十二月十一日土曜日。わたしは人生で恐らく一番緊張していた。持っている服の中で一番くたびれていなくて、そこそこきれいめに見えるワンピースを着てきた。これまで滅多にしなかった化粧も控えめにしたし、髪もきちんとセットしてきた。喉の奥で何度も言うことを繰り返しながら俯いていると、車を運転している白布が「そんなに緊張しなくていいだろ」と少しだけ呆れる。緊張しないわけがない。今日は、白布の家族に結婚の挨拶をしに行くのだから。
 白布の実家はわたしの家から車で約一時間半ほどのところにあった。白鳥沢学園からはそれなりに離れたところだ。高校のときは白布が寮だったからあまり実家がどこにあるのかとか、そういう話になったことがなかったから少し驚いた。そして、もう一つ驚いたのが、白布の実家がとても立派な家だったことだ。しっかり塀に囲まれている家を見上げてより緊張していると、白布が「何?」と不思議そうにした。慌てて何でもないふうを装って、コートを脱ぎつつ一つ深呼吸をした。
 わたしの緊張など知らん顔して白布が玄関のドアを開けた。「ただいま」と声をかけると、女性の声が近付いてきて「早かったわね」とにこやかに登場。白布のお母さんだ。それが分かるくらい顔が似ていた。お父さんも後から出てくると「寒いから早く入れてあげなさい」と白布に言う。「分かってるんだけど」と若干反抗的に返したことに驚いていると、わたしのことを紹介してくれた。どうやら事前に大体のことは伝えてくれているらしい。緊張しつつ頭を下げた。

「はじめまして、です。本日はお時間をくださりありがとうございます」
「そんなに緊張しなくていいですよ。どうぞ」

 そう笑って白布のお母さんがスリッパを出してくれた。緊張しつつ靴を揃えて上がらせてもらうと、隣で白布が小さく笑ったのが見えた。絶対内心馬鹿にしてる。そう思うと少し恥ずかしかった。
 客間に案内されて「どうぞ」とにこにこ言われたので恐縮しながらソファに座らせてもらった。中まで立派だ。ちらりと見ただけだけど、靴箱の上には家族写真がたくさん飾られていた。四兄弟だと聞いているからその分写真が多いのは当たり前かも知れないけど、家族全員の写真が多かった気がする。仲が良いのだろう。そして、愛情を注いで育ててきたのだろう。それが分かる家の様子だった。
 わたしは、とんでもない悪女だな。内心そう思う。こんなふうに愛されて、とてもとても大切に育てられたであろう白布を、好きでもないのに利用して結婚しようとしている。今日までずっとそう分かっているつもりだった。でも、ちゃんとは分かっていなかったのだ。白布の家族と対面して、ようやくちゃんと理解した。わたしは良くないことをしようとしている、と。

「……せ、先日、賢二郎さんからプロポーズしていただき、お返事をしました。まだ至らぬところが多いとは思いますが、二人で、幸せな家庭を、築いていきたいと、思っています。不束者ですが、末永く、宜しくお願い致します」

 情けない声だったと思う。申し訳なさが滲まないように気を付けたけれど、隠し切れなかったかもしれない。にこにこと優しい表情をしている白布のご両親を前にしたら、どうしても、嘘を吐くのがつらくなってしまった。
 ごくり、と唾を飲み込んでしまう。うまく呼吸ができない。なんだか、何をするにも、申し訳なくて。ぎゅっと握った拳が少し痛い。だめだ、全部嘘では、だめだ。そう思った。

「……わ、わたしには、両親がいません。子どものころに他界しています。母方の祖父母に引き取られましたが、その祖父母も他界しています。家庭の事情で、あの、高校も中退、しています。今はパートを掛け持ちしている状態で、とてもじゃないですが、賢二郎さんのような立派な人間では、なくて、」
「賢二郎が立派?!」
「えっ」
「やだ、お父さん、賢二郎が立派ですって」
「たまにだとしても、この年齢で親に反抗してくる男が立派だとは思わないけどなあ」
「おい、やめろ」

 白布が軽く舌打ちをこぼした。それを白布のお母さんが「ほら、親に舌打ちするんですよ、この子」と笑う。きょとんとしていると白布が何となくバツが悪そうな顔をしつつ「悪い、その話は先にしてある」と言った。

「なんだ、さんに言ってなかったのか? そういうところが良くないぞ、子どもの頃から」
「うるさい」
「神妙な顔をして話がしたいとか言うから何事かと思ったのに、拍子抜けしたわよねえ」

 けらけらと愉快そうに笑う。あまり重大なことと捉えられていないことは分かったけれど、本当にいいのだろうか。そう思ってしまう。だって、ご両親からすれば同じ職業の女性や、偉い先生の娘さんを連れてきたほうが納得もできたし喜びもしただろうに。パートを掛け持ちしていて、両親がいなくて、何もかもが中途半端なわたしより、絶対に。

「失礼な言い方をすると少しは驚いたけど、この子、昔から言い出したらもう絶対聞かないから」
「どんな子かと今日まで思ってたけど、しっかりした良い子で安心したよ。逆に賢二郎でいいのかと思うくらい」
「おい、余計なこと言うな」

 若干たじたじしている様子の息子が面白いのか、白布のお母さんは立ち上がると「いいもの持ってきてあげるわ〜」と部屋から出て行った。お茶はすでにいただいているので、食べ物か何かかもしれない。しまった、こういうところは手伝ったほうがよかったんじゃないだろうか。そうあわあわしていると、白布のお父さんが「弟さんと妹さんはおいくつでしたっけ」とにこにこと笑って聞いてきた。

「来年度から弟が高校三年生で、妹が中学三年生です」
「受験生ですか。大変ですね」

 なんてことはない、会話だっただろうと思う。それでもなんだか裏があるように思えた。まさか息子にその学費を、と言われるかもしれない。ビクビクしながら言葉を待っていると白布のお父さんは「弟さんはとても成績が良いそうですね」と言った。白布が話したのだろう。でも、わたし、そんなこと話したっけ。そんなふうに不思議に思ってしまった。

「化学に興味があるならおすすめの大学があるんですけどね、」
「あ、あの」
「はい?」
「化学に興味があるというのは、えっと、賢二郎さんから聞いたんでしょうか」
「そうですが?」
「し……け、賢二郎、わたしそんなこと、話したっけ?」
「いや、直接本人から聞いたけど」

 わたしが聞いてないんだけど、どういうこと? 困惑しているわたしを小さく笑ってから「結構仲良くなった」と言った。いつの間に? それに、翔太は就職したいと言ってきた。わたしは大学に行ってほしいし本人も本当はそう思っているようだったけれど。白布のお父さんが自然に大学の話をしたのは白布が何かを言ったからなのだろうか。聞き覚えがないだけに少しだけ気になった。
 わたしが困惑している間に白布のお母さんが帰ってきた。その手には分厚い本。恐らくアルバムだろう。見た瞬間に白布が「おい、ふざけんなよ」と立ち上がってそれを奪おうとしはじめた。「あら、さん興味あるわよね?」と笑顔がこちらを向いた。ない、というと嘘になる。「は、はい」と困惑したまま答えたら白布が「おい」と少しだけ睨んできた。
 さすがに邪魔しづらくなった白布が大人しく席につくと、白布のお母さんがアルバムをめくってくれる。一番上のお兄さん、弟くん二人の写真と一緒に白布の写真もたくさんある。子どもの頃は今よりもう少し明るく元気な印象の写真が多い。カメラに向かってピースをしていたりいろんな表情を見せたりしている。じっと見ているわたしに白布が視線を向けつつ「面白くないだろ別に……」と呟いた。
 幸せな家庭の写真だ。見ているわたしまで笑ってしまいそうな写真ばかり。思い出すと、うちにあるアルバムにはほとんど写真がなかった。両親が亡くなってからは毎日が目まぐるしかったし、祖父母も写真を撮ることは滅多にしない人だった。わたしもそんな余裕がなくて翔太とひかりの写真を撮るなんてこと、滅多になかった。家族写真もほとんど残っていない。ひかりが生まれて少しして父が入院したし、元々父はバレーボール選手だった。家族で旅行に行ったことなんて片手で数えるくらいしかなかった。
 いつかに翔太が言った普通の家庭≠ニいうのは、こういうものなんだなあ。それを目の当たりにすると、わたしが一人でがむしゃらに頑張ったって、いくら手が汚くなるくらい働いたって、これにはたどり着けないと分かってしまう。そんなこととは知らずにわたしは翔太とひかりをないがしろにして生きてきたんだなあ。

「あら、大丈夫?」

 はっとしたときには遅かった。ぼろっと涙が瞳からこぼれ落ちてしまい、机に小さな水滴を落としてしまった。慌ててハンカチで拭いて「すみません」と謝ると、白布のお母さんは「それはいいんだけど、大丈夫? 目にゴミでも入ったかしら」と心配してくれる。
 わたしは本当に、自分のことばかりだな。そう思った。白布も翔太もひかりも、他の人も。もっと自分のことを、と言ってくれたけれど、とっくにわたしは自分のことばかり考えている。翔太とひかりを置いて働いて、お金が貯まっていくことに自分一人で満足して。それじゃだめだとなったら白布の気持ちを利用して一人だけいい思いをしようとして。何一つ、いつだって、わたしは人のことを考えられていない。
 でももう引き返せないのだ。ここで逆に白布の前から去ったら、白布に迷惑をかけるし、翔太とひかりも悲しむ。ここで引き返すことが最も良くないことだというのは分かっているつもりだ。どんなに自分が悪くても、情けなくても、申し訳なくても。せめて、白布にできる限り負担がかからないようにするにはどうしたらいいか。それがぐるぐると頭を巡った。


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