三月五日土曜日。結婚式を一週間後に控えた穏やかな夜。当直上がりの白布は明日は休みだそうだ。翔太は友達の家で泊まりの勉強会、ひかりは部活の遠征中。二人きりの夜は久しぶりな気がして少しだけ寂しく思ってしまった。
 コーヒーを淹れたので白布の分も、と勝手にコップを机に置いてみる。白布はソファに寝転んでいた体を起こして「ありがとう」と言った。わたしが勝手にしたことなのにお礼を言ってくれる。そういうところ、やっぱり優しい人なんだなっていつも思う。
 わたしは明日はラストまでのシフトだ。部屋の掃除でもして夜を過ごそうかな、と思っていると白布が「なあ」と声をかけてきた。コップを置いてすぐ食卓の椅子に戻ろうとした足を止めて振り返ると、白布が「ちょっと大事な話」と言って手招きしてくる。大事な話。いいことか悪いことかどっちだろうか。ちょっとだけ緊張して白布の隣に座った。

「何?」
「……一週間後に式を挙げるわけだけど」
「う、うん、そうだね?」
「俺がお前に結婚しようって提案したときに言ったこと、覚えてるか」
「え、利用するとかしろとか、そういう話だったのは、覚えてるけど……?」

 白布が少し黙ってから「まあ、覚えてないよな」と言った。あれ、それ以外に何か話しただろうか。印象的な話がそれだったから他のものが抜け落ちてしまっているかもしれない。素直に謝って覚えていないと言うと、白布は頬杖をついて少し背中を丸めてこっちを見ていた視線を少しそらした。

「心をくれとか体をくれとか、そういうことを要求するつもりはないって言っただろ」
「……あ、そ、そういえば、言ってた、ね?」
「約束を破るつもりはないし、今になって気が変わったと言う気もないけど」
「う、うん」
「さすがに結婚式でキスしないのは無理だから、そのつもりで」

 それだけ、と静かに呟いて話が終わった。何も言わないわたしに白布がじろりと視線を向けて「なんか言えよ」と憎らしそうに言った。
 あまりにも深刻そうに切り出されたから、少し拍子抜けしてしまった。思わず笑って「それくらいちゃんと分かってるよ」と返したら、白布が目を細めてじっとわたしを渋い顔で見る。しばらくわたしを見てから深いため息を吐いた。それから「くそ、なんか悔しくなってきた」と呟いた。何が悔しいのかよく分からないけど、さっきまで少し思い詰めたような表情をしていたのが和らいでよかった。
 びっくりした。あれは撤回する、と言われるかと思ったから。そうじゃなくてちょっと安心してしまった。白布だって男だし、そういうことに興味があるのは分かるけれど。きっとわたしの体を見たらそういう気も起こらなくなるだろう。まだまだ痩せたままで、手や足にはたくさん傷がある。健康的でもなければきれいでもない体だ。そういうことの対象にはなりづらいだろう。白布に見られるのはちょっとだけ、嫌だな、とか。
 くしゃくしゃと頭をかいてから白布が顔を上げた。もういつも通りの表情に戻った白布は「まあ、いいってことだな?」と最終確認をしてきた。結婚式に誓いのキスはつきものだ。それを拒否する権利はわたしにはない。「うん」と答えると白布はじっとわたしを見てから「ならいい」と呟いて、そっぽを向いてしまった。
 できるだけ小規模がいい、と最後までお願いしたわたしの意見を少しくみ取ってくれて、招待したのは白布の職場の人数人、わたしの職場の人数人、そして、バレー部の同輩だけだ。「共通の友人にしとけば少人数で行けるだろ」と言われた結果なのだけど、ちょっと気恥ずかしい。招待状を送った翌日には白布に鬼のように連絡が来ていたことを思い出す。部活の人たちにいっぺんに知れ渡り、まだ残っているバレー部の先輩や後輩も入っているグループラインは一日中鳴り止まなかったのだとか。わたしは退部と同時にグループラインからも抜けていたけれど、連絡先を知っているバレー部の人からは「聞いてないんだけど?!」とたくさん連絡が入っていた。一つ一つに白布と口裏を合わせた経緯を返答して、黙っててごめんね、と謝ったな。

「……白布」
「賢二郎」
「あ、ごめん。つい」
「そろそろ慣れろよ。結構しら≠ワで言いかけてるとき多い」
「う、はい、すみません……」
「で、なんだよ」

 くるりと視線が戻ってきてくれる。白布は一つゆっくり瞬きをしてからじっとわたしを見つめた。人の話を聞くときは人をまっすぐ見てくれる。人に話をするときは人をまっすぐ見て話してくれる。そういうところがとても誠実で、真面目で、とても好きだと思う。人として。
 まだ、今なら引き返せるかもしれない。籍は入れてしまったけれど結婚式さえしなければ、周りに呆れられてしまいはするが「まあ若気の至りだね」と流してくれる人が多いかもしれない。手遅れに変わりはない。でも、まだ傷は浅い。翔太とひかりにはわたしが悪かったと説明すれば白布に迷惑はかからないし、ご両親にもわたしのせいだと謝罪すれば白布のせいになることもない。白布のおかげで家族の大切さと、自分が今までいかに周りが見えていなかったかが分かった。わたしにとってはもう、それだけで十分すぎるほどの救いだった。

「今ならまだ、なかったことにできるよ」
「は?」
「白布ならこんな歪な結婚じゃなくて、普通の結婚ができると思うよ。本当にこのままでいいの?」
「それは意味不明な罪悪感からなのか、俺と結婚するのが嫌になったのか、どっちだ?」

 びっくりした。一瞬白布が言った言葉の意味が理解できなかったほどに。白布と結婚するのが嫌になった、なんて、とんでもない。それは白布の台詞だ。わたしには言う権利すらない。そんなふうに思われたなんてことに衝撃を受けてしまった。思わず言葉を失ってしまったけど、ハッとして「嫌になったとかじゃないよ」と困惑しながら否定する。白布はそんなわたしをじっと見つめたまま、ぽつりと「じゃあ何が不満なんだよ」と言った。

「本当に不満はないよ。むしろ、白布がどうなのかなって。そろそろ正気に戻ってるんじゃないかなって、思って」
「俺が正気じゃなかったときっていつ?」
「……わ、割と、ここ最近ずっと、かな……?」
「冗談だろ。むしろここ最近ずっと調子いいんだけど」
「そうなのかな……」
「そうなんだよ。むしろ、そういうことを言われるほうが嫌なんだけど」

 白布はそう言ってからわたしに何も言わせないかのように「この話終わりな」と切り上げてしまった。ソファから立ち上がるとコップを持って「部屋でちょっと仕事してくる」とリビングから出て行った。
 ぎゅっと拳を握ってしまう。俯いたらさらりと横髪が落ちてきて視界の隅で揺れる。白布が出て行ったリビングは静かなのに、これまでの静寂とは違う温かみがあるように思えた。
 わたし、今、ほっとしてしまった。わたしの言葉に白布が「そうだな、やっぱりなしにするか」って言わなくて、とても、ほっとしてしまっている。なんて卑しい人間なのだろう。人のことを考えて言ったはずの言葉が自分の心から真に出て行かない。どうしてわたしはこうなってしまうのだろうか。白布の優しさに甘えてばかりで、自分は何一つ白布に返せていない。そればかりか立ち止まるような言葉ばかりを白布に向けて、本当に、情けない。


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