三月十二日土曜日。空には薄らと雲がかかっており、晴天とは言いがたい微妙な天気になっている。まるでまだ迷っているわたしの心を表しているようだった。
 先に行った白布はもういない。わたしは扉の前で式場の人と、父親の代わりにバージンロードを歩いてくれる翔太と一緒にいる。わたしよりも翔太が緊張していてなんだか笑ってしまった。式場の人もおかしそうに「大丈夫ですよ」と声をかけてくれたけど、翔太は余計に縮こまっていた。
 時間が来てしまった。がちがちに緊張している翔太がぎこちなく腕を出した。それに笑いながら手を回すと「笑うなよ」ととんでもなく恥ずかしそうに言われてしまう。そんな無茶な。笑っているわたしを翔太はもう咎めなかったけど、どこか、ほっとした顔で見てくれている気がした。
 扉が開いた。懐かしい顔が手前にたくさんいたから思わず笑いそうになったけど、ぐっと堪える。ギギ、と音を立てそうなほどぎこちなく翔太が歩き出した。笑っちゃうから普通にして、お願い。内心そう思いつつも、わたしもほんの少し緊張していた。
 ぎこちない足取りでどうにか白布の隣まで来た。翔太がわたしの手を取って、そのまま白布に向ける。白布がわたしの手を取ると翔太の手が離れた。その瞬間に、ちゃんと自覚していたはずだったことを頭の中で呟いてしまう。わたし、本当に白布と結婚するんだ。今この場で突き刺さるようにそう思った。嘘でしかない花嫁が、祭壇前に立ってしまった。そう静かに視線を下に向けると、牧師の人が優しく笑った。

「新郎賢二郎さん、貴方は妻となるさんに、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、妻を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」

 無茶な話だと、思ってしまう。健やかで喜ばしいことしかなくて裕福であれば、白布だって得をすることがあるかもしれない。でも、わたしはそうじゃない。そんなわたしを愛し、敬い、慈しむことなんて、この世の誰もできない。誓えない。無理難題を白布は今、牧師さんに言われているのだ。そう思うと、白布の手を握る力が少しだけ緩んだ。

「はい、誓います」

 はっきりとしたまっすぐな声だった。その声と同時にぎゅっと手が握られた。温かいその手は告白してくれたその日と、泣きじゃくるわたしの肩を掴んだその日と、協力関係を結んで握手をしたその日と、何ら変わりのないものだった。いつでもわたしになぜだか寄り添ってくれるように思える、優しい温かさをしていた。
 ぼんやりしている間に牧師さんがわたしを見て、先ほどと同じことをわたしにも聞く。白布がもし病気や怪我をしても、何か悲しいことがあって落ち込んでいても、何かで困っていても。わたしは、きっと、それを助けたいと思う。だって白布は、何の得もないのにわたしに手を差し伸べてくれたから。理由は分からなくてもわたしは救われたから。ならば、何も持っていないわたしにできることがあれば、何かしたいと思う。それを愛なのかと問われると答えられないけれど、その気持ちに偽りはなかった。だから、迷わず、誓いを立てた。
 きっと冷たい手だろうと思う。白布の手によって指輪がはめられた自分の左手を不思議に思ってしまう。白布の左手にも同じ指輪がついているのを思わずじっと見てしまうほど、なんだか、不思議だったし、ふわふわとした気持ちだった。ぼけっとしているわたしを見かねた白布が小声で「おい」と言った。ハッとしてほんの少しだけ頭を下げる。別にそうしなくても白布の身長ならベールを上げることはできるけど、段取り的にはわたしが忘れていたことだ。情けなく思いつつ、ベールを上げてもらった。
 今日まで彼氏なんてできたこともなければ、好きな人もできたことがない。誓いのキスがファーストキスになるんだな。そんなことをぼんやり思う。どれくらいするのかな。プランナーの人と話したときも「ここでキスしたあとに、」といった具合に詳細な説明はなかった。目を瞑ることくらいは分かるけど、キスなんかしたことがないからちょっと緊張してしまう。変なことしちゃったらどうしよう。ほんの少し不安があったけど、白布に聞くのも恥ずかしくて聞けずじまいだった。
 顔を上げると、必然的に白布と目がある。まっすぐな瞳。昔から何も変わっていない。大人っぽくなったけど、意外と優しい目をしているところも、さらりと揺れる髪も、男の人にしては白い肌も、何もかも。わたしが知らない白布の数年間などどこにもないように、昔のままの白布がいてくれて、安心してしまった。
 白布の手がわたしの肩を掴んだ。ここで目を瞑ればいいのだろうか。他に瞑るタイミングがないから、きっと間違っていないはず。恐る恐る目を瞑ると、もう何も見えないし状況の把握はできない。離れたら目を開ければいいのかな。やっぱりちゃんと聞いておけばよかった。内心そう後悔していると、わたしの両肩を掴む白布の手が、ほんの少しだけ強張ったように感じた。
 重なった唇は思っていたよりも熱くて柔らかくて、思わず少しだけ肩が震えてしまった。すぐにそっと離れていってからゆっくり目を開ける。一瞬だったけど、なんか、ちょっと。そんなふうに白布の顔が見られなくなった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 挙式を終えて式場に戻ってきた。控え室で一人、鏡の中に映る自分に苦笑いがこぼれる。とてもじゃないけど、きれいな花嫁にはなれなかった。それは当たり前だ。幸せな笑顔を浮かべて、愛する人と喜ばしい日を迎える花嫁ではないのだから。白布のことは人として尊敬しているし、友達としてとても好きだ。でも、愛する人、というのは、まだしっくり来ていない。わたしと白布はただの協力関係だし、幾分かわたしが得をしているような関係だ。気持ちが晴れずにぼんやりしてしまっても仕方ないのかもしれない。鏡の中に映る花嫁のまねごとをしている自分が、とてもじゃないけど、直視できなかった。
 こんこん、と静かにドアをノックされた。返事をすると式場の人が「そろそろお時間です」とにこやかに案内してくれる。こういうの、慣れないからどうしたらいいか分からない。そう思ったけど、そりゃそうか、と思い直す。結婚式なんてやったことがあるわけないのだから、多少小さなミスをしてしまってもご愛敬で許してもらうしかない。そう自分で自分を励ます。
 会場には白布と二人で入って、そのまままっすぐ高砂席に向かうと打ち合わせでも軽いリハーサルでもやった。大丈夫。わたしはただ転ばないように歩くだけ。そんな当たり前のことを緊張しつつ頭の中でイメージトレーニングしていると、白布の姿が見えた。
 本人は「さすがに白は無理」と言ったけど、ひかりのごり押しでタキシードは白色にされていた。真っ白だと本当に嫌、と白布が最後まで抵抗した甲斐あって、白とは言っても柔らかいクリーム色になり、ジャケットはほんの少し可愛らしいブラウンになった。ちょっとだけ、白鳥沢の制服に雰囲気が似ていてとても似合っている。元々白布は顔立ちが和≠ニいうよりは洋≠ネ印象だし、わたしも白がかっこいいと思ったのだけど。本人は最後まで「本当に白にするのか?」と半信半疑だったっけ。
 白布の隣に立つと、式場の人がインカムで何かを聞きながら「少々お待ちくださいませ」とどこかへ行ってしまった。白布と二人きり。嘘の花嫁、嘘の花婿。いや、白布は嘘じゃないかもしれないけれど。でも、愛し合って結ばれたわけではない嘘の結婚式であることに変わりはない。挙式のときも思ったけど、わたしは、嘘ばかりついてしまっている。そう思った。

「ここで逃げるなよ」
「に、逃げないよ」
「挙式前に逃げられるよりこのタイミングで逃げられたほうが本当に俺が可哀想になるからな。いいな?」
「だから逃げないってば」
「信用できねえよ」

 小さく笑った。その横顔を見上げて言葉を失っていると、白布がほんの少しだけ俯く。ちょっと憎らしそうに「ここだけの話だから一瞬で忘れてくれていい」と前置きをして、ちらりとわたしを見た。

「一緒に暮らす内に俺を好きになれば良いのに、と思ったことは何度もある」
「……ご、ごめん」
「謝るなよ。泣くぞ」
「あの、でも、嫌いとかそういうわけじゃ」
「分かってる。諦めの悪い男が馬鹿な期待をこぼしただけだから忘れろ」

 鼻で笑った。わたしのことではなく、自分のことを馬鹿にしたような笑い方だった。それに俯いてしまうと白布が「めでたい日なんだから俯くな」と言った。めでたい日。白布はどうして手放しでそう言えるのだろう。ずっと白布のことが分からない。確かに九年前はわたしを好きでいてくれたのかもしれないけど、今のわたしを好きだと思える要素なんてどこにもないのだ。何か特別な理由があれば教えてくれればいいのに。そうすれば快く協力すると言えるのに。少しはわたしの後ろめたい気持ちもなくなるのに、と、卑怯なことを考えてしまう。わたしはどこまでも愚かだ。
 どうして、と思わず声が漏れていたらしい。白布がまだ開かない扉を見つめたまま「何が?」と聞き返してきた。慌てて顔を上げて白布の顔を見る。もうはっきり聞けるのは今しかない。今ならまだギリギリ立ち止まれるこの瞬間だけだ。そう思った。

「白布はどうしてこうしようって思ったの? 特別な理由があるとか、やむを得ない事情があるとか、そういうのがあれば教えてくれたほうが有難いというか……」

 高校三年生の六月、白布から告白された日を最後にもう九年も会っていなかった。わたしから連絡することも、白布から連絡が来ることもなかった。偶然どこかで鉢合わせたこともなかった。それなのに、どうして。純粋にずっと思っていた疑問。白布にまっすぐぶつけたのははじめてかもしれない。白布がわたしの顔を見た。似合わないドレスを着て、似合わないヘアメイクをしてもらっている、何もかも嘘でしかないわたしを見て何を考えるのだろう。
 だって、分かるわけがない。美人でもない。スタイルがいいわけでもない。飛び抜けた才能があるわけでもない。お金を持っているわけでもない。利益になるような人脈があるわけでもない。優しいわけでもない。性格がとてもいいわけでもない。何か人が欲するようなものを持っているわけでもない。むしろ、誰かに助けを求めていて、施しを欲していて、縋り付きたいだけの人間だ。誰かの得になるようなものは何も持っていない。だから、白布が惹かれる要素なんて、何もないのに。
 わたしの顔をじっと見ていた白布が、小さく笑った。優しい顔だったから泣きそうになる。なんでそんな顔で笑えるの。わたしなんかと結婚するのに。白布のことを好きだと言ったこともないわたしと、結婚してしまうのに。誓いを立ててしまったのに。どうして助けようとしてくれるの。どうして何も教えてくれないの。何もかもが、分からなかった。
 足音が聞こえてきた。式場の人が戻ってきたのだろう。どんどん近付いてくる足音は白布にもしっかり聞こえていたらしい。扉のほうに視線を戻した。やっぱり教えてくれない。わたしはそれを教えられる存在ではないのだろう。そう、わたしも扉のほうに顔を向けた。

「特別な理由なんてない。俺はただ、ずっと、お前のことが好きなだけ」

 ぽつりと呟いたような声だった。思わずまた白布のほうに顔を向けてしまう。白布の横顔は、おかしそうに笑っているように見えた。
 白布の答えに何も返せないまま、式場の人が慌ただしく戻ってきた。一人増えているところからして、もう一人の人のトラブルを終えることができたらしい。わたしたちに近寄りながら二人が「お待たせして申し訳ございません」と言って、それぞれ扉のハンドルを握る。開いてしまう。もう後戻りできない嘘になってしまう。白布が逃げられなくなってしまうよ。本当に、いいの? そんなわたしの問いかけが届くことはない。白布が「手」とだけ言った。腕に手を回せ、という意味だ。そうやって入場すると元々話されていた。慌てて白布の腕を掴むと、もう二人とも引き返せなかった。
 開いた扉。これ以上ないくらい盛大な拍手。目がくらむほどの光。二人で頭を下げたその瞬間、泣いてしまいそうだった。


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