二月下旬、二十歳からお世話になった新聞配達を退職した。配達店の人から泣きながら「幸せになるんだよ」と、うっかりわたしまで泣いてしまうほど熱烈なエールをもらってしまった。わたしは家族だけじゃなくて、関わった人にまで泣かれるほど切羽詰まって見えていたのかもしれない。後輩として働いている学生さんや年上の人たちにもたくさんお菓子やお花をいただいてしまって申し訳なかったけど、ちゃんと役に立てていたのだという証のように思えて、嬉しかった。
 たくさんの花束とお菓子を抱えて帰宅すると、誰もいない静かなリビングで足が止まる。寂しいな。ぽつりとそう思って、はじめて、白布が言った言葉の意味が分かった気がした。翔太とひかりは、いつも、静かな部屋に帰ってきてどう思っていたのだろう。朝起きたらもうわたしがいない部屋を見てどう思っていたのだろう。きっと、今わたしが思ったように、寂しいな、と思っただろうな。わたしがいつももったいないと思っていた時間は、翔太とひかりと過ごすための時間だった。それさえもわたしは働く時間に充てていたのだ。それに気が付いてしまった。
 スーパーに出勤するまで結構時間がある。静かなリビングに一人きり、特にすることもなくソファに腰を下ろす。ふと鞄からスマホを取り出すと翔太からラインが入っていた。友達の家で勉強会するから遅くなる、とのこと。笑いながら了解、と返しておいた。
 翔太とひかりがある日突然スマホを持っていたのにはひっくり返るほど驚いたなあ。苦笑いしつつ思い出す。白布が休みの日、わたしがいない間にさっさと契約しに行ったらしい。ひかりはもちろん、あの翔太も結構嬉しそうな顔をしていたっけ。やっぱりほしかったんだなあ。気付かなくてごめんね。白布もごめんね。そう謝ったら白布に「謝るな」と怒られた。連絡手段がないと困るから持たせただけ、と言っていたけど、それだけじゃないと思う。白布、優しいから。内心そう笑ってしまった。
 ぐるりと部屋を見渡す。まだ白布が引っ越してきてたった一ヶ月だというのに、がらりと部屋の様子が変わった。空っぽだった本棚には白布が本を入れた。掃除がしにくくなるといけないからと何も置かれていなかったテレビ台には、ひかりが好きなマスコットの置物が並んでいる。机の上はいつも不自然なくらいきれいにされていたけれど、翔太の勉強道具がそのまま置かれている。これまでわたしたち兄妹三人は、家族だというのにどこかで気を遣い合っていたのだ。お互いに気を遣って、お互いに遠慮して。我が儘を言ってはいけない。お互いの領域にむやみに踏み込んではいけない。そんなふうに。
 ずっと家族だったのに、なんだか、ようやく家族になれた気がする。そう思ったらほんの少しだけ泣いてしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ねー、お姉ちゃんと賢二郎さんって一日何回ちゅーする?」

 ブハッ、とお茶を吹き出したのは翔太だった。大慌てで「お前そんなこと聞くなよ!」とひかりの頭を引っ叩いた。白布が冷静に「床拭けよ」とタオルを渡すと、翔太は「なんでそんな冷静なの……」と一人だけとてもつらそうな顔をした。思春期には躱すのが難しい話題だ。わたしも思わず笑ってしまうの「俺が変なのかよ」と悔しそうに呟いた。

「なんでそんなこと聞くんだよ」
「あたし彼氏できたんだよね〜」
「……かっ、彼氏?!」
「うん。先週告られてオッケーした!」

 さすがの白布もちょっとびっくりしている。わたしと翔太は立ち上がる勢いで驚いてしまって、つい詰め寄って「どんな子? 何年生? いつから友達なの?」と質問攻めをしてしまう。わたしにとっても翔太にとっても、ひかりは一番下のかわいい妹だ。人懐こい笑顔と明るい性格は誰にでも好かれるかわいらしいもので、自慢の妹でもある。そんなひかりの彼氏、気にならないわけがない。変な男だったらどうしよう、と不安が胸を過ってたまらないのだ。

「拓也くんだよ」
「拓也くん?! 小学校一緒だったテニス上手い子?!」
「そうそう! 付き合お〜って言われたからいいよ〜って言った」
「軽すぎるだろ、え、お前拓也くんのこと好きだったのか?」
「別に? でも拓也くんならいっかなーって」

 にこにこ笑ってそう言うものだから、今時の若い子の恋愛というのはそういうものなのかと呆然としてしまう。付き合おうと言われて好きじゃないのにいいよって言えるものなのかな? わたしが衝撃を受けている隣で「いや、姉ちゃんも似たようなこと言ってたじゃん」と言われてしまう。似たようなこと。なんだったっけ。首を傾げたら、ひかりが「賢二郎さんに告白された話のことでしょ」と言った。白布に告白されたとき。そう言われてようやく思い出す。わたしがわたしじゃなかったら付き合ってたかもね、と答えたっけ。確かにあの告白されたとき、わたしは白布ならいいかと思った瞬間もあった。ひかりの見解は最終的にわたしは白布のことが好きだった、と結論づけられていた気がするけれど、確かにひかりのことを言えない立場、なのかも、しれないけど。

「いやでも、し、賢二郎は違うでしょ?」
「なんで? 拓也くんと何が違うの?」
「だって、しっかりしてて真面目だし、いつも頼りになるし、一緒にいてなんとなく安心できるというか。告白されたら大抵みんないいかなって思う人だから違うの」
「でも拓也くんイケメンだよ?」
「賢二郎は誠実そうできれいな顔でしょ。だから違うの」
「違うんだ?」
「違うでしょ、どう見ても」

 高校生のときからそうだった。なんとなく一緒にいると落ち着けたし、少し焦っていても白布が助けてくれると安心した。たまに怒ると怖かったけど、怒ってくれる内容は大抵がこちらを思って言ってくれているものばかりだった。そういう人だから、白布ならいいか、って思っても不思議じゃない。拓也くんとは訳が違うのだ。失礼だけど。
 当然のようにそう言ったら、翔太もひかりもきょとん、と固まってしまった。リビングを包む沈黙にちょっと怖気付いてしまいながら「え、何?」と恐る恐るひかりに聞いてみる。ひかりは「え、何って」とちょっと恥ずかしそうに笑った。

「お姉ちゃん、賢二郎さんのこと好きすぎでしょ。勢いすごくてびっくりしちゃった」

 ひかりが翔太を見て「ね?」と笑いつつ言うと、翔太もちょっと恥ずかしそうに「マジで恥ずかしいからやめて」と目をそらした。翔太はともかくひかりが照れるのは珍しい。そんなに変なこと、言ったかな? 当たり前の認識だと思っていたからきょとんとしてしまう。そんなわたしを見て翔太がぼそっと「姉ちゃん、賢二郎さんも照れてるから」とちょっとだけ笑って言う。
 思わず白布に視線を向けてしまった。ソファに座って雑誌を読みつつ会話に混ざっていた白布は、恐らく知らんふりをしているつもりらしい。足を組んだ膝に置いている雑誌に視線を落として、ソファの肘掛けに肘を立てて少しだけ顔を隠しているように見える。顔は見えないけど耳が赤いのは見えた。え、なんで照れるの。思わずそう聞いてしまうと、大きなため息を吐かれた。

「照れてねえよ」
「いや、賢二郎さんめちゃくちゃ照れてるじゃん。写メ撮っとこ」
「撮るな。寄ってくんな。それよりそのタクヤとかいうやつ大丈夫なんだろうな?」
「話そらした〜」

 シッシッとひかりを追い払いつつ白布が逃げるようにソファから立ち上がった。そそくさとリビングから出て行くと、静かにドアを閉めて廊下を歩いて行く足音が離れていく。別にそんなに照れなくても。いいところを褒めただけなのに。首を傾げているわたしを、ひかりがおかしそうに笑った。


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