白布が出て行ったあとにドアが静かに閉まると、一気に体の力が抜けてしまう。ほっとした。なんとなくずっと緊張していたから知らない間に体が強張っていたのかもしれない。小さく息を吐いていると、看護師さんが「さん、さん!」とちょっとテンション高めに声をかけてきた。

「もしかして、白布くんと付き合ってるとかですか?!」
「えっ、いや、そういうわけでは……」
「絶対彼女いるってみんなで言ってたんですよ〜。だって白布くん、看護師の誰がアプローチしても振り向かなかったし、お偉いさんの娘さんとのお見合いも全部上手いこと断ってて! 美人も何人かいたのにもったいないねってみんなで言ってたんですよ」

 看護師さん曰く、真面目に働いているし誰が見てもしっかりしていて将来性があるということで、病院関係者の女性からは結構モテるのだそうだ。同じ大学に通っていた人が言うには、大学時代から将来性を読み取った女の子から結構言い寄られていたのだとか。研修医の中でも優秀で先生方からの評価が高いため、お見合いの話を持ちかけられることもしばしばあるという。お医者さんの卵ってモテるんだなあ。なんだか遠い世界の話に思えて間抜けに相槌を打つしかできなかった。

「同じ大学だった研修医の子曰く、大学時代に二人くらいは彼女いたらしいですけどね〜。なんでか長続きしなかったんですって」
「そ、そうなんですか……」
「大変だったらしいですよ。その子から聞いただけですけど、別れてからしばらく相手の女の子に復縁を迫られ続けて、ちょっとストーカー行為みたいなことをされたとかなんとか」

 看護師さんはけらけら笑って「お医者さんを逃したくなかったんでしょうね〜」とカルテに最終チェックを入れつつ言った。
 看護師さんのその話を聞いて、余計に分からなくなった。大学時代に彼女がいたということはずっとわたしのことが好きだったというわけでもないだろう。偉い先生の娘さんとのお見合いの話だって、白布にとってはメリットしかない話だっただろうに。美人からのアプローチも、同じ職場で苦労が分かる人からのアプローチも。白布から見れば良い話だったんじゃないだろうか。
 どうして、そんなメリットが多そうな人たちを選ばずにわたしを選んだのだろうか。デメリットしかない、とんでもない不良物件。付き合っても、結婚しても、メリットなんてそうないだろうに。

「そういえば、今思えばあんな白布くんははじめて見ましたよ」
「え?」
さんが搬送されてきたとき、ものすごい形相で名前と年齢を確認してきて怖かったんですよ」

 そう笑いながら点滴を交換してくれた。わたしが救急車で運ばれたのは深夜だった。どうして白布が、と不思議に思っていると研修医ながら結構な頻度で当直に入ってるのだという。本人からの希望だそうだ。

「結構切迫した状況だったから当直に入っていた先生が対応したんですけど、白布くん、ずっと気にしてましたよ。きっと仲が良い子なのか、それとも白布くんにとって大切な子なのかなって思ってたんですよね」

 看護師さんは時計を見て「あっ、ごめんなさい、長居しちゃった」と言った。それからワゴンを押しつつ「じゃあ、白布大先生の言う通り、ゆっくり休んでください」と笑い、病室から出て行った。
 一人きりになった病室はとても静かで、無意識に白布の言葉を思い出してしまう。とんでもないことをたくさん言われた気がする。結婚とか、利用とか、いろいろ。まさか白布が言うなんて思えない言葉がたくさん並んでいた。どうしてなのか、とかそういうことはいまいち分からないままだけれど。
 看護師さんが言った仲が良い子≠ノも大切な子≠ノも、わたしは相応しくない存在だと思う。仲が悪いわけじゃないけれど、高校の二年と少しの時間を過ごした元同級生なだけ。わたしが中退してからは一度も会っていないし連絡も取っていない。白布とわたしの間にあるのはか細い高校時代の元同級生≠ニいう関係性だけ、だと思う。もちろん部活仲間だとか白布が告白してくれただとか、そういうものもあるけれど。ひっくるめたら高校時代の元同級生≠ニいう表現に収まってしまうくらいの間柄だと思うのだ。
 弱っているところに付け入っているだけ。そんなふうに言った白布を笑ってしまう。間違っても優しいなんて思うな、と言ったけれど、十分に優しいと思ってしまう。お人好しすぎて呆れるほどに。そうでなくてもわたしに白布の手を取る資格はない。これまでたくさんの人に迷惑をかけて、大切な人を不幸にしてきただけだ。誰かに手を差し伸べてもらうなんておこがましい。誰かに助けてほしい、なんて、甘えたことを言ってはいけない。白布の前で大泣きしたのはやっぱり情けなかったな。そう、俯いてしまう。
 ドアがノックされた。顔を上げて返事をすると翔太の声が聞こえる。お見舞いに来てくれたのだろう。この時間ということは学校帰りだろうか。友達と遊んでおいで、と言ってもまっすぐ家に帰ってくる。わたしの代わりに食事の準備もするようになっていた。気にしなくていいから、と言ってもやめない。そればかりか「料理、好きだからいい」と言う。本当に良い子なのだ。成績も優秀で、優しくて、真面目で。だから、絶対に曲がりくねった道を歩かせたくない。歩いてほしくなかった。
 翔太は病室に入ってくると、まっすぐにわたしのベッドに近付いてきて椅子に腰を下ろした。高校二年生の翔太はもうすぐに受験生になる。前にその話をしたときに「どこの大学がいいかな、オープンキャンパス行かなきゃね」と言ったら曖昧な反応をしていたけれど、大学進学の意志ははあるようでいくつか志望大学をピックアップしていた。楽しみだ。翔太は優秀だからそのまま学者とか、そういう方向に進むかもしれない。そんなふうに楽しみにしている。

「姉ちゃん、俺さ」
「うん?」
「就職したい」
「……え?」
「だから姉ちゃん、もう仕事辞めてよ」

 この感じは、高校に行くか行かないかで揉めたときと似ている。でも、あのときよりも翔太の瞳がまっすぐにわたしを捉えているように見えた。翔太はじっとわたしを見つめて「もう嫌だ」とこぼした。小学生に泣いたときを最後に、わたしの前では泣かなくなった翔太の瞳からぼろぼろと涙がこぼれていく。それをぼけっと見つめるしかできない。指一本、動かせなかった。

「姉ちゃんがぼろぼろになってくの、もう見たくない。ぼろぼろなのに笑ってる姉ちゃんなんかもう見たくないよ。普通に笑って、普通に過ごして、普通に幸せになってほしいよ」

 制服のズボンに翔太の涙が落ちた。ぽつりと「嫌い」と呟く。言葉を失ったまま固まるわたしに、「俺たちのために頑張る姉ちゃん、嫌い」と言った。翔太は涙を拭いきれないままに立ち上がって、無言で病室から出て行くと静かにドアを閉めた。
 わたしは、翔太とひかりが幸せになってほしいと、今日まで頑張ってきたつもりだった。仕事が大変でも二人のことを思い出せば頑張れた。もう無理だと思っても二人のことを思い出せば踏ん張れた。ほしいものをたくさん買ってあげられたわけじゃない。一緒にずっといてあげられたわけじゃない。それでも、二人の将来のことを何よりも大切に考えているつもりだった。それなのに、翔太が泣いていた。わたしのことを嫌いだと言って。それが何より、衝撃的だった。
 普通≠ニ何度も口にした。それは、きっと、これまでの生活が翔太が思う普通≠ナはなかったが故の言葉だったのだろう。わたしは翔太とひかりに普通≠フ生活を送ってほしかった。両親がいて、学校に行けて、好きなことができる。そんな子たちと変わらない生活ができれば普通≠ノなるだろうと思っていた。でも、それは、違ったのだろうか。
 だらりと力をなくしている自分の手を見る。ずいぶん、見窄らしい、ぼろぼろの手。たくさん傷がある手だ。女としてはもう取り返しがつかないくらい汚い手だろうけど、わたしにとっては、誇りだった。二人のために頑張ったからこその手。でもこれは、二人にとっては誇りでもなんでもない、ただの汚いだけの手だったのかもしれない。


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