝毛があるかもしれないから恥ずかしいんだけど、あんまりにも熱心に見つめるから何も言えずにいる。
 ものの一分ほどでパッと白布が手を離した。「どうも」と呟いてそっぽを向かれる。なんだったのか聞いても教えてくれない。「もう満足したからいい」と言い続けるのがちょっと気になって、珍しくわたしも折れずに聞き続けた。今までこんなにしつこく追及してくることがなかったからか白布はすぐに降参して「引くなよ」と恥ずかしそうに前置きをした。

「高校生のときからなんとなく触ってみたかった」

 白布は「それだけ。おやすみ」と言って逃げるようにリビングから出て行った。
 髪を触ってみたかった、って、いくらでも触らせてくれる女子はいただろうに。不思議な人。そんなに触ってみたかったならもっと触ってもよかったのに。そう思いつつ白布が触っていたあたりの髪を思わず触ってしまう。なぜだか熱く感じる。髪の根元が頭をくすぐるような感覚が消えなくてくすぐったい。なんとなく居心地が悪い心臓の動きに一つ息をついてしまった。


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