約束の日は、朝から土砂降りの雨だった。病室の窓から見える空は怖いくらいに黒い雲に覆われていて、何か良くないことが起こるのではないかと思わせる。今日、わたしが発する言葉の何もかも、間違いなのではないか。そう不安に駆られるほどに不穏な空模様をしていた。
 入院して驚いたのは、三食きっちり出される食事を完食できないことだった。毎日忙しすぎて朝昼を食べずに働くことも多かったし、朝昼は食べても夜は食べずに寝落ちすることも多かった。しっかり食事を摂らずに日々を過ごした影響もあるのかもしれない。出されたものを残してしまうのは申し訳なかったけど、無理に食べるのは良くないと言われている。量を減らしてもらったりはして少しずつ慣らしていきましょう、と言ってくれた。
 お昼ご飯も少しだけ残してしまった。片付けてくれた看護師さんに謝るとなんだかおかしそうに「律儀ですね」と言われた。出されたものを食べ切れなかったことを謝るのは律儀なのだろうか。よく分からなかったけれど、悪くは思われていないらしいと分かって安心した。
 今週いっぱいは検査をしつつ休憩期間だと思ってください、とお医者さんに言われた。こんなに穏やかな時間を過ごしたのはいつぶりだっただろうか。そう考えてみると、もしかしたら、両親が亡くなる前ぶりかもしれない。母が亡くなって、父が亡くなって、祖父母も亡くなって、と息をする余裕もないくらいに目まぐるしい中学・高校時代。働き出してからは休む時間も惜しいほどだった。時計の秒針が動くのをぼんやり見つめて、なんだか、安心した。わたしの時計も他の人と同じ速度で動いている。勝手に分針や時針が動いていくわけではないのだ。そんな当たり前のことを実感した。
 ぼんやりしていたわたしの意識を呼び止めるように、静かにノックの音が聞こえた。その音でもう誰か分かってしまう。白布だ。ワンテンポ遅れてから「はい」と返事をした。すぐにドアが開くと、思った通り白布がいた。スクラブと呼ばれるらしいお医者さんが着ている服を上着でちょっと隠している。もしかして、仕事中なのでは。そう少し心配になっていると白布は「昼休憩中」と言った。ドアを閉めてこちらに近付いてくる。ベッドのすぐ近くで立ち止まると、ごそごそして気持ち悪かったのか上着を脱いで適当に椅子の背もたれにかける。首から提げている名札も、わざわざ胸ポケットにつけられたクリップを取ってから外した。机に置く。それからようやく椅子に腰を下ろした。

「調子どう」
「え、ああ……こんなにのんびりするの久しぶりで、なんか落ち着かないかな。体調は良いけど」
「ならいい。もっと怠けろ」

 白布がゆっくり首を回して一つ伸びをする。それを少し緊張しながら見守っていると「で」と白布が言った。回した首を正しい位置に戻し、さらりと髪を揺らしながら視線をわたしに向ける。少しだけ目にかかった前髪を指で払った。その動作の一つ一つから、目が離せずにいる。
 考えていることが未だに分からないままだった。なぜあんなことを言い出したのか。わたしが知っている白布は冷静で要領が良くて、たまに怒りっぽいときもあったけれど概ねそれなりに落ち着いて行動する人だった。あんなことを言い出すような人ではなかった。わたしの知らない期間に一体何があって、どうすればあんなことを思いつけるのか。
 じっとわたしを見たまま「どうなんだよ」と呟くように言った。その言葉にぴくっと肩が反応した。白布が頬杖をついて静かに瞬きをすると「別に無理強いするわけじゃない」となんとなく気まずそうな顔をした。

「白布は、その、わたしのこと好きなの?」
「は? 今更すぎるだろ」
「だ、だって、久しぶりに会ったし……それに、大学で彼女いたんでしょ?」
「おい、それ誰から聞いた?」

 あ、しまった。言わないほうがいいことだったらしい。気付いて誤魔化そうとしたけれど、白布に口で勝てるわけがない。申し訳なさを覚えつつ「あのときの看護師さん」と答えたら舌打ちをこぼして「ぺらぺら喋りやがって」と忌々しそうに呟いた。噂好きな人で、あの人にはあまり自分のことを話さないようにしていたらしい。なんだか申し訳ないことをした気がする。そう恐縮していると、白布が「まあ、いたことにはいた」と目をそらしつつ言った。
 はじめてできた彼女は、わずか三ヶ月で別れたのだという。その話に驚いてしまう。白布はそういうの、長続きしそうなタイプだと勝手に思っていたから。付き合いはじめた理由も「告白されて、自分もフリーだったから」という何とも白布らしからぬ理由だった。人並みに恋愛に興味はあったし、相手の子は仲が良い子だったから付き合ってみることにしたのだそうだ。けれど、付き合ってみたら連絡は一日に数回ほしい、デートは必ず週一回はなくちゃ嫌だ、我が儘に付き合ってほしいとか、そんな要求が多すぎて嫌になったらしい。確かに白布はそういうの嫌いそう。ちょっと笑ってしまったら「笑うな」と怒られた。結局三ヶ月経った頃には喧嘩が絶えなくなり、お互いがフったような勢いで別れたのだそうだ。
 二人目の彼女はその二年後にできたそうだ。大学四年のときに付き合ったその人は先輩だったらしい。大人しくてしっかりしている人だった、と白布はちょっとだけ昔を懐かしむように言った。ちらりとわたしに視線を向けると、とんでもなく言いづらそうに「お前に似てた」と言った。その言葉に、少し、驚いてしまった。その人とは半年ほど付き合って、白布から別れを切り出したそうだ。好きだったはずなのに、ずっと、どこか違うところを見ていた気がする。白布はそう言った。

「ずっといんだよ、どこかに。お前が」

 そう呟いてから話をそらすように「で、そのあとその先輩が卒業するまで付き纏われて女にうんざりしたって感じ」と早口で言った。それからも早口で語ったのは、家の前で五時間待たれたとかいつの間にか家の合鍵を作られたとか、とんでもなく恐ろしい話だった。白布、苦労したんだなあ。そうぼんやり思いつつ、白布の言葉が耳から離れずにいる。
 白布は苦労話を終えてから、視線を自分の膝のほうに落とした。指をすり合わせてなんとなく居心地悪そうにしている。しばらくそんなふうに沈黙していたけれど、ぴたりと指を止めてわたしの顔をまた見た。

「高校を辞めていった後も、ずっと、なんか気になってて」

 どこかにいないだろうかとよく探してしまった、と白布が小さく笑った。「お前、変に思い詰めるし、無茶するだろ」と言って視線をまた下に向けると「一目、元気な姿が見たかった」と、雨音に消え入りそうなほど静かな声で言った。

「体、大事にしろよって言っただろ」

 高校最後の日、白布がかけてくれた言葉。その言葉を思い出して踏み止まれたときがあった。結局その言葉を守ることはできなかったけど、白布の言葉がなかったらきっと、わたしはもっともっと曲がりくねった道を歩んでいただろう。あの温かい手と言葉があったから、まっすぐではないにしても歩ける道を歩いてこられたのだ。

「意識不明で運ばれてきたのが≠チて名前の女で、二十代だって聞いたとき、正直生きた心地がしなかった」

 聞き間違いか別人か、そのどちらかに違いないと白布は看護師さんに確認したと言った。名前を聞き、詳細な年齢を聞いて、間違いないと確信してから仕事が手に付かなかった、と恨み言のように言われた。その後処置が終わったわたしをこっそり見に行ったら、たまたま居合わせた先生に見つかったそうだ。若干注意はされたそうだけど、大体の状態を教えてくれたらしい。怪我の程度が軽いわけではないけれど、それよりも疲労困憊しているようだと説明されて腹が立ったと白布は言った。

「このまま退院しても、どうせ同じような生活するだろ。そのうち本当に死ぬぞ」
「そ、それは、そうかもしれない、けど」
「俺はそれが嫌だから、こういう提案をしてるんだけど」
「結婚しようっていうのは早計すぎると思うんだけど……」
「そんなことは俺も分かってんだよ、当たり前だろ」

 その発言に首を傾げてしまう。白布だって早計だと思っているならどうして。結婚なんて白布にとってリスキーなことをしなくたっていいじゃないか。所詮はわたしの人生であって白布の人生ではない。何も、自分の人生に傷を付けなくていいのに。

「お前のことが気になってたまらなくて、それくらいしないと気が済まないんだよ」

 髪をかきながら吐き捨てるようにそう言った。その言い方は、高校時代に聞き覚えがある。照れているときによく出していた声色とよく似ていた。

「俺を利用しろ。利用してくれればいいから、もうどこにも行くな。いないやつを探すの、もう懲り懲りなんだよ」

 白布の口から出たとは思えないほど、とても、情熱的な言葉だと思った。静かに燃えているのにとても大きな炎だと。目の前で燃えるそれは少し怖いほどで。怖いと思ったその瞬間に、もう、こちらに燃え移っていることに気が付いた。高校最後の日に握手をした白布の手。あの温かさを思い出したら、肩の力が抜けた。
 手を伸ばす。俯いていた白布が顔を上げると、目を丸くしてわたしの手を見た。それから視線がこちらに向くと、黙って言葉を待っているように見えた。

「白布が、嫌になるまででいいから、お願いします」

 緊張していた。馬鹿みたいに。一人の人間を不幸にしてしまうかもしれない。そう分かっていて利用しようとしている自分に情けなくなった。泣きたくなるほどに。そんなわたしの顔を見ていた白布が、一つ息を吐いた。それから小さく笑って「なんだよ、その返事」と呟き、わたしの手を握った。
 わたしたちは結婚して夫婦になる、とよりは、協力関係になると言ったほうがいいかもしれない。白布はわたしを忘れずにいてくれて、目を離すほうが気がかりだから結婚したいと言ってくれた。わたしは経済的に助けがほしくて白布との結婚を決めた。わたしのほうが幾分か冷たく、人でなしな理由だ。それでも白布は手を握ってくれた。自ら、曲がりくねった道に足を踏み入れた。それに気付くのはいつなのだろうか。やっぱり嫌だと言って逃げていってくれないだろうか。そんなふうに思ったけれど、今は白布の手を握っていたかった。


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