「顔すごいぞ、冷やすか?」

 くつくつと白布が笑いつつわたしが答えるより先に立ち上がった。馬鹿にしてる。あれだけ躊躇ったのに泣いてんじゃんって思ってるでしょ、絶対。内心そう思いつつ目を押さえて「うん」とだけ返した。
 結婚式が終わって、所謂初夜と呼ばれる夜になった。気を遣わなくていいとわたしは言ったし、白布は余計なお節介だと断固受け入れない体制だったのだけど、白布のご家族がサプライズでお高いホテルを予約してくれていた。わたしが慌てて「弟と妹が」と逃げようとしたのだけど、白布家のお母様が「あら、うちに連れて帰るから大丈夫よ」なんて言うので、もう逃げ場はなかった。人見知りの翔太は恐縮していたけど、白布家末っ子が上手いこと話しかけてくれたおかげで、車に乗り込む頃には緊張は見えなかった。ひかりに関してはもう全員と打ち解けていたし、白布家のおじい様とおばあ様にはいたく懐いて自分のスマホに保存してある写真を見せて楽しそうにずっと話していた。白布のご両親は「女の子、ほしかったんだよねえ」、白布の兄弟は「妹、ほしかったんだよねえ」と全員嬉しそうにひかりをかわいがってくれていた。
 ちらりと窓の外に目をやる。絶景。街が一望できるほどの高層階。所謂スイートルームというランクの部屋だろうか。一体いくらしたのだろう。そう考えると頭が痛かった。思わずため息を吐いてしまうと白布が「だから言っただろ、浮かれてるって」と言いつつ戻ってきた。濡らしたタオルを持ってきてくれた。お礼を言って受け取りながらゆっくり目に当てる。

「兄貴も弟たちもまだ結婚してないから。じいちゃんとばあちゃんもはしゃいでただろ」
「あ……そういえば、そうだったね」
「別に言われたこと全部やろうとしなくていいから。ひ孫がどうとか」

 何でもないふうに言った白布に「あ、はい」と敬語で返してしまう。白布はバツが悪そうに「気にしなくていいから、本当に」と言った。またチクリと心臓を刺されたような気持ちになる。けれど、なんとなく、少しだけその痛みが和らいでいるように思えた。どうしてか分からないけれど。
 残念、と言うと申し訳ないけれど、白布家の皆さんが用意してくれたこの部屋は、とても広いのにベッドが一つしかない。見たことがないくらい大きなベッドが一つだけなのだ。それに少しドキッとした自分に何より驚いた。だって、今までのわたしだったら絶対ドキッとなんかしなかった。何とも思わず白布とここで寝るのかって思っただけだったと思う。何の想像もせず、翔太と一緒の布団で寝るのと同じ感覚で。だから、白布と同じベッドで寝ることにドキッとしたことがよく分からなかった。
 大きなソファの端っこに座って、とりあえずベッドは見ないようにしている。白布は窓際に立って静かに景色を眺めている。何を考えてるんだろう。それが妙に気になって仕方なかった。白布のことをじっと見てしまっていると、ぱっと白布の顔がこちらを不意に見た。

「なんだよ」
「えっ」
「一人になりたいならどっか行くけど」
「えっ、ち、違うよ! そんなことない、大丈夫だから!」
「本当かよ。いっつも気遣ってくるだろ、お前」

 そう言う白布にちょっと苦笑い。確かにそう言われても仕方がない態度ばかりを取ってきた気がする。疑われて当然だ。白布に「一人だと落ち着かないから一緒にいて」と素直に言ったら、ほんの少し間を置いてから「それならいいけど」と返ってきた。視線はすぐに窓の外に向いてしまったけど。
 机に置いてあるスマホが震えた。通知にはひかりの名前。どうやら今日撮った写真を送ってくれたらしい。見てみると挙式から披露宴までの写真がまとめてアルバムにしてあるみたいだ。枚数が多い。こんなに撮ってくれてたんだな。そう思いながら一枚目から順番に見ていると白布が近寄ってきて「写真?」と聞いてきた。スマホを見せると「撮りすぎだろ」と小さく笑う。
 それにしても、白布のタキシードは上品な雰囲気がばっちり合っていて似合っているのに、わたしがなあ。そう苦笑い。どうにか結婚式までに少しでも痩せてしまう前に体型を戻そうと頑張ったけど、そう簡単に食の細さは治らなかった。白布にも「無理するな」と止められていたので、そこまで戻らないままで今日を迎えてしまったから、なんとなく不健康そうな花嫁が曖昧に笑っている写真が多く感じてしまった。それに少しだけため息を漏らすと白布が「なんだよ」と少し不満げに言う。結婚式で何か不満点があったのか、と思われたらしいとすぐに分かる。慌てて「違うの」と苦笑いをこぼす。

「やっぱりもう少し体型を戻したかったなって。不健康そうな見た目だから」
「ああ、そういうことか。ずっと不健康な生活してたんだから当たり前だろ」
「医療関係者に言われるとぐうの音も出ない……」

 笑いながら写真をスライドしていく。挙式の頭から見ていたので、あ、と思ったときにはベールアップの写真まで来てしまった。このままスライドしていくと、たぶん、キスしている写真にいってしまう。さすがに白布と二人でその写真を見るのは少し気まずい。どうしようか迷いつつ、どうでもいいところを拡大したり白布に話しかけたりして時間を稼ぐけど、ここでアプリを閉じると不自然でしかない。意を決してスライドすると、思った通り、白布がわたしに顔を寄せている写真になった。
 照れたり戸惑ったりするなんて一切思っていなかった。長く異性をそういう目で見たこともなかったし、恋人がほしいとかそういうことを思ったこともなかった。だから、もう自分の中のそういう気持ちは死んでいるのだろうと思っていたのに。

「俺は別に、お前が気にしてるほど気にならなかったけどな」
「へっ?」
「ドレスが似合ってないとかどうとか思ってんだろ。別にそんなことなかったって言ってんだよ」

 白布が手を伸ばしてきて、勝手にスライドして写真を進めた。写真がブレている。ひかりもひかりで照れていたのかもしれない。それはそうか、姉のこういうところを見るのは誰だって照れてしまうはずだ。でも、次の写真はきれいに撮れていた。

「きれいだったけど。普通に」

 スライド。挙式が終わってロビーで撮った写真になった。スライドしていきながら白布が「それよりやっぱり俺の白がないだろ」と嫌そうに言った。やっぱり白のタキシードが本人は未だに納得できていないらしい。ひかりのごり押しとわたしの勧めがあったから嫌と言えなかっただろうからちょっと申し訳ない。思わず笑いながら「似合ってると思うけどなあ」と返す。白布は「それならいいけど」と言いつつやっぱり納得していない様子だった。
 白布って、こんなにいろいろとストレートに言う人だっただろうか。こっそりドキドキしている自分がいた。びっくりした。そういうことをはっきり言うイメージなんかなかったし、たとえ思っていても言わない人だと思っていた。結婚の提案をされたときから驚くことばかりで困ってしまう。披露宴の前の、会話も、そうだったけれど。
 特別な理由なんてない、ただ、ずっと、好きなだけ。そんな言葉が返ってくるなんて夢にも思わなくて、結局何も言葉を返せないままだった。わたしは白布に何かをした記憶はないし、好かれるようなことを言った記憶もない。どうして、そこまで。そんな疑問ばかりが頭に浮かんだけれど聞くのは恥ずかしかったから聞けないままでいる。
 知らない間にスマホじゃなくて白布の横顔を見ていた。それに気付いた白布が不思議そうな顔をして「何?」と首を傾げてこっちを見た。なんで見ていたのか、自分でもうまく説明ができない。わたしも曖昧な顔で首を傾げると、白布が「いや、なんでお前が不思議そうなんだよ」とちょっとだけ笑った。

「白布は」
「賢二郎。お前、絶対心の中で白布≠チて呼び続けてるだろ」
「ご、ごめん」
「で、何?」
「ああ、うん、変な人だなって思って」
「……急に悪口か?」
「ごめん、そういう意味じゃなくて」

 苦笑い。そりゃそうだ。急にそんなことを言ったらそう反応されても仕方がない。説明が足りなかった。反省しつつもう一度謝っておく。
 わたしは自分に価値がないと思っている。人としても女としても。そんなわたしと結婚しても得られるのはぎりぎり、女としての役割くらいだろうと思っていたから、それさえ求めてこなかった白布は変な人だと思ったのだ。いつぞやか、わたしにお金でそういう関係になれと言ってきた人がいたように。掃除や料理とかの家事全般を一人でやるくらいしかできないと思っていたのに、白布はそれさえも求めてこなかった。ただ一緒にいて、普通の家族のようにしているだけ。白布を好きだと言ったことのないわたしとそれをして何が得られるというのか。そう思っているから、白布のことを変な人としか言いようがないのだ。ただずっと好きなだけ、なんて理由もよく分からない。
 そんなふうに説明したら白布は、ソファの背もたれに頬杖をついてこっちを見たまま「いろいろツッコミどころ満載だけど」と言いつつ、ちょっと睨むような視線をこちらに向けた。

「金でそういう関係になれって言われたって、誰に? いつ?」
「昔の話だよ。新卒で勤めた会社の社長に言われたけど、もちろん断ったよ」
「当たり前だろうが。なんて会社?」

 困惑しつつ会社名を言ったら白布は不機嫌そうな顔をして「ふうん」と言って、少し視線を落とした。一応結婚式を終えたばかりの夫婦がする会話ではなかった気がする。後悔しているわたしを余所に白布がぼそりと「ああ、なるほどな」と呟いたのが聞こえた。なるほどって、何が? 思わず聞き返してしまったけど白布に「こっちの話」と言われてしまったから、言葉の意味を聞くことは叶わなかった。
 どういう話だったのかと聞かれたので、思い出すのはちょっと胸が痛い感じがしたけど、一応話した。翔太とひかりの学費を出す代わりに愛人になれという内容だったことと、肉体関係を持ったらその都度お金を出すと言われたこと。それを理解できないわけではなかったけど、自分が稼いだお金で生活したかったから断ったことも含めて、隠さずに話した。一緒に働いていた先輩が本当は優しい人でよく助けてくれたことも。

「正直、男の人ってそういうものなんだって思ってたから、結婚を提案されたときは白布もそうなんだって思っちゃった。ごめんね」

 白布はわたしの顔をじっと見て二、三回瞬きをする。それから「失礼なやつ」と呟く。

「そんなろくでなしと一緒にするなよ」
「ごめんってば」
「結構傷付いた」
「ご、ごめんなさい、本当に」

 言われてみれば本当にそうだ。一緒にしてしまったのと同じことでしかない。白布はそんなことなんて思っていなくて、ただ単純に手を差し伸べてくれたのに。申し訳ない勘違いだった。
 白布がソファに座り直して、背もたれにもたれ掛かる。一つ深呼吸をしてから軽く目を瞑ると、その額に前髪が鬱陶しそうにかかった。手で適当に払ってからもう一つ息を吐いてからゆっくり目を開ける。ちらりと視線だけがこちらに向いた。

「言っとくけど、別にそういうことに興味がないってわけじゃないからな」
「あ、別にわたし、女の子とそういうことをするお店に行かないでとは言わないよ」
「そうじゃねえよ、ふざけんな」

 がっくり項垂れた。ちょっと怒っている声だった。でも、白布だって男の人だし、そういうことをしたくなるときはあるんじゃないだろうか。結婚してしまったから彼女を作るのは難しいけど、と、考えたところでハッとした。また空気の読めないことを言ってしまった。大抵そういうことに気付いたときにはもう遅いのだ。白布が怒るのも無理はない。ただずっと好きだった、と、言ってくれた相手だというのに。

「今のはわたしが悪いです、申し訳ない……」
「本当にな」
「……きょ、興味はあるんだね?」
「当たり前だろ。興味ない男がいたら見てみたいんだけど」

 なら、結婚する条件として取り付ければよかったんじゃないだろうか。本当に変な人だ。それくらいの対価を求められてもわたしは不思議に思わなかったくらい良くしてもらっているのに。求められるほどの大した体はしていないけれど。
 白布なら、いいのにな、って思っている自分がいた。別にそういうことを求められても白布なら拒否感を覚えない。わたしをお金で買おうとした社長と違って。それくらい差し出しても足りないくらいのことをしてもらっているのだから拒否しないのに。白布のことだから最初に約束してしまったし、不誠実に思われるだろうからと言わずにいるのだろうか。もう結婚してしまった事実はどうあがいても消せないし、むしろ消そうとするほうが迷惑がかかるに違いない。だとすれば、わたしから白布にそういうことを提案したほうがいいのだろうか。せめて何か役には立ちたい。
 天井を見つめたままぴくりとも動かなくなった白布をじっと見る。なんて言えばいいんだろうか。白布とあまりちゃんとこういう話をしなかったことを今更後悔している。三ヶ月、毎日目まぐるしくて二人のことを話す時間がほとんどなかったのもあるけれど。ずっとこのままでは本当に白布に申し訳ない。できるだけ普通の夫婦、家族になれるようにわたしが頑張らないと話にならないのだ。

「いいよ、わたし」
「…………は?」
「白布にはいろいろ助けてもらってるし、それくらいしかわたしにはできないから。白布なら別にいいよ」

 真ん丸になった目でじっとわたしを見てくる。白布は驚愕という表情のまましばらく固まって動かなくなった。部屋のどこかに置いてある時計の秒針の音。それだけが聞こえる静かな室内。広すぎて落ち着かないと思ったけれど、白布が隣に座ってくれてとても落ち着けた。一日の疲れが素直に体に訴えかけてくる。一人で踏ん張って立ち上がっていたときとは違う、心地よい疲労感だった。
 白布が深いため息をついた。わたしから顔を背けると、ごろりとソファの背もたれを転がって背中を向けられてしまう。小さな声で「賢二郎だって言ってんだろ」と言ってから、また一つ、ため息を吐いた。

「本当、悔しい、泣くぞ」

 ぽつりと呟かれた声は子どもみたいに拗ねているように聞こえた。
 その日の夜は大きすぎるベッドで二人で寝た。でも、白布は指一本わたしに触れなかったし、近付いても来なかった。ベッドの端と端で背中を向け合って、まるで、喧嘩をした後みたいにひっそり眠りについた。


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