十二月、ようやく退院した。担当してくれた先生や看護師さんから「ご飯をちゃんと食べてちゃんと寝なさい」と最後のお説教を受け、なんだか申し訳ない気持ちで病院を出る。翔太とひかりが迎えに行くと言ってくれたけど、どうにか家で待つようにお願いした。ちゃんと帰るから、と説明したら不思議そうな顔をしていたなあ。
 その代わり、と言ってはなんだけど。病院を出てすぐ「こっち」と声をかけられた。白布だ。わざわざ休みを取って迎えに来てくれた白布は、お父さんのお下がりだという車から降りながら「大体の場所だけ教えて」と言った。
 恐る恐る車の助手席に乗せてもらうと、白布が「荷物」と手を伸ばしてきた。膝の上に置いたことが気になったらしい。「このままでいいよ」と言ったのに、さっさと奪うように荷物を後ろに置いてくれた。

「弟と妹、家にいるんだな?」
「い、いる……」
「ならいい」

 住所を伝えたら白布がナビもセットせずに車を動かし始めた。なんか、変な感じ。もう二十六歳だから運転するくらい普通のことなのかもしれないけど。わたしの中の白布は十七歳のままで止まってしまっている。そんな白布が免許を持っていて、車を運転しているという目の前の光景が、なんだか不思議だった。

「で、どうする?」
「え?」
「本当のことを言うか、嘘でずっと付き合ってたって言うか」

 本当のこと。それを言ったらきっと、ひかりはともかく翔太が怒るだろうということはさすがに分かる。翔太とひかり、二人が祝福してくれなくては意味がない。ひかりが翔太に「お姉ちゃん、結婚するかもよ」と言ってしまったらしいのだけど、そのときの翔太は衝撃すぎて言葉を失っていた、とひかりが教えてくれた。恋人なんていそうになかった姉が結婚するだけで驚きなのに、その上協力関係になるための結婚なんて知ったら可哀想だ。そう思って恐る恐る「嘘吐いてもらって、いいですか」と言ったら白布は「分かった」と言った。申し訳なさで死にそうだった。わたしは白布に気持ちがないのに結婚する上に、白布に対して気持ちがあると嘘を吐いてもらう。わたしはどうしてこんなふうになってしまうのだろうか。情けなさすぎて俯いていると「じゃあ賢二郎とな」と聞こえた声にびくっと肩が震えた。

「へっ」
「いや、元々付き合ってて結婚するって言うんだったら名前呼びのほうが自然だろ」
「あ、そっか……そうだね、確かに」

「……あ、はい、えーっと、けん、じろう」
「ぎこちないにも程があるだろ」

 白布が笑った。そういう顔もするんだ。思わずそうぽけっと横顔を見つめてしまう。高校時代には見たことがない柔らかな笑みだった。
 病院からわたしの家までは車で三十分ほど。到着した家を見上げた白布が「おじいさんの家か?」と言った。まさか一軒家に住んでいるとは思わなかったのだろう。祖父母が遺していってくれた家だと説明した。祖母は高校を中退した二年後に亡くなったことも説明すると、白布は、黙って家を見上げていた。
 滅多に家の敷地に入ってこない車の音が聞こえたからなのか、翔太とひかりが玄関から顔を出したのが見えた。わたしを見つけるとひかりが「お姉ちゃん!」と笑顔を向けてくれた。「ただいま」と声をかけたけど、一向に近寄ってきてくれない。翔太は言葉も発さない。見知らぬ男を連れて帰ってきたからだというのは一目瞭然だった。
 なんて説明しようか考えているわたしより先に白布が翔太とひかりに近付いていく。ポケットから何かを取り出すと、それを二人に渡した。「お姉さんとお付き合いしている白布賢二郎です」と言いながら。どうやら渡したのは名刺。高校生と中学生相手だというのに、大人への挨拶みたいなことをするんだな。そんなふうにちょっと驚いてしまった。
 わたしがいない間、二人でちゃんと家事をしていたのが分かる室内だった。台所に食器が溜まっているだとか、洗濯物がぱんぱんになっているだとか、そんなことは一切なかった。わたしが入院する前と何も変わらない部屋。二人はわたしがいなくても、結構普通に生活ができるのか。いつまでも子どもみたいに思っていたことがなんだか申し訳なかった。
 白布がうちにいるの、なんか変な感じがする。お茶を出そうとした翔太を遮り、緊張しながらお茶を全員に配る。それから自分も着席。ひかりはなんだか目をきらきらさせているけど、翔太は無表情だった。じっと白布の顔を見つめて黙ったまま。少しだけ、怖い顔だった。白布もしばらく翔太のことをじっと見ていたけど、ちょうど分針が一つ進んだと同時に、口を開いた。

さんと結婚したいと思っています」

 その言葉にぴくりと翔太が動いた。ひかりが「やった」と小さな声で呟いたけれど、誰もそれに反応しない。翔太はじっと白布を見つめたまま、少しだけ下唇を噛んでから「いつからですか」と言った。それに白布が嘘を吐く。「俺は高校生のときからお姉さんのことが好きだった」、という、本当を混ぜて。二年前に付き合い始めた、という設定になっている。その設定の通りに結婚までの経緯を話すと、白布はゆっくり瞬きをしてから、頭を下げた。
 びっくりした。そんなことまでしなくても、翔太とひかりはわたしの弟と妹だ。こういう場面で頭を下げる相手といえば、両親であることが多い。いくらわたしにその存在がいないからとはいえ、まさかそんなことをするなんて思わなかったから、慌てて「ちょっと」と声をかけてしまう。それでも、頭を上げなかった。

「必ず幸せにします。さんと結婚させてください」

 翔太が少し怖気付いたように見えた。自分より年上の男の人に頭を下げられた経験なんてあるわけがない。なんとなく居心地が悪そうに目をそらして「別に、反対してるわけじゃないですけど」と呟いた。

「俺もひかりも、なんていうか、反対できる立場じゃないし」

 翔太のその言葉にひかりが「だよねー」と笑った。そんなひかりの声に白布が静かに顔を上げた。このちょっと重たい空気にも動じないのがひかりの良いところだ。そんなひかりの笑顔につられることはなく、翔太は暗い表情を崩さなかった。

「……散々、子どものころから、姉ちゃんに、苦労しかかけてないし」

 だから、何がどうなっても反対したり意見したりはできない。翔太はそう白布から目をそらして言った。わたしの顔さえ見てくれない。結婚したら少しは安心してくれるかもしれない、と少しだけ期待していた。ひかりは喜んでくれたけれど、どうやら男兄弟はそういうわけでもないようだ。言い方が悪いのは承知しているけれど、白布ほど好条件の人はいないと思うのに。
 白布は翔太をまっすぐ見たまま静かに呼吸をしていた。翔太と白布を交互に見て少し慌ててしまうわたしと違い、ひどく落ち着いているように見える。何を考えているのかを読み取ることはできない。それくらい静かな横顔だった。凪いだ海のような。その穏やかな水面を揺らすようにゆっくり瞬きをしてから、白布が「いや」と優しい声で言った。

「だからこそ、反対してもいいし意義を唱えてもいいんじゃないか」
「……なんでですか。姉ちゃんが、結婚したいなら、そうしたほうがいいと思うし……」
「お姉さんに苦労かけてきた自覚があるなら、お姉さんがちゃんと幸せになれるのか確認する義務があるだろ」

 翔太が目を丸くした。白布は当たり前のようにひかりのほうを見て「妹にもその義務がある」と大真面目に言った。ここまで朗らかに話を聞いていたひかりがちょっとビクッと震えたのが分かる。ほんの少し背筋を伸ばして「え、白布さん良い人そうだし、あたしはいいと思うけど」と若干緊張が滲んだ声で言う。賛成してくれているのだからそれでいいのに、なぜだか白布は「本当にか?」と真顔で言った。

「俺がお姉さんを騙そうとしてるかもしれない。見た目と雰囲気なんていくらでも繕える。俺に騙されてお姉さんが傷付いてからじゃ何もかもが遅いだろ」

 どうしてそんなことを言うんだろう。ここに至るまでの何もかもを知っているわたしだけがハテナを飛ばして困惑している。翔太とひかりは白布のことをじっと見つめて驚いているようだったけど、次第に緊張がほぐれたのか体の力が抜けているように見えた。白布は翔太とひかりにじっと見られているけれど特に変な様子はなくて、高校時代から変わらない涼しい表情をしている。やけに貫禄があるというか、なんというか。高校時代もそうだったけれど。本当に不思議な人。大物になるんだろうな。わたし一人だけぽかんとしてまぬけに固まっている。
 翔太が少しだけ下唇を噛んだのが見えた。ちょっと居心地悪そうに瞬きを早く数回してから一瞬俯く。でも、すぐに顔を上げてまっすぐ白布を見た。

「……姉ちゃんの、どういうところが、好きなんですか?」
「まっすぐ芯が通っているところとか、どんなことにも真摯に取り組むところとか。言い出したらキリがない」
「あたしもお姉ちゃんのそういうとこ好き!」
「でも、逆に好きじゃないところでもある」
「どうしてですか」
「そのせいで自分のことをないがしろにして、一人で悩んだり取り返しの付かないところまで行ったりするから」

 明らかに翔太の顔色が変わったのが分かる。目を丸くして、一瞬だけ呼吸が止まった。きゅっと唇を噛んで俯く。なんだか泣きそうな顔をしているように見えてしまって心配してしまう。そんな翔太のことを見つめたまま白布が「お前もそうだろ」とほんの少しだけ笑いながら言った。

「白布さんはなんでお姉ちゃんと結婚しようと思ったの? 好きだから?」
「それは大前提だし、目の届く範囲にいてくれないと気になって仕方がないから」
「あー、分かるかも」

 ね、とひかりが翔太の顔を覗き込む。翔太が「うん」と小さな声で言うと、顔を上げた。ひかりが翔太に近寄って肩を抱く。その瞳が少し赤くなっているのに気が付いた。翔太も同じく。鼻をすすってから口を開く。言葉を少し探すようにそのまま静止していたけど、ひかりが「あたしは賛成」と明るく言った後に、迷うことなく「俺も」とはにかんで言った。


戻る