二〇二二年一月初旬、白布の引っ越しが完了したと同時にわたしも職場に復帰。約二ヶ月も休んでいたというのに、ずっと勤めているスーパーも新聞配達の職場も温かく迎え入れてくれた。それどころか新聞配達のほうは「結婚したんでしょ?! 辞めなくて大丈夫?!」と心配してくれたほどだった。確かに、白布に両方に復帰すると伝えたら渋い顔をされた。どっちか一個じゃないのか、と言いたげな顔で。でも、せっかく元気になったしできる限り働きたい。そうどうにか復帰の許可をもらってほっとしたっけ。
 白布が引っ越してきた初日、翔太とひかりが見ている前で指輪を渡してきた。なんで二人が見てる前で、とわたしがたじろぐのも構わずしっかり改めたプロポーズの言葉付きだった。一応去年に二人で見に行ったものだ。どれがいいか聞かれてお値段を見つついくつか答えた。後日白布が一人で買いに行く、と言ったっきり音沙汰がなかったけど、わたしが選んだものの中で一番高いものを買ってきたらしい。困る。一番お安いもので十分なのに。立派なものをもらっても、似合わないのになあ。そんなふうにおどおどしながら受け取った。
 すでに白布用の食器や諸々の生活用品は揃っている。カレンダーには白布の予定も書かれているし、なんか、本当に家族みたい。一人増えただけで一気に賑やかになった部屋を眺めてぼんやりそう思った。翔太とひかりもとても懐いていて、勉強を教えてもらったり相談に乗ってもらったりしている。翔太は白布が持っている難しそうな本を借りているようで、よく二人で難しい話を見ているのを見た。ひかりがちょっと混ざりに行くのだけど、すぐにわたしのほうに来て「ねーお兄ちゃんと賢二郎さん意味不明ー」とぶーぶー言うのだ。それがおかしくていつも笑ってしまう。
 一番驚いたのは、白布がわたし通帳を完全に任せてきたことだった。さすがにそれは、と断ろうとしたら「どういう約束で結婚したか思い出せ」と言われ、無理やり握らされた。暗証番号はもちろんキャッシュカードまで預けられて戦々恐々としてしまう。そもそも白布、自分のお金はどうするつもりなのだろうか。恐る恐る聞いたら「月初めに渡せる分だけ渡して」と言われた。お小遣い制というやつだろうか。そのあとで「翔太とひかりのもそこから出せ」と言われて、怯えてしまった。
 まあ、受け取るだけ受け取って、白布のお小遣いだけここから渡して、あとはわたしの通帳から出してもバレないか。そう開き直ろうとした瞬間、白布が「定期的にチェックするからな」と言ってきた。見抜かれている。ギクッとしているわたしを見て「やっぱり」と呆れたように言われて、もう、申し訳なかったけど従うしかなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「お姉ちゃん、一回賢二郎さんのことフッたって本当?」
「……それは、えーっと、誰から?」
「賢二郎さんから聞いた!」

 だろうね。苦笑いをこぼすると「やっぱ本当なんだ?」と翔太も読書を一旦中止して顔を上げた。なんで何でもかんでも二人に喋っちゃうんだろうか。少しだけ恨めしく思っていると「なんで断ったの?」とひかりが首を傾げた。

「そうだね。あのときはわたしも、自分のことで必死だったからなあ」
「なんて断ったの?」
「うーん、早くわたしのことは忘れてね、みたいなことを言った気がするけど、忘れちゃったなあ」
「わたしと付き合っても後悔するから。わたしのことは早めに忘れて、青春を謳歌してね≠セろ」

 びっくりした。振り返るとお風呂からあがった白布が髪を拭きながらリビングに入ってくるところだった。ひかりが「えっ覚えてるんだ!」と楽しげに言うと「忘れられるかよ」と白布が笑った。ちょっと、恨み節に聞こえたのはきっとわたしだけだろう。

「ちなみに友達としては好きだけど、ごめん、そういうふうに見たことないや≠ニも言ってたな」
「お姉ちゃん結構はっきり言うね」
「きれいな思い出をもらっちゃったよ。ありがとう≠ニもな」
「……ちょっと、姉ちゃん、きついかもな」
「ご、ごめんってば……」

 味方がいない。ちょっと肩身の狭い思いをしながら洗濯物を畳む。懐かしい。そうだ、あのときは白布が突然どこかへ連れていくから不思議に思ったなあ。告白されるなんて全く想像してなくて、ちょっと呆けてしまったっけ。あのときの白布は妙に静かで、とても、とても、きれいに見えた。夕焼けのせいだっただろうけど。いつもの白布とは少し違っていたような気がしてなんだか見入ってしまったっけ。

「お姉ちゃんそのときは賢二郎さんのこと何とも思ってなかったの?」
「え?」
「だって今となっては結婚じゃん。ちょっとくらい好きだったんじゃないの?」

 無邪気に聞いてきたひかりの言葉に、グザッと心臓を刺された気持ちになる。わたしと白布はお互い協力関係になるために結婚しただけ。気持ちなんてない。白布はわたしを好きでいてくれているようだけど、わたしには、一つも。改めてそれを再確認した気がしてしまった。
 嘘を吐いてもよかった。実はあのとき白布のことが好きでね、と。もうとっくに二人に嘘を吐いているのだから、躊躇うことなく嘘を吐いたってよかった。でも、なんとなく、白布も聞いている前で自分の口から嘘を吐けなくて。情けなく笑ってしまった。

「うーん。わたしがわたしじゃなかったら、付き合ってたかもしれないね」
「どういう意味?」
「翔太とひかりに言うのはちょっと申し訳ないけど、あのときのわたしと付き合っても、しら……賢二郎は苦労してただろうし、嫌な思いもさせただろうから。そうじゃなかったら頷いてたと思うよ」

 あのときは驚きすぎてうまく言葉にできなかったな、と思い出し笑いをしてしまう。そんなわたしをじっとひかりが見つめると「え、それって」と首を傾げた。

「賢二郎さんのこと好きだったんじゃん、お姉ちゃん」
「……どうして?」
「だって、自分と付き合ったら賢二郎さんが大変な思いをするから断ったってことでしょ?」
「そうだよ?」
「好きじゃん、そんなの。好きな人だから幸せになってほしいってことじゃないの?」

 ひかりが笑って「やったね、賢二郎さん」と声をかけた。翔太の隣でスマホを見ていた白布がこっちをじっと見て瞬きをしない。まっすぐ顔を見られるとなんだか恥ずかしくて、目をそらしてしまった。そういうつもりで、言ったわけじゃないと、思うんだけどなあ。なんだか変な勘違いをされてしまった。必死に否定するのも白布に悪い気がして、とりあえずそういうことにしておいたほうがいいか、と息を吐く。
 白布のことが好きだから断ったのだろうか。そんなつもりは一切なかったけど、人から見たらそう思われるものなのだろうか。そうだとしたら恥ずかしいな。白布もそんなふうに思っただろうか。そうだとしたら、なんか、申し訳ないな。そう小さくため息が漏れた。
 ひかりは明日から部活動再開だ。話を聞いて満足したらしく「おやすみ!」と部屋に戻っていった。それと一緒に翔太も「俺も。おやすみ」と言って部屋に戻っていく。リビングに白布と二人で取り残されてしまった気持ちになって、なんだか気まずい。洗濯物は畳み終わったし、あと数時間後には復帰したばかりの新聞配達の時間。朝ご飯に準備はできているし、わたしもそろそろ寝ようかな。時計を見ながら考えていると白布が「なあ」と声をかけてきた。

「あ、はい」
「仕事、一つに減らす気ないのか」
「……あー、うん。できれば」
「まあ二つ掛け持ちでもいいんだけど、せめてスーパーみたいに日中に働くものにできないか?」
「コンビニとか?」
「……コンビニだと深夜入れって言われたらお前入りそうだし、却下で」
「し、信用がない……」
「それかいっそ正社員で就職するとか」
「あー……うーん……」
「経歴とか雰囲気をちゃんと見てくれるところなら取ってくれると思うけど」

 そうかなあ。そんなふうに苦笑いをこぼしてしまう。そんなに能力が必要な職に就いたこともないし、資格も何も持っていない。そんなわたしが就職かあ。ピンと来ない。「考えとく」とだけ返しておいた。
 どうも白布にとってはこの新聞配達がネックらしい。まあ、確かに。周りは学生の子や子どもが手を離れた上の世代の人が多い。二十代や三十代の人はいない。職場の人たちもわたしが結婚したと聞いて辞めると思っていたようだった。深夜三時頃に出勤する仕事だから主婦には少し厳しいタイムスケジュールであることに間違いはない。
 白布の口ぶりからして深夜もだめなようだし、スーパーをラストまでのシフトに変えてもらって早朝から昼すぎまで働けるところを探したほうがいいかもしれない。ぐるぐる考えていると、白布が腕組みをした。

「俺はもうスーパーだけでいいと思うけど」
「え、でも、時間もったいないし……」
「生き急ぎすぎだろ、いくらなんでも。そのほうが翔太とひかりも喜ぶと思うぞ」
「……そうかなあ」
「そうなんだよ。どっちみち新聞配達は辞めてほしいし、一回一つだけにしてみろって。それで分かるから」

 そう言うと立ち上がって「寝る。おやすみ。あんま無理すんなよ」と言って部屋に戻っていった。無理、してないつもりなんだけどなあ。わたしができる範囲でいろいろやっているつもりなのだけど、どうにも白布には無理をしているように見えるらしい。いまいちピンと来なかったけど、白布の言葉はいつもなぜだか説得力がある。不思議な力だ。そう思うとなぜか胸が熱くなった。


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